五章

文字数 12,474文字

 五章
 十三
 藤崎は事務所のデスクで悶々としながら黒澤オフィスサービスからの連絡を待った。しかし総務部長を名乗る男のだみ声で電話が入ったのは二時間後のことだった。清掃員の神田と連絡がつかないと言い訳をしてきた。夕方までの仕事だったが、四時前に姿を消し、以後携帯も通じなくなっているという。四時前といえば、藤崎がフロアにもどってきたころだ。つまり神田友紀との偽名を使う元特捜検事は、藤崎の姿を見つけるなり、行方をくらませたというわけか。なぜだ。私的家宅捜索を何日にもわたって実行してきた弁護士事務所の代表が、ついに異変に気づいたと察知したのだろうか。
 役だたずの総務部長に事情を打ち明け、「神田友紀」が手にする入館証を使いものにならなくするのもひとつの手だった。しかしうちの事務所だけでなく、このビル自体に入ることを禁ずるとなれば、それなりの説明、つまりあの女の素性を明かすとともに清掃員に化けた動機についても明かさねばならないだろう。不法な目的を理由に住居侵入が成立すると主張して、丸の内署の篠原警部に通報するとなれば、より一層明確にやつの魂胆を説明する必要が出てくる。ミルトンの小松嬢の一件を考えれば、それは得策でなかった。ジャックの家に興味を持つ人間をこれ以上増やしたくなかった。
 それにこっちとしては、やつをこの事務所からただ遠ざけたいわけではない。むしろ直接事情をただし、特捜検事時代につかんでいたジャックの家に関する情報を聞きだしたかった。そこで藤崎は神田に連絡させるようあらためて総務部長に念を押し、この場はやつの出方を待つことにした。
 死んだ政治家の裏金を見つけることで、いまさら事件を蒸し返そうとしているとは思えない。心血を注いだ事件を無罪判決によりうやむやにした権力への意趣返しのごとく、端山はその金を奪おうと狙っているはずだ。だがそこに至るカギはこの事務所内にある。その代表者である藤崎統一郎を抜きにそれを見つけるなんてもってのほかだ。
 場合によっては、共同戦線を張らねばならないかもな。その場合の取り分比率について藤崎は思い描いた。たとえ折半だとしても三億。それだけあれば人生を変えるには十分だ。藤崎は、買い置きの炭酸水をがぶ飲みし、歓喜の雄たけびをあげるように盛大なげっぷを放った。
 それからパソコンに向かい、ジャックの家に関する例の掲示板を開いた。昼過ぎに三件の新しい書きこみがあった。一件は、米丸直太郎の行きつけだった銀座の高級クラブに関するもの。そこの№1ホステスが愛人であると断言し、彼女が大金のありかを知っているのではと推測していた。もう一件は、それに呼応したもので、地元山形の料亭の仲居に手を出したときのいきさつが書かれていた。仲居はその後、上京して表参道でスピリチュアル・カウンセラーを標榜し、自らのオーラを活用したマッサージサロンを開業。米丸の裏金はその資金に費消されたと主張していた。
 どちらもうわさ話におもしろおかしく尾ひれがついただけのようだった。ネットならではの妄想世界だ。藤崎は鼻で笑った。だが三件目には興味がひかれた。
 「おやじが清貧だったって、バカかよ。ドラ息子めが!」
 痛烈な批判とともにアップされていたのは、米丸の地盤を引き継いだ長男のブログだった。息子は十年以上、父親の秘書を務め、父亡きあとは地元で自称コンサルタント業をいとなんでいたが、次期衆院選への出馬が確実視されている。たとえ無罪を勝ち取ったとはいえ、父親がカネまみれだったのは、とくに地元では周知の事実だ。そこで自分がせめて国政のスタートラインに立つときぐらい、クリーンなイメージを醸しだしたいらしく、その足かせとなる父親の過去の行状について、新たな考察をくわえ、賛同を得ようとしていた。ブログを引用した投稿者は見え透いたその姿勢を糾弾していたのだが、藤崎はそのブログの中身に興味を持った。そして読み進めるうちに三週間ほど前の記述のところで、はっとした。
 「……フリーマーケットには、直太郎の遺品も数多く出品しました。陶器集めが趣味でしたが、目利きにはほど遠い、いわば下手の横好きで、なんでもかんでも買いこんでしまうのが悪いくせでした。『鑑定団』に出品したところで、二束三文のガラクタばかりですが、実用品としてはまだまだ使えるものばかり。皆さまにじっくりと吟味してもらいました……」
 歯の浮くような一文には、フリーマーケットのようすを撮影した写真が添付されていた。だだっ広い会場には所狭しと出品者が店を広げている。その一番手前に大小さまざまの皿やぐい飲み、花瓶のたぐいが並んでいた。藤崎の目を釘づけにしたのは、そうした遺品のどれかではなかった。
 そこにたたずむ女だった。
 気になる品物を吟味するでもなく、ぼんやりとうつろな目つきで足もとを見つめている。だぶだぶのTシャツにはちきれそうなジーンズ姿。肉づきのいい腕は、百戦錬磨の知能犯相手の骨の折れる尋問なんかより、青々とした田んぼでせっせと草むしりにはげむほうが向いている。ただ、顔色はきょうの昼に資料室で問いただしたときとさして変わらず、暗くどんよりとして見えた。
 ブログには写真の女のことなど触れられていない。無罪を勝ち取った法廷には、長男も傍聴に訪れていたかもしれないが、端山は捜査検事だから、公判には顔を出さない。だから長男も父親の遺品を出品したフリマに、まさか取り調べを行った検事がやって来たとは気づかなかったのだろう。だが藤崎の目はごまかせなかった。三週間前といえば、端山昌美は休職中のはずだ。その間に米丸の遺品を探りに出かけている。その事実をジャックの家と結びつけずにはいられなかった。
 ヒントは遺品か。
 藤崎は声に出しそうになり、思わず息を吸いこんだ。紗江と祐介に気取られてはならない。それぞれデスクでパソコンに向かっているようで、じつはおなじ掲示板に見入っているかもしれない。藤崎は気持ちを落ち着かせ、さらにブログを読み進めた。しかしそれ以上、端山昌美の影は見あたらなかった。
 六時を過ぎて紗江と祐介が帰った。黒澤オフィスサービスから今夜じゅうに電話が入るとはもはや思えない。こうなれば清掃員に化けた端山が自ら事務所にやって来るのを待つほかあるまい。さいわいにも入り口の錠前は交換したばかりで、鍵をかけておけば、やつが勝手に事務所に入ってくるおそれはない。だったらいまはやることがある。腹を決め、藤崎は資料室の南京錠を開けた。
 父親があつかった公判記録をデータベース化しておけば、「米丸直太郎」や「西原康夫」のキーワードで検索することも可能だったろうが、そうでない以上、端から調べていくほかない。きのうヒロミから電話が入る前まで調べていたキャビネットの前に立ち、藤崎は公判記録を見つめた。
 訴訟記録は遺品とは言えないだろうし、そもそもそれは米丸の持ち物というより、弁護士である父親が代理人として所持し、管理すべきしろものだ。ならばそれを端から調べたところで労多くして益なしだ。藤崎は深呼吸して、それこそ檻のクマのように資料室をぐるぐると回りはじめた。そしてべつのキャビネットの前で足をとめた。それは自宅に置ききれない父親の蔵書を並べた書棚だった。ほとんどが法律書だったが、なかには趣味の本や探偵小説のたぐいの文庫本まである。ぜんぶで三百冊以上ありそうだった。ずらりと並んだそれらの背表紙を眺め、藤崎は首をかしげた。そのなかに父親の好みと異なるジャンルのものが何冊か垣間見られたのだ。
 そのうちの一冊――親鸞の教えを説く新書だった――を手に取ったとき、床にはらりとしおりが落ちた。それを見て藤崎はぴんときた。書店が独自に作成したしおりのようだったが、そもそも見慣れぬ書店名だった。藤崎は事務所に取って返してネットでその書店を検索した。案の定だった。山形市内の比較的大きな書店で、ホームページが存在した。
 山形市内の建設業者である西原康夫は、藤崎士朗のあとに亡くなっている。だからここに西原の遺品があるわけがない。あるとすれば、父より先に亡くなった米丸直太郎の遺品のはずだ。
 それから藤崎は夜が更けるのも忘れて、父親の蔵書の中身を精査した。気になる本を開いては、メモ用紙の一枚でも挟まっていないかそれこそ一ページずつめくっていく。
 気がつくと十一時になっていた。空腹だったが、事務所を離れる時間がもったいなかったし、たとえ鍵をかけたとしても事務所を無人にすることには不安もおぼえた。だが書棚の蔵書はあらかた調べた。あとは米丸の遺品といえそうなものは見あたらない。藤崎はもういちど資料室をぼんやりとうろつきだした。
 六億もの大金を現金で隠せる秘密の場所だ。山あいのコテージのようなところも想像できるが、金の出し入れを頻繁に行うことを考えると現実的ではない。やはりネットで指摘されているように、都内のマンションの一室というのが妥当な線だろう。
 そうさ。常識で考えるべきなんだよ。
 ぼんやりとキャビネットを見つめる藤崎の肩越しからフジオが声をかけてきた。
 住所を書きつけたメモがないのなら、人物にフォーカスしたほうがいいんじゃないのか?
 言ってる意味がわからないぞ。
 世話の焼けるやつだな。つまりだ。人というのは作者のことさ。本の執筆者だよ。彼らにはかならず住所ってものがあるだろう。まあ、おれなら自費出版ものを探すんだがね。
 なるほど。いちいち腹がたったが調べてみる価値はあった。藤崎はもういちど書棚の前にもどった。これを調べてだめなら一度クールダウンする必要があるな。藤崎は米丸の遺品とおぼしき本を片っ端から手に取ってチェックしていった。
 自費出版と思われる本は四冊見つかった。藤崎は事務所にもどり、それらの奥付をもとに著者と版元についてネットで検索してみた。版元はいずれも都内の住所で、一件は著者の住所が都内――目黒区だった――、それも番地の枝番を見るかぎりマンションの一室のようだった。それを目にして藤崎は焦燥感にも近い疑念に首をひねった。奥付にある「鈴木順三」というじつに平凡な著者名と住所が万年筆とおぼしき青インクで囲まれ、さらにそこに謎めいたメッセージが横書きされていたからだ。
 =ツマシカ人――。
 受験参考書でもないかぎり、本は汚すものでない。それは世界共通の美徳だろう。知の集大成に対する敬意というものだ。たとえ奥付であってもその点は変わるまい。
 =ツマシカ人……。
 なんだそりゃ?
 青インクで囲まれているのは、著者名と住所の部分だ。「鈴木順三=ツマシカ人」なのか。それとも目黒の住所地がツマシカ人なのか。
 そもそもツマシカ人とはなんだ?
 その本が米丸の遺品だとするなら、ツマとは米丸直太郎の妻のことだろうか。いや、それとも鈴木順三の妻のことか。そっちのほうが意味が通りそうだ。鈴木なる人物は、恐妻家なのかもしれない。それで「妻しか」頭にないような人物という意味、人物評なのだろうか。
 本そのものは、一九五〇年代のアメリカの政治状況とハリウッド映画をリンクさせてまとめた評論のようなもので、いかにも素人が書いたような、客観性に欠ける身勝手で読みにくい文章がだらだらとつづられていた。発行日は一九九九年四月二十六日とある。
 藤崎は祈るような気持ちで著者名と米丸直太郎の氏名をグーグルにかけ、思わず身を乗りだした。浮上したのは東北大学の映画研究会だった。東北大は米丸の出身校だ。映画研究会の昭和三十年度の卒業生名簿に二人の氏名があった。法学部の同級生のようだった。
 あらためて藤崎は、その本「『アメリカの悲劇』とその時代」を冒頭から早めくりしてみた。そして半分ほどめくったところで、大学の映画研究会の話が出てきて、そのなかについに米丸直太郎の名前が登場した。彼は三年生の秋に代表職を拝命し、著者が副代表を務めていたのだ。著者は映画に関する米丸の知識と熱意に敬意を表し、その章では幾度となく、多くの作品で米丸の批評を引用していた。
 くさいな。もしかするとビンゴかな。
 デスクに腰掛け、フジオが言った。藤崎も返事をした。「九九年に上梓し、米丸に献本した。おれならそう考えるよ、フジオ」
 たしかに。そしてその後も付き合いがあったのかもしれないぜ。政治活動とかに関してもな。
 「でも『ツマシカ人』ってなんだよ。解明する必要があるんじゃないか」
 フジオはだまりこんだ。どうも旗色が悪くなると、この男はだんまりを決めこむ癖がある。まあ、自分の分身だからしかたないか。
 勝手に決めつけないでくれよ!
 憤然としてフジオが声をあげた。
 おれはいま、あんたのためにじっと考えてやってるところなんだぜ。それをなんだよ。人の意見に付和雷同するしか能がない討論会の聴衆みたいじゃないか。だいいち、あんたは先入観で判断をくだす癖がある。物事はもっとフラットに見なきゃいけないんじゃないか。たとえば、最初の文字さ。
 「最初の文字?」
 イコール……なのかい、本当に?
 =ツマシカ人
 =
 イコール
 藤崎はその文字をじっと見つめた。「イコールじゃないなら……もしかして――」
 そうさ。
 フジオは得意げに鼻を鳴らしやがった。だが悔しいかな、それが魔法使いの呪文となった。その瞬間から藤崎には目の前の文字列がそれまでとは違うものに見えてきた。「最初の文字はカタカナの『ニ』か」
 そうさ。ぜんぶカタカナだったってわけさ。
 「言っとくが、おまえの主人はこのおれなんだからな。それを忘れるなよ。それにおれだって遠からず気づいたさ。イコール・ツマシカ人……そんなわけないだろ」
 ニシアツカイ――。
 フジオも藤崎も同時にそれを口走った。
 「ニシであつかう……そう考えたほうがよさそうだな」
 ニシってなんだよ?
 「銀行とか……いや、不動産屋かもしれん。たとえばどこかの大手不動産販売業者の西東京支店とか。だとすると鈴木順三なんて著者名でなく、住所地のことを意味しているのかもしれないな。そこを西で取りあつかう」
 目黒は城南だぜ。南じゃないのか?
 「だけど東京の西部と言えなくもないだろう」藤崎は、マンションとおぼしき住所の番地をグーグルマップに打ちこんだ。目黒駅の周辺地図が即座に浮かびあがる。ストリートビューを展開させると、こぎれいなマンションのエントランスがあらわれた。カメラを上にあげ、十階建て程度であることがわかった。さほど新しそうではないが、大規模修繕で壁を塗りなおたような感じがした。そこの四〇一号室か。
 ここで冷静さを失わないのが肝心だな。
 わかってるって。いちいちうるさいんだよ!
 さらに藤崎は著者名による検索をつづけた。人物像やその後の執筆活動をチェックすることで、なによりも存命であるかどうか調べる必要があったのだ。著者が生きていて、いまなお目黒のマンション暮らしをつづけているとなれば、手出しは困難になる。居住者がいる以上、それを排除してお宝に近づくには、広い意味での暴力が不可欠だろうし、そうなれば警察にもばれてしまう。それはいくら大金でも藤崎を躊躇させた。
 しかし著者名はそれ以上、ネットには引っかからなかった。藤崎は腕時計を見た。もうすぐ零時になる。人を訪ねるには非常識な時間だ。だがいますぐ目黒までタクシーを飛ばし、エントランスでインターホンを押したい衝動に藤崎は駆られた。
 あした行くしかないな。
 それまでさんざん煽っておきながら、この期におよんでフジオがブレーキをかけてきた。なんてやつだ。だが現実的にはそうするほかなかった。
 「降参だ。きょうはもうおしまい にするよ」帰宅を決意した途端、小便がしたくなった。空腹感は失せていた。なにも食わずに帰ってもだいじょうぶそうだった。思わぬところで、プチダイエットとはな。藤崎は事務所にもどり、資料室の南京錠をふたたびしっかりとかけた。そしてカバンを引っつかみ、消灯してから事務所ドアの新しい鍵をつかみ、廊下に出た。
 この時間でも明かりは煌々とついている。テナントが完全に無人にならないかぎり、防災センターも消灯指示を警備員に出さないのだろう。こんなに遅くまで残業した経験がなかったので、藤崎は今夜はじめてそれを知った。
 もしかするとおまえのためにつけといてくれたんじゃないか?
 またしてもフジオが余計な口をきいた。
 「高い賃料払ってるんだ。そんなの当然だろう。もし警備員が勝手に廊下の電気を消したりしたら、張り倒してやるよ」がっちりとドアを施錠しながらたしなめてやると、フジオはふゅーと口元を細めて息を吐きだした。藤崎のことをすこしは見直したようだった。
 しんとしたトイレで、小便は決壊したダムのようにいつまでも放たれた。考えてみれば六時間以上、トイレに行ってない。膀胱だけでなく体内にたまったあらゆる水分が抜けていくみたいだった。
 足音がした。
 女の足音だった。
 記憶がたちまちよみがえった。動悸が一気に高まり、首筋から背中にかけて鳥肌が立った。あれからまだ半日ちょっとしかたっていない。包帯を巻きつけたままの左手が急に疼いてきた。
 依然として奔流を放ちつづけるペニスの先端にいらいらしながら、藤崎はトイレの入り口を凝視した。足音はその向こう、廊下の奥――非常階段でなく、藤崎総合法律事務所のほう――から聞こえたような気がした。
 そしてもう一度。
 今度はさっきよりも接近している。端山昌美ではない。藤崎は確信した。掃除婦に化けたのなら、履いているのは薄汚れたスニーカーのはずだ。日中どこかに雲隠れしていたとしても、わざわざ靴音を響かせるパンプスなんかに履き替えるわけがない。目と鼻の先で響いたのは、まさにそれ。硬いヒールが人造大理石の床を踏みつけるときの、いかにも攻撃的で気の短そうな音、けさとおなじ音だったのだ。
 藤崎は下腹部に力をこめ、一刻も早くダムの放水をストップさせようと躍起になった。ところが力を入れれば入れるほど、いったいどこからわきだしてくるのか理解不能なほど尋常ならざる量の小便が、ホースの先端からあふれてくる。いまやつが――鳥居が――入ってきたら、切りつけられるのは手の指なんかじゃないだろう。
 足音が立ちどまり、おもむろに金属がこすれあう音が聞こえた。ドアノブだ。それに手をかけ、ピッキングでもしているのだろうか。だが錠前は交換したばかり。容易には開けられないはずだ。しかし破れない錠なんて存在しない。以前どこかのテレビ番組で、空き巣の常習犯がモザイク画面の裏で話していた。
 足音が再開し、いよいよトイレに近づいてきた。藤崎は決断せねばならなかった。いまの調子だと放尿終了まであと十秒はかかりそうだった。それまで待っている余裕はない。やつの姿が見えたのなら、ズボンと床を汚すのもいとわずに戦闘モードに入らねばならない。
 しまうべきか? でないと戦いづらいだろう。
 だが粗相したときのあの不快感ったらない。とはいえ火炎放射器ほどではないが、多少なりとも相手をひるませる効果はあろう。そもそも周囲に武器を呼べるものは見あたらないのだから、むしろ状況を自分の有利に持っていかないと。
 そのときふいに放尿が停止した。緊張のせいで膀胱の出口が緊急閉鎖されたのだろうか。下っ腹にかすかな不快感が残ったが、とりあえずはペニスを収納できる態勢になった。藤崎は滴を振るい落としもせずに即座にトランクスの奥にそれをしまいこみ、小便器から離れた。
  自動的に水が流れ、無音世界がかき乱された。警報を鳴らし、藤崎がそこにいることを知らせているかのようだった。もう一度あたりを見回した。洗面台の向かいにプラスチック製の小さなゴミ箱があった。相手が刃物で襲いかかってきたなら、それをひっくり返して腕にはめ、ガードするのがよさそうだ。藤崎はトイレの入り口を注視しながら、慎重にそれに手をのばした。
 足音がとまっている。
 入り口わきの壁に背中をへばりつけ、憎むべき横柄な弁護士がすっきりした顔であらわれるのを待ち構えているのだろう。その手は食うものか。藤崎は右手をゴミ箱で手袋のように覆い、じりじりとそちらへ近づいていった。
 最後は一気に飛びだすしかなかった。授業が終わった途端、教室から飛びだす育ちの悪い子どもさながらに、わけのわからない雄叫びで自らを鼓舞しながら藤崎は廊下に転がりでた。
 だれもいなかった。
 それを確認するまで十数秒を要した。トイレのそばだけでない。廊下そのものに人影が見あたらなかった。躊躇することなく、藤崎は隣の女子トイレに侵入したが、個室に隠れている人物を見つけることはできなかった。妙な興奮に頬が赤らんだだけだった。
 反対側の廊下までたしかめてみたが、だれもいなかった。ただ、エレベーターの階数表示板が動いていた。降下しているようだった。藤崎は取って返して事務所にもどり、防災センターに電話を入れたが、だれも出ない。何度かけてもつながらなかった。巡回の時間なのだろうか。さっきのは警備員だったのか。
 そうとは思えなかった。
 零時十分、藤崎はヒロミにメールを送った。今夜は事務所に泊まることを告げた。家に帰れないのははじめてではない。弁護士になりたてのころはしょっちゅうだった。仕事に不慣れだったし、なにより手にあまるほどの仕事が本当にあった。
 一分もしないうちに事務所の加入回線に電話が入った。
 「どういうつもりなの?」
 「どうしても明日までに完成させないといけない準備書面があるんだ」話しながら藤崎は顔をしかめ、ポロシャツの胸元をつまみあげてなかの臭いをかいだ。真夏に風呂に入っていないのだからしかたない。
 「そんなに忙しかったの?」本当に腹の立つ女だ。藤崎は電話をたたきつけたい衝動と闘った。
 「マジな話さ。いまぎりぎりの線で取り組んでいる仕事があるんだ」それは本当だった。「正直、生きるか死ぬかってところなんだ」なんてストレートなんだ。自分でも感嘆した。
 「大げさね。だけど帰れるなら帰ってきてよ。心配だから」
 藤崎の心が疼いた。あの女の口から夫を思いやる言葉が漏れるとは。いや、ちがう。心配なのは、こっちが浮気してると思っているのだ。一瞬たりとも心が揺れたぶん、怒りが増幅した。「どうかな。とりあえずいまはどうなるかわからんよ」それだけ告げて、藤崎はできるかぎり静かに受話器を置いた。

 十四
 気持ちを落ち着かせようと、デスクのひきだしに隠してあったシングルモルトをラッパ飲みした。それでも三時過ぎまで応接ソファでまんじりともしなかった。
 気づいたときは七時半だった。
 きょうは水曜だ。かといってやるべき仕事がとくにあるわけではない。追い出し部屋に入れられたと主張する食品メーカーの社員との打ち合わせは、盆明けに延期されていた。紗江が出勤してきたら一度家に帰ってシャワーを浴びようかとも思ったが、これ以上ヒロミに詮索されるのは面倒だし、週末の長野行きの話はしたくなかった。なにより藤崎は一刻も早く恋しいジャックのおうちを見つけたかった。ぐっすり眠りこけたからだろうか。不思議なことに肉体的にも精神的にも疲労はまったく感じていなかった。むしろきのうより高揚しており、まるで勝負をかけたデートに臨む大学生のようにぎらつき、脂ぎっていた。
 午前十一時過ぎになって、「『アメリカの悲劇』とその時代」の担当編集者とようやく電話で話をすることができた。藤崎は南京錠を開けて資料室にこもると、自分が弁護士であることをあかし、著者である鈴木順三なる人物と連絡を取りたいと単刀直入に切りだした。
 一時間ほどしてある男からスマホに電話が入った。男は「鈴木」を名乗ったが、想像していたよりも声が若かった。それもそのはずで、男は鈴木の長男で、横浜に暮らしているという。
 藤崎はふたたび資料室にこもり、問題の本について訊ねた。
 「本のことで問い合わせを受けるのははじめてです。お読みになられたのですか」おそらく父親が遺した唯一の出版物なのだろう。息子の声ははずんでいた。
 もちろん藤崎は内容なんかには興味はない。だがそんなこと口にできるわけがない。「古い映画に興味がありましてね。たまたま古本屋で見つけたもので、お書きになった方にいくつか質問したいことがあったのです」
 息子は残念そうな声になった。「もうずいぶん昔になりますよ。亡くなったんです」
 「亡くなった……?」
 「はい、たしか二〇〇〇年のことです。その本を出版した翌年、七十二歳でした」
 「いやぁ……そうでしたか……」藤崎も負けずに残念がった。「ぞんじあげずに失礼しました」ここまでは想定の範囲内だし、むしろへたに存命で目黒のあのマンションに暮らしているとなると厄介だった。藤崎は深々と息を吸ってから訊ねた。「奥付に目黒のご住所があったので、まだそちらにいらっしゃるのかと。いやはや、聞いておいてよかったです。じつは訪ねてみようとも考えていたのです」
 「あそこには父が一人で暮らしていたのですが、亡くなったあとは、処分してしまいましたよ」
 「処分……」藤崎は口をへの字に曲げた。
 「ええ、わたしたちは横浜市内に暮らしていて、セカンドハウスを持つ必要もなかったもので」
 ニシアツカイ――。
 銀行だか不動産業者だかわからんが、そこの「西」に売却したということだろうか。
 「ビデオとか本とか映画関係の資料がたくさんあったんじゃないですか」
 「処分に困るほどでしたよ。3LDKだったのですが、どこも資料だらけでして。そのときに連絡をいただけたなら、お譲りすることもできたのですが」
 「すべて処分されてしまったわけですか」
 「残念ながら」
 「マンションを売却するなら、なにか残しておくわけにいかないでしょうからね。わたくし、弁護士をしておりましてね、仕事柄、不動産のこともすこしはわかるんですが、目黒のあのあたりで、3LDKならすぐに買い手がついたでしょう。一流企業の借りあげ社宅とかが多いんじゃなかったかな。便利な場所みたいですからね」
 「そうなんですよ。意外といい値段で買ってくれる方が見つかりまして」
 「すみません、これもまた仕事柄ついうかがってしまうのですが、大手の不動産販売業者とかが仲介されたのですか?」
 息子は困惑したようすだったが、記憶をたどってくれた。「大手というほどじゃなかったと思いますよ。比較的スムーズに売却できた記憶があります……たしか建設会社の方だったんじゃないかな」
 「建設会社? 建設会社も仲介をやるんですかね」
 「いえ、そうでなく、買いたいとおっしゃったのがたまたま建設業の方だったという意味です。父のことを知っている方だったと記憶しています。つまり知人に売却したということですよ。ですからさほど仲介でどうこうという話はなかったんじゃないかな」
 「なるほど、じゃあ、その建設会社の社宅になったわけですか」
 「居住用というより、事務所にしたいとか言っていたような記憶があります。東北の建設会社で、東京の足がかりにしたいとかで」
 「東北ですか」
 「はい、ええと……山形だったかな」
 資料室から出てくるなり、藤崎は二人の従業員のようすをうかがった。心のなかの激しい興奮が紗江や祐介に感づかれてはならない。だがこの胸の高鳴りは特別だった。通勤途上の地下鉄で、高校時代に恋焦がれながらついに告白できなかった同級生に遭遇したときなんかにきっと感じるであろうときめきだった。
 山形の建設会社に売却しただと?
 それがニシアツカイ……なのか。ニシ――。
 デスクにもどり、いすを百八十度回転させて、ふだんならせつない思いに駆られるだけの隣のインテリジェントビルをのぞんだ。きょうは窓拭きのゴンドラは見あたらない。肉体だけが資本のやつらもあまりの暑さについにダウンしてしまったか。世間の不条理をおぼえつつ、藤崎はおぼろげな記憶をたどっていた。
 そうだ。
 米丸の金庫番だ。たしか建設会社だった。それも――。
 西原建設。
 藤崎はデスクに向き直り、パソコンを操作した。西原建設は、米丸直太郎の後継者である長男をいまも支持している。後援会名簿に名前が出ていたのではなかったか。それをネットでたしかめ、さらに山形市の西原建設について検索した。
 西原康夫だ。
 いまの社長の父親で、米丸直太郎、藤崎士朗につづき、この春亡くなった人物。米丸の金庫番だ。
 ニシ――。
 西原の呼び名、ニックネームか。
 そのニシがあつかっていたってことさ。
 フジオがしゃしゃり出てきた。
 学生時代に米丸と映画談議を交わした鈴木って男が暮らしていた目黒のマンションを手に入れたのは、西原康夫だったってことだぜ。
 「そういうことか」思わず藤崎は声に漏らした。「しびれるな」
 紗江と祐介が不審そうな顔で藤崎のほうに目をあげた。
 「どうかしました?」紗江が聞いてきたが、藤崎は片手をあげただけで無視した。紗江はさっぱりわからないという顔でふたたび伝票に向かった。
 西原建設はホームページを持っていたが、東京に支店があるような記述はどこにもない。問題のマンションが非公表の所有物件である可能性がますます高まった。
 二〇〇〇年に目黒のマンションの一室を手に入れた金庫番は、そこを政治工作用の現金を隠しておくジャックの家として使っていた。
 米丸先生の裏金
 管理人は士朗先生
 事務所の金庫
 月曜に届いた手紙の意味がつかめたような気がした。事務所とはおそらくジャックの家のことだ。きっと金庫があるのだろう。それを親父が管理していた。いや、管理していたかどうかはべつとして、米丸の遺品であるはずの「『アメリカの悲劇』とその時代」を保管することで、そこに至る大きなヒントをつかんでいた。
 都市伝説「ジャックの家」を探せ!
 その掲示板では、ジャックの家に関して「カギを握る者たち」として八人の人物があげられていた。その一人である藤崎士朗は、事務所が入るオンボロビルの写真が載せられていたが、どうやら推理の方向としてはまちがっていなかったようだ。
 目黒に気づいたのは、あんただけかな?
 フジオの疑念はもっともだった。藤崎は問題の本をカバンにしっかりと収め、午後一時過ぎ、地下鉄の三田線に乗りこんだ。
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