9. ラルティス総司令官とイルーシャ王女
文字数 3,482文字
ベンチ椅子にじっと座り、木々の上に見える夜明けの明星 を眺める美女、イルーシャ王女。そばには侍女 もおらず、一人きりだった。
その後、興奮が冷めやらぬ隊員たちが残っていた広場も、夜が明け初 めた頃には、もともと次の夜警当番だった三人を置いて落ち着いた。
ただ、その若い兵士たちだけは、少し離れたところから王女のことを気にして、毛布を押し付け合いながら、小声でちょっとしたケンカを始めている。この三人は焚き火で暖 を取ることができているが、彼女は防寒着 のマントも着ずに、夜風に吹かれて何やら寂 しそうに見えた。
イルーシャ王女が今いるところは、レイサーが案内したテーブルの席。普段は上官たちの食事場所であり、会議の場である。そんなことは何も知らない彼女は、その席が、自分がここでおとなしくしておくのに無難 な居場所と決めたようだった。
「ほら、行って来いよ、早く。」
同期でも年上からそう急かされているのは、まだ16歳の新米 兵士。この国境警備隊の中では一番若い。
「無理だって。こういうのは年上の役でしょっ。」
「ああ、もう、早くしないと風邪ひかせるって。」
「何をもめている。」
声がして振り向けば、そこにはラルティス総司令官が。
新米兵士たちは、息ぴったりで肩を飛び上がらせた。実は仲のいい三人組。棘 のない魅力的な声でも、部下たちには痛烈 に効 く。
背後にそびえ立つその上司は、疲労から解放されて、今は凛々 しく引き締まった表情でいる。顔の汚れは綺麗に拭き取られ、よれよれでくたびれきった軍服は、清潔な白いシャツと紺のズボンに変わっていた。どこか懐 かしい感じもする、いつもの気高 くハンサムな最高指揮官の姿で、彼はそこにいた。
だが本当のところは、凛々 しいというより厳 しいが正解。彼のその目つきは、少し怒っていた。任務を忘れて内輪揉 めを起こしている新米たちに。
十代の若いその隊員たちは、肩をすくめておずおずと見上げる。
「あ、総司令官、あの、お体は。」
「大丈夫だ・・・で?」
「ああ、あの・・・誰が王女様に毛布を差しあげに行くかで・・・。」
「この冷える早朝に、彼女をあのままいさせたわけか? まったく・・・。」
ラルティスはため息をついて、右手を出した。
「貸せ。」
「すみません・・・。」
毛布を最後に押しつけられた最年少が、それを献上 するかのように両手で掲 げた。
ラルティスは呆 れながら、そのハーフケットを腕にかけて、堂々と彼女に近づいて行った。
気づいたイルーシャ王女が、どこか戸惑 うような顔を向けてきた。
ラルティスは穏やかな笑みで応え、広げた毛布を羽織らせてやり、隣 に座った。それから声をかけた。
「眠れなかったのでは。」
「よくは・・・。」
「こんなふうに外で眠るのは初めてでしょう。寝心地については申し訳ない。」
「いえ、そういうわけでは・・・。」
イルーシャは少し目を大きくして、まじまじと彼を見ていた。顔から服装から、すっかり綺麗になった彼は、急に雰囲気が変わったように見えたから。痩 せてやつれた顔でも、やや目尻 の下がった青い瞳は優しく、男性でありながら美しい人だと思った。歳 は自分よりもかなり上で、彼がもう若くはないのは分かる。それでも、ますます心惹 かれてしまった。
「ラルティス総司令官、あの、お体の具合は・・・。」
「もう大丈夫です。おかげで。」
正直なところ、彼女たちのことが気になって、無理に起き上がってきたラルティス。そして、心配した通りだった。
「あなたこそ、ひどくお疲れでしょう。歩きづらい道を、あんなに自分の足で歩いて。よく我慢なされた。」
イルーシャは、思わず込み上げてきた涙のせいで、ちょっと顔を歪 めた。ほんとに辛 かったのだ。ラキアが、歩調を緩 めるという配慮 ができなくて、元気いっぱい進み続けるものだから。
イルーシャは潤 んだ目をしばたたかせ、彼から少し顔を背 けて、つんとなった鼻をそっとすすり上げた。
「姫・・・もし構わなければ、おみ足を・・・。」
ラルティスは少し屈 んで、王女のふくらはぎへ手を伸ばす仕草 をした。
イルーシャは恥ずかしそうに首を振った。
「だ、大丈夫です。レイサー殿がお湯を用意してくださって、イオラがマッサージをしてくれましたから。」
ラルティスは手を引いて、また微笑んだ。
「そうですか。」
医療用テントに向かう時、不安そうにしていた彼女が気がかりだったラルティスだが、実は、レイサーがきっと上手く世話をしてくれると信じていた。
イルーシャは、焚き火のあるところをのぞき見た。
若い隊員たちが、そろって顔を振り戻したのが分かった。
「あの・・・皆さん、私のことをよく思っていらっしゃらない・・・ですわよね。私の方を見て、なにか言い合いをなさっていたようですし・・・。」
「恐れ多くて、気後 れしているだけです。あなたは・・・王女様なので。」
まさか、それで落ち込んでいるわけではないでしょう? といわんばかりに、ラルティスは笑った。
それに王女が困ったような可愛 らしい顔を向けてきたので、ラルティスは思わず魅入 った。
イルーシャの方は胸がドキドキしていた。少しのあいだ、二人は知らずと見つめ合った。
「イルーシャ王女、あなたは捕虜 ではない。しかしすまない、簡単に帰らせてあげることはできないが、いずれはうまく両親のもとに・・・」
王女は下を向いて、首を振りたてた。
「どうか、あなたのもとにずっと置いてくれませんか。私には人質としての価値もありません。父はそういう人です。私にはもう、きっと帰れる場所なんて・・・。」
ラルティスは眉をひそめる。
「まさか・・・手を上げられたことが・・・。」
イルーシャは青くなった顔で黙り込んだが、反射的にか、右の肩口をつかんだ。
ラルティスは思わず、不躾 にも王女のその腕をつかんで引き寄せ、荒っぽく袖をまくり上げていた。
次の瞬間、驚いて目をみはる。
まだはっきりと痕 が残っている痣 があった。
「もしかして・・・私たちのことで・・・。」
彼女は何も言わないが、きっとそうだという気がした。彼女は父親に間違っていると意見したのだろう。怯 えながらも勇気を出して。
ラルティスは胸が熱くなり、そのまま彼女を抱きしめた。
「あなたはとても善良で、勇気のある御方だ。」
半 ば衝動 的な行動に出たラルティスは、慌 てて身を引いた。それから、抱いた拍子 にずり落ちた毛布を、彼女の肩に掛け直しながらひと言。
「失礼。」
顔を真っ赤にしたイルーシャ王女は、のぼせて眩暈 を起こしそうになった。
一方、王女に対していきなりつかみかかったと思えば抱きしめたり、遠目 に見ているだけの方には謎 の行動でも、まだ初心 な少年兵士たちはみな、感心せずにはいられなかった。「さすが・・・。」と。
「私はもちろん、あなたに恩を返さねばならない。あなたは命の恩人だ。しかし・・・私のもとにずっと・・・というのは・・・。」
つい感情的になってしまったラルティスだが、彼女に言われた言葉を冷静に考え、困惑しながらきいた。
「すみません・・・私にもまだ分かりません・・・でも・・・帰りたくないのです。」
「あなたは、まだ若い。私のもとにいれば、きっと素敵な出会いの機会を逃 してしまう。それに、私には家はあるが、私はそこにほとんど帰らぬ身。私と一緒にいることはできない。」
イルーシャ王女は羞恥 と悲しみでうなだれ、口をつぐんだ。
ラルティスは心苦しかった。今の彼女に、突き放すようなことを言うのは酷 すぎたと反省し、なぐさめ詫 びる気持ちをこめてその肩に触れ、軽くつかんだ。励 ますように優しく。
「だが見捨てはしない。あなたにとって良い方法を探します。」
その後、興奮が冷めやらぬ隊員たちが残っていた広場も、夜が明け
ただ、その若い兵士たちだけは、少し離れたところから王女のことを気にして、毛布を押し付け合いながら、小声でちょっとしたケンカを始めている。この三人は焚き火で
イルーシャ王女が今いるところは、レイサーが案内したテーブルの席。普段は上官たちの食事場所であり、会議の場である。そんなことは何も知らない彼女は、その席が、自分がここでおとなしくしておくのに
「ほら、行って来いよ、早く。」
同期でも年上からそう急かされているのは、まだ16歳の
「無理だって。こういうのは年上の役でしょっ。」
「ああ、もう、早くしないと風邪ひかせるって。」
「何をもめている。」
声がして振り向けば、そこにはラルティス総司令官が。
新米兵士たちは、息ぴったりで肩を飛び上がらせた。実は仲のいい三人組。
背後にそびえ立つその上司は、疲労から解放されて、今は
だが本当のところは、
十代の若いその隊員たちは、肩をすくめておずおずと見上げる。
「あ、総司令官、あの、お体は。」
「大丈夫だ・・・で?」
「ああ、あの・・・誰が王女様に毛布を差しあげに行くかで・・・。」
「この冷える早朝に、彼女をあのままいさせたわけか? まったく・・・。」
ラルティスはため息をついて、右手を出した。
「貸せ。」
「すみません・・・。」
毛布を最後に押しつけられた最年少が、それを
ラルティスは
気づいたイルーシャ王女が、どこか
ラルティスは穏やかな笑みで応え、広げた毛布を羽織らせてやり、
「眠れなかったのでは。」
「よくは・・・。」
「こんなふうに外で眠るのは初めてでしょう。寝心地については申し訳ない。」
「いえ、そういうわけでは・・・。」
イルーシャは少し目を大きくして、まじまじと彼を見ていた。顔から服装から、すっかり綺麗になった彼は、急に雰囲気が変わったように見えたから。
「ラルティス総司令官、あの、お体の具合は・・・。」
「もう大丈夫です。おかげで。」
正直なところ、彼女たちのことが気になって、無理に起き上がってきたラルティス。そして、心配した通りだった。
「あなたこそ、ひどくお疲れでしょう。歩きづらい道を、あんなに自分の足で歩いて。よく我慢なされた。」
イルーシャは、思わず込み上げてきた涙のせいで、ちょっと顔を
イルーシャは
「姫・・・もし構わなければ、おみ足を・・・。」
ラルティスは少し
イルーシャは恥ずかしそうに首を振った。
「だ、大丈夫です。レイサー殿がお湯を用意してくださって、イオラがマッサージをしてくれましたから。」
ラルティスは手を引いて、また微笑んだ。
「そうですか。」
医療用テントに向かう時、不安そうにしていた彼女が気がかりだったラルティスだが、実は、レイサーがきっと上手く世話をしてくれると信じていた。
イルーシャは、焚き火のあるところをのぞき見た。
若い隊員たちが、そろって顔を振り戻したのが分かった。
「あの・・・皆さん、私のことをよく思っていらっしゃらない・・・ですわよね。私の方を見て、なにか言い合いをなさっていたようですし・・・。」
「恐れ多くて、
まさか、それで落ち込んでいるわけではないでしょう? といわんばかりに、ラルティスは笑った。
それに王女が困ったような
イルーシャの方は胸がドキドキしていた。少しのあいだ、二人は知らずと見つめ合った。
「イルーシャ王女、あなたは
王女は下を向いて、首を振りたてた。
「どうか、あなたのもとにずっと置いてくれませんか。私には人質としての価値もありません。父はそういう人です。私にはもう、きっと帰れる場所なんて・・・。」
ラルティスは眉をひそめる。
「まさか・・・手を上げられたことが・・・。」
イルーシャは青くなった顔で黙り込んだが、反射的にか、右の肩口をつかんだ。
ラルティスは思わず、
次の瞬間、驚いて目をみはる。
まだはっきりと
「もしかして・・・私たちのことで・・・。」
彼女は何も言わないが、きっとそうだという気がした。彼女は父親に間違っていると意見したのだろう。
ラルティスは胸が熱くなり、そのまま彼女を抱きしめた。
「あなたはとても善良で、勇気のある御方だ。」
「失礼。」
顔を真っ赤にしたイルーシャ王女は、のぼせて
一方、王女に対していきなりつかみかかったと思えば抱きしめたり、
「私はもちろん、あなたに恩を返さねばならない。あなたは命の恩人だ。しかし・・・私のもとにずっと・・・というのは・・・。」
つい感情的になってしまったラルティスだが、彼女に言われた言葉を冷静に考え、困惑しながらきいた。
「すみません・・・私にもまだ分かりません・・・でも・・・帰りたくないのです。」
「あなたは、まだ若い。私のもとにいれば、きっと素敵な出会いの機会を
イルーシャ王女は
ラルティスは心苦しかった。今の彼女に、突き放すようなことを言うのは
「だが見捨てはしない。あなたにとって良い方法を探します。」