第1話

文字数 3,536文字

 匿名希望は買い出しに行かねば、と考えた。
 窓をたたく風の音が荒々しくなってきている。カタカタカタ、とラップ音程度のかわいらしいものだったのが、今やバコンドゴン、と人為的なレベルを疑うほどの勢いで迫ってきて、とても見過ごすことはできない。
 風呂の水はためた。懐中電灯の電池も換えた。ベランダに置いてある洗濯機の蓋も、ガムテープで閉じておいた。
 ちょうど昨年の今頃も巨大な台風が匿名希望を襲い、たかが台風と高をくくっていたら、見事にその油断は打ちくだかれた。備蓄も心構えもできていなかった匿名希望はひどく狼狽した。
 ライフラインというのは、止まってこそライフラインだったと気づかされる。
 匿名希望の住むアパートは、全室電気も水も止まった。まずエアコンが静かになると、匿名希望はそのときはまだ「うそでしょ」と短く舌打ちするだけで済んだ。七月下旬とはいえ、その年はまだ夏が重い腰を上げておらず、そこまで本格的な暑さにはなっていなかったからだ。我慢してやるか、と誰に向かってなのかわからないが、不遜な態度で団扇を探したものだ。
 が、ビールでも飲むか、と思った瞬間、ようやく匿名希望はあわてた。冷蔵庫の扉を開けると、薄暗い闇の中、すべての飲食物が陰気にうつむいている。残りの冷気でどうにか意識を保っているものの、このままでは早々に腐って落ちぶれてしまうのは間違いなかった。停電イコールの先につながる電化製品が多いことを、匿名希望は思いしった。ビールでも飲むか、のあとには、テレビでも観ながら、が続く予定だったのだが、そんな快適な絵面はこの部屋では描けない。
 匿名希望はクーラーボックスにせっせとすべてを移しかえた。保冷材が溶けるまえでよかった。そこまで傷む食材を買ってなくてよかった。商店街のくじ引きで当たったクーラーボックスを捨てないでいてよかった。
 いろいろとプラスに捉えることもできるが、匿名希望はすべてをマイナス方面へと導いた。最悪だ、最低だ、ありえないでしょ、と口の中だけでつぶやきながら、クーラーボックスに鬱憤も乱暴に投げこんだ。
 しかし、さらに水が出なくなったときは、無神論者のくせに思わず天を仰いだ。「オーマイガー」なんて文句も自然と口をついたかもしれない。蛇口をひねってもひねっても、なんの手ごたえもない。ということは、トイレも流せないのか、と今度は連想ゲームが比較的スムーズに行われた。
 不思議なもので、無理と言われればしたくなってくる。匿名希望はどんなにつまらないテレビでも観たくなったし、無性にトイレにも行きたくなった。暗がりの中では本も読めない。ただ、畳の上で大の字になって、じっとりと確実に汗ばんでいく。
 昨年の台風は、それでもせっかちな性格なのが幸いした。駆け足で「失敬、失敬」と現れ、あっという間に去っていく。大河ドラマの主人公・金栗四三のようだった。一つの場所にとどまってはいられない性分に、匿名希望は救われた。だが復旧した瞬間には、テレビを観る気もトイレに行く気も失せていた。台風が一緒にさらっていったのかもしれない。
 さらっていったのは匿名希望の気力だけでなく、洗濯機の蓋もだった。いや、さらおうとしてさらいそこねたようで、蓋は何度となく暴風にあおられ、幾筋もひびが入る無残な姿となっていた。
 ……といった苦い記憶が匿名希望にはあるので、今年は洗濯機の蓋をしっかり閉じておくことも忘れない。何枚もガムテープで補強してある。ひび割れた洗濯機は、今度あんな目に遭えば次はない。匿名希望には洗濯機をほいほいと買いかえるほどの余裕はなかった。ドラム式とか、あこがれはあるけれど。
 外に出ると、時折突風が駆けぬけるものの雨はまだ降っていなかった。だが人影はすでにまばらで、皆早めに自宅へと引きこもっているのかもしれない。
 近所のスーパーは、こんな日でも通常営業のようだった。気怠そうな若者がレジを打っていて、店長らしき風格ある責任者は見当たらない。ブラックだな、と匿名希望はカップラーメンや菓子パン、ポテトチップスなどをかごに入れていきながら、そう判断した。
 それだけでも匿名希望にとっては【お客さま目安箱】に意見を入れる要因となるのだが、ふと天井を見上げた瞬間、戦慄が走った。
 天井が黒い。生鮮品を扱うコーナーの上だけ、びっしりと黒い。あれは黴だろうか、と考えた途端、すさまじい鳥肌が立ち、匿名希望はたちまち憤怒の念に駆られた。ぼんやりとレジで口を半開きにしている若者のもとへ向かう。匿名希望がかなり距離を詰めるまで、若者はずっと虚空を見つめていた。
「ちょっと君、あれは許されないでしょ」
「は?」
 唐突な匿名希望の声がけに、若者はとぼけた声を出す。それがまた匿名希望の血圧を上げた。
「あれだよ、あれあれ。あそこの天井黒くなってるでしょ」
「え? あー」
 こいつはもしや言葉をしゃべれないのではないか、うなっているだけなのはそのせいか。匿名希望は一瞬その可能性を考えたが、すぐに頭から振りはらう。これはいちいち【お客さま目安箱】にアンケート用紙を投じて、回答が掲示板に貼りだされるのを悠長に待つような案件ではない!
「あれ、黴でしょ。ありえないでしょ。許されないでしょ」
「黴なんすか、あれ」
 言うに事欠いてなにか! 匿名希望はその場で絶叫しそうになるのを、すんでのところでこらえた。正義はこちらにある。しかしあくまで冷静に諭さなければ、どんな屈折した受けとめ方をされるかわからない。逆ギレでもされたら、体力ではまずかなわない。匿名希望はこめかみをぴくぴくさせながら、今にもあくびをしそうな顔をしている若者に弁を振るった。
「黴でしょ。食品を扱う店としての自覚が足りないでしょ。まえにも豆乳の賞味期限が切れてたんだよ。危ないでしょ。お腹壊したらどうしてくれるわけ?」
「壊したんすか」
「そんなわけないでしょ。あわてて引きかえして交換したんだから。こっちが言わなきゃ気づかないなんて、管理能力の杜撰さがさあ」
「よかったっすね。何事もなくて」
「あったんだよ! 賞味期限が切れてるものを置いてる時点でアウトでしょ!」
 匿名希望はクールに振るまうことが苦手だった。どうしてもしゃべっているうちにヒートアップしてしまう。正義は我にあり。余裕を持って対応せねばならないのに、匿名希望は怒りのあまり顔を真っ赤にした。若者はどこ吹く風で「ああー、そっすね」と涼しい顔をしている。まるで匿名希望の話し相手は自分ではないといった具合に。
「今日、店長いないんで。また言っときます。俺、バイトなんで」
「そうだ、だいたいなんでこんな日に店長不在なわけ? おかしいでしょ。普通、責任持って自分の店守るでしょ。バイトだけに任せておかないでしょ」
「こんな日?」
「台風来てるでしょ! 超大型の!」
 なにをのんきな。おまえはもしや魂だけでもハワイあたりに逃避してるのか? 南の島でバカンス中か? 匿名希望は歯ぎしりした。
「まー、っつっても、この店暇すから。今もお客さんしかいないですし」
 若者は匿名希望を指差した。人を指で差すとは何事! だが、あたりを見回すと確かに店内には匿名希望しかいない。
 もう少し先の交差点を越えたところに、新しいスーパーができたのは最近の話だ。安くてきれいで明るいと評判で、客のほとんどがそちらに流れていったのだろうと予想できるが、匿名希望は数十メートルでも余計に歩きたくなかった。これまで通ってきたこの店に義理立てする気持ちも、多少なりとはあった。だから感謝されてもいいくらいなのに、この仕打ちはなんだ。
 外の様子がもう一段階荒れてきた。ぶうん、と強い風が吹き、チラシや小枝が飛んでいくのが見えた。非常事態でなければ、こちらの正義をとおすためにいつまでも居座ってやるつもりだが、今日は仕方がない。もう時間がない。飛来物に当たったりしたらかなわない。
 「店長に間違いなく言っておいてよ」と捨て台詞を残して、匿名希望は渋々引きさがった。若者のレジ打ちはそつなく速かったが、丁寧ではなかった。かごの中でパンがポテトチップスをつぶすような音がした。
「あざしたー」
 ぐぬぬ。次は絶対、おまえの勤務態度を【お客さま目安箱】に投函してやるからな。いや、店長つかまえて直談判してやるからな。
 匿名希望は強い決意を胸に秘め、スーパーを出た。途端、強風が匿名希望の顔面にぶつかってくる。通行人が開いたビニール傘は、一瞬でひっくり返ってしまっていた。
 その形状はまるで「パラボラアンテナみたい」だった。
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