第8話 秋田城

文字数 1,147文字

クルマを返し、その晩は一ノ関に泊まったが、翌日は平泉の名所旧跡は回らず、そのまま秋田に向かった。この旅の目的は奥州藤原氏でも義経でもなく、阿弖流為から安倍頼忠に至る蝦夷と大和朝廷の関係に有ったからだ。

盛岡から秋田に向かう新幹線の車窓から見る景色はどこまでも深い山、山、山。関東平野で生まれ育った私には、感慨の連続であり、非日常的な景色だ。陸奥を始めて訪れた時の藤原千方の心象風景として使えるかも知れないと思った。

この後の描写だが、或いは地元の方、秋田出身の方に取っては不快なものになるかも知れない。しかし、健康食品や健康器具のCMに付いている ”あくまでも、個人の感想です“ と同じと思ってお許し頂きたい。

駅を降りると、綺麗なビルやアーケードの商店街などが連なっていたのだが、人が居ない。閑散と言う印象を強く受けた。『仙台は賑わっていたのに』と思う。

秋田に来たからには秋田美人を拝んでみたいものだと思うのだが、壇蜜がモデルをしている“秋田こまち” のポスター以外には見当たらない。何故か博物館ばかり目立つ。
バスは官庁街を抜けて走って行く。海辺に近い少し坂になった小道に、そのバス停は有った。秋田城跡に至るバス停である。

https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1003616/1002308.html

 秋田城と言うと、元慶の乱が有名である。

 乱の経緯としては、飢饉に加えて、秋田城司による年来の苛政が重なり、夷俘(蝦夷の俘囚)の不満が頂点に達し。元慶2年(878年)3月、蜂起して秋田城を急襲、秋田城司介良岑近は防戦しかねて逃亡してしまう。夷俘は周辺に火を放ち、出羽守・藤原興世まで逃亡してしまうと言う事態に至った。
 結局、朝廷は強硬策に行き詰まって、蝦夷の言い分を飲んで一部自治を認め、且つ、食料を提供するなど懐柔策を取ってこの乱を収束させたのだ。

秋田城跡を見て回って一番驚いたのは、水洗便所が有ったということだった。もちろん、水道などは無いから、小川の自然の流れを利用したものである。
 この水洗便所のアイディアは、千方が隠れ郷に入れられて鍛錬の日々が始まり、筋肉痛の為排便の際、しゃがむ事にも苦労すると言う場面で使わせて貰った。


◎尚、東北への取材旅行の結果は、『坂東の風』第一章、4話『阿弖流為の涙』と第二章に反映されていますので、もし、関心の有るかたが居らしたら。読んでみていただければ有り難いです、

https://novel.daysneo.com/sp/works/8960d2e384641ceacd93ea36060d5053.html

次回からは、京都及び滋賀県の甲賀、三重県の伊賀への旅に付い書いてみたいと思っています。

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