第3話 下野国衙跡

文字数 2,638文字

多賀城を訪れた話の前に下野国衙跡を訪れた話です。

 下野(しもつけ)国衙(こくが)跡が旧跡として見学出来る事を知り、始めに行ってみようと思った。しかし、私は余りにも安直に考えていたのだ。

 前日思い立ったのだが、生憎、台風が接近していた。通過を待てば良いようなものなのだが、思い立ったら何があろうとやらないと気が済まない困った性格。

 アバウトな私は、詳しく検索するでもなく、mapで大雑把に場所を調べただけで、まずは、栃木駅を目指して電車に乗った。
 台風の余波でぐずつき気味の天気。東武日光線・栃木駅で降り観光案内所で聞いてみるが窓口の女性は全く要領を得ない。重要な観光資源と思えるのだが、無関心そうな対応に呆れた。市や観光協会の考えが全く理解出来なかった。

 日常的に良く有る事では有るのだが、どうも、世の中の人の関心は、私の関心事とは違うところに有るらしい。
 秀郷が築いたと言われる唐沢山の城跡が大きな看板で表示されている。観光客目当ての対策なのだろうが、実は、それは史跡などではなく、作られた観光名所に過ぎないのだ。
 何故なら、秀郷の時代に山城など築く訳も無く、唐沢山の城郭は、戦国時代に秀郷の子孫の手で作られた物と分かっている。秀郷を観光資源と考えてはいるのだろうが、看板に偽り有りと言う意識は無いものと見える。

 聞く方が楽と思っていたが、これでは埒が明かないと観念してスマホで検索してみると、史跡に一番近いのは「野州大塚」と言う小さな駅と分かった。

 乗り換えの電車を待って、野州大塚に至る。
バス路線は無い。史跡への行き方を駅員に聞いてみても分らない。
 天気は悪く、雨が降ったり止んだりと言う状況だ。台風が近付いており、小さな駅にはタクシーの姿も全く無い。電車で来て、気楽に見て回れるようなところでは無いとその時始めて認識した。

 駅近くで聞いてみても誰も国衙跡に付いては知らない。ところが、仕方無く駅に戻ってふと見ると、三角柱の看板の上の方にちゃんと書いてあった。晴れていれば自然と顔を上に向ける事も有ったのだろうが、風で吹き付けられる雨を避けていたので、上の方を見てはいなかったのだ。
 そう思って電柱を見ると、町名も「国府町」となっている。ふりがなを見ると「こうまち」と読むらしい。『こくふまち』などと言う言いにくい発音を庶民が続ける訳もなく、言い易く訛ったものだろう。

 上の方に書いてはあったのだが、地元の人達のこの無関心さは何なのだと思う。
 mapで良く確認すると、史跡まではかなりの距離が有る。バスもタクシーも無い。結局、雨の中歩くしか無いと腹を決めた。

 腹が減っていたので、まず腹ごしらえをしようと、駅近くに小さな大衆食堂を見付けた。
 そこに入り、食事をしながら店主に目的を話すと、意外や店主は結構詳しい方で、観光地図を出して来て順路を教えてくれた。そればかりではなく、かなり距離があるので、歩いて行くのは難しいだろうと言って、車を出して送ってくれると言うのだ。ご好意に甘えて軽自動車で送って貰う事となった。

 店主に礼を言い、県道で車を降りて農道のような道を入って行くと、神社の先に「国衙跡」は有った。
 敷地はぬかるんだグラウンド状態。一面の芝生の間に柱の跡が点在している。
 なんと私はスニーカーを履いて来ていたので、芝生の長さほどにも溜まった水の中を、スニーカーも靴下も気持ち悪く濡れ放題の状態で歩かざるを得なかった。靴の中に水も侵入して来る。
 余り手入れされていなさそうな水浸しの芝生が広がり、両側には藤棚のような細長いものが続いている。建物の柱の跡に簡単な屋根のような工作物が載せてあり、ここは、官人達が机を並べて、木簡に記録を書き付けたり、要は事務を取っていた長屋のような細長い建物の跡だ。
 正面に再現された国衙の朱塗りの門が有り、そこを抜けると資料館が有る。但し、私以外、人影は全く無い。雨が強くなって来たので資料館に入るが、中もひっそりとしている。何度か大きな声を掛け、やっと職員らしき人物が出て来た。
 見回すと、PRビデオが有るとの表示が目に付いたので視聴出来るか聞いてみると、可能との事でセットして貰った。セットが終わると職員はさっさと引っ込んでしまい、ロビーの椅子は私一人となってしまった為、結果、のんびりと見ることが出来た。

 ビデオの内容は、発掘と門再建の経緯を追ったものだった。興味を惹いたのが、礎石の上に柱を立てる作業だ。
 扁平な丸い石の上に柱を立てるのだが、石を削るのは平安時代には大変な作業であり、柱の底辺が安定するほど平に削ることは不可能だった。そこで、石より遥かに柔らかい木の方を加工する事になる。自然石の表面の凹凸に合わせて柱の底を削るやり方が、とても興味深いものだった。
 三叉に組んだ木材から柱を吊るし、石に石灰を撒く。吊り縄を緩めて石に載せ、また引き上げる。石の出っ張った部分の石灰のみが柱の底に着いている。柱の底の白く石灰が付いた部分だけを削って、また同じことを繰り返す。それを何度も何度も繰り返し、柱の底が礎石にぴったりと納まるようにするのだ。実に手間の掛かる、気の長い作業と言わねばならない。

 これを小説の中で使おうと思ったのだが、結果として使えなかった。
 理由は、秀郷の時代に国衙が焼失していたと言う記録が有り、その後、再建された気配が無いことが分かったから、取り入れる場面がなくなってしまったのだ。
 では、国衙消失後は、その機能を何処へ持って行ったのか。里内裏の考え方と同じく例えば、秀郷の舘に国衙の機能を持たせたのか。その辺りはさっぱり分からなかった。

 
帰りがけに門を詳しく見てみると、朱塗りは剥げ、門柱には幾つもの亀裂が入っている。木材の乾燥が充分で無いまま再建を急いだのか?    
 再建後いくらも経っていないのにもったいないことこの上ない。目論見通りに観光客を集められているとも思えないし、早くも劣化が始まっている。所謂、思い付きの箱物行政のように作って後は放ったらかし。文化財保護と言う観点は感じられず、再建に際して学芸員は関与したのだろうかと思ってしまう。

 管理も良いとは言えない。それなりの予算を組み、観光の目玉にしようと意気込んで再建したが、思うように人が集まらなかった。お役所仕事と言う印象が残った。仕事だからなんとなくやる人ばかりでなく、熱い想いを持った人が居なければ、こういうプロジェクトは、残骸だけを残す事になる。
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