六章

文字数 12,391文字

 六章
 十五
 自費出版の映画批評書を抱え、藤崎はドブ臭い目黒川沿いに建つ瀟洒なマンションの前にいた。
 メルローズ目黒。
 本の奥付の住所にまちがいない。築三十年ほどだろうか。各部屋には、バブルの名残りらしきヨーロピアンな張り出し窓が据えつけられ、バルコニーの柵もアールヌーボー風のカーブを描いていた。
 郵便ポストを見るかぎり、四〇一号室のところに西原建設の表札はなかった。ジャックの家ならそれもふしぎではない。しかし西原建設が鈴木順三の息子から購入したのは、いまから十六年も前のことだ。念のため居住者の有無については調べる必要がある。
 むせ返るほどの暑気と二日もシャワーを浴びていない体が放つ体臭をこらえて深呼吸を三回繰り返し、それから藤崎はインターホンを押した。
 古井戸に響くような長々とした音を聞きながら、藤崎の心はざわついた。相手が出た場合、どうすべきか。対処法についてまったく考えていなかった。それは時折出入りする西原建設の関係者なのか、現在の所有者である無関係の住人なのか、それとも藤崎同様の魂胆でやって来た侵入者なのか。
 無反応だった。
 二度目のほうがらくな気持ちで押せた。そしてもう一度押してみて、藤崎はすくなくとも四〇一号室には現在だれもいないとの思いを強くした。
 金庫がわりの場所なら、つねに人がいる必要はないよな。
 おまえは引っこんでろ。
 「いませんよ」いきなり背後から声をかけられた。
 飛びあがりながら振り返ると、法事でお経でも唱えていたほうがさまになる完璧に禿げあがった五十がらみの男が立っていた。「総徳ビル管理」とのバッヂがシャツの胸ポケットにとめてある。管理人らしい。
 「四〇一なら空室ですよ」
 「空室……?」フジオを追いやって落ち着きを取りもどし、藤崎は訊ねた。「だれも住んでいないってことですか」
 「そういうことです」管理人とおぼしき男はけげんそうな目で藤崎のことを見た。
 腹が立った。たんに来訪しただけで、どうして不審人物でも見るような目を向けられねばならない? それもこんな男に? 詰問してやるしかなかった。「管理人の方?」
 男は一歩前に踏みだし、バッヂを見せつけるように胸を突きだした。「そうですけど」
 「用事があって来たんだけどな、四〇一号室に」
 「空室ですから」
 「西原建設に用事があってね。それで来たんだよ」
 管理人はオートリプライ機能のついた通信機器のようにくりかえした。「空室ですから」
 「だれも住んでいないってこと?」ぶっきらぼうに藤崎は訊ねた。
 「空室ですから」あほみたいに管理人はくりかえした。
 これではらちが開きそうにない。藤崎は物件をあつかっている不動産屋について訊ねた。それには管理人も即座に答えた。空き物件に興味をしめす相手が来たら、すぐに連絡先を伝えること。そうインプットされているようだった。
 「暑いなか、お待たせしてしまいもうしわけありません」三十分ほどしてあらわれた恵比寿の不動産業者――サン・ライフ不動産販売の浅川という腰の軽そうな男――は、まずはそこらの自販機で買ってきたらしいスポーツドリンクを藤崎に手渡してきた。そして弁護士の名刺を受け取るなり、こんどはホテルマンさながらの丁寧な態度に変わった。「すぐになかをご覧になれます。エアコンを最大にいたしますが、なにせこの暑さですから、涼しくなるまで多少お時間をいただきたいと」そんなことをぶつくさいいながら浅川は藤崎をエレベーターに案内し、四階にあがった。
 部屋はがらんとしていた。たしかに3LDKのファミリータイプだ。藤崎はスポーツドリンクのペットボトルをキッチンに置き、部屋をたしかめるふりをして、室内をすみからすみまで調べてまわった。が、そこは正真正銘の空室で、大型金庫や現金を詰めたアタッシェケースはおろか、札束をまとめていた輪ゴム一つ落ちていなかった。「きれいだね」とつい嫌味が口をついて出てしまったほどで、かんちがいした浅川はうれしそうに片方の口元をあげて微笑んだ。
 だが藤崎の執念は、やがてクローゼットの天井に向いた。「天井裏に出られるのかい?」
 さすがにそれには浅川の笑みも消えた。「天井裏ですか」
 「そう言ったつもりだけど」
 「いやぁ、そのぉ……暗いし、蒸し暑いですよ」
 「いいんだ。わかってる。でもどうしてもたしかめたくてね」なんらかの理由を告げたほうが話がスムーズに進む。「構造的な話だよ。いくつか確認したい点があるんだ。耐震性のチェックポイントさ。仕事柄いろいろ気になってね」
 合点がいったのか、暑さで頭がおかしくなったのかわからなかったが、浅川は五回も六回も神経症ぎみにうなずいた。「いま、脚立を持ってまいります」
 坊主頭の管理人から借りてきたらしい脚立をセットし、最初に浅川があがろうとしたが、それを制して藤崎が脚立に足をかけた。もしもハッチの向こうにアタッシェケースでもあったらうまくない。
 だが脚立といっしょに浅川が持参した懐中電灯で入念にたしかめてみても、埃っぽい空間に室内から持ちこまれたような物体は、なにひとつない。憤然として藤崎は脚立を下り、浅川を無視してリビングのほうへずかずかと進んだ。だがほかに調べるところといえば、キッチンまわりの収納棚ぐらいしかない。藤崎は重苦しい気持ちをひた隠しにし、棚の扉を一つ一つを開けていった。
 脚立を玄関に運び、浅川がもどってきた。「いい物件なんですが、なかなか売値と折り合いがつきませんで」額に噴きだした汗をハンカチで拭うしぐさは、いかにも客の同情を誘おうとしているようで逆に嫌悪感をおぼえた。
 「持ち主はどういう方なの?」
 癖なのだろうか。またしても浅川は五回も六回もうなずいてから答えた。「管理しているのはわたくしどもです」
 「そうじゃなくて、持ち主さ」
 「いえ、恐縮ですが、その点につきましては……」
 「西原建設じゃないの? 山形の」
 「いや、まぁ、そのぅ……」
 「本当に買うわけじゃないから言えないというのかい」
 こんどは一度だけ大きく浅川はうなずき、こうつづけた。「十年ほど前から売りに出ているんですよ」
 藤崎はもういちど浅川の名刺を見て言った。「浅川さん、そのころも恵比寿の営業所に?」
 「はい、もう二十年近く恵比寿営業所に勤めております」
 「じゃあ、この界隈のことならなんでも知っているんだな」
 「いえ、それほどでも……」
 「ここは、もとは社宅とかそういうのだったの?」
 「たしか……居住用ではなかったと記憶しております」
 「事務所ってこと?」
 「いえ、なんと言いますか、そういうのとはまたちがう感じでしたね」
 「奥歯に物が詰まったみたいな言い方だね。たとえばここが暴力団関係者の出入りする事務所だったとするだろ。あんた、それを隠して売りつけたりしたら、かなりヤバいことになるよ」
 脅かすつもりはなかったが、浅川はつらそうな顔になった。「よしてくださいよ。そんな関係じゃありませんから、ご安心ください。たしかにこちらは、おっしゃるとおり山形の建設会社が売りに出している物件でして、以前は倉庫みたいな感じで利用されていたのだと記憶しております」
 「倉庫?」
 「ええ、たしか」
 「なんの倉庫だい?」
 「いえ、そこまでは……でもそれを移転させるから売りに出すとかいう話だったと思います」
 藤崎は黙ってリビングの窓を開け、西の空を見あげた。午後のどまんなか。頭上の太陽は、汚臭を放つ汗と邪心にまみれた中年男を焼きつくさんばかりに降り注いでいた。
 移転だと?
 ジャックの家が。十年ほど前に……。
 新たな展開に気が遠のく思いだった。
 それを浅川が救った。「お飲みになりませんか」キッチンに置いたペットボトルを持ってきて藤崎に差しだした。
 もうぬるくなりかけていたが、それでも水分補給により、思考回路が活性化した。移転なら不動産屋に移転先の記録があるはずだ。「じつは西原建設から委任されていることがあってね。あんたが言う十年ほど前の移転に関する書類を見せてほしいんだ。まあ、相続関係だと思ってくれればいい」
 「書類……ですか? 営業所で調べてみないと……お急ぎですか」
 「早いにこしたことはないが、でもまあ、そっちにも準備の都合があるだろうから」
 「じつはこれから何件か回るところがありまして」
 「なるほど」藤崎は焦る気持ちを抑えて言った。「何時ごろならいい?」
 浅川はまたしても狂ったように何度もうなずいた。「きょうでないとまずいでしょうか?」
 藤崎は有無を言わせなかった。「この部屋が売却できれば、あんただってうれしいだろ」
 「そりゃもちろん」困っていた男の片方の口元にふたたび笑みが浮かんだ。「ですが――」
 「心配ない。委任状ならちゃんとあるから」
 その手の書類の偽造なら得意中の得意だった。

 十六
 目黒のジャックの家の移転先について、恵比寿の不動産屋で午後七時に教えてもらうことになった。藤崎は東京駅のサウナに向かった。シャツとズボンも靴下も新調し、ようやく人心地がついた。この程度の支出は六億円のための必要経費だ。どれもユニクロ製だし、痛くもかゆくもない。大手町にもどってきたのは四時過ぎだった。幸か不幸か来訪者はなし。掃除婦に化けた元検事の端山昌美は依然として行方知れず。清掃会社も困っているようすだった。一方、刃物を手にしたキャンディー配達人の鳥居嬢も姿をあらわしたようすはなく、資料室の南京錠もしっかりとかかったままだった。
 「資料室に取りに行きたい書類が山ほどあるんですけどね」紗江がぶうぶうと文句をたれた。「これじゃぜんぜん仕事が進まない。お盆休みも取れないですよ」
 「ずいぶんと仕事熱心だな」
 「てゆうか、なんで急にあんな南京錠つけたんですか」
 「きみたちがいない間にだれか入ってくるかもしれないだろ」
 「掃除のおばさんぐらいですよ。べつに心配する人じゃないと思いますけど」
 「あの女のことじゃないさ。夜中に住居侵入されたばかりなんだ。資料室にも錠をつけるのはふつうだと思うがな。念には念を入れて、ダブルロックってやつさ」
 そんなにたいせつな記録なんてあるわけないでしょ、ろくな仕事していないんだから、そこまでは紗江も言わなかったが「日中は勘弁してくださいよ」と音をあげた。「あたしたちが困っちゃう」いちゃつく場所を奪われてカリカリきてるのか。おまえ、いいかげんにしろよ。
 「ミルトンのあの女ですけど」祐介がパソコンから顔をあげた。「侵入の目的はなんだったんですか。やっぱりそっちの資料室にあるなにかの記録だったんですかね。警察からなにか聞いていませんか」
 ジャックの家の件はこいつらに話していない。ネット空間でそれが話題になり、うちの事務所が渦中にあることもまだ知らないようだった。「警察からはなにも連絡がないんだ。すくなくとも犯人の女がらみの裁判は、うちではあつかっていないと思うんだが」
 「やっぱり士朗先生じゃないですか」紗江が言った。
 「いや、そこまではおれもまだ調べていない。気味が悪いけど、住居侵入は警察の仕事だしな」そう言って藤崎は、やたらとポケットの多いユニクロズボンから南京錠の鍵を取りだし、資料室に向かった。
 米丸直太郎の裏金を現金の形で隠すジャックの家は当初、目黒に存在した。まちがいなくあのマンションだ。だとするとうちの事務所について指摘する例の掲示板は、あのマンションへとつながるカギ――素人評論家の手なる「『アメリカの悲劇』とその時代」――が資料室に鎮座していることを言いたかったのだろうか。だが現時点で言えば、倉庫がわりに使われていたマンションは売りに出され、なかにあったと思われるものはどこかに消えている。きっと移送されたのだろう。ならばあの掲示板は、目黒からの移送先に関するヒントが、藤崎総合法律事務所にある可能性について言及しているのだろうか。
 半日、エアコンを切っていただけで、資料室のなかはバンコクのような蒸し暑さだった。ドアをしっかり閉じてから、藤崎は熱気をかきわけ、ふたたび米丸の蔵書と思われる本が詰まったキャビネットの前に立った。
 なにか妙だった。
 荒らされたようすはないのだ、どこかいつもとちがう感じがした。あたりを見まわし、隣の新光銀行を見わたす窓辺の隅で目がとまった。ダークグレーのカーペットに大量の埃が堆積している。女検事が化けたあの掃除婦でなくとも掃除機をかけずにはいられないほど目だつ場所だった。きのうは掃除に来ていたし、その後、藤崎がこもっている間もそんな埃の山はなかったはずだ。
 そこにひとひらの綿埃がすっと落ちてきた。藤崎はゆっくりと顔をあげた。
 天井に四角い隙間ができていた。
 いまのいままで気がつかなかった。建物のメンテナンス上必要なのだろうか。天井裏へのハッチだった。収納式の把手を引きだし、そこを下に引っ張って開くタイプらしい。それがやや半開きになっている。まるで天井裏の点検後、閉め忘れたかのようだったが、その可能性がないことは藤崎がいちばんよく知っている。こちらから天井裏に上がるなら、藤崎の許可を得るか、錠前を交換したばかりの事務所に侵入し、さらに南京錠を開けて資料室に入ってこないかぎり不可能だ。
 逆だ。
 天井裏から入ってこようとしたのだ。
 藤崎は作業台がわりに置かれているスチール机を移動させ、それにのぼってハッチに手をかけ、引き開けた。それから懸垂の要領で天井裏に首を突っ込んでみた。暗がりに空洞が広がっている。それ以上たしかめるには、脚立のようなもので天井裏に上がる必要があったが、いちいち防災センターまで借りにいくのはめんどうだ。藤崎はいったん事務所側にもどり、紗江たちに気取られぬよう注意して、空いているデスクチェアを資料室のほうへ転がした。
 台がわりにしたスチール机の上にいすをのせ、キャスターが転がらぬよう気をつけながら藤崎はその上にあがった。ちょうど首が開放されたハッチの内側に入る格好となった。懐中電灯があればはっきりしたが、目を凝らせばなんとかなりそうだった。
 たしかにハッチはメンテナンス用のようで、頭上に太さ十センチほどの配管が三本並んでいた。それが隣の黒澤証券お客様センターのほうへとのび、その下にメンテナンス要員が這っていけるほどの広さを持つ空洞――高さも幅も五十センチほど――が広がっていた。
 藤崎の脳裏に疑問符が点灯した。
 天井裏で隣戸とつながっている建物なんてあるか? ふつうは戸境壁が天井裏をも仕切っているんじゃないのか?
 だがいま目を凝らして見るかぎり、空洞はどこまでものびている。すくなくとも資料室と黒澤側を隔てる壁があるあたりでどん詰まりになっている感じはしない。手抜き工事だろうか。しかし真相はともかく、これでは黒澤側からこっちにやって来ることだって可能だ。
 藤崎は事務所の錠前をより頑丈なものに交換していた。それを見て正面攻撃は難しいと考えたのだろうか。それで天井裏作戦に切り替えた。
 いったいだれが……?
 二人しかいなかった。
 掃除婦に化けた元検事の端山昌美か、刃物使いの鳥居何某だ。しかしいくら掃除婦と言っても、オフィスに自由に入れるマスターキーまでは持たされていまい。そういうのは、この建物とはべつの場所にある管理会社の総務部あたりの金庫に厳重に保管され、いざ必要となったとしても、いくつかの面倒な手続きをへないと使えないというのが相場だ。だとすれば端山がそれを使って黒澤証券に昨夜侵入したとは思えない。それにあの立派な体格を思えば、天井裏のトンネルを通過するのは困難だ。
 だとすればあとはやつしかいない。やはりやつはコールセンターの一員としてアウトバウンドを行うなかで、藤崎に憎悪をおぼえ、ひょんなことからつかんだ秘密を暴こうと、天井裏の住人と化したのだ。
 藤崎はミルトンの小松嬢に次ぐ第二の住居侵入を疑い、篠原警部に通報したい衝動に駆られた。だが待て。小松嬢が逮捕された一件は、報道発表なんてしていないのに例の掲示板にアップされていた。警察が情報を漏らしたのはまちがいない。だったらやはり今回も余計な通報などしないほうがいい。
 要はここから入ってこられないようにすればいいのだ。藤崎はいったんハッチを閉ざしたのち、神田のホームセンターまでタクシーを飛ばした。そこでできるだけ頑丈そうな鎹(かすがい)を何本も買い、ハンマーも手に入れた。それを使ってハッチを閉ざす段になると、さすがに紗江が資料室をのぞいてきた。
 「なにしてるんですか、そんなところで」
 「見りゃわかるだろ」ハンマーを打ちつける手を休めることなく藤崎は答えた。「ハッチを閉じてるんだよ」
 「そこからだれか入ってくるとでも言うんですか」
 「入ってこないなんて言い切れるのか?」
 「まったくもう……」紗江はあきれた声をあげた。「よほどたいせつなものがあるんですね、ここには」
 「なんだと思う?」藤崎は手を休め、不安定ないすのうえで首をめぐらせて、小娘のほうを見た。「知ってるんじゃないのか」挑発的な言葉がつい口をついて出てしまった。
 「知らないですよ。だから気味が悪いって言ってるんですよ。先生、なんか変なこととかしてるんじゃないですかぁ?」
 「気になるか」もういちど藤崎は紗江のほうをじろりと見た。口元をいやらしくとがらせ、腕を組んで豊かな胸を押しあげている。急に藤崎はもよおした。
 「気になりますよぉ。なんか先生、最近へんだもん」
 「警察ざたまで起きてるんだ。財産を守ろうとしてなにが悪い?」
 「ザイ……サン……ですか? 先生」ばかにしたように紗江がつぶやいた。怒りをこらえ、藤崎はハンマーを振るうのを再開した。
 補強工事はなかなかの出来栄えだった。藤崎は資料室から紗江を追いだし、ふたたび南京錠をがっちり掛けた。五時四十分だった。先方の終業前にたしかめねばならない。藤崎は黒澤証券お客様センターに向かった。こっちが疑っていることをはっきりとしめすほうが、鎹なんか打ちこむよりよっぽど効果的だからだ。
 きのうとおなじ女が応対に出てきた。ホワイトボードのいちばん上に名前が書いてある女。高野嬢だ。「またなにかございましたでしょうか」
 女鼠小僧みたいなまねはやめてもらいたいんだがね。そんなふうに言えるわけがない。藤崎は言葉を選んだ。「じつはアウトバウンドのことなんですが……」
 「まだお電話さしあげておりませんでしょうか。営業には取り次いでおいたのですが」
 「ええ、それなんです。まだ電話がないものでして。で、お電話いただくのも申しわけないので、こちらからかけてみようかと。それでもしよろしければ――」
 高野嬢のほうで先んじてくれた。「連絡先をお調べいたします。そちらでおかけになってお待ちください」高野は右手を広げ、応接スペースのほうに藤崎をうながした。
 合皮を張った安っぽいソファに腰掛けながら、藤崎はオフィスのなかにすばやくを目を走らせた。ホワイトボードを見るかぎり、いちばん上の「高野」からいちばん下の「大田」まで、七枚の名札がはってあるが「鳥居」はきょうも見あたらない。だがアルバイトとか臨時採用のため、名札が存在しないということもある。藤崎はリノリウム張りの床に目を落とし、じっと耳をすませた。いまは高野をふくめ、六人が在席し、ヘッドホンタイプの電話を使って顧客の応対をしている。声を荒げている者は一人もおらず、だれもが落ち着いた声で話していた。
 あの声の主を聞き分けることはできなかった。ひと呼吸を置こうと藤崎は顔をあげ、もう一度オフィス内に目を走らせた。従業員の顔ぶれが微妙にちがう気がしたがはっきりとはわからない。きのうエレベーターで遭遇した金髪ショートカットの娘がいるのが確認できたぐらいだ。あとはオフィスのようすもおなじようだった。きのうとすこしだけ変わっているのは、向かいの新光銀行を臨む側の空いた場所に紙袋がいくつも並んでいることぐらい。デパートやファッションブランドの紙袋だった。どれも洗濯物でも詰めたように膨らんでいる。顧客に関する膨大な個人情報を記した資料かなにかだろう。それを運び入れたり、出したりしている従業員がいるのかもしれない。
 高野がやって来て、黒澤証券本店営業本部企画統括チームなる部署の電話番号を記したメモを藤崎に手渡した。「こちらに連絡いただければ、基本的な営業のやり方についてはお話できると思います」それはしつこい弁護士に退散をうながす合図だった。
 藤崎は小声になりながらも思いきって訊ねてみた。「鳥居さんという方はいらっしゃいますか」
 悪ガキを懲らしめようと身構えた昔の小学校教師のように、高野は背筋をのばし、はっきりとした口調で聞き返してきた。「トリイ……ですか?」
 「えぇ、鳥居さんです」
 「こちらにはおりませんが……なにか?」
 「すみません。記憶ちがいだったのかもしれません」藤崎は消え入るような声で答えた。「こちらに以前いらっしゃったような気がしたものでして」
 「わたくし、着任して三年ですので、それ以前のこととなると――」
 「いえ、結構です。だいじょうぶです」
 しどろもどろになったとき、電話応対がつづくデスクのほうで声があがった。
 「ビックリしたぁ!」高野とおなじぐらいの年齢のベテラン風の女だった。いかにも健康そうな丸顔がはじけている。「うちのマンションの人だったぁ」
 「マジですかぁ」調子を合わせるように、金髪娘の隣にいた若い女が反応した。終業時刻寸前の職場の会話にぴったりの、ブラックな雰囲気が漂う軽いおしゃべりだった。
 「マジよ、マジ。ID番号言ってもらって照会したら、うちとおんなじマンション。それもおなじ階の人よ」
 「おなじフロアですか⁈」
 二人は藤崎がいるのに気づき、声をひそめた。それでも話は聞こえてきた。
 「三十四歳。専業主婦だと思うけど、見た目はものすごくおとなしくて上品な感じ。でもまいった、まいった」
 「どんなふうだったんですか」
 「ヤンキーよ、ヤンキー。怒鳴り散らして、罵詈雑言もいいところよ。どうしよう、こんど会ったら、顔そむけちゃうかも」
 「こっちのことなんかわかりっこないですけど、緊張しちゃいますよね」

 十七
 職場のおしゃべりを聞かれまいとする高野嬢に最後は押しだされるような形となったが、天啓を得た気分だった。もう六時を回り、エレベーターホールには退社する者たちがひっきりなしに集まるようになっていたが、藤崎はそこに立ちつくし、はたと考えた。
 こういうときは原点回帰。時計の針を元にもどすべきだ。
 あの女から電話がかかってきたのは、二日前、月曜の昼だった。パーソナルリアリティー社によるアウトバウンド営業のようだったが、当初、鳥居はおれの名前を知らず、どこかから入手してきたリストにあった番号に闇雲に電話をかけてきた。名前も知らなかったということは、藤崎の職場の場所はもちろん仕事の内容なども当然知らなかったはずだ。ところが二度目にかかってきたときは、それを把握していた。それだけではない。恐ろしいことに、藤崎がその日、胸にピンクの蛍光ペンを差していたことまで知っていた。
 それはなにを意味している?
 無人のホールのまんなかに突っ立ったまま、藤崎は推理した。ネットを使えば、職業や職場の住所ぐらいはわかるだろう。だがその日の服装や持ち物となると、電話でなく現実に目視しないと把握できない。
 防犯カメラの映像を見たのだろうか?
 藤崎に一度でも会ったことのある相手ならそれも可能だろう。いまのカメラの映像は極めて鮮明だからだ。
 しかしあの女が自分と面識があったとは思えない。なにしろ最初は名前すら知らなかったのだから。それがランチのあとにかかってきた二度目の電話のときには、蛍光ペンのことまで把握していた。つまりその間に情報を得る機会があったのだ。
 ビックリしたぁ!
 黒澤証券お客様相談センターでさっき耳にした会話がよみがえる。
 ID番号言ってもらって照会したら、うちとおんなじマンション。それもおなじ階の人よ……。
 もちろん藤崎はID番号のようなものなど伝えていない。事務所のホームページにはあいにく顔写真も掲載していなかったから、それを踏まえてあの日の昼、藤崎のことを特定することはできまい。だが一度目の電話と二度目の電話の間に、藤崎の特定につながるなんらかの情報を鳥居がつかんでいたとしたらどうなる――。
 映像じゃないかもよ。
 フジオが耳元でささやいた。
 おれもそれを考えていたところだ。
 声かもよ。
 いや、話し声だけで相手を特定するのは不可能じゃないが、相当長い時間話していないと判別できないと思うね。
 たしかに。目の前で個人面談でもしないかぎり無理だな。だけど「秘密の暴露」ってのはどうかな?
 秘密の暴露?
 そうさ。取り調べ中に、刑事さんの前で犯人しか知りえない事実をしゃべっちまうってことさ。あんた、弁護士なんだろ。実務のなかでそういう話はいくらも聞くんじゃないか。それとも実務経験が未熟なのかな?
 挑発は無視して、藤崎は論理的思考をめぐらせてみた。おれはあの女と電話で話した。そこでの会話はおれとやつしか知らない話だ。もしそれをおれがどこかで口外して、それがやつの耳に入ったとしたら、やつはそれをしゃべっている人物がこのおれ、つまり藤崎統一郎本人であると認識できる。
 で、あんた、しゃべっちまったのかい?
 「待てよ……」藤崎は記憶をたどった。「そうだ。あのときだ。ここだ。おれはここで――」
 紗江を誘って昼食に出るときだ。直前にかかってきた迷惑電話について話し、そのときこんなことを口にした。
 風俗でも行ったほうがいいんじゃないかってな……。
 バアさんで体がきかないんじゃ無理だとは言っといたんだが……。
 あのときまわりに何人かいた。全員女だった気がする。
 藤崎はエレベーターに乗りこみ、防災センターに直行した。警備隊長はさすがに困惑した表情を浮かべた。住居侵入事件以来、この弁護士先生は神経過敏になっていると思いはじめているようすだった。だがそれでも防犯カメラの映像は見せてくれた。
 月曜の午後零時八分だった。
 九階のホールにエレベーターが到着し、なかから四人の女があらわれた。先にランチに出た連中だろう。正面からばっちりカメラに撮られていた。藤崎はそこで映像をとめて、その場面をプリントアウトしてもらった。さらに映像を巻きもどすと、そのエレベーターの到着を待つ七人の男女の姿が浮かびあがった。男は藤崎本人、女のうちの一人は紗江だった。残り五人の女はテナントの従業員らしい。後方からの撮影だったため、五人とも顔が半分ほどしか映っていないが、直近の職場訪問をつうじて見覚えのある顔もあった。
 道子さんがいるな。
 フジオに言われてはっとした。たしかにそうだ。ライズの美女だ。
 あの人は除外していいよ。
 なんでだよ? 不公平じゃないか。
 いいんだ。おれにはわかる。
 それもプリントアウトして防災センターを出たときは、すでに六時十分になっていた。七時には恵比寿の不動産屋に偽造委任状を持っていかねばならない。藤崎はあわてて事務所にあがり、過去の委任状のパターンを上書きして、たちまち西原康夫の遺族からの委任状を作りあげた。印鑑? そんなもの親父からいくらだって引き継いでいる。
 日比谷線で恵比寿に向かう途中、藤崎はプリントアウトした防犯カメラの映像を吟味した。谷本嬢以外はだれもが性格が歪んでいそうに見えた。「バアさん」なんて言われたら、すぐにでも刃物を振り回してきそうだ。この連中に注意すればいいってことか。こっちはまだジャックの家に至っていないのだ。気を引き締めてかからないと。
 サン・ライフ不動産販売恵比寿営業所には、七時前に到着した。担当営業マンの浅川は、自動ドアから藤崎が入店してくるなり、たばこを灰皿に押しつけて立ちあがった。慇懃無礼な態度を承知で藤崎は委任状をしめした。しかし浅川が用意していた書類のどこを見ても、目黒からの転居先は記されていなかった。
 「不動産の売却契約書ですからね。いろいろ調べたのですが、転居先まではわかりませんでした。山形市という可能性はあると思います」浅川は自問自答するように何度もうなずきながら告げ、書類の契約者欄を指で差した。山形市は、目黒のマンションを所有していた西原建設の住所地である。
 「山形に倉庫が移ったというのか」藤崎はつい詰問調になってしまった。「山形は売主の住所地というだけだろう」
 「やはり売主様の転居先まではちょっと……」浅川はつらそうな顔をした。営業マン特有のうわべだけの表情だった。「察するに倉庫の中身がどこに移されたかお知りになりたい。そういうことなのでしょうか」
 藤崎は神経を逆なでされた。ステッキでも手にしていたら反射的に打ちすえていたことだろう。だが短気は損気。父親の元同僚で、藤崎とも親しかった検察事務官の大田がよく口にした格言だった。藤崎は唇をかみしめ、不動産屋をあとにした。
 ジャックの家。
 六億円。
 目黒からどこへ移ったんだ?
 むしゃくしゃした。飲まずにはいられなかった。藤崎は恵比寿駅前の居酒屋に飛びこみ、生ビールをあおった。NHKの七時のニュースがやっていた。川崎で殺人事件が起きていた。会社員の女が自宅のバスタブで殺されていた。錐のようなもので複数箇所刺され、失血死したようだ。
 怨恨だな。
 きれいなアナウンサーが原稿を読みあげずとも、そんなことは藤崎にもわかった。何年法律家をやってると思ってるんだ。犯人は怒りのやり場が見つからない、いまのおれみたいなやつさ。
 それに思いいたったとき、聞き慣れた名前が耳に飛びこんできた。はっとして目を上げ、藤崎はカウンターの奥に鎮座する液晶画面に釘づけになった。
 谷本道子さん(33)
 テロップ表示されていたのは、被害者の氏名だった。
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