第19話

文字数 2,024文字

 八木はスマホとマイ枕を持って宿直室へ向かった。もう本日の業務は終了、と勝手にお開きにする。実際、いつもこの時間にはとっくに退社している。定時退社は八木のモットーだ。長居してもろくなことはない。
 先にテレビのほうへも顔を出したが、依然として久知良の席は空いたまま、ホワイトボードも【L字対応】と書かれたままだった。誰かに確かめようにも、社員は皆小難しい顔で黙々と作業している。重苦しい空気に耐えきれず、八木はさっさと退散した。つくづく配属先が視聴者センターでよかったと思う。周りからは窓際部署と揶揄されているが。
 スタジオの前を通りすぎるとき、ちらりと中を窺ったが、猫山の姿はなかった。必死に笑顔を作ろうとしている冠野と、その張りつめた空気にあわてふためくADやミキサーしか見えなかった。途中から完全に番組の趣旨が変わっている。こんな日でもなければ、抗議の電話がじゃんじゃんかかってきてもおかしくないだろう。
 どっちにしろ今日は店じまいだ、と八木は宿直室のドアを開ける。やはり七不思議にカウントされているだけあって、部屋の中の空気はひんやりと冷たかった。照明は薄暗く、壁紙はところどころ剥がれかけている。申し訳程度に座布団が重ねられているが、最後にカバーを洗ったのはいつなのかわからない。湿っぽいにおいが漂っている。
 八木は靴を脱いで、マイ枕を置いた。ごろん、と横たわり、目いっぱい伸びをする。
 面白かったなあ、台風のまぶた。
 思いだすと、まだ笑いがこみあげてくる。八木は一つのネタを結構引きずることのできるタイプだった。一人、畳の上で身をよじる。当分はこれで笑える。嫌いだよ、と告げられはしたが、そんなことにいちいち心を痛める八木ではない。
 なにか面白いことを見つけて、楽しもうとしなきゃやってられない。そういうマイナス寄りの地点から発生した思考回路ではあったが、八木にとってそれは得意分野だった。
 ツッコみどころを探す。笑えるポイントを見つける。面白いと思ったら許す。
 それがこの職場で八木の身につけた処世術だ。きっと猫山も似たような同士なのだろう、と勝手に親近感を抱いている。
 ほんの少し肌寒い気もするが、目を閉じているとやがて眠気が勝ってくる。寝つきのいい八木は難なくすうっと夢の世界へと旅立っていく。またトイレに行く夢だろうか。
 手放しかけた意識の中、久知良さんは眠れてるかなあ、と八木はうっすらと思う。
 ――おかげさまで、あと少しでうんと眠れそうだよ。
 八木はぼんやりとした白い靄の向こう側に、久知良の姿を認めた。ずいぶん久しぶりなせいか、知っているはずの風貌となかなか一致しない。久知良がだいぶ痩せこけたことが原因かもしれない。
 L字対応お疲れ様です、と八木はねぎらう。すると久知良は苦笑する。
 ――もうずーっとL字対応してるけどね。
 そう言われて、確かにそうだなあ、と八木は素直に思う。それを見透かしたかのように久知良はますます苦笑を深める。
 ――八木は大丈夫そうだな。よかったよ。
 普段は深く考えこまない八木だが、なぜか久知良にそう言われると、本当に大丈夫なのだろうか、と不安がむくむくとふくらんでくる。いつも奥の奥にしまいこんでいるぶん、急につつかれるとポップコーンのように弾けとびそうだ。
 ――ごめんごめん。本当に八木は大丈夫だよ。でも、だからこそちょっと迷惑かけちゃうかもしれない。
 久知良の申し訳なさそうな八の字眉毛を、八木はこれまでも何度か見てきた。ただ、それで結局迷惑をかけられた覚えはない。きっとすんでのところで、いつも久知良はブレーキをかけてきたに違いない。つらい思いをする人もいるだろうから止めておこう。苦しむ人もいるだろうから胸の内にとどめておこう。そういう自己犠牲的な思考の持ち主なのだ。
 別に久知良さんならいいのに、と八木はいつも思っていた。
 ――ありがとう。今回は本当に迷惑かけるよ。八木も猫山くんもうまく立ちまわってるのに、変に波風立てるようなまねしてごめん。
 久知良はほとんど泣きだしそうだ。さらに深い靄がかかって表情はうまく読みとれないが、声がわずかに震えている。やっぱりこの人はずっとまともに眠れていないのだ。
 八木は柄にもないことをつぶやく。たまには迷惑かけてください、と。
 死んでるんだから、いい加減ゆっくり寝てください、と。
 久知良は驚いたように身を固くしたが、すぐに笑った。それは苦笑ではない。屈託のない笑顔だった。靄が完全に覆いかくしてしまうまで、八木はじっと久知良のことを見つめていた。疲れきった男の輪郭を忘れないように。
 途端、激しいノックの音がして、八木は現実へと引きもどされた。目をぱちりと開くのと、宿直室のドアが開けはなたれるのは同時だった。
「失礼します!」
 そこに立っていたのは、濡れ鼠のレインスティック奏者だった。
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