第一話 奇
文字数 6,206文字
探偵をやめよう。と俺はそう思った。
そのようなことを思ったということから分かる通り、俺は探偵である。探偵は職業であって生き様ではない。やめたくなったらそれは個人の自由だ。
なぜ唐突にそんなことを思ったか。
実はそう唐突でもない。俺がこう思うまでには、最近の仕事の失敗や友人の結婚、さらには朝の占いの結果などが複雑に関係している。
しかしまあ、やめたいと思ってすぐにやめられるほど、仕事というのは簡単にいかない。
自営業だから比較的人間関係のしがらみなどはないが、その分手続きは多い。税金の支払いや探偵協会の会員登録解除、さらには探偵会からの離別(これが一番面倒臭い)のことを考えると、気分が重くなってくる。次の職を見つけるのも、俺のような人間には至難の業だ。ため息が勝手に出てくる。
「あの」
と、目の前に座っていた小柄な女性——成田京子 が不安げに口を開いた。
彼女は今回の依頼人である。
「聞いてましたか、私の話?」
「はい、聞いてましたよ。勿論聞いていましたとも。お客様がお話をされている中上の空で自分の退職について考えるような愚行極まりないことを、私がするわけがないではありませんか」
成田京子は疑わしげというよりは不思議そうに首を傾げた。——はて何か余計なことを言っただろうか。
暦は3月1日。時候柄暖かさを増してきた天候に心が穏やかになり、年度の節目で学生達がやれ卒業だのなんだのやっているのを見かけると、過去を懐かしむ気持ちが出てくる時期。そんな頃だというのに、俺は散歩をしようともせず、仕事部屋で依頼人から相談を受けていた。
仕事中である。
俺の事務所という形で機能しているのは、とある建物の一階。白タイルで覆いつくされた部屋には、テーブル一つと椅子二つ、それに時計くらいしか家具が置かれていない。仕事部屋だから一応シンプルになるよう心がけた設計だったが、質素すぎて気持ち悪いかもしれないと最近思い始めている。かといって模様替えするのも面倒臭い。せめて家具を増やすだけでもした方がいいのかもしれないが、性格柄物はプライベートマンションにもあまり所有していない。
いや今は俺の部屋事情などどうだっていいのだが。
時計の長身が15時を回る頃、唐突に客が来た。嘘だ、唐突じゃなかった。事前に電話で予約が入っていた。どうしてわざわざ俺のところに依頼を寄越すのだと不思議に思ったが、おそらく専門によるものなのだろう。
人間心理専門の探偵。
それが俺、欠掛 ずぼらの職業だ。
「で要するに、娘さんの心を解いてあげればよろしいんですね?」
「はい。あの、本当にお願いして大丈夫なんでしょうか……」
大丈夫、か。それはどういう意味で捉えれば良いのだろう。一人娘の回復を指しての言葉だとすれば、それは大丈夫とはまだ言えない。会ってすらいないのだから。
などという考は間違っても口に出さず、俺は営業スマイルを浮かべる。
「お任せください。娘さんについては、私が必ず解決して見せましょう」
まったくもって、これだから探偵をやめたくなるものである。
そもそも今回は、俺じゃなくてどこかのカウンセラーに任せてもいい仕事だった。むしろそちらの方が専門とさえ考えられる。
成田京子の一人娘である成田千尋 は、どうやら心を病んでいるらしい。
きっかけは、(いや彼女が病む前に起こった出来事なのできっかけと思われているだけなのだが)時をさかのぼり1月前旬。成田千尋の祖父である成田一郎 、並びに成田千尋と恋愛関係にあったとされる戸妻翔 が寿命及び交通事故でこの世から姿を消してしまった。
同時期に。
さすがに二人の死には何日か間があるが、しかしまあ大体同じ頃と考えていいだろう。
ちなみに事件性は皆無で、純然たる寿命と交通事故だ。偶然のなせる業であるが、近しい人を同時に二人も失った成田京子の心中は量れない。
実際彼女は、それから部屋に閉じこもることが多くなり、ついには部屋から出てこなくなってしまった。彼女が日々通っていた高校にも、行かなくなってしまった。これが2月22日時点のことである。彼女の両親である成田京子と成田明 は彼女を部屋からなんとか連れ出そうと試行錯誤を繰り返したが、いかんせん全く効果がなかった。
いやはやこうして見ると、100パーセント間違いなくカウンセラーの仕事だと思うが、実際俺のところに依頼が来たのだから、それで成田千尋にまつわる話は終わらない。
成田京子いわく。
その部屋に入ろうとすると、不思議なことが起こるらしい、のだ。
不思議なこと。
それは例えば、大人二人がかりでも部屋の扉が開かなかったり、扉が開いてもすぐに何かに吹き飛ばされてしまったり、等々。
俺も成田京子から話を聞いたときは、こいつは頭がおかしいのではないかと疑ってしまった。病んだのは成田千尋ではなく両親の方なのではないか、と。
しかし彼女の表情や健康状態、口ぶりから俺が下した判断は「異常なし」だった。
俺も人間心理専門の探偵を名乗っている以上、それくらいは一目で判断がつく。相手が嘘をついているか否かも、多分分かる。
絶対じゃないが。
俺の目からするに彼女は嘘も言っていなかった。とすると、これはどういうことだろう。
少なくとも不思議な出来事のように錯覚させる何かを、成田千尋が起こしている——というのが、俺の現段階での予想だった。これが妥当だろうと思っている。
もし俺の予想が的中していた場合、彼女の心の問題を解決するのは間違いなくカウンセラーが適しており、俺の立つ瀬がなくなるのだが。
まあ立つ瀬がなくなるのはいいとして、それならば一刻も早く予想の合否を確認する必要がある。心に生じた問題は早急な解決が必要なのだ。
というわけで。
「お邪魔します」
「はい、どうぞお越しくださいました」
依頼のあった日からちょうど一日後の3月2日。15時に俺は背広に黒革のキャリアバッグを提げて、成田家を訪れていた。
住まいは一軒家。豪邸と呼べるほどではないが、そこそこにいい家だった。
駅からも近いし。
「それで、今日来られたというのは……」
「はい。先日申し上げた通り、千尋さんにお話を伺いに参上しました」
俺はにこやかにそう言った。
今日ここに来たのは、勿論確認のためだ。成田千尋に起こっているとされる不思議な現象が、果たして本物なのかどうか。いくら不思議に思われるようなことが起きたとしても、仮にも数々の修羅場をくぐってきた探偵の俺に、錯覚させるなどできるわけがない。トリックならば確実に見抜ける。
これは自信過剰ではなく、単なる事実だ。
むしろ俺に錯覚させるようなものがあるとすれば、それはもはや錯覚ではないのだ。
「なかなか素敵なご自宅ですね。羨ましくなってしまう」
と俺は心にもないことを言う。
そこそこにいい家でも、別に俺は羨ましくもなんともない。こじんまりとしたアパート部屋が一番だ。
成田京子、それと共に俺を出迎えた成田明はまんざらでもなさそうに、
「ささ、どうぞこちらに」
と案内してくれた。
俺は案内されるがままに、フローリングを踏みしめて2階へ向かった。
廊下を歩きながら、何か家庭内暴力の痕跡でもないものかと観察してみたが、どうもそういった跡は見当たらなかった。玄関で二人と会った時にDV関連の気配を全く感じなかったことから予想はできていたが、特に家庭での問題は生じていないらしい。生じない問題は子供の負担にはなり得ない。どうやら話はそう複雑でもなさそうだ、と俺は安心していた。
後から思えば、楽観的すぎて反吐が出る考察だったが。
「ここが千尋の部屋です」
と、ある一室の前で成田夫妻が立ち止まった。トイレと書斎に挟まれた位置の部屋だった。詳しくは成田家の見取り図参照。と言いたいところだが俺は見取り図など用意していないので、想像で補ってもらうしかあるまい。
なに、部屋の見取り図など、どうせあってもなくても大して変わらないだろう。それは重要じゃない。
俺は言った。
「では私は彼女を説得してお話を伺ってみますので、お二人はリビングででもお待ちください」
リビングがあることは、ここに来るまでで確認済みだ。そうしなくとも大体の一軒家にはあるものだと思うが、まあだからこその確認である。
「はい……でも本当に大丈夫ですか?」
不安げな表情を浮かべて成田明が言った。
おそらく今日も俺が来る旨を、成田千尋に伝えようとしたのだろう。それで激しく拒絶されたというところか。
俺は落ち着かせるような表情を作り、胸を叩いた。
「大丈夫です。なに、今日お話が聞けなかったとしても、次の日もその次の日も通えばいいんですから」
正直なところ、俺は現時点でそこまでするつもりはなかったが、まあ嘘も方便というやつだ。
成田夫妻は安心する様子こそ見せなかったものの、最終的には俺をこの部屋の前に残してどこかへ行ってくれた。
さてと……
俺は気持ちを切り替えて、部屋の扉と向き合った。
まずは挨拶と、入室許可を得なくては。
「こんにちは。話は聞こえていたかもしれないが、そして前から聞いていたのかもしれないが、私は探偵の欠掛ずぼらというものだ。少し話したいことがあるのだけれど、部屋に入れてくれないかな?」
「断る」
端的かつ拒絶的な返事がノータイムで返ってくる。声は女性らしく高いが、くぐもっていた。
ふむ、コミュニケーションが取れるのは僥倖だろう。だが壁越しではなく直接話したいものだ。
「いや事態は急を要するんだ。君だけの問題では、すでになくなってきているのだよ」
というわけで俺がとった作戦は、適当な話をでっち上げて彼女の興味を引き、まずは部屋に入れてもらうというものだった。
面と向かって話さえすれば、俺は人間の精神状態をそこそこ診ることができるだろうし、彼女を説得することも訳ないだろう。
俺だって伊達にこんな職業をしてきた訳ではないのだし。
というかそもそも俺がここに来た第一目標には、カウンセラーに任せるかどうか判断するというものがあったので、部屋に入れてもらうのは避けて通れないことでもあった。
俺はあらかじめ考えてきたシナリオを、くどくどと説明する。
いわく、君が登校していない間に学校で事件があり、それを解決するために学校内の人間関係を詳しく知る必要がある。事件に関わっていない客観的立場からの情報提供は必須なので、ぜひ直接向かい合って話がしたい、というように。
嘘とばれないようそれっぽさを演出するよう努力した。そのため思っていたより回り道しながら話すこととなってしまった。無駄に長くなってしまうので、この説明を詳しく述べることは割愛する。
「……というわけなんだけど、部屋に入れてもらえないかな?」
「…………」
部屋からの返事はなかった。多分俺の話に飽きてしまって、答える気もないのだろう。
だがこちらにとっては、悪いことばかりではない。なにせ沈黙を肯定と受け取ることも、可能なのだから。
多少強引ではあったが、俺は成田千尋の返答がないのをいいことに、「OKされたと勘違いして女子高生の部屋に入ってしまうおじさん」を演じることにした。字面だけ見ると本当にやばい奴というか、ほとんど犯罪者みたいだ。だが部屋に入ることは前述した通り避けて通れないことでもあるので、俺は犯罪者まがいの行動をとることを決めた。
「じゃあ入るね」
俺はドアノブに手を掛け、回し、押した。
扉はスムーズに開き———
「………ん?」
止まった。
扉が半分まで開いたところで、まるでそれ自体に意識があるかのようにビクリとも動かなくなった。
そして……
「入ってくるな」
という声が聞こえたと思ったら、半分まで開いていた扉が物凄い勢いで閉まった。
反動で俺は後ろに吹っ飛び、壁に全身を叩きつける。
は?
「がっ…は…」
扉に一回、壁に一回頭を打ったのでくらくらする。死んだかと思った。いや。
なんだ、あれは?
なにが、何が起こった?
現象だけ見たら単純だ。扉を開けようとしたら、半分のところで閉まって、その反動で後ろに飛ばされる。至極真っ当で単純極まりない。
だが、程度がおかしい。
漫画じゃあるまいし、後ろに飛ばされて壁にぶつかるなんてことはあり得ない。それこそ怪奇現象だ。
彼女の身に、何が起こっている?
おそらく俺の立てていた予想は、大いに外れている。
俺は混乱する頭を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。成田夫妻が音を聞きつけたのか、二階に上がってくる足音が聞こえた。だがそんなことは関係ない。
俺は、冷静だった。
冷静な思考のまま、持参したバッグからハンマーを取り出した。ここに来る前、ホームセンターで万が一のために買ってきたものだった。
万が一。
不思議な現象が錯覚でなかったときのために。
そして、俺はそのハンマーを、一切の手加減並びに躊躇なく、思いっきり目の前の扉に叩きつけた。勿論成田夫妻には無許可だ。
ハンマーというのは使った事がなかったので、本当にものを破壊することができるのかと不安ではあったが、なんのことはなく普通に扉に穴があいた。
扉の中心部には、俺の身長の半分くらいの高さで楕円型に大きい穴が、ぽっかりとできた。ので、そこから部屋の様子が——先ほどはすぐ閉められたためによく見えなかった部屋の様子が、目に飛び込んできた。
部屋はまるで荒らされるべくして荒らされたような、一言で言えば惨状だった。
引き出しが開いたままの机、床に落ちて止まっている掛け時計、ひび割れた鏡、穴だらけの壁、閉まったままのカーテン、散乱しているボールペン、消しゴム、紙くず、シャープペンシル、ティッシュ、ハンドクリームの瓶、本、本、本、本。
穴からしか見ることができなかったので部屋の全体を確認できたわけではないが、しかし推測できることもあった。
この部屋は、彼女の心の健康状態を表している。
加えてもう一つ、先ほど扉が閉まった原因が判明した。
穴のあいた扉を両手で押さえたまま呆気に捉えている少女の姿を、目視することができたからである。
「…………」
背は、女子にしては高い方だろうか?勿論俺の身長の173㎝には届かないだろうが、しかし170はあるかもしれない。
おそらく彼女、もとい成田千尋が、扉を押さえていたから俺や成田夫妻が押してもピクリともしなかったのであろう。やれやれ、ハンマーが彼女に当たらなくて、そして扉の破片が彼女に傷を負わせなくて本当に良かった。
さて一安心。
それ以外は、別に良くもないのだが。
良くないというか、現状大変都合の悪いことが二つ。
一つは、二階に上がってきた成田夫妻が、扉の状態を見て悲鳴を上げていたこと。
もう一つは、目の前の発狂した成田千尋が、穴からあらゆるものを投げつけてきたことだ。しかも尋常ではないスピードで。
何を投げつけられたか認識しないうちに、俺は最初の二つを何とか避けたが、三つ目は避けることができなかった。
腹にボディーブローを食らったような衝撃が走る。呻き声をあげその場にうずくまりながらも、なんとか目を逸らすまいと、成田千尋を見た。
「………っ」
無表情でこちらを見下ろす彼女の目は。
まるで墨汁で塗りつぶしたかのように、真っ黒に染まっていた。
そのようなことを思ったということから分かる通り、俺は探偵である。探偵は職業であって生き様ではない。やめたくなったらそれは個人の自由だ。
なぜ唐突にそんなことを思ったか。
実はそう唐突でもない。俺がこう思うまでには、最近の仕事の失敗や友人の結婚、さらには朝の占いの結果などが複雑に関係している。
しかしまあ、やめたいと思ってすぐにやめられるほど、仕事というのは簡単にいかない。
自営業だから比較的人間関係のしがらみなどはないが、その分手続きは多い。税金の支払いや探偵協会の会員登録解除、さらには探偵会からの離別(これが一番面倒臭い)のことを考えると、気分が重くなってくる。次の職を見つけるのも、俺のような人間には至難の業だ。ため息が勝手に出てくる。
「あの」
と、目の前に座っていた小柄な女性——
彼女は今回の依頼人である。
「聞いてましたか、私の話?」
「はい、聞いてましたよ。勿論聞いていましたとも。お客様がお話をされている中上の空で自分の退職について考えるような愚行極まりないことを、私がするわけがないではありませんか」
成田京子は疑わしげというよりは不思議そうに首を傾げた。——はて何か余計なことを言っただろうか。
暦は3月1日。時候柄暖かさを増してきた天候に心が穏やかになり、年度の節目で学生達がやれ卒業だのなんだのやっているのを見かけると、過去を懐かしむ気持ちが出てくる時期。そんな頃だというのに、俺は散歩をしようともせず、仕事部屋で依頼人から相談を受けていた。
仕事中である。
俺の事務所という形で機能しているのは、とある建物の一階。白タイルで覆いつくされた部屋には、テーブル一つと椅子二つ、それに時計くらいしか家具が置かれていない。仕事部屋だから一応シンプルになるよう心がけた設計だったが、質素すぎて気持ち悪いかもしれないと最近思い始めている。かといって模様替えするのも面倒臭い。せめて家具を増やすだけでもした方がいいのかもしれないが、性格柄物はプライベートマンションにもあまり所有していない。
いや今は俺の部屋事情などどうだっていいのだが。
時計の長身が15時を回る頃、唐突に客が来た。嘘だ、唐突じゃなかった。事前に電話で予約が入っていた。どうしてわざわざ俺のところに依頼を寄越すのだと不思議に思ったが、おそらく専門によるものなのだろう。
人間心理専門の探偵。
それが俺、
「で要するに、娘さんの心を解いてあげればよろしいんですね?」
「はい。あの、本当にお願いして大丈夫なんでしょうか……」
大丈夫、か。それはどういう意味で捉えれば良いのだろう。一人娘の回復を指しての言葉だとすれば、それは大丈夫とはまだ言えない。会ってすらいないのだから。
などという考は間違っても口に出さず、俺は営業スマイルを浮かべる。
「お任せください。娘さんについては、私が必ず解決して見せましょう」
まったくもって、これだから探偵をやめたくなるものである。
そもそも今回は、俺じゃなくてどこかのカウンセラーに任せてもいい仕事だった。むしろそちらの方が専門とさえ考えられる。
成田京子の一人娘である
きっかけは、(いや彼女が病む前に起こった出来事なのできっかけと思われているだけなのだが)時をさかのぼり1月前旬。成田千尋の祖父である
同時期に。
さすがに二人の死には何日か間があるが、しかしまあ大体同じ頃と考えていいだろう。
ちなみに事件性は皆無で、純然たる寿命と交通事故だ。偶然のなせる業であるが、近しい人を同時に二人も失った成田京子の心中は量れない。
実際彼女は、それから部屋に閉じこもることが多くなり、ついには部屋から出てこなくなってしまった。彼女が日々通っていた高校にも、行かなくなってしまった。これが2月22日時点のことである。彼女の両親である成田京子と
いやはやこうして見ると、100パーセント間違いなくカウンセラーの仕事だと思うが、実際俺のところに依頼が来たのだから、それで成田千尋にまつわる話は終わらない。
成田京子いわく。
その部屋に入ろうとすると、不思議なことが起こるらしい、のだ。
不思議なこと。
それは例えば、大人二人がかりでも部屋の扉が開かなかったり、扉が開いてもすぐに何かに吹き飛ばされてしまったり、等々。
俺も成田京子から話を聞いたときは、こいつは頭がおかしいのではないかと疑ってしまった。病んだのは成田千尋ではなく両親の方なのではないか、と。
しかし彼女の表情や健康状態、口ぶりから俺が下した判断は「異常なし」だった。
俺も人間心理専門の探偵を名乗っている以上、それくらいは一目で判断がつく。相手が嘘をついているか否かも、多分分かる。
絶対じゃないが。
俺の目からするに彼女は嘘も言っていなかった。とすると、これはどういうことだろう。
少なくとも不思議な出来事のように錯覚させる何かを、成田千尋が起こしている——というのが、俺の現段階での予想だった。これが妥当だろうと思っている。
もし俺の予想が的中していた場合、彼女の心の問題を解決するのは間違いなくカウンセラーが適しており、俺の立つ瀬がなくなるのだが。
まあ立つ瀬がなくなるのはいいとして、それならば一刻も早く予想の合否を確認する必要がある。心に生じた問題は早急な解決が必要なのだ。
というわけで。
「お邪魔します」
「はい、どうぞお越しくださいました」
依頼のあった日からちょうど一日後の3月2日。15時に俺は背広に黒革のキャリアバッグを提げて、成田家を訪れていた。
住まいは一軒家。豪邸と呼べるほどではないが、そこそこにいい家だった。
駅からも近いし。
「それで、今日来られたというのは……」
「はい。先日申し上げた通り、千尋さんにお話を伺いに参上しました」
俺はにこやかにそう言った。
今日ここに来たのは、勿論確認のためだ。成田千尋に起こっているとされる不思議な現象が、果たして本物なのかどうか。いくら不思議に思われるようなことが起きたとしても、仮にも数々の修羅場をくぐってきた探偵の俺に、錯覚させるなどできるわけがない。トリックならば確実に見抜ける。
これは自信過剰ではなく、単なる事実だ。
むしろ俺に錯覚させるようなものがあるとすれば、それはもはや錯覚ではないのだ。
「なかなか素敵なご自宅ですね。羨ましくなってしまう」
と俺は心にもないことを言う。
そこそこにいい家でも、別に俺は羨ましくもなんともない。こじんまりとしたアパート部屋が一番だ。
成田京子、それと共に俺を出迎えた成田明はまんざらでもなさそうに、
「ささ、どうぞこちらに」
と案内してくれた。
俺は案内されるがままに、フローリングを踏みしめて2階へ向かった。
廊下を歩きながら、何か家庭内暴力の痕跡でもないものかと観察してみたが、どうもそういった跡は見当たらなかった。玄関で二人と会った時にDV関連の気配を全く感じなかったことから予想はできていたが、特に家庭での問題は生じていないらしい。生じない問題は子供の負担にはなり得ない。どうやら話はそう複雑でもなさそうだ、と俺は安心していた。
後から思えば、楽観的すぎて反吐が出る考察だったが。
「ここが千尋の部屋です」
と、ある一室の前で成田夫妻が立ち止まった。トイレと書斎に挟まれた位置の部屋だった。詳しくは成田家の見取り図参照。と言いたいところだが俺は見取り図など用意していないので、想像で補ってもらうしかあるまい。
なに、部屋の見取り図など、どうせあってもなくても大して変わらないだろう。それは重要じゃない。
俺は言った。
「では私は彼女を説得してお話を伺ってみますので、お二人はリビングででもお待ちください」
リビングがあることは、ここに来るまでで確認済みだ。そうしなくとも大体の一軒家にはあるものだと思うが、まあだからこその確認である。
「はい……でも本当に大丈夫ですか?」
不安げな表情を浮かべて成田明が言った。
おそらく今日も俺が来る旨を、成田千尋に伝えようとしたのだろう。それで激しく拒絶されたというところか。
俺は落ち着かせるような表情を作り、胸を叩いた。
「大丈夫です。なに、今日お話が聞けなかったとしても、次の日もその次の日も通えばいいんですから」
正直なところ、俺は現時点でそこまでするつもりはなかったが、まあ嘘も方便というやつだ。
成田夫妻は安心する様子こそ見せなかったものの、最終的には俺をこの部屋の前に残してどこかへ行ってくれた。
さてと……
俺は気持ちを切り替えて、部屋の扉と向き合った。
まずは挨拶と、入室許可を得なくては。
「こんにちは。話は聞こえていたかもしれないが、そして前から聞いていたのかもしれないが、私は探偵の欠掛ずぼらというものだ。少し話したいことがあるのだけれど、部屋に入れてくれないかな?」
「断る」
端的かつ拒絶的な返事がノータイムで返ってくる。声は女性らしく高いが、くぐもっていた。
ふむ、コミュニケーションが取れるのは僥倖だろう。だが壁越しではなく直接話したいものだ。
「いや事態は急を要するんだ。君だけの問題では、すでになくなってきているのだよ」
というわけで俺がとった作戦は、適当な話をでっち上げて彼女の興味を引き、まずは部屋に入れてもらうというものだった。
面と向かって話さえすれば、俺は人間の精神状態をそこそこ診ることができるだろうし、彼女を説得することも訳ないだろう。
俺だって伊達にこんな職業をしてきた訳ではないのだし。
というかそもそも俺がここに来た第一目標には、カウンセラーに任せるかどうか判断するというものがあったので、部屋に入れてもらうのは避けて通れないことでもあった。
俺はあらかじめ考えてきたシナリオを、くどくどと説明する。
いわく、君が登校していない間に学校で事件があり、それを解決するために学校内の人間関係を詳しく知る必要がある。事件に関わっていない客観的立場からの情報提供は必須なので、ぜひ直接向かい合って話がしたい、というように。
嘘とばれないようそれっぽさを演出するよう努力した。そのため思っていたより回り道しながら話すこととなってしまった。無駄に長くなってしまうので、この説明を詳しく述べることは割愛する。
「……というわけなんだけど、部屋に入れてもらえないかな?」
「…………」
部屋からの返事はなかった。多分俺の話に飽きてしまって、答える気もないのだろう。
だがこちらにとっては、悪いことばかりではない。なにせ沈黙を肯定と受け取ることも、可能なのだから。
多少強引ではあったが、俺は成田千尋の返答がないのをいいことに、「OKされたと勘違いして女子高生の部屋に入ってしまうおじさん」を演じることにした。字面だけ見ると本当にやばい奴というか、ほとんど犯罪者みたいだ。だが部屋に入ることは前述した通り避けて通れないことでもあるので、俺は犯罪者まがいの行動をとることを決めた。
「じゃあ入るね」
俺はドアノブに手を掛け、回し、押した。
扉はスムーズに開き———
「………ん?」
止まった。
扉が半分まで開いたところで、まるでそれ自体に意識があるかのようにビクリとも動かなくなった。
そして……
「入ってくるな」
という声が聞こえたと思ったら、半分まで開いていた扉が物凄い勢いで閉まった。
反動で俺は後ろに吹っ飛び、壁に全身を叩きつける。
は?
「がっ…は…」
扉に一回、壁に一回頭を打ったのでくらくらする。死んだかと思った。いや。
なんだ、あれは?
なにが、何が起こった?
現象だけ見たら単純だ。扉を開けようとしたら、半分のところで閉まって、その反動で後ろに飛ばされる。至極真っ当で単純極まりない。
だが、程度がおかしい。
漫画じゃあるまいし、後ろに飛ばされて壁にぶつかるなんてことはあり得ない。それこそ怪奇現象だ。
彼女の身に、何が起こっている?
おそらく俺の立てていた予想は、大いに外れている。
俺は混乱する頭を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。成田夫妻が音を聞きつけたのか、二階に上がってくる足音が聞こえた。だがそんなことは関係ない。
俺は、冷静だった。
冷静な思考のまま、持参したバッグからハンマーを取り出した。ここに来る前、ホームセンターで万が一のために買ってきたものだった。
万が一。
不思議な現象が錯覚でなかったときのために。
そして、俺はそのハンマーを、一切の手加減並びに躊躇なく、思いっきり目の前の扉に叩きつけた。勿論成田夫妻には無許可だ。
ハンマーというのは使った事がなかったので、本当にものを破壊することができるのかと不安ではあったが、なんのことはなく普通に扉に穴があいた。
扉の中心部には、俺の身長の半分くらいの高さで楕円型に大きい穴が、ぽっかりとできた。ので、そこから部屋の様子が——先ほどはすぐ閉められたためによく見えなかった部屋の様子が、目に飛び込んできた。
部屋はまるで荒らされるべくして荒らされたような、一言で言えば惨状だった。
引き出しが開いたままの机、床に落ちて止まっている掛け時計、ひび割れた鏡、穴だらけの壁、閉まったままのカーテン、散乱しているボールペン、消しゴム、紙くず、シャープペンシル、ティッシュ、ハンドクリームの瓶、本、本、本、本。
穴からしか見ることができなかったので部屋の全体を確認できたわけではないが、しかし推測できることもあった。
この部屋は、彼女の心の健康状態を表している。
加えてもう一つ、先ほど扉が閉まった原因が判明した。
穴のあいた扉を両手で押さえたまま呆気に捉えている少女の姿を、目視することができたからである。
「…………」
背は、女子にしては高い方だろうか?勿論俺の身長の173㎝には届かないだろうが、しかし170はあるかもしれない。
おそらく彼女、もとい成田千尋が、扉を押さえていたから俺や成田夫妻が押してもピクリともしなかったのであろう。やれやれ、ハンマーが彼女に当たらなくて、そして扉の破片が彼女に傷を負わせなくて本当に良かった。
さて一安心。
それ以外は、別に良くもないのだが。
良くないというか、現状大変都合の悪いことが二つ。
一つは、二階に上がってきた成田夫妻が、扉の状態を見て悲鳴を上げていたこと。
もう一つは、目の前の発狂した成田千尋が、穴からあらゆるものを投げつけてきたことだ。しかも尋常ではないスピードで。
何を投げつけられたか認識しないうちに、俺は最初の二つを何とか避けたが、三つ目は避けることができなかった。
腹にボディーブローを食らったような衝撃が走る。呻き声をあげその場にうずくまりながらも、なんとか目を逸らすまいと、成田千尋を見た。
「………っ」
無表情でこちらを見下ろす彼女の目は。
まるで墨汁で塗りつぶしたかのように、真っ黒に染まっていた。