第6話 噂③
文字数 1,896文字
領主直々の呼び出しを受けた倉井石 は、登城するのではなく、城下町にある一件の茶屋にやってきた。
庶民が使う平凡な店だ。おおよそ領主と会合するような場所ではない。
だが、領主の遣いである密偵から、ここに来るよう言われたのだ。しかも、正装ではなく平服で来るようにと言われたので、石は普段どおりの羽織袴を身に付けている。
(さて、来たはいいが、どうしたものか……。店先で突っ立っていては怪しまれる。ひとまず茶でも飲むか)
そう思い、茶屋に入ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「旦那、ここにいやしたか」
そこにいたのは商人の姿をした中年男だった。見覚えはない。
男は、なぜか平謝りする。
「すんません、あっしとしたことが場所を間違えやして。ささ、あちらに駕籠 を待たせてありますんで、早く乗ってください」
「わかった」
石は男の正体に気付き、即応した。
(間違いない。口調は違うが、昨晩の密偵だ。ずいぶんと回りくどいことをする)
事情は察しがつく。自分と会っていることが他の重役に知られてはまずいのだ。
だとすれば、こちらもできる限り平静を装わなければならない。
石は一瞬も戸惑いを見せることなく密偵に付いていき、駕籠に乗り込んだ。
駕籠が着いた先は、見知らぬ屋敷の敷地内だった。
城下の外れも外れ、ほとんど農村と変わらぬようなところにある自分の家とは比べるべくもなく広く立派な屋敷だ。さぞ高貴なお方が住んでいるに違いない。
駕籠から降りた石は奉公人に迎えられ、屋敷の母屋に通される。その際、玄関にて大小の刀を預けるよう言われる。
通常、他家を訪問した際は大刀のみ預け、脇差を帯びたまま上がるのが作法だが、領主に接見するとなれば、ここは殿中も同然。石は迷うことなく大小二本を帯から抜き、奉公人に差し出した。
それから座敷に入り、下座にて待つよう言い渡される。
(私のような一介の剣術師範に、孝水様はいったい何をさせるおつもりか……)
さしもの石も緊張した。
だが、これは武士の誉れだ。主君から直々に密命を受けるなど、よほど見込まれたのでなければありえない。
(雲月流の名を汚さぬよう、誠心誠意で主君の期待にお答えせねば)
しばしの間を置いて入ってきたのは、少年の面差しが微かに残る十八歳の青年であった。
細身で色白の優男ではあるが、その堂々とした服装と佇まいから一目で領主だとわかった。
石は、ただちに平伏する。
そして、領主が上座に着くと同時に名乗る。
「お初にお目にかかります。倉井石にございます」
「余 が樒原領領主、樒原孝水 である。表を上げよ」
「はっ」
石は少しだけ上体を起こす。顔は下を向いたままだ。
主君を正面から見据えることは許されない。
「よう参ってくれたな。この家は、余の親戚筋に当たる信頼できる者の家だ。余にとっては唯一、気が休まる場所でもある。そう堅くならずともよいぞ」
「はっ」
石はわずかに上体を起こすが、あくまでも平伏の姿勢は崩さない。
主君がそう言ったからといって気を緩めることはできない。
「ふふ、噂どおり真面目な男よの。そなたの評判は余の耳にも届いておるぞ。なんでも、万民の手本となるための武士道を教えておるそうだな」
「左様にございます」
石は歓喜で震えた。
まさか主君が雲月流の理念を知っていようとは。
「しかも、一刃流免許皆伝の沼田相手に手心を加え、なお勝利するほどの腕前と聞いた」
「なんと、そこまで知っておいでで……!」
あの時、手心を加えたことは蒼葉しか知らないはずだ。
まさか一刃流の者に気取られたかと一瞬肝が縮んだが、領主はそれを否定してくれた。
「安心せよ。そなたの気遣い、一刃流の者には知られておらぬ。余の配下に目の肥えた者がおってな。試合を見て、すぐにわかったそうだ」
「……恐れ入ります」
おそらく、先ほどの密偵のことであろう。主君は、自分が信用に足る人物かどうか見極めるために調査していたのだ。
その若さ故、心のどこかで主君を侮っていた石だが、この場で考えを改めた。
(このお方は断じてお飾りの領主などではない。紛うことなき、我が主君だ)
その主君が、直々に命を下す。
「石よ、そなたを呼んだのは他でもない。そなたに斬ってもらいたい人物がいるのだ」
「それはすなわち、上意討ちの命にございましょうか?」
「そうだ」
同じ人斬りでも、上意討ちは暗殺と違い武士として誉れ高き仕事だ。見事相手を討ち果たせば相応の報償と出世が約束される。
だが、それだけ厄介な相手だということでもある。
ただの罪人なら町奉行に任せればよい。それができない故の密命なのだ。
「よいか、その者の名は――」
庶民が使う平凡な店だ。おおよそ領主と会合するような場所ではない。
だが、領主の遣いである密偵から、ここに来るよう言われたのだ。しかも、正装ではなく平服で来るようにと言われたので、石は普段どおりの羽織袴を身に付けている。
(さて、来たはいいが、どうしたものか……。店先で突っ立っていては怪しまれる。ひとまず茶でも飲むか)
そう思い、茶屋に入ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「旦那、ここにいやしたか」
そこにいたのは商人の姿をした中年男だった。見覚えはない。
男は、なぜか平謝りする。
「すんません、あっしとしたことが場所を間違えやして。ささ、あちらに
「わかった」
石は男の正体に気付き、即応した。
(間違いない。口調は違うが、昨晩の密偵だ。ずいぶんと回りくどいことをする)
事情は察しがつく。自分と会っていることが他の重役に知られてはまずいのだ。
だとすれば、こちらもできる限り平静を装わなければならない。
石は一瞬も戸惑いを見せることなく密偵に付いていき、駕籠に乗り込んだ。
駕籠が着いた先は、見知らぬ屋敷の敷地内だった。
城下の外れも外れ、ほとんど農村と変わらぬようなところにある自分の家とは比べるべくもなく広く立派な屋敷だ。さぞ高貴なお方が住んでいるに違いない。
駕籠から降りた石は奉公人に迎えられ、屋敷の母屋に通される。その際、玄関にて大小の刀を預けるよう言われる。
通常、他家を訪問した際は大刀のみ預け、脇差を帯びたまま上がるのが作法だが、領主に接見するとなれば、ここは殿中も同然。石は迷うことなく大小二本を帯から抜き、奉公人に差し出した。
それから座敷に入り、下座にて待つよう言い渡される。
(私のような一介の剣術師範に、孝水様はいったい何をさせるおつもりか……)
さしもの石も緊張した。
だが、これは武士の誉れだ。主君から直々に密命を受けるなど、よほど見込まれたのでなければありえない。
(雲月流の名を汚さぬよう、誠心誠意で主君の期待にお答えせねば)
しばしの間を置いて入ってきたのは、少年の面差しが微かに残る十八歳の青年であった。
細身で色白の優男ではあるが、その堂々とした服装と佇まいから一目で領主だとわかった。
石は、ただちに平伏する。
そして、領主が上座に着くと同時に名乗る。
「お初にお目にかかります。倉井石にございます」
「
「はっ」
石は少しだけ上体を起こす。顔は下を向いたままだ。
主君を正面から見据えることは許されない。
「よう参ってくれたな。この家は、余の親戚筋に当たる信頼できる者の家だ。余にとっては唯一、気が休まる場所でもある。そう堅くならずともよいぞ」
「はっ」
石はわずかに上体を起こすが、あくまでも平伏の姿勢は崩さない。
主君がそう言ったからといって気を緩めることはできない。
「ふふ、噂どおり真面目な男よの。そなたの評判は余の耳にも届いておるぞ。なんでも、万民の手本となるための武士道を教えておるそうだな」
「左様にございます」
石は歓喜で震えた。
まさか主君が雲月流の理念を知っていようとは。
「しかも、一刃流免許皆伝の沼田相手に手心を加え、なお勝利するほどの腕前と聞いた」
「なんと、そこまで知っておいでで……!」
あの時、手心を加えたことは蒼葉しか知らないはずだ。
まさか一刃流の者に気取られたかと一瞬肝が縮んだが、領主はそれを否定してくれた。
「安心せよ。そなたの気遣い、一刃流の者には知られておらぬ。余の配下に目の肥えた者がおってな。試合を見て、すぐにわかったそうだ」
「……恐れ入ります」
おそらく、先ほどの密偵のことであろう。主君は、自分が信用に足る人物かどうか見極めるために調査していたのだ。
その若さ故、心のどこかで主君を侮っていた石だが、この場で考えを改めた。
(このお方は断じてお飾りの領主などではない。紛うことなき、我が主君だ)
その主君が、直々に命を下す。
「石よ、そなたを呼んだのは他でもない。そなたに斬ってもらいたい人物がいるのだ」
「それはすなわち、上意討ちの命にございましょうか?」
「そうだ」
同じ人斬りでも、上意討ちは暗殺と違い武士として誉れ高き仕事だ。見事相手を討ち果たせば相応の報償と出世が約束される。
だが、それだけ厄介な相手だということでもある。
ただの罪人なら町奉行に任せればよい。それができない故の密命なのだ。
「よいか、その者の名は――」