第7話 胆沢城と安倍舘
文字数 1,498文字
鎮守府は軍事拠点で有るが、同時に行政拠点と言う性格も併せ持つようになり、平時には多賀城と共に陸奥北部の行政機関としての役割を担っていた。
私が行った頃にはまだ十分整備されていなかったが、令和元年頃整備され、今ではVR体験なども出来るようなので、機会が有ればもう一度訪ねてみたいものだ。
http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/smarts/index/111/
この旅で私が一番行きたかったのは、蝦夷の英雄・阿弖流為が朝廷軍を破った巣伏の戦いの行われた地だ。
阿弖流為の拠点が北上川の東岸に有るとの偽情報に踊らされた4000の朝廷軍が川を渡ると300の蝦夷軍が応戦した。朝廷軍は蝦夷軍を追って北上する。巣伏で別働隊が渡河して来て蝦夷軍を挟み撃ちにする作戦だった。しかし、巣伏から渡河しようとした朝廷軍は渡河を阻まれ、逆に、蝦夷群を追って北上した朝廷軍が挟み撃ちとなり、川に追い落とされ、実に1000人以上の溺死者を出して敗北したのだ。蝦夷に取って大勝利となったこの作戦を指揮したのが、若き族長・阿弖流為であった。
「巣伏の戦い」は北上川の東岸で行われたことになっている。しかし、戦場跡は何故か西岸に有った。
それ以前に。「アテルイを顕彰する会」のH.P.からフォームで問い合わせたことが有り、回答は頂いたのだが、納得出来る内容ではなかった。
昔の河川には堤防が有った訳ではないので、大河は反乱を繰り返してその度に流路を変えていた。だから、現在の地形から『続日本紀』に描かれた地形を想像するのは難しいのかも知れないと思った。
河川敷に作られた構造物に登り、暫し古代に想いを馳せる。
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巣伏の戦いの跡を見た後は、一般道を南下し同じ奥州市内の
ここまで戻ると、もうすぐ南は平泉である。しかし、観光地の平泉とは違って、胆沢の地は静かな山間の町でしかない。
山間を走って行くと田んぼの端に「
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車を止めるには道が狭く、交通の妨げになってはいけないと思い、少し離れたところに止め、歩いてそこに戻った。田の奥には民家が二軒。恐ろしいことに直ぐ近くには、ひと抱えもある落石と思われる石が転がっていた。
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衣川安倍館が有ったと言われる小山に入ることは出来る旨の記載がある。
農道を伝って入り、80メートルほどの小山を登る。道は付けられているが、濡れて滑り易く沢には石がごろごろしていた。
頂上の平場は、舘ひとつくらい建てられるであろう広さを持っている。丸太組み二階建ての簡単な展望台がひとつ有った。物見のような構造物に登り見渡す。
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小山を降りて来るまで、農道には軽トラック一台も通ったようスはなかった。世の人々の関心を呼ぶような史跡では無いのだろう。やはり、私は変わり者なのかと思う。
集落に戻り、教育委員会の出張所に寄って、色々話を聞く。突然飛び込んで来て、相手の都合を聞くでもなく質問を連発する、このはた迷惑な余所者に、職員の方々は熱心に対応してくれた。感謝。
帰り道、平泉方面に走ると何度も衣川が視界に入って来た。全ての橋の欄干が朱に塗られているのは、教育委員会の事業としてやったものだと聞いていた。