第4話 多賀城跡
文字数 1,766文字
下野国衙跡を訪れた時とは打って変わって、多賀城訪問は好天に恵まれた。前回、行き当たりばったりで散々な目に遭ったので、所在地も念入りに調べた。
目的地は、仙台駅から電車で十三分の国府多賀城駅で下車。そこから十分徒歩で行ける距離であることを確認していた。
市の名前からして『多賀城市』となっているくらいだから、市の取組も栃木市とは違っていた。入口をはじめ各所にボランティアが配置されていて説明をしてくれる。
https://www.city.tagajo.miyagi.jp/bunkazai/shiseki/bunkazai/shitebunkazai/kunishite/terato.html
多賀城は、その名に「城」という文字が入っていても、城郭が有る訳では無かった。いわゆる『柵』である。しかし『柵』と言うと今度は、牧場の柵のように、丸太を打ち込んでそれに横にした丸太を縛り付けたようなイメージとなるかも知れないが、それもまた違う。
確かに、当初はその程度のものから始まったのかも知れないが、築地塀を張り巡らし、政庁、脇殿、そのほか幾つかの建物を配した構造へと変わって行ったものだ。
柵が何より特徴的なのは、政庁だけで無く、街全体を外塀、外堀で囲んだいわゆる総構の構造を持っていることだ。
ヨーロッパや中国では当たり前のことだが、日本では、いくつかの例外(小田原など)を除いて、街全体を塀や堀で囲うということは、後代に於いても余り例が無い。ところが、陸奥の柵に於いては、これが一般的な形となっていた。蝦夷の攻撃から、国司、その郎党、鎮兵、入植者達を守る為のものであるからだ。
多賀城跡の敷地は九百メートル四方の変則的な矩形となっており、一万人以上の人口を抱えていたと見られる。
当初、対蝦夷戦争の最前線基地であり、陸奥の政庁であり、鎮守府もこの中に置かれていた。しかし、延暦二十一年(八百二年)坂上田村麻呂が胆沢城を築いたことにより、鎮守府は胆沢城内に移った。
https://7496.mitemin.net/i117222/
昼を過ぎた頃、勤務が午前中だけなのか、或いは一斉に昼休みを取ると言う事なのか、ボランティアの姿が消え、観光客の姿も見えなくなった。私は、数段の階段を上がり、国庁の建物跡の柱の遺構などを、一人で見て回っていた。
気が付くと、女性が一人、私と同じように見て回っている。入場口で私は。その女性の後ろ姿を見掛けていた。年配のボランティアの方に「どちらから?」と聞かれ「埼玉です」と答えると「あれ? 今行った女性の方も、埼玉からって言ってましたよ」と言う遣り取りをしていたその女性に間違いは無い。
あちこち見て歩きながら、その女性との距離は一度近づいたが、そのまま、お互い無言でまた離れた。そしてもう一度近付いた時、私は思い切って声を掛けた。
「すいません。失礼ですが、埼玉の方ですか?」
三十少し前、細身で落ち着いた服装のその女性は、
「⋯⋯そうですけど?」
と、やや不審げに答える。
「入口で、ボランティアの方に聞かれて、埼玉と答えたら、“今の女性の方も埼玉って言ってましたよ“って言われたんですよ。前を見ると、確か貴女でした」
彼女は表情を緩め、少し微笑みを見せて、
「そうだったんですか⋯⋯私、草加です!」
と答えた。
「興味有るんですか、こう言うところ。女性一人で見て回っているので、珍しいと思って⋯⋯」
と言うと、
「お城好きで、いろんなところのお城見て回っているんです」
そう答えた。
「ああ、天守閣とか有るお城。多賀城と言う名前で、そう言う城趾かと思ったんですか」
「ええ、なんか良く分かんないまま来ちゃって⋯⋯」
「城って言うより、古代の政庁跡ですね」
「はい、そうだったんですね」
私はその時、昼食を一緒にしたいと思ったのだが、結局言い出すことは出来ず、
「じゃ」
と言って別れてしまった。そして、”現実なんてこんなもんだよな。小説ならいろんな風に発展させられるけど、現実では殆ど何も起こらないよな”と思った。
そう言えば「A side street」「ためらいの果てに」「ガヤの居た風景」など恋愛がらみの小説も書いてはいるが、どれも他の要素が強く、純粋な恋愛ものではない。所詮、その手の話を作るのも、私は苦手なのだ。
目的地は、仙台駅から電車で十三分の国府多賀城駅で下車。そこから十分徒歩で行ける距離であることを確認していた。
市の名前からして『多賀城市』となっているくらいだから、市の取組も栃木市とは違っていた。入口をはじめ各所にボランティアが配置されていて説明をしてくれる。
https://www.city.tagajo.miyagi.jp/bunkazai/shiseki/bunkazai/shitebunkazai/kunishite/terato.html
多賀城は、その名に「城」という文字が入っていても、城郭が有る訳では無かった。いわゆる『柵』である。しかし『柵』と言うと今度は、牧場の柵のように、丸太を打ち込んでそれに横にした丸太を縛り付けたようなイメージとなるかも知れないが、それもまた違う。
確かに、当初はその程度のものから始まったのかも知れないが、築地塀を張り巡らし、政庁、脇殿、そのほか幾つかの建物を配した構造へと変わって行ったものだ。
柵が何より特徴的なのは、政庁だけで無く、街全体を外塀、外堀で囲んだいわゆる総構の構造を持っていることだ。
ヨーロッパや中国では当たり前のことだが、日本では、いくつかの例外(小田原など)を除いて、街全体を塀や堀で囲うということは、後代に於いても余り例が無い。ところが、陸奥の柵に於いては、これが一般的な形となっていた。蝦夷の攻撃から、国司、その郎党、鎮兵、入植者達を守る為のものであるからだ。
多賀城跡の敷地は九百メートル四方の変則的な矩形となっており、一万人以上の人口を抱えていたと見られる。
当初、対蝦夷戦争の最前線基地であり、陸奥の政庁であり、鎮守府もこの中に置かれていた。しかし、延暦二十一年(八百二年)坂上田村麻呂が胆沢城を築いたことにより、鎮守府は胆沢城内に移った。
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昼を過ぎた頃、勤務が午前中だけなのか、或いは一斉に昼休みを取ると言う事なのか、ボランティアの姿が消え、観光客の姿も見えなくなった。私は、数段の階段を上がり、国庁の建物跡の柱の遺構などを、一人で見て回っていた。
気が付くと、女性が一人、私と同じように見て回っている。入場口で私は。その女性の後ろ姿を見掛けていた。年配のボランティアの方に「どちらから?」と聞かれ「埼玉です」と答えると「あれ? 今行った女性の方も、埼玉からって言ってましたよ」と言う遣り取りをしていたその女性に間違いは無い。
あちこち見て歩きながら、その女性との距離は一度近づいたが、そのまま、お互い無言でまた離れた。そしてもう一度近付いた時、私は思い切って声を掛けた。
「すいません。失礼ですが、埼玉の方ですか?」
三十少し前、細身で落ち着いた服装のその女性は、
「⋯⋯そうですけど?」
と、やや不審げに答える。
「入口で、ボランティアの方に聞かれて、埼玉と答えたら、“今の女性の方も埼玉って言ってましたよ“って言われたんですよ。前を見ると、確か貴女でした」
彼女は表情を緩め、少し微笑みを見せて、
「そうだったんですか⋯⋯私、草加です!」
と答えた。
「興味有るんですか、こう言うところ。女性一人で見て回っているので、珍しいと思って⋯⋯」
と言うと、
「お城好きで、いろんなところのお城見て回っているんです」
そう答えた。
「ああ、天守閣とか有るお城。多賀城と言う名前で、そう言う城趾かと思ったんですか」
「ええ、なんか良く分かんないまま来ちゃって⋯⋯」
「城って言うより、古代の政庁跡ですね」
「はい、そうだったんですね」
私はその時、昼食を一緒にしたいと思ったのだが、結局言い出すことは出来ず、
「じゃ」
と言って別れてしまった。そして、”現実なんてこんなもんだよな。小説ならいろんな風に発展させられるけど、現実では殆ど何も起こらないよな”と思った。
そう言えば「A side street」「ためらいの果てに」「ガヤの居た風景」など恋愛がらみの小説も書いてはいるが、どれも他の要素が強く、純粋な恋愛ものではない。所詮、その手の話を作るのも、私は苦手なのだ。