九章

文字数 18,939文字

 九章
 二十六
 体に巻きついたビニールひもを手早くほどき、左足一本でよろよろと立ちあがった。すぐそばに川島がもどってきている。藤崎はぬるぬるする柄を両手でつかみ、体の正面で鉈を構えた。その刃が右の足首をえぐったのは、自分があわてたせいだった。それがもたらす痛みが急速に高まり、右足全体が燃えるようになった。
 「まさかわたしを襲ったりしないよね」川島は二メートル弱の距離で藤崎と対峙しながら、無表情のまま言った。「だってあなたのカネを狙っていた連中、おとうさまの愛人だった銀座のホステスとか、心を病んで検事をクビになった女とかを、頼まれもしないのにきれいさっぱり排除してあげたじゃない。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはないわ。それにそもそも最初にひどいことをしたのは、あなたのほうじゃない」川島は手になにかを握りしめていた。資料室から漏れる明かりが逆光になって判然としないが、刃物のようだった。
 ためしに藤崎は右足を床についてみたが、そちらに体重をのせるわけにはいかなかった。ここで争いになったら、藤崎には分がない。
 「落ち着きなさいよ。逆にわたしがあなたを襲うと思う? ジャックの家がどこなのか、わたし、まだつかんでいないのよ。あの女検事、じつは映画がらみの資料があやしいとまで教えてくれたの。それでね、いま資料室を見てきたんだけど、映画のDVDがたくさんあるじゃない。あれっておとうさまのものなの?」
 「そうだよ。親父はいつか見ようと取っておいたんだ。おれにとっちゃ、ガラクタ同然さ。そのうち捨てようと思っていた」
 「米丸から譲り受けたものなのね。わかるよ、それくらい。だけどいま、ぜんぶのパッケージを開けてみたんだけど、メモなんてどこにも入っていなかった。ねえ、藤崎クン、もしかしてすでになにか見つけてしまったとか?」
 「見つけていたらわざわざ帰ってくるかな? おまえが待っているかもしれないっていうのに?」
 「じゃあ、手を組むのが賢い選択ものじゃないかしら」
 急に明かりがついた。蛍光灯の青白い光がやけにまぶしく、藤崎は目をしばたたかせた。照明のスイッチパネルの前から、慎重な足どりで川島は近づいてきた。
 「紗江さんもそこでビニール袋かぶってる若僧も、それにあの女検事も、いまさらぜんぜん気にすることはないわ。だって六十億よ。二人で山分けして三十億。見たことある? パパさん、そんな大金。ここはどうせ貧乏事務所なんでしょ。あしたもあさっても、そのつぎの日もクライアントなんて来ないんじゃないかな。だったらこの人たち――」川島はブルーシートのほうへあごをしゃくった。「時間をかけて処理すればいいし、シートから飛び散った血痕はゆっくりと拭き取ればいい。それで現金を手に入れたら、新しいジャックの家をそれぞれ持てばいいのよ。隠そうと思ったら、いくらだって隠せるんだから」
 藤崎は足もとに目を落とした。出血がひどく、血だまりができていたが、太い血管を切ったわけではなさそうだ。タオルかなにかで押さえれば止血できそうだった。だがいまこの状況ではそれは許されそうにない。事務所の入り口ドアまで三メートルほど。鉈を振り回して川島を威嚇すればなんとかたどり着けそうだ。廊下に出たら助かる可能性が一気に高まる。大声で助けを求めれば――。
 「なにたくらんでるの?」藤崎の落ち着かぬ態度を不審に思ったのか、川島のほうでドアに近づき、鍵をかけなおしてその前に立ちはだかった。「へんなこと考えないほうがいいよ。もしここから逃げて、警察呼んだりしたら、踏みこんできたときにジャックの家の話、ぜんぶしゃべっちゃうよ。そうしたらカネは一銭も手に入らない。警察が資料室にあるものを押収しちゃうからね。ジャックの家に至るヒントもふくめ、いっさいがっさいぜんぶ」
 「選択肢は一つしかないってことか」藤崎は鉈を握りしめたまま、窓のほうを向いた。「止血だけさせてくれ」川島の返事も聞かず、藤崎は左足でぴょんぴょんと跳ねて自分のデスクに向かった。
 囚人を護送する婦警のようにすばやく川島がついてきて、藤崎より先回りして窓に近づき、すばやくブラインドを下ろした。「助けをもとめようとしてもむだよ」
 「そうじゃないって。見ろよ、この足」藤崎は血まみれの足首を見せてやった。「死体処理より先にまずはこっちだろ」藤崎は自分のいすに腰掛け、デスクの一番下のひきだしを開けた。そこに包帯を詰めたビニール袋が放りこんであった。それをつかみだしながら藤崎は言ってやった。「不幸中の幸いかな。おまえに便所で切りつけられたあと医者に行ってもらってきたんだ。抗生物質だってある」
 「嫌味なこと言わないでくれるかしら、藤崎――」そこで川島の息がとまった。視線は開けたままのひきだしに注がれている。
 おなじところに目を落とし、藤崎の全身が硬直した。アドレナリンが一気に放出され、足の痛みなどどこかに吹っ飛んでしまった。
 先にそれをつかんだのは川島だった。
 映画のDVDパッケージだった。例のダンボール箱のなかから、いつか自分で見ようと思ってピックアップしておいたものだ。五枚ある。ジャックの家の住所を記したメモを見つけるべく、川島はそれらを開いていき、なかのディスクが次々と転がり出る。
 「ないわ。なんにも入ってない」川島は落胆して最後のパッケージを机にたたきつけた。
 藤崎のなかからも高ぶった興奮が波のようにひいていく。黙って包帯を取りだし、足に強く巻きつける。
 「いかにも老人が好きそうなクラシックばかりじゃない。まちがいないと思ったんだけどなぁ……『アメリカの悲劇』とか――」
 「え……『アメリカの悲劇』……?」思わず藤崎は口にした。
 「そうよ、これ。『アメリカの悲劇』でしょ。原作小説が」川島は最初に手をつけたパッケージを指でたたいた。
 「そうか……」藤崎は唇をかんだ。その題名は、例の目黒のマンションを所有していたあの鈴木という男の唯一の著書である映画評論のタイトルにも使われていなかったか。その著書には、幾度となく米丸の名前が引用されている。東北大映画研究会の仲間で、映画への造詣に深い敬意を払っていた人物として。だったら米丸本人もこの小説を原作とした映画にとりわけ深い思い入れがあったのではないか。しかも目黒のマンションはその後、西原建設の手に移り、なんらかの倉庫として使用されていた。なんの倉庫かはわからないが、西原建設はのちにその中身をどこかに移転させている。それらの事情から導きだせるものはなんだ?
 政治活動をつづけるうえでの裏資金は、政治家の生命線だ。その保管場所に至るカギを隠すなら、そこはすぐに思いだせる場所のはずだ。自分の趣味の世界、とりわけ一番好きなもの。作品――。
 包帯を巻き終え、藤崎は満を持したかのように最初に川島が開いたパッケージ「陽のあたる場所」を手に取った。
 「どうしたの」藤崎の態度の変化に川島も気づいた。
 それを無視して藤崎はパッケージを開き、同梱された解説書を取りだした。もちろんどこにも住所など記されていない。それから藤崎はパッケージの背面に注目した。外装の透明ビニールの下には、映画の場面写真や出演者リストをあしらったチラシ様のものが封入されている。藤崎はそこに指先をはわせ、点字を探るようにゆっくりとずらしていった。
 なにかが触れた。
 硬いなにかが、主演のエリザベス・テイラーのうっとりしたような顔の真下に存在するのがわかった。藤崎はふたたびアドレナリンがわきあがるのを感じつつ、川島のほうに向きなおった。「ここを切ってくれるか」
 川島は眉をひそめつつも手にしたナイフでその部分を覆うビニールとチラシ様の外装紙を切り裂いた。
 板鍵だった。
 それがパッケージ本体にセロテープで貼りつけてあった。川島がそれを手にした。「これがジャックの家の――」
 「かもしれないな。でも見たところ、ただの板鍵だよね。番号札のついたコインロッカーのキーとかじゃない。これだけではたどり着けないだろうな」川島の反応を無視して藤崎は板鍵を取りだした部分に指を突っこみ、チラシ様の外装紙を引っ張りだした。片面印刷で裏は真っ白だった。そして予想したとおりだった。
 ボールペンで文字が書きつけてあった。
 大手町3‐9‐1‐901
 「どういうこと……」川島が口にした。
 おなじことを藤崎も感じていた。からかわれているのかと思った。大手町3‐9‐1は、黒澤セントラルビルの住所だ。901はそこの九階に入るテナントを意味している。郵便はテナント名で届くから、賃借スペースにも細かい枝番が付されていることはあまり知られていないが、藤崎はそれをきちんと把握していた。901は――
 藤崎総合法律事務所だった。

 二十七
 「ここがジャックの家だってことなの?」見つかった鍵を握りしめ、川島はいらだった。「スーツケース一個に二億円ぐらい入るとして、六十億ならそれが三十個ぐらい必要なのよ。どこ見たって、この部屋にそんなものないじゃない」
 藤崎も事務所内を見わたした。スーツケースに入れる必要はないが、現金ならある程度の束にして隠すだろう。煉瓦ひとつが一千万円だとしても十個で一億円。六十億なら六百個か。壁にでも塗りこめないかぎり不可能だし、そんなことをしたら出し入れに苦労する。ジャックの家は必要に応じて現金を引きだせる場所でなければ意味がない。定期預金ではないのだ。「すくなくとも鍵は手に入ったわけだ。あとはそれが合う扉を見つけるしかないんじゃないか」
 「ねえ、パパさん」いつのまにか川島は鉈を手にしていた。ナイフを放りだし、ぬるぬるする柄を両手でつかみ、肩まで振りかぶったまま言い放つ。「あなた、どこかこの部屋のなかに隠し場所があることに気づいているんじゃないの。床下でも天井裏でも。だったら早く教えたほうがいいわよ。そうしないかぎりあなたは生きてここから出られない。そっちに転がっているものを見ればわかるでしょう」川島はあごでドアのほうをしめした。そちらには祐介と紗江がいる。おそらく紗江もそろそろ息絶えているころだろう。
 床下でも天井裏でも……。
 藤崎はかぶりを振るほかなかった。「そんな場所があれば、とっくに見つけてるさ。鍵を見つけたのは大きな前進だと思うが、その住所はジャックの家自体とは関係ないのかもしれないぞ。やはりそこに至るヒントがある場所という示唆なんじゃないか」
 「だけどあなた、資料室もふくめて徹底的に調べたんでしょ。すでに」
 「ああ、そうさ。だけどすべての公判記録を一ページずつチェックしたわけじゃない。それに……これはあまりいま言うべき話じゃないのかもしれないが、あえて言うなら――」
 「なによ、言ってよ。隠しごとはよして」
 「もっと根本的な問題があるってことさ」藤崎は消沈したような声を漏らした。
 「なにそれ、じらさないで!」川島はアドレナリンにまみれていた。目の前で鉈が振り回され、机上のブックスタンドに激突して雪崩のように書類が散乱した。
 「たのむよ……落ち着いて聞いてくれ。おまえも知っていると思うが、ここはもとは親父の事務所だったんだ。去年の六月に亡くなってね。鵠沼の家のことは覚えてるだろう。あそこはもうとっくの昔に引き払っていて、親父は近くのマンションで暮らしていたんだ。それで親父が死んだあと、今年の二月にそのマンションも売りにだした。そのとき大量の遺品を整理したんだよ。遺品のなかに、この事務所から親父が持ち帰った書類がなかったとは言い切れないんだ。親父が生きている時分、つまり去年の六月より前なら、この事務所内にジャックの家につながるヒント、もっと言うならダイレクトにその住所を書き記したメモとかが存在したのかもしれない。でももしそれを親父が鵠沼のマンションに持ち帰っていたとしたら?」
 「処分された可能性があるってこと?」
 「整理業者にたのんだんだ。肉親の遺品なんて思い出がいろいろあるから、自分でやるのもつらいだろ」
 「処分業者じゃなくて整理業者なの?」
 「へんな期待はしないほうがいい。業者のなかには、あとで遺族が引き取りにきそうな品々を一定期間倉庫に保管しておくところもあるらしい。だけどこっちが探しているのは、紙切れ一枚ですむ代物なんだぜ。それにもう半年もたっている」
 床下でも天井裏でも……。
 川島を説得しながらも、藤崎は胸の片隅に引っかかりをおぼえていた。それでも冷静に徹し、まずは目の前の殺人犯を落ち着かせねばならない。これ以上この女を昂ぶらせれば、本当に外に出られなくなる。
 「ジャックの家……」藤崎は嘆息した。「この三日間、ある意味、壮大な冒険だったよ。おまえに再会したことはべつとして、おれ自身としてもこんなに興奮した時間は最近なかったんじゃないかな。血沸き肉躍る冒険……じっさいに血を流すはめにもなったしね」
 「よしてよ、あきらめるの」川島の顔に不安がよぎった。
 「宝くじみたいなもんだよ。金額はどうあれ、当たることなんて皆無、いや絶無に近いのさ。だけどそれがわかっていても、みんな夢を見て、カネを投じる。それによってすこしでも現実逃避に浸りたいんだよ。ある意味、おまえなんか、ラッキーなタイプだと思うぜ」そう言いながら藤崎は足首の包帯に手を触れた。かなり血がにじんでいるが、なんとか止血には成功したようだ。出血量に驚かされたが、皮膚の表面をちょっと切っただけなのかもしれない。下の医者に行ったら、またきつい消毒液をぶっかけられておしまい。その程度だろう。
 「ラッキー……藤崎クンまでわたしのことばかにするの」
 「ちがうよ」藤崎は真剣な表情で元同級生を見つめ、妻とその義父母との関係、そして仕事の現状について語った。「八方ふさがりで、息も絶え絶え。はっきり言って、中学のころにもどりたいくらいなんだよ」
 「あのころなんて冗談じゃないわ。暗くてみじめで、勉強もいまいち。あげくのはての藤崎クンにあんなことされるし」
 「あやまるよ。だけどいまのおれは、義父母をパワハラで訴えることはできないし、もちろん暴力なんてもってのほかだ」
 「あてつけはよして。わたしは正しいことをしただけなんだから」
 「その正しいことさえできないのが、いまのおれなんだよ。正論も吐けずに酒でまぎらすしかない。吐くのはゲロばっかりだ」
 床下でも天井裏でも……。
 可能性がないわけではない。これは輪廻転生が存在することを科学で証明するなんてことよりはるかに容易にたしかめられる。
 「そこへこの話が転がりこんできた。そりゃ、だれだって浮き足だつさ」さりげなく机上に目を走らせる。散乱した書類のほかは、開いたままのデスクトップ型パソコン一式とボックスティッシュ、広辞苑サイズの六法全書、それに川島ならうまく使えそうなペンが何本かペンケースに突っ立っている。
 そのとき廊下で足音がした。だれかが近づいてくる。藤崎は壁の時計を見た。十時半になっていた。警備員が巡回する時刻だ。おとといの未明には、ミルトンの女がこの事務所に侵入している。それにジャックの家の話はもう防災センターでも話題になっているころだろう。問題の事務所でなにか異変が起きてはいまいか、巡回のたびに耳をそばだてているにちがいない。だったら余計な物音などたてないにかぎる。
 ドアの曇りガラスの向こうに人影が映った。やはり警備員だ。川島も緊張した面持ちでそちらをにらみつけている。だがこのビルの取り決めで、午前零時まではたとえ明かりがついていても残業している可能性があるので、警備員が勝手にドアを開けてはならないことになっている。それにしたがい、ドアの向こうにやって来た警備員はノブに触れもしなかった。
 「そろそろ潮時なんじゃないか。事態を客観的にながめれば、それが妥当な結論のように思えるんだが」
 「みすみす六十億を放りだすって言うの?」
 「米丸が死んだのは二年も前の話だ。莫大な工作資金が存在するとしても、その後、遺族や関係者が非合法に分け合った可能性は高い。ジャックの家の都市伝説なんて、そうしたことが一件落着した後で流れだした話なんじゃないか」
 「そうかしら。わたしは火のないところに煙は立たないと思うけど。雪男とかネッシーを探すよりは現実味のある話だわ」
 藤崎は困ったように首をかしげながら、いまいちどドアのほうに耳をすませた。足音は給湯室とトイレのほうに向かっている。十年前のビルの大規模修繕後、やたら夜間巡回が活発になった。犯罪が多発する世相を反映したのだろうが、デジタルなセキュリティーが強化されたのなら、人間が回るのはすこしはひかえたらどうなんだ。警備員とはいえ、世のなかでいちばん厄介なのは、人間そのものなのだから。だがあの大規模修繕は、藤崎総合法律事務所にとっても大きな意味を持っていたのではないか。
 「雪男か……いまのおれはそっちのほうにロマンを感じるな」
 「ばか言わないで」
 あのとき藤崎総合法律事務所と隣の黒澤証券、それにビルのオーナーである黒澤地所と協議のうえ、こっちの事務所の領域を倍近く広げた。それで誕生したのが、隣室の資料室である。そうした一連の改装工事を請け負ったのが、西原康夫の西原建設だった。そこまでは当時、司法試験に合格したばかりだった藤崎も父親から聞かされていた。知人に頼むことで工費を安く抑えるのが理由のようだったが、だからといってわざわざ東京から遠く離れた田舎の建設会社をなぜ使うのかふしぎに思ったおぼえがある。ただ、じっさいには設計を行っただけで、工事自体は都内の下請け工務店が行っていた。
 「ロマン……いまのおれに必要なのはそれかもしれんよ」藤崎はいすに背をあずけ、肩を落として見せた。廊下のほうからは、非常階段の扉を点検する音が響いてきていた。
 いまにして思えば、あのとき西原建設がうちの事務所の改修を手がけたことと、いま浮上しているジャックの家とは、なんらかの関係があるのではないか。藤崎は当時の工事内容について記憶をたどってみた。
 「あなたがあきらめても、わたしはあきらめないからね。この事務所だってまだぜんぶ調べたわけじゃないんだから」
 床下でも天井裏でも……。
 工事の目的は、こちらの事務所の占有面積を拡張することだった。そのために黒澤証券側との戸境壁をいったん壊し、それを黒澤側にいくぶん入ったところにあらためて作りなおしたのだ。それによりうちの側が具体的に何メートル広がったのかはさだかでない。だがその結果、いまの資料室のスペースが誕生している。
 藤崎は最近の記憶もたどってみた。黒澤証券お客様相談センターに二度にわたって顔を出したときのことだ。コールセンター業務を行っているとの話だったが、よくよく考えてみると、ずいぶんと狭苦しい場所だったような気もする。うちの事務所の面積が広がったぶん、向こうが狭くなるのはあたりまえだが、厳密な意味で正確かというと、異論があるかもしれない。
 つまり単純な引き算の問題だ。
 たとえばこちらの事務所の横幅が八メートルから十五メートルに拡張したとする。その差は七メートル。だったら黒澤側のオフィスの横幅も七メートルぶん縮小されるはずだが、もしその縮小幅がそれよりも大きかったら、たとえば十メートルも狭くなっていたとしたら、それはなにを意味するだろうか。
 うちの事務所側の新しい壁と黒澤側の新しい壁。それらは同一のものでなく、完全に遊離した二枚の壁、すなわちそこにはもう一つの空間、拡縮差である三メートルぶんの空間が生まれているのでは?
 「あのとき、おれがもうすこしやさしくしていれば、おまえの人生も変わったかな」
 「どうしたの、いきなり……?」
 「つまるところ人生なんて、ほんのささいなきっかけで狂いはじめる」
 「よしてよ、そんな話」
 「あのころなんて、所詮は子どもの目線なんだよ。はっきり言って、いまはじめておまえと出会っていたなら、話はちがっていたと思うんだが」
 「やめてよ、いまさらどうしようもないよ、そんなこと。藤崎クンを恨んだのはたしかだけど、わたしも男の子に好まれるようなタイプじゃなかったんだし」
 「見事に開花したんだな」
 「…………」
 「エレベーターで会ったとき、何年かぶりでときめいたよ。それだけは本当だ。こんな状況になってしまったけど、正直に伝えておくよ」
 「パパさん……」
 鉈を握りしめる川島の手がわずかに緩むのがわかった。警備員の影がふたたび曇りガラスの向こうにあらわれる。あとはエレベーターホールに向かって遠ざかっていくだけ。藤崎はいすに深々と腰かけながら秒読みを開始した。
 きょうの午後、資料室の天井から大量の埃が落ちていたことに藤崎は気づき、黒澤証券のようすを見に行った。だがあの埃は、向こうからこちらに来るためでなく、向こうとこちらの間にある特殊な場所に侵入しようとした何者かが誤って落としてしまったものではなかろうか。
 特殊な場所。たとえば、隠し部屋とか――。
 紗江の脚を切断した鉈の刃はもはや完全にそっぽを向いていた。藤崎の秒読みはゼロに到達し、生まれてはじめて生身の人間に対して食らわせる空手チョップが、中学の元同級生だった女の手首に渾身の力をこめて振り下ろされた。
  どこかのホームセンターで購入したらしき鉈は、ホールに向かっていた警備員の足をとめるほどの音はたてずにリノリウムの床に落下し、さほど跳ねまわることもなく停止した。中学三年のあの日、おれがコーラ・キャンディーの包みを自分の手から空手チョップみたいにしてはたき落としたと、やつはあちこちで吹聴し、浜田恵美の知るところともなった。だが待て。空手チョップを駆使してはたき落とすとは、こういうことをいうのだ。
 それをはっきり言ってやりたいところだったが、時間がなかった。気まぐれ警備員がなんの理由もなしに踵を返さないともかぎらない。藤崎はいすからジャンプして飛びかかり、目いっぱいのばした右腕を北極海に出現したグラーケンの触手さながらに、やつの細っこい首筋に巻きつけ、全力で絞めあげた。二人の体はデスクといすの間の狭い隙間にそのまま倒れこみ、さすがに異変を感じさせる物音をあげた。だがここで手加減するわけにいかなかった。廊下の足音に注意しながら、藤崎はさらに腕に力をこめた。
 六十億。
 頭のなかでその数字がぐるぐるとめぐった。
 やがてぞくぞくするほどの憂いを帯びて見えたまなざしが急変し、ピンポン玉のような二つの眼球が怒れるゴーゴンさながらに飛びだしてきた。口からは膨張した舌が酸素をもとめて長々と突きだされた。
 つぎの瞬間、巻きつけた腕の間でなにかが折れる音がした。
 さらに五分以上、藤崎はそのままの力で絞めあげつづけた。するとある時点から、すっと川島の体から力が抜けていくのが感じ取れた。藤崎は、川島が自ら下ろしたブラインドを見つめた。遺体を始末する必要はない。やつは紗江と祐介を殺害したうえで、さらに鉈で藤崎に襲いかかってきた。藤崎はそれから逃れるために必死だった。気がついたら首を絞めていた。裁判では十分に正当防衛が成立する。
 目撃者はいない。

 二十八
 資料室の壁の前に藤崎は立った。
 黒澤証券お客様相談センターとこちらの事務所を隔てる十年前にできた壁。
 その前に置かれたキャビネットも作業机も取り払い、白っぽい壁紙を貼りつけた平面がキングサイズベッドのように目の前に広がっている。
 ただしそこには縦横にうっすらと筋がついていた。なぜそれまで気づかなかったのかふしぎなくらい、くっきりとした線だった。
 扉の形をしていた。
 鍵穴があった。
 警備員はもうどこかに消えてしまった。おそらく九階のフロアには、藤崎統一郎以外、生きている者はだれもいないだろう。それを確信したうえで、藤崎はあの鍵をおもむろに穴に挿入した。
 最後にここを開けたのはきっと親父だろう。地味で堅実に仕事をこなすことだけが取り柄だったやせぎすのあの老人。妻に先だたれ、最後はマンションのトイレで心臓が停止したあの老人。東京地検特捜部を手こずらせた悪徳政治家の金庫番とこんな形でつながり、ことによると影の金庫番だったあの老人……。
 鍵はなんの抵抗もなく開き、それ自体の重みでドアが数センチ向こう側に勝手に開いた。壁面とおなじ壁紙が貼られているが、ドア自体は金属製のようだ。
 藤崎は資料室の入り口を振り返った。川島が息を吹き返してそこに立っているのではと怖くなったのだ。しかしそこにはだれもいないし、入り口も閉まったままだった。深呼吸してから藤崎は隠し部屋のドアを押し開けた。
 打ちっぱなしのコンクリート特有の石灰臭が鼻をかすめる。なかは真っ暗だったが、ドアの近くにある内側の壁面にスイッチがあった。それを押すと、パラパラと音をたてて二本ある蛍光灯の一本が灯った。もう一本は警告を放つように明滅しだした。
 深海潜水艇が映しだす映像のような世界。冷たく、しんとした青白い室内だった。奥行きは三メートルほど。二つのテナントに挟まれた異次元空間のような場所で、入ってきたドアの内側には回転式の錠がついていた。外からは鍵で、内側からは手で閉められるようになっており、見ようによってはパニックルームのような趣もある。だが水や食料が貯蔵されているわけではなかった。そこにあったのは、床に整然と並ぶ大量の紙袋だった。
 それらにはなぜか見覚えがあった。デパートやファッションブランド、それに有名な和菓子屋のものもあった。室内に足を踏み入れ、袋の中身をたしかめた。
 予想したとおりだった。しだいに動悸が激しくなり、呼吸が荒くなってくるのを感じた。ほっとけば過呼吸になってしまいそうだった。
 袋はほぼおなじ大きさで、二十八個あった。なかに入っているものもだいたいおなじぐらいの分量だった。藤崎は袋の一つの前にかがみ、札の勘定をはじめた。胸の奥から、耐えきれぬほどの喜びと焦燥感があふれだし、叫びだしてしまいそうだった。
 どれも一万円札で、それが百枚ごと束にして輪ゴムでとめてある。袋のなかにそれが百束ぴったり確認された。ひと袋、一億円。そう思った瞬間、不安と恐ろしい予感が噴出した。
 いや、ちがう。最初から二十八億円だったのだ。六十億なんていうのがまやかしだったのだ。そう信じたい気持ちが、胸にわきあがる数時間前の記憶によって無慈悲にも打ち砕かれた。
 きょうの午後のことだ。黒澤証券お客様相談センターを二度目に訪ねたさい、窓際に似たような紙袋が大量に置かれていなかったか。その数は……たしかに三十袋近かったような気がする。
 しかも資料室に大量の埃が落ちていたことからすると、天井裏をだれかが行き来した可能性は高い。
 藤崎は憤怒に駆られて天井を見あげた。四隅のうち、黒澤証券側の窓側の隅に隙間ができていた。そこに藤崎は目を凝らし、息をのんだ。天井板の一部に明らかな切れ目ができている。藤崎は資料室に取って返して、壁の前からどけてあった作業机といすを隠し部屋に運び入れた。それらを重ねてなんとか天井に手をのばしてみた。
 天井はコンクリートでなく板張りだった。問題の部分はじつに容易に外れ、天井裏の闇が顔をのぞかせた。そこが藤崎総合法律事務所と黒澤証券お客様相談センターを結ぶトンネルであることは、きょうの午後に調査ずみだ。それでも藤崎はそこによじのぼらないわけにはいかなかった。
 天井裏に全身が飲みこまれると、藤崎は隣のテナントに向かって匍匐前進を開始した。隠し部屋を作るさい、天井裏を仕切らなかったのは、西原建設や下請け工務店のミスなのだろうか。それとも将来的な悪意に満ちた故意だったのだろうか。いまはなにも考えられぬまま藤崎は、埃っぽくてざらついたコンクリートのうえを一メートルほど進み、わずかに光が漏れ入ってくる場所に到達した。
 そこには五十センチ四方の枠がはめてあり、四辺から光が入ってくる。そんなところに通気口があるとは思えない。考えたくなかったが、そこも特定の目的を有する何者かによって設置されたハッチかなにかのようだった。
 藤崎がそれに手をかけようとしたとき、真下で声があがった。
 男の声だった。
 ハッチの隙間から藤崎は目を凝らした。二人の男が歩きまわっているようだった。
 「全員と連絡が取れなくなっています」
 「防犯カメラはどうなんだ」
 「午後六時過ぎ、台車でなにかを運びだしているところが記録されています」
 「紙袋なんだろ」
 「そのように見えました」
 「台車を使って、堂々と……カネが隣に眠ってるっていつ気づいたんだろう」
 「ここ何日かでしょう。いくら早くても隣の事務所のことがネットにあがってからですよ」
 「会社のお荷物部署のくせにいったいなに考えてやがるんだ」
 「あと何日か早く動いていれば、あいつらを追いだして、わたしたちがカネを奪えたんでしょうけど」
 「まだ残っているかもしれないぞ。あいつら、おれたちの動きを察知してトンズラこいたのさ」
 「私物とか残したまま失踪してますからね。相当あわてていたんだと思います」
 「じゃあ、おれたちがやることは一つしかないじゃないか」
 そこまで聞いたところで、藤崎はあわてて後退を開始し、芋虫のようにして隠し部屋にもどってきた。
 もう一度紙袋の数をたしかめた。二十八個、つまり中身がおなじだけあるとして二十八億円残っている。もうこれ以上盗られてたまるか。
 そのときだった。
 ドアが開く音がした。
 ぎょっとして藤崎は隠し部屋のドアから外をのぞき見た。資料室のドアは閉まったままだが、そのむこう、事務所のほうで足音がする。とっさに腕時計を見た。零時を回っている。事務所に電気がついているので、巡回の警備員がついにマスターキーでドアを開錠して入ってきたのだ。
 恐ろしい予感とともに、叫び声が聞こえてきた。屈強な警備員とは思えぬ、腰を抜かしたようなじつに情けない悲鳴だった。目の前に死体がいくつも転がっていれば当然だろう。つづいて無線機を使う電気音が聞こえた。資料室の南京錠は開いたまま。その気になれば、警備員はすぐにこっちにやって来られる。
 藤崎は冷静になろうと努めた。
 銀行からライズ企画に出向する川島素子は職場の上司を殺し、さらにおなじフロアの弁護士事務所に侵入して、アルバイトの女とアシスタントの男を殺害。事務所代表である藤崎統一郎ともみ合いのすえ、首を絞められて息絶えた。藤崎の行為は、犯罪の構成要件的には殺人にあたるが、正当防衛が成立し、違法性が阻却される――。
 だがどうしても出ていくことができなかった。金はどうなる。それを考えたら、逆の行動を取るほかなかった。作業机といすを外にもどすひまはない。せめてキャビネットだけはと思い、隠し部屋の内側から公判記録がのったままのキャビネットの裏側をつかんで、できるだけ元の位置にもどした。その間にも続々と警備員たちが押し寄せてきていた。
 資料室のドアが開いたのと同時に、藤崎は隠し部屋のドアを閉じ、錠を回した。キャビネットは完全には元の場所にもどっていないし、作業机がないぶん、隠し部屋のドア枠が以前より目だつはずだ。それに「陽のあたる場所」のDVDは事務所のデスクに置きっぱなしだ。鍵はこっちにあるが、そこには住所が記されている。事情を知る来訪者にとっては、それは大きなヒントになる。
 「藤崎先生……いらっしゃいますか……」警備員の声が聞こえた。よりによって最近よく話をする警備隊長のようだ。
 明滅する青白い明かりのもと、藤崎は途方に暮れた。
 十分もしないうちにサイレンが聞こえ、ビルの真下でそれがやんだ。藤崎は金を詰めた紙袋に倒れこむようにしてしがみついた。いずれ警察を相手にするにしてもこの金を安全な場所に移してからでないとだめだ。放っておいたら黒澤証券にやって来たさっきの男たちにかっぱらわれてしまう。とにかく資料室もふくめ、事務所ではこれから現場検証が行われるのだ。いったいそれがいつまでつづくことか。それが終了してからでないと、このドアを開けるわけにはいかない。藤崎は天井を見あげた。隣のやつらが入って来られないようにあの天井板を押さえていないと。
 現場検証?
 例の掲示板にまた書かれるにちがいない。警察内部にもジャックの家に関心があるやつがいるのだから。そうなれば雨後の筍のように群がってくるぞ。
 いきなりスマホが鳴った。
 マナーモードにしてあったのでたすかった。だが出るのはためらわれた。電話はそのまま切れたが、留守電が残された。篠原警部からだった。事務所で三人の遺体が発見されたので、至急連絡がほしいという。
 無理だ。せめてこの先の段取りを練ってからでないと。それに警部本人が掲示板投稿者ということもある。
 きょうは何曜日だ?
 ふいに現実感がもどってきた。
 木曜になってしまった。長野の義父母の別荘に行くのはいつだ。ヒロミはあしたの晩からどうとかと言ってなかったか。
 おれはそこでなにをする。打ち解けぬ会話、慇懃無礼なあげつらい、それに対するお愛想、作り笑い、無為な時間との格闘、そして沈黙。修行僧さながらの苦行だ。それで疲弊して短い休日が終わる。
 あとはまたおなじことのくりかえしだ。いや、おなじではない。日を追うごとに仕事が減り、ゆるやかに下り坂を転げ落ちていく。妻はそのあたりに敏感だ。いま以上にぎすぎすした関係になるのは目に見えている。まだ子どもたちは小さいというのに、展望のかけらさえ見えない。
 藤崎は目の前の札束を見つめた。ふつうの人間が一生らくに暮らせる額をはるかに超えた金がここにある。紙袋が占めているのは、小部屋のなかでもわずか畳三畳ほどの部分でしかない。たったそれだけで何人もの人間に幸福をもたらすことができる。そこにあるのはプルトニウムにも似た高エネルギー物質だ。隣の女たちは台車を使ったという。何度か往復したのだろう。だができることなら一度ですませたい。軽トラでいい。いまここにそれがあれば荷台に二十八個の核物質を積みこみ、アクセルを踏みこめるのに。それで道なき道を進み、妻から、家族から、仕事から、警察から、そして現実から逃れることができる。
 スマホが振動した。ショートメールだった。藤崎は唇をかんだ。
 「いるのはわかってる。あの女は誰だ? ちょっとした誤算があったみたいだな」
 大田からだった。
 親父が東京地検時代にいっしょに仕事をした検察事務官。米丸直太郎の工作資金について、藤崎が訊ねた相手だ。なぜこんなときに……?
 ドアの向こうでまた声が聞こえた。篠原警部だ。だれかと話をしている。相手は警備隊長ではない。聞きおぼえのある声だ……まさか――。
 さらにショートメールが入った。
 「サツはなんとかする。篠原とは懇意だ。娘たちは半分しか取れなかった。残りを山分けだ」
 娘たち……?
 黒澤証券を訪ねたときの記憶がよみがえった。ホワイトボードだ。出勤状態をしめす名札が貼りつけられていた。たしかその一番下に「大田」の名があった。あれがあの男の娘だったというのか。まさかあの小太りの金髪女だろうか。
 スマホがふたたび振動した。こんどは電話だった。大田からだった。藤崎は電話に出てみた。

 二十九
 「だいじょうぶか? こっちはいま、おまえさんの事務所から出てきたところだ。おれのほうから一方的に話すよ。おまえが声出したらバレちまうだろうからな」
 藤崎は固唾をのんでそれに聞き入った。
 「端山が暴走したんだよ。ジャックの家を自分一人で探そうとしたんだ。それでこっちに情報をよこさなくなった。だからおまえから連絡があったときに思いついたんだ。共闘させるのも悪くない。そうなればおまえから情報が入るんじゃないかってな。そもそもジャックの家ってのは、特捜部の捜査中におれが命名したんだよ。米丸の下っ端連中を聴取してるとき、莫大な工作資金があるっておれが最初に聞きつけたんだ。
 それで米丸が無罪放免されたのち、端山をたきつけていろいろ調べさせた。だけどなかなか難しくてな。端山も官僚組織に嫌気が差してしだいに心を病むようになり、法務省に異動してからは、ジャックの家探しにも力が入らなくなった。そこでおれも考えた。ネットに掲示板を作ったんだ。そうしたらあっという間に話題になって、情報が集まるようになった。ほとんどがクソみたいな情報だったけどな。それでも端山を発奮させるには十分だった。それに刺激されてやつもあらためて本腰を入れるようになった。ほかの素人連中にみすみす奪われるのは許せなかったとみえる。ところがネットってのはある意味、偉大だよ。おそらく関係者からだろうが、ジャックの家の場所について知っていそうな者たちを指摘する投稿があったんだよ」
 それが七月二十九日に投稿された「カギを握る者たち」だった。
 「そのなかにまさかこの事務所が出てくるとは思わなかった。最初はおまえのことかと思ったりもしたが、すぐに士朗先生のことだとわかったよ。米丸も西原康夫も士朗先生も東北大出身だし、米丸と士朗先生はおなじ映画研究会に所属していた。ここ二十年以上、米丸と士朗先生の間の付き合いはないようだったが、士朗先生は西原とはつながっていた。つまり米丸の金庫番だったあの男が媒介役になっていた。おれはそう考えて、ターゲットをこの事務所に絞って、新たな作戦に臨んだのさ」
 藤崎は思わずつぶやいた。「コールセンターの……金髪の……」
 「おぉ、わかってたか。ちょうどあそこのコールセンターで求人があったんだよ。それで娘をつかまえて、そろそろおとうさんも退職なんだから、最後の親孝行と思って協力しろって持ちかけたんだ。あいつ、ちょうど前の会社を辞めてぶらぶらしているときだったから、よろこんで飛びついてきたよ」
 それで黒澤証券お客様相談センターでテレホンオペレーターとして勤めるようになったのだが、隣の法律事務所に侵入するのは容易でなかった。やがて周囲にばれてしまい、やむなく高野嬢以下、同僚たちと手を組むことになったという。
 「おれはそっちの線でいけると思ったのだが、端山が清掃スタッフとして潜入することまでは予期できなかった。暴走の始まりさ。やつはおそらく資料室に目をつけて、そこで勝負をかけようと考えたのだろう。おれにいっさい情報をよこさなくなった。だからおれとしても、じつは困っていたんだよ。おまえから連絡があって本当にありがたかった。あのときはな。だがきのうの午前中、コールセンター組の一人が天井裏のトンネルの隙間に気づいたんだ。それでようやくミスター・ジャックのお住まいが見つかったというわけさ」
 「あのカネは……」
 「米丸の工作資金だよ。それを士朗先生が管理していた。米丸も士朗先生も亡くなったが、その委任契約まで相続されたかどうかは議論のわかれるところだろうな。いずれにしろ半分は、というより三十二億なんだが、われわれが手に入れ、公平に分け合ったよ。こんなことで欲張ることはない。あのコールセンターには七人が勤めていたんだが、それにおれのぶんを入れて、一人四億ずつってことにした。それで文句のあるやつがいると思うか? いまごろあっちこっちに散り散りになって、あとはこの先、二度と顔も合わせないだろうし、おれもとやかく言うつもりはない。ただおまえとの関係はべつだ。現にそこにカネが、おそらく二十八億あるんだからな。ほっとけばおまえだけでなく、黒澤証券のあの男たちのような連中がやって来るだろう。だったらいまのうちになんとかしないと。おれと、おまえで」
 「できるのかな……そんなこと」泣きだしそうな声で藤崎は訊ねた。
 「やるしかないだろう」
 「山分け……」
 「心配するな。こういうのはきれいに分けたほうがいい。おれだって、あとからおまえに妙な言いがかりをつけられたり、チクられたりするんじゃたまらんからな」
 十四億ずつというわけか。いや、やつはすでに四億手にしている。不公平じゃないか。だいいちこの金は親父が保管していたものだ。大田は無関係だ。だから横取り以外のなにものでもない。藤崎はコンクリートの冷たい床にあぐらをかき、札束が顔をのぞかせる紙袋の一群をじっと見つめた。
 「サツはあと何時間かすればひきあげる。そうしたらそこのカネを一気に運びだそう。そっちの紙袋のサイズならだいたい把握しているから、それが入る大きさのダンボール箱を用意する。それに詰めて台車で地下の駐車場まで持ちだせばいい。ワンボックスカーを借りてくるよ。それで一時避難させるのが賢明だな。だれも大金を運んでるなんて思わないさ。そのあとで、篠原と連絡を取ればいい。隠し部屋にいることを伝えるんだ。あの女にまた襲われるか不安で、隠し部屋にずっと潜んでいたって筋書きさ。おびえるあまり、外に出られず、電話もかけられなかったと言えばいい」
 本当に信用していいだろうか。警察がおれを事情聴取しているあいだに、金をすべて持ち去ってしまうのではなかろうか。藤崎は決心できなかった。「ちょっとだけ……時間をもらえますか」
 「時間……? いいとも、五分、十分と言わず、一時間でも二時間でもいいぞ。ただし朝までだ。このビルの従業員たちの出勤時間帯にはすべて終わらせておきたい」
 電話を切り、藤崎はスマホの電源を落とした。とにかく冷静にならないと。だが頭ではわかっているつもりだが、体じゅうから汗が噴きだし、いったいなにをどうすればいいのか答えが出せず、焦燥感だけが募った。
 かといってここにずっとこうしているわけにはいかない。一生遊んで暮らせるだけの十分な金ではあるが、遊んで暮らすとは、それを使うことが前提だ。使い道がない金など、ただの紙切れ、焚き付けぐらいの価値しかない。この隠し部屋にこもっているかぎり、ここにあるものが具体的な財産価値を発揮することはない。一方でここには水も食料もないし、トイレもない。
 去るも地獄、残るも地獄だった。
 気がつくと藤崎は部屋の中央に紙袋をまとめていた。頭も体も疲れきっていた。さいわいにも大田はしばらく結論を先送りしてくれた。警官隊が大槌を使ってドアを破り、突入してくることはなさそうだった。藤崎は端っこの紙袋に慎重に腰かけ、ベッドのようになった札束のうえに仰向けに寝そべった。明滅する蛍光灯を見つめていると、頭のなかが空っぽになっていくような感じがした。
 爽快な気分だった。
 目を閉じると、宇宙船で銀河の果てにワープしているような気持ちになった。人生そのものから脱出しているようで、浮遊感さえおぼえた。もはや聴覚はなにもとらえていない。無重力空間を静かにスターシップが航行している。
 そうだ。
 これだ。
 逃避なんかじゃない。
 離脱だ。
 おれは現実から離脱しているのだ。頭のなかがみるみるすっきりしていく。妻、子どもたち、義父母……名前すら記憶から抹消されていく。職業すら思いだせなくなった。唯一、学生服を着た思春期の少年がぼんやりと頭のまんなかに立ちつくしている。
 中学のころの藤崎だった。
 進路さえさだまらず、人生は真っ白いキャンバスのままだったころの、無垢な少年だ。頭のなかにあるのは、ただ一つ。大好きな浜田恵美の体にしがみつき、猿みたいに腰を動かすこと――。
 恵美がこっちを見つめていた。
 天井の隙間から、心配そうな顔をして。
 来てくれたのか。おれはもうだめだ。ぼろぼろだ。心と体がばらばらになって、なにがなんだかわからないよ。なぁ、浜田、あのころみたいに言ってくれないか。
 最低よ、あんた……って。
 それですこしは目が覚めるかもしれない。いや、もしかすると覚めないほうがいいのかもな。このままずっと、おまえに看取られて――。
 「藤崎先生……先生……」
 いいんだよ、浜田、かしこまるな。おまえらしくない。あのころみたいに呼んでくれ。おまえが荒くれ者のバスの運ちゃんに犯られても、おれはぜんぜん気にしちゃいない。ただあのころみたいに、パパさんって……。
 「先生……聞こえますか……」
 はるか遠くから聞こえていたように思えた声が、すぐ近くで聞こえた。焦点の合わぬ目を凝らそうと、藤崎は右手で両目をこすった。
 天井に女がいた。
 まさに天女さながらに宙に浮かんでいるように見えた。浜田じゃない。だが見覚えがある。
 「先生、ここからならフロアの反対側の廊下まで抜けられますから……」
 正気に返った藤崎統一郎を天井から一人の女が見下ろしていた。黒澤証券お客様相談センターに至る天井の穴とはべつの場所に、人間が出入りできるだけの穴が開いている。
 「き……きみは……?」
 「武井です。川島さんも出向していたライズ企画の」
 記憶がよみがえった。あの大根娘だ。川島同様、新光銀行から追い出し部屋であるライズ企画に出向させられたという女。ライズの谷本道子が殺された一件で、川島の犯行を指摘した従業員だ。
 「ジャックの家の話、ネットで読みました。とにかく急いで――」
 藤崎は二十八億円のベッドから跳ね起きた。全身にアドレナリンがしみわたり、作業机といすを新たに見つかった天井の穴の下に急いで移動させた。
 天はまだおれに味方している。
 そう思いながら藤崎は、足元の紙袋を一つずつつかんでは、机にあがり、天女のように出現した女の手にそれを急いで渡していった。これまでにないほど冷静に、すばやい動作で、次から次へと。
 最後に自ら天井裏にあがった。
 大量の紙袋でなかば詰まってしまった空隙は、廊下側の戸境壁が破られ、そのままフロアの反対側に連なっているようだった。共用部分のメンテナンススペースらしい。その奥にわずかに白々とした光が見えた。完全離脱に至る希望の光だった。
 藤崎は紙袋を慎重に押しながら、匍匐前進を開始した。
                                            (了)
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