三章

文字数 20,171文字

 三章
 六
 紗江の悲鳴で藤崎は目覚めた。ソファで眠りこけてしまった。
 「びっくりしたぁ……どうしたんですか、こんなに早く」
 エアコンをかけっぱなしにしていたから喉がいがらっぽいし、体の節々もズキズキする。それでも重たい体を起こした。知らぬ間に寝返りをくりかえしていたらしくチノパンがしわくちゃになっていた。それを無理にのばしながら、藤崎は事情を説明した。ジャックの家の話は割愛した。紗江がリゾートホテル関係の会社のお嬢さんとおなじ心境にならない保証はどこにもない。祐介だってそうだ。司法試験に合格したところで、いまの雇主を見れば行く末が安泰でないことはあきらかだ。それよりも六億円手に入れたほうがいいにきまってる。
 知られてはならない相手がもう一人いた。考えようによっては、もっとも知られたくない蛇のような相手だった。藤崎は急に吐き気をおぼえた。胃が喉のほうまでせりあがってきたのだ。
 鳥居だ。
 あの女はまだこの話を知らない。知っていたら、わざわざ示威行為のようにキャンディーの配達なんかに来るはずがない。逮捕された女同様、人知れず行動するにちがいない。藤崎は唇をかんだ。きのうは例の手紙の件――それこそがジャックの家の一件だったが――で頭がいらいらしていた。それがもとで、やつがかけてきた勧誘電話に悪態をつくはめに陥った。それで鳥居は逆ギレして事務所にやって来た。あのときもっと紳士的な対応をしていれば……。
 いまさら運命のいたずらを悔やんでもしかたない。藤崎はゴミ箱をあさった。底のほうからコーラ・キャンディーが一粒見つかった。ビルのゴミ収集は午後三時。それ以前に捨てていたら、だいじな証拠は消えていただろう。これ以上余計な指紋がつかぬようティッシュでそれをつまみあげ、そのままひきだしにしまいこんだ。指紋ならやつのものが残っているはずだ。篠原警部に調べてもらえば一発だ。住居侵入が立証される。ほかにもデスクその他に指紋が見つかればさらに補強される。あとは鳥居本人を捕まえればいいだけだ。
 きのうの入館記録を見るかぎり、鳥居が事務所にやって来た時間帯の外部来館者はすべて男だった。つまりあの女はこの建物に常時出入りできる者、十中八九、どこかのテナントの従業員だろう。
 紗江がブラックコーヒーを淹れてくれた。ドトールで補充してきたフレンチローストは、とりわけこの日は頭にガツンときた。覚醒剤のように疲れが吹き飛んだような気がした。藤崎はヒロミに状況を伝えるメールを送り、コーヒーを飲みほしてから一階に下りた。いったん入館ゲートの外に出て、エントランスわきの壁に埋めこまれたフロアガイドに目を走らせる。探していたのはもちろん鳥居が所属先として名乗ったパーソナル・リアリティーだ。
 ひどい寝癖とくしゃくしゃになったチノパン姿に警備員がけむたそうな目を向けてきた。不愉快だったが、無視することにした。いまは目立たないのがいちばんだ。いちいちからんでいては人目をひくだけだ。
 黒澤セントラルビルはどのフロアも構造はおなじだった。エレベーターホールを中心にH字形に廊下がのび、区画数に若干のちがいはあるが、それぞれテナントが入っている。藤崎はスマホでいちいち検索しながらひとつひとつテナントを調べていった。
 一階は、大手書店の支店と歯科と、内科と外科を兼ねる診療所、それに処方箋薬局をかねるドラッグストア。二階は、最近できたタイの格安航空会社の東京事務所、オセアニア方面を得意とする旅行代理店、中国の産物をあつかう零細輸入業者、さらにネットで話題の整体院――藤崎もいちど治療を受けたことがあるが、まったく効果を感じなかった――が入っている。三階には、ホームページの掲載写真がいかにも悪らつそうな税理士の事務所、アウトドア雑誌の老舗出版社、比較的著名な設計事務所が入っているが、あとの二区画は空いている。藤崎の記憶がただしければ、健康食品の通販会社とゴルフ会員権販売会社が何年か前まで入居していたはずだ。
 四階と五階は、バイオ技術を駆使した新薬事業が好調な食品メーカーの本社。六階から八階は、去年まで大手広告代理店が入っていたが、いまは衛星放送会社がおさまっている。
 もう一度フロアガイドを凝視し、スマホの検索結果とも照会してみたが、パーソナル・リアリティーなる会社は存在しなかった。社内カンパニーの可能性もあるが、どのテナントもワンルームマンションへの投資勧誘に活路を見いだしているとは思えなかった。
 九階の欄を見た。
 はなからわかっていたが、パーソナル・リアリティーなる会社はどこにもない。だが藤崎の事務所側の廊下沿いに並ぶ黒澤証券お客様相談センターなら“アウトバウンド”は日常業務かもしれない。一部社員でパーソナル・リアリティーなるチームを編成していたのだろうか。一方、反対側の廊下には、小松容疑者が勤めるミルトン・バケーション・クラブが南端に位置し、そこから北に向かって富士原商事、アイテック産業、ライズ企画と並んでいた。ミルトンもそうだが、ほかの三社も宅地建物取引業の資格を有していた。業務の詳細はネットでもよくわからない。迷惑電話の本質は詐欺である。それを考えれば、社名を偽ることなんてたやすい。篠原警部の言葉を借りれば“屁のかっぱ”のはずだ。
 藤崎は一人うなずいた。鳥居は九階のテナントの従業員にちがいない。それで偶然、おなじフロアの藤崎に電話を入れてしまい、あとでそれに気づいたのだ。
 肩をいからせて藤崎は入館ゲートを通過し、エレベーターに乗りこんだ。午前九時十五分。同乗者は八人。いずれも女だった。藤崎は鋼の籠のまんなかに立たされた。だれもが自分のことをちらちらと見ているような気がした。まさか六億円の「カギを握る弁護士」であると早合点しているのだろうか。
 そうじゃない。
 エレベーターの扉が閉じたとき、はっとした。なんだこの臭いは。未明に叩き起こされて、あわててポロシャツとチノパンだけ身に着けてタクシーに乗ってきた。シャワーなんて浴びていない。おまけに刑事からとんでもない話まで聞かされた。藤崎は太っていないが、神経がたかぶり、いやな汗をたっぷりとかいた。そこにオンボロ事務所に巣食う黴菌が付着して増殖を開始した。この悪臭はやつらの排泄物にちがいない。それがおれの体じゅうから漂いだし、火曜の朝に疲れた顔で出勤してきたOLたちの過敏な嗅覚をなぶっているのだ。それに髪にはひどい寝癖がついているし、ふけだって塩をまいたように浮いているだろう。
 八階までに四人が降りた。最上階である九階までいくのは残り四人だった。藤崎はわざとエレベーターの奥の壁まで下がった。ツンとする汗の汚臭がポロシャツのよれた襟元から立ちのぼってきた。自分でも息をするのがいやだった。藤崎はひんやりとした壁に張りつめた背中を押しつけて、同乗者を眺めてみた。それまで何度となくすれちがっていたはずだが、だれ一人として見覚えがない。
 ショートカットを金髪に近い色合いに染めた小太りの女はジーンズにTシャツというラフな格好をしている。対照的に黒髪をうしろに束ねたすらりとした姉さんは、かっちりとした服装で紗江の代わりに雇ってもいいくらいの落ち着いた雰囲気を醸しだしていた。なにより横顔からのぞく憂いをたたえたようなまなざしが藤崎をドキリとさせた。それだけに手を鼻にあてている姿を見るのはしのびなかった。
 あとの二人は二言三言、言葉を交わしている。職場の同僚のようだ。どちらも三十代前半だろうか。片方は小柄で顔はまずまずでかわいらしかったが、いかんせんスカートから突きでたふくらはぎが太く、足首と呼べるものがなかった。相方のほうは真逆だった。上背もあり、脚ばかりか尻も胸も、むしゃぶりつきたくなるくらいだったが、ちらっと見えた顔は不幸をきわめ、なぜか田舎町のうらぶれた商店街をイメージさせた。藤崎は九階に到着するまでの数秒間、まるで電話の声に聞き入るように目を閉じて二人の話に耳を傾けた。
 「うん」とか「そう」とか「あれ」とか、ぼそぼそと話すだけだから、本来の声音自体が判然としない。それに声なんていくらだって使い分けられる。九階に着き、藤崎は最後に降りようとしたが、黒髪の姉さんが扉を開けて待っていてくれた。そのたたずまいがまたセクシーだった。
 待て。
 声を聞いたら飛びあがるんじゃないか。黒澤証券のコールセンター嬢? それとも富士原だかアイテックだかの営業係? 藤崎は本能的に足をとめた。先方が「どうぞ」とつぶやくのを待ったのだ。
 黒目がちの瞳で見あげられた。
 同伴出勤相手におねだりする銀座のホステスが頭に浮かんだ。藤崎は会釈し、自分のほうから「どうぞ」と告げようとしたが、声が荒れた喉にひっかかってうまくこぼれ出てこなかった。相手は依然として扉の開放ボタンを押したまま黙っている。落ち着かぬ沈黙に耐えきれず結局、藤崎のほうから降りてしまった。右に折れて事務所のほうに向かったとき、わずかに顔を横に向けてみたが、背後から近づいてくるようすがない。だとすると黒澤のスタッフではないのか。思いきって藤崎は振り向いてみたが、もはや姿は見えなかった。向こうの廊下に消えたあとだった。いずれにしろそっち側のテナントの従業員なのだろうが、彼女が鳥居である証拠はどこにもない。
 矛盾した気持ちが藤崎の胸に渦巻いていた。認めがたい感慨だった。鳥居は藤崎から暴言を吐かれたことへの意趣返しとして、事務所に侵入してきた。だがその相手がもしいまの女だとわかっていたら、藤崎だって当初から対応が変わっていたかもしれないし、すくなくとも風俗云々の話はしなかっただろう。やっぱり営業は対面でないと。そう言ってやりたい気分だった。電話営業なんて、百害あって一利なし。そもそも宝の持ち腐れだ。いまの女が堂々と営業に来てくれたのなら、結果的に絶対にワンルームマンションなんて買わないが、話ぐらいじっくりと聞くふりをして、うまいこと食事ぐらいに誘いだしたかもしれない。きっと向こうだって、わけあって不毛な電話営業をやらされているのだ。たしかに昨夜、鳥居はそんなようなことを口にしていたではないか。真の理由を聞きだすふりをして手ぐらい握ってやれるかもしれない。
 妄想を振り払い、藤崎は事務所にもどった。紗江が資料室から出てきたところだった。公判記録を抱えている。親父があつかった事件のようだった。紗江には無関係のはずだ。思わず藤崎は訊ねた。「どうした? それ」
 「請求書送りたいんですけど、依頼人の住所がまちがってるんですよ。前にもうちに依頼した人みたいなんで、わかるかと思って」
 藤崎は大きく息を吐いた。神経質になるにもほどがある。「紗江ちゃん、ちょっといいかな」作り笑いを浮かべて藤崎は話しかけた。「刑事さんに言われたんだが、錠前を変えたほうがいいらしい。どこか適当な業者に電話して、できるだけ早く来てもらえないかな。すこしくらい高くたってかまわないから」そうさ。なんてったって六億円だ。うまくいけば、こっちはそれを手に入れられるのだ。
 「錠前交換、了解でぇす……だけど若い女が事務所荒らしに入るなんてめずらしいですよね」紗江があらためて訊ねてきた。「やっぱり弁護士ってお金持ちに思われてるんだなぁ」
 「あてつけかよ」藤崎はデスクに放りだした手帳を開き、きょうのスケジュールを確認した。午後に先月の無料相談会で見つけたクライアントとの打ち合わせが一件あるだけだった。追い出し部屋に入れられて、日がな一日、かかってくるわけのない電話番をさせられるのはパワハラだと主張する食品メーカー勤務のさえない男との三回目の打ち合わせだ。あとはとくにやることがない。もちろん盆休みが近いからというわけでもなかった。
 「そうじゃないですよ。てゆうか、こんなところにお金なんてあるわけないって、ふつう思うでしょう。弁護士狙いだったら自宅狙うと思いますけど」
 「うちなんか来たって、金はないよ」
 「ウソついちゃって。広尾の豪邸でしょ。お金がザクザクうなってるんでしょ、先生」紗江は猫なで声になってひじで藤崎の脇腹をこづいた。藤崎は幻滅した。こういうバイト連中は弁護士に対する誇大妄想を持っているし、そもそもまともに働いて稼いだことがないから、大人の男はみんなそれなりに財産を築いていると勘違いしている。
 悲しい下流社会の幻想だな。それを口にするかわりに藤崎は言った。「何も盗れずに捕まっちまって、気の毒にな。悪いことはするもんじゃない」
 「お金じゃないとしたら、なんだろう。事件関係者ですかね」
 「どうかな」藤崎は大あくびをした。はぐらかすわけではなかった。たしかにひどく疲れている。
 「事務所にあるなにか特別なものを狙っていたとか?」
 「コーヒー」思わず藤崎は口走った。「もう一杯……もらえるかな」
 紗江はくるりとポットのほうに向かったが、話題は変えなかった。「あの会社がらみの事件なんてありましたっけ?」
 「ないと思うけどな」藤崎はデスクにもどり、わざとパソコンを真剣に見つめ、仕事を始めたかのようによそおった。
 「前にハワイのタイムシェア物件のことでパンフレット持ってきましたよね」
 「そうだったかな」気のない返事をしたものの、すぐに記憶がよみがえった。今年のはじめだったか、ミルトン・バケーション・クラブ東京支社の支社長を名乗る中年男と営業マンらしき若い男がそろって事務所を訪ねてきたことがあった。いまも時々、エレベーターの前ですれちがうことがあり、藤崎も会釈程度はしていた。
 「パンフレット捨てちゃいましたよね」
 「だってそんなもん、買うわけないだろ」
 「いま流行ってるんですよ、タイムシェア。ホテルとかを年に一週間だけ利用する権利を買うんです。あたしもお金貯めて買いたいなぁ」
 「そういうのはトータルで考えて損するようにできてるんだよ。だいたい毎年おなじホテルに泊まるのなんていやだろ」
 「ほかのエリアにある系列ホテルに転用することもできるって聞いたんだけどな」
 「転用ね。いい言葉だ。だけどそういう場合は、必ずパンフレットの隅っこに利用条件ってのが書いてあるんだよ。それで結局、自分たちが行きたい時期には行けないか、高額のオプション料金を請求されることになる」
 「なんか夢ないなぁ、そういう言い方」紗江はほっぺたを膨らませた。
 「事実だからしかたないさ。現にそういうのでトラブルになった訴訟もある」
 「先生はあつかってませんよね」
 「ないね」
 「じゃあ、士朗先生ですかね」生前、会ったこともないくせに紗江は親父のことをそう呼ぶ。それには藤崎は微妙に違和感をおぼえていた。
 「どうかな。ないと思うけど」
 「でもミルトンがらみの事件じゃないかもしれないけど、士朗先生があつかった事件記録って膨大じゃないですか。だからそのなかのどれかに個人的な興味があったとか」紗江が二杯目のコーヒーを渡しながら言った。
 「ミス・マープルも真っ青だな、紗江ちゃん」藤崎はマグカップに口もつけずにデスクに置いた。本当は胃酸過多でいまにも吐きそうだった。
 紗江には注意が必要かもしれない。
 メールチェックをしながら藤崎は考えた。だがあの掲示板に気づいたとは思えない。
 それは鳥居だっておなじだろう。ジャックの家にいたるカギがこの事務所内にあると知っていたなら、わざわざキャンディーを持参するデモンストレーションなんてしないはずだ。たまたまきのうランダムに“アウトバウンド”を試みたところ、邪険にあつかわれたあげく、人格を否定されるような言葉を吐かれ、逆ギレした。その後、なんらかのきっかけで藤崎が自分とおなじビルのおなじフロアに勤める人物だと気づいて事務所に侵入した。せいぜいそこまでだ。
 ほかの連中だっておなじだろう。あつものに懲りてなますを吹くか。そもそもジャックの家なんてものに興味を持っているやつらなんて、宝くじで十万円を当てた者の数ぐらいしかいないんじゃないか。サマージャンボも年末ジャンボも藤崎は気合を入れて毎回、三万円ずつ投資していたが、この十年で総額一万円も返ってきていない。
 二杯目のコーヒーにようやく口をつけた途端、下っ腹に差しこみが起きた。「とにかく妙な客が来ないように注意しないとな」藤崎は父親が愛用していた肘掛けいすから腰をあげた。「刑事さんからも言われてるんだから」
 いまのフロアで唯一自慢できることといえば、十年前の大規模修繕のさいに新調されたトイレだった。放ったものが個室のボウルからあふれて人造大理石の床に映画「人喰いアメーバ」のように広がっているなんてことはもってのほか。それじゃ、三十年前の新橋駅だ。そうでなく床はいつだって舐めてもへいきなぐらいピカピカに磨きあげられ、消毒剤のほのかな香料のにおいが鼻先をくすぐる。そうした清掃面の評価はむしろあたりまえだ。十年を経ているのだから入念に磨きあげてもらわねば困る。
 だがそれよりもH形のフロアのそれぞれの廊下の南端にあるトイレのなかでも、藤崎の事務所の側にあるトイレ――もちろん男性用。女性用がマラケシュのスーク並みににぎわっているかどうかなんて、たとえ壁一枚隔てた先の話だとしても、神のみぞ知るだ――は、記憶にあるかぎり、藤崎の事務所専用と化しており、そこを使うのは代表者である藤崎とアシスタントの祐介しかいなかった。そして主人と下僕のあうんの呼吸の結果、個室利用はもちろん、連れションでさえ記憶にない。藤崎の事務所以外にこっちの廊下にあるのは、黒澤証券お客様センターのみ。そちらに出入りするのは全員女だった。たまに反対側の廊下から越境してくる不届き者もいるみたいだが、四つの個室と五つの小便器が並び、リビングルーム並みにだだっ広いひんやりとした空間で遭遇したことは偶然にも一度もない。
 そこの一番奥の懺悔室に腰を落ち着け、藤崎は息を吐きだした。はじめのうちは便座の座り心地を一つ一つたしかめもしたが、いまは奥の個室がもっとも落ち着いた。急速に減りつつある顧問契約をどう維持するか、他の弁護士仲間同様、債務整理代行を拡張すべきか、そして妻のヒロミとその実家にどう立ち向かえるか。絶え間なく撃ちこまれる不安の弾丸から逃れるには、どうやらそのあたりまで分け入らないと難しいらしい。
 ひねりだした瞬間、あまりの臭いに目が覚めた。きのうなに食ったかな。藤崎は五十センチ先に立ちはだかるパステル調の青い扉を見つめながら記憶をたどった。だがこれはニンニクや肉類を大量に摂取したことによる腸内化学変化の産物ではない。藤崎にはそれがわかった。言わずもがなの急性期の精神的ストレスが内臓をひねりあげ、血流を阻害して正常な働きが期待できなくなったことで、腸内細菌が暴走を開始し、いわゆる悪玉と呼ばれる連中――いるだろ? そのへんにも――が跋扈するようになった結果だった。
 あわてて藤崎は腰のうしろに右手をまわし、レバーを引っ張っていったんボウルの中身を流し去った。それでも臭いは消えなかった。「まいったな」思わず口走ったとき、はっとして藤崎は口を結んだ。
 足音がしたのだ。
 すぐ近くで。
 革靴だった。祐介だろうか。ネットで買ったフランス製の腕時計を見た。
 九時四十分。
 たしかにやつの出勤時間だった。通勤途上でもよおし、下っ腹の中身をそのまま勤め先まで持参してきやがったか。それで個室に踏みこんだらこの悪臭。犯人は特定されているんだから、あいつだって考えてくれればいいものを、さすがにきょうは抜き差しならぬ状況だったか。
 足音は近づいてきた。だがさして切迫したようすはない。隣の個室の前までやって来た。扉の端と下の隙間から影が見えた。なんだよ。懺悔室は四つもあるんだぜ。無言のルールとして、一番手前に入れよ。藤崎は音をたてぬようペーパーを引きだし、丸めてホットスポットを拭った。それでもまだ臭っている。便秘がちのラブラドールレトリーバーが朝の駅前にひさしぶりに落とした丸っこい爆弾を、通勤快速に転がりこむべくダッシュしていた姉ちゃんのサンダルが踏みつけたさいに拡散するような絶望的な臭いだった。自分の雇い主はこんなにも恐ろしいものと毎朝対峙しているのか。そんなふうに同情されるのがしゃくだった。藤崎は急いでウォシュレットのボタンに指を這わせた。
 祐介は隣に入らなかった。さらに足を進め、一線を越えてきた。藤崎がこもる小部屋のパステルブルーの扉の向こうで足音はとまった。藤崎は紺のチノパンと黒のボクサーショーツを下ろした態勢で目の前の扉から遠ざかるように背筋をのばした。やつの息づかいが聞こえるようだった。扉の隙間に人影が動く。
 なにしてやがる。
 変態趣味か。知らなかったな。
 藤崎はやつのことが気になって水流発射ボタンを押せずにいた。かといってもこちらから声をかけるわけにもいかない。おはよう、どうだい? 調子は。悪いがこっちは――。
 つぎの瞬間、地震でも起きたのかと藤崎はたじろいだ。扉が大きく揺らぎ、ガタガタと音がしたのだ。だがそれは扉の向こうの人物に起因するものだった。扉の小さな把手をつかんで開けようとしているのだ。
 「入ってるよ……」藤崎はかろうじて口走った。が、言葉が口のなかでつまづいてうまく発せなかったせいか、相手――祐介か? あのバカ野郎、なんのマネだ――は一向に介しないようすだった。「入って……んだよ……使用中だって……!」最後は叫びながら藤崎は前かがみになって扉の内側の鍵の部分を両手でつかんだ。
 廊下に響くぐらい扉ががたついた。その合間に革靴の足音が混じる。相手は祐介でない。いまや藤崎は確信していた。「やめろ! バカ野郎!」肛門にクソをつけたまま、藤崎は鍵を構成するステンレスの横長のバーをつかむ指先に力を入れた。
 鍵の上下にのびる扉の隙間から、鈍い銀色に光るものが入ってきたのはそのときだった。気づいたときは遅かった。たばこ火を押しつけられたように指がぱっと燃えあがり、それが激痛へと瞬時に変化した。藤崎は体ごと扉からはじき飛ばされ、便座に尻を吹いこまれながらのけぞった。
 「…………‼」
 悲鳴よりも先に噴きだしたのは血だった。動脈でも切ったかのように、扉にも汗まみれのポロシャツにもチノパンにも、あたり一面にたちまち飛び散った。動転した藤崎の目線が扉の下に向いたとき、そこにある隙間に爪先が丸みを帯びた黒いパンプスが見えた。
 (とんでもないことになるかもしれないし)
 きのうの昼、ホテルのランチバイキングのさいに紗江に言われたことが頭をよぎるなり、藤崎は扉に飛びついた。こんどはさっきと逆だった。ためらうことなく鍵を開けた。殺人鬼がまだそこにいて、なかから転がりでてきた者の首筋にギロチンさながらにナイフを振り下ろそうと身構えているかもしれないというのに。本能のレベルでは、恐怖より怒りのほうが強かったのだ。
 ぬるぬるしたままの尻を便座から離し、ひざ下にチノパンとボクサーショーツを引っかけた最悪の中腰姿勢で藤崎はなんとか個室から顔を出し、入り口のほうを見やった。
 襲撃者の姿はなかった。急に背後が不安になり、奥の壁のほうにも目をやったが、そこに死刑執行人が立っているわけではなかった。
 数秒後、廊下で重たい鉄扉が閉じる音がした。

 七
 十分前とは変わり果てた姿で事務所にもどってきた藤崎のことを見て、紗江は叫び声をあげた。目と鼻の先のトイレで惨劇が起きているとは知らずにのんきに出勤し、自分でコーヒーを淹れていた祐介も素っ頓狂な声をあげて飛んできた。そのとき藤崎はやつの足元を確認するのを怠らなかった。スニーカーだ。それくらいの冷静さは取りもどしていた。あれはあきらかにパンプスだった。この男にそんな細かい芸はできまい。ついでに紗江の足にも目をやった。ラブラドールの爆弾を踏みつけたら指先にクソがせりあがってくること請け合いの薄っぺらなサンダルだった。だいいち紗江には動機がない。まだファックどころか手だって握っていないんだから。
 藤崎に迷いはなかった。心あたりがあったのだ。自分に恨みを持っていそうな女について。
 「心配ない。ちょっとやっちまってな」傷口をトイレットペーパーの束で圧迫しながらも、藤崎はウソをついた。「ジェイスンに襲われたみたいだろ。ちがうんだ」
 紗江が真っ青な顔をして近づいてきた。手にはティッシュを握りしめている。「なにがちがうんですか。血まみれじゃないですか!」
 藤崎は精いっぱいの苦笑いをしてみせた。「便所の扉ではさんじまった。鍵の金具がもろにぶつかってきて、このありさまさ。あわててたんだよ。あっという間に血が噴きだしてきやがった。クソするのたいへんだったぜ」そうじゃない。クソはしおわっていた。そこにやつが襲ってきたんだ。それで切りつけられたあと、急いでウォシュレットして仕上げの拭きとりが大変だったんだよ。おれは左手で拭く人間でな。たとえこんな緊急事態でも右手を使うなんてできない。うまく拭けないからな。だから大変だった。いぼ痔が大出血したときだって、こんなに真っ赤にはならなかったぞ。まあ、そんなところまで紗江の前で話すわけにいかんがな。
 「朝から脅かさないでくださいよ」祐介が眼鏡をかけ直しながら言った。「だいじょうぶなんですか」
 「バンドエイドあるか。それでOKだ」すでに傷口はトイレの洗面所で洗ってきたし、個室や床の血痕もぬぐってきた。個室の壁と扉に多少の拭き残しがあったが、ふつうの汚れと思えるくらいにきれいにしてきたし、どうせ便所なんだ。排泄物が飛び散ることもあるんじゃないか。壁とかに。「もう血はほとんどとまってる」やられたのは左手の薬指と小指の第二関節、外側の部分だった。はっきりいって傷は浅いとは言えず、ほんとなら病院で縫ったほうがよかったかもしれない。だがトイレットペーパーで押さえて出血さえおさまれば、たとえ傷口がふさがるまで多少時間がかかろうと大事にはいたらないはずだ。
 驚愕の事態が起きてからわずか十分たらずで藤崎はこの判断をくだしていた。決断のよりどころとなったのは、スマホでチェックした例のサイトだった。現代都市伝説と言われるジャックの家について言及したあの掲示板だ。藤崎は止血をほどこしたのち、念のためスマホでチェックしていた。すると二時間ほど前の書きこみのなかで、藤崎総合法律事務所に夜間、侵入者があり、おなじフロアに勤務する若い女が逮捕された事実が書き込まれていた。警察がマスコミ発表するには早すぎるし、そもそもこんなささいな事件は報道に値しない。それをネットの住人が知っているとはどういうことだ? 答えはひとつしかなさそうだった。警察情報が漏れているのだ。
 まっさきに頭に浮かんだのは、篠原警部だった。だが午前二時過ぎから集まりはじめた警察官は、鑑識や警備の制服警官をふくめ、十数人におよぶ。篠原一人が怪しいわけではなかった。だとすると警察の連中に余計な情報を流すのは得策でない。つまりあらためて刑事や鑑識たちをこの事務所に招き入れ、あれこれ詮索されるのは、あの掲示板にせっせと書きこむネットの住人たちに無用な餌をあたえることになりはしまいか。藤崎は短時間のうちにそう考え、明白な傷害事件を自ら被害者でありながら闇に葬る決意をしたのだ。
 もちろん私的捜索まで断念したわけではない。切りつけ事件の現場は自らめちゃめちゃにしてしまったが、キャンディー事件のほうは証拠の飴玉をしっかり保存してある。指紋が出れば、やつを逮捕できるはずだ。だからなんとしても鳥居を捕まえてやる。脈打つたびに焼けるような痛みがうずく指にバンドエイドを貼りつけながら、藤崎は誓った。
 あの女が逃げ去った直後、階段室の扉が閉じる音がした。エレベーターホールに行けば、防犯カメラにとらえられると思ったのだろう。逃走犯としては定石の経路だった。
 「この格好じゃどうしようもないな」藤崎はロッカーを開けてみた。しかし着替えなんてあるわけがない。やむなく親父のロッカーをのぞくと、下のほうに真っ赤なものがあるのが目に入った。レンタカー会社の若僧たちが着ていそうなウインドブレーカーだった。ゴルフのときにでも着ていたものだろう。くしゃくしゃで埃まみれだったが、返り血を浴びたように血が飛び散るポロシャツを隠すうえでは、さしあたり役だちそうだった。
 埃を払い、それを羽織ると、紗江が顔をしかめた。「まさかそれで出歩くんですか」
 「しかたないだろ。いまのままだったら、五分もしないうちに通報されちまう」
 「派手ですねぇ」祐介がふくみ笑いを見せた。腹が立ったが、ここは自重したほうがいい。
 六億なんだから。
 血はチノパンにも飛び散っていたが、幸運にも紺色だったため、ほとんど見分けがつかなかった。「錠前のほうはどうなった?」
 「電話しときました。お昼ごろには来られるそうです」
 「そうか。ちょっと外出するから。とにかく妙なやつが来たら絶対入れるなよ」そう言い残し、藤崎は私的捜査を開始した。

 八
 左の薬指と小指に巻きつけたバンドエイドは早くも真っ赤になっていたが、意に介することなく藤崎は非常階段の鉄扉を開けた。緊急避難の必要上、フロアから非常階段へは自由に出られるが、逆は一階をのぞいて、各階のテナント従業員に配布された入館証で開錠する方式だ。だからあの女が逃走するには、いったん一階まで下りる必要がある。そこには防犯カメラがあった。一階の鉄扉を押し開き、それをたしかめると藤崎は防災センターに向かった。
 警備隊長は昨夜、藤崎が入館記録の照会にやって来たときとは打ってちがって、やけに丁寧な応対となっていた。本当に侵入事件が起きるなんて想像もしていなかったらしい。被害事務所の代表者に対し、かえって気持ち悪いくらいの協力的な態度だった。だから余分な説明や手続きをへることなく、防犯カメラの映像を見せてもらえた。だが切りつけ事件があった時間から現在まで、一階の非常階段から姿をあらわしたのは、藤崎本人ただ一人だった。念のため、九階のエレベーターホールのカメラもチェックしてみたが、藤崎の事務所がある廊下側から姿をあらわした者は一人もいなかった。
 げせない気分のまま藤崎は防災センターをあとにし、一階の診療所に向かった。いまやバンドエイドは薬指も小指も真っ赤な指輪と化していた。あの女の刃物は包丁か果物ナイフのように見えた。妙な細菌がついていないともかぎらない。そんなので感染症にでもなって、指を切断する羽目になったら泣くに泣けない。
 医者には「カッターナイフで切った」と伝えて診察を受けた。縫う必要はなかったが、ぞんざいな手つきで塗りつけられた消毒薬には飛びあがった。指二本合わせて包帯をぐるぐる巻きにされたが、痛みはむしろさっきよりひどい。恐ろしい消毒薬のせいだった。黴菌ばかりか正常な細胞まで殺されたのにちがいない。
 午前十時四十分。真っ赤な私立探偵・藤崎統一郎は、交換用の包帯と抗生物質を抱えて九階にもどった。
 節電なんかクソくらえという親会社の大方針があるのか、たんに老朽化によりサーモスタットがいかれているのかわからないが、黒澤セントラルビルは空調だけはギンギンにきいていた。それなのにとてつもない臭いが胸元から鼻先にあがってきた。切りつけ事件のあと、ケツを拭かずに転がりでてきたかと不安になったが、それは衣服に飛び散った血液や体の毛穴から噴出した汗が、体表面やビル内の空気中に漂う不届きな細菌たちの餌となって、やつらが増殖した結果生みだされた悪臭だった。
 きょうの唯一の仕事である食品メーカーの従業員との打ち合わせまで、まだたっぷり時間がある。広尾の自宅にもどってシャワーを浴びてきても十分間に合う。気持ちの半分以上は、そっちに傾いていたが、未明の侵入事件や切りつけ事件、そしてなによりジャックの家のことが気がかりだった。
 まずはあの女を見つけないと。藤崎はいったん事務所にもどり、もらった包帯と薬をデスクに放りだしてから、エレベーターホールに向かった。そこでフロアマップを食い入るように見つめ、まずは藤崎総合法律事務所の隣に位置する黒澤証券に向かった。
 隣とはいえ、これまでただの一度も訪問したことのない場所だった。人気ない廊下の北端にある入り口は、藤崎の事務所とおなじタイプの錠前をつけたグレーのドアになっていた。曇りガラスに「黒澤証券お客様センター お気軽にどうぞ」と記されている。だがここはコールセンターのはずだ。整然と電話とパソコン画面が並ぶなか、制服姿の若くて美人のオペレーターたちが明るい声で、顧客の知識不足や誤解に基づく愚にもつかぬクレームを聞き流し、手取り足取りつぎなる投資に向け、財布のひもを緩めさせようと甘言を弄している秘密基地だ。だからこんなところにじっさいに客が訪ねてくるわけがない。
 藤崎は躊躇した。どう言って事情を説明すればいいのだろう。きれいなお姉さんたちは、客相手の欺瞞に満ちた会話を中断し、好奇心をまるだしにしていっせいにこっちを向くだろう。
 小学校のころを思いだした。高学年になると話はちがうが、低学年のころなんて、偶然割り振られたクラスが世界のすべてだった。木造校舎のたとえ壁ひとつ隔てた隣の教室であっても、そこは外国とかそういう現実的に遠い場所ではなく、次元の異なるアウターワールドのひとつであった。つまりけっして足を踏み入れてはならない怖い場所なのだ。油をひいたばかりの板張りの廊下でボール遊びをしていて、たまたまそれがそっちに転がりこんでしまったときなど、危険を冒してだれがそれを取りにいくかでけんかになったくらいだ。じっさいに敷居をまたぐや、はやしたてる声がわっと起こり、まるでネズミでも舞いこんできたかのような騒ぎになる。だから藤崎はほかの教室にやむなく足を踏み入れるときは、用がすみしだい脱兎のごとくやつらの棲み家から逃げだし、安住の場所である自分の教室にもどってきたものだった。
 あのとき感じたのとおなじ気持ちに、いまここでさいなまれるとは。このビルに通うようになってもう何年になる? 藤崎はにわかには思いだせなかった。千代田線の大手町駅で降りて、エスカレーターであがり、地上に出たら平将門の首塚の方角に百メートルほどぶらりと歩いてたどり着く先がこのビルだ。あたかも夢遊病者のごとく、ほかの何事にもとらわれずにカバンから入館証を取りだし、おはようございますと機械的にあいさつしてくる警備員を完無視してゲートを通過する。エレベーターでは、乗り合わせた女たちの容姿を堪能することはたまにあるものの、概してそれらが九階のテナント従業員であったためしはなかったのではないか。フロアについたらわが事務所にまっしぐら。ほかのテナントなど存在しないかのごとく、気にかけたことなどきょうに至るまで皆無だった。
 六億だぞ!
 頭のなかでもう一人の藤崎がささやいた。そこでしばしやつ――フジオくん――に乗り移ってもらうことに心を決め、ドアを拳で二回、おざなりに叩いてからノブを回した。
 目に飛びこんできたのは、クリーニング屋にあるような接客カウンターの向こうに、藤崎の事務所とおなじようなスチールデスクが向かい合う形で手前から奥に向かっていくつか並ぶ、意外と雑然としたオフィスだった。
 「いらっしゃいませ――」
 恐るおそる近づいてきたのは、エアコンの痛々しい冷風から身を守るために薄っぺらな黒のカーディガンを肩に羽織った、証券会社の総合職崩れといった印象の女だった。四十代前半ぐらいだろうか。左手の薬指には指輪がなかった。縁なし眼鏡の向こうからのぞく瞳は、物憂げな感じがしたし、カーディガンの下にあるブラウスの胸元もいい感じで盛りあがっている。こいつは上司に取り入るのがうまそうだな。藤崎は直感した。だがそのあげく不倫に陥り、流れ流れてこの場末の職場か。企業のコールセンターなんて、無能でどうしようもないか、不祥事起こしたか、さもなければうつ病の連中を押しこむところだ。顧問契約を結んでいる会社ではみんなそうだったし、最近では全員アルバイトというところも多かった。
 そんな職場で日がな一日、客のクレームに付き合わされたら、それはそれはフラストレーションがたまるだろうし、カッとなってつい相手に危害――たとえば使用中の個室のドアの隙間から包丁突っこんでくるとか――をくわえたくもなるだろう。
 「すみません、隣の藤崎ですが」
 「お隣……?」女は藤崎を知らないようだった。すくなくとも知らないふりをした。
 いきなり訪ねてこられたら、自分だって似たような対応をするにちがいない。藤崎はため息まじりに告げた。「隣の弁護士事務所の者です」名刺を突きだすのも忘れなかった。弁護士バッヂのつぎに利くのがこの紙切れだった。
 「あぁ……すみません、気がつきませんで」女は八百屋の店先でめずらしい野菜でも見つけたかのように名刺をしげしげと眺めた。まるで偽造の片鱗でも見つけようとしているかのようだった。「なにかございましたでしょうか」対応のつづきをほかの仲間に任せようとしなかった。この女は職場のチーフのような立場なのだろう。奥のデスクでは五人の女たちがパソコンに向かって黙々と仕事をつづけながら、ベトナムの水上人形劇さながらの整然とした順番で、交互に真っ赤なウインドブレーカーの侵入者に目をあげてきた。
 「いきなり訪ねてきて恐縮なのですが」履いてる靴をたしかめさせていただけませんか。便所でめちゃくちゃ臭いうんこをしていたら、刃物で襲われたんです。まるで悪臭を放ったことへの意趣返しのように。その犯人は爪先が丸みを帯びた黒のパンプスを履いていた。それをたしかめたいのです。どうせデスクの下に隠しているのでしょう? そこをひとつひとつのぞかせてもらえないでしょうか。それにかこつけてスカートのなかのいいものをのぞき見ようなんて魂胆はありませんから――。
 そんなふうに明確に伝えるかわりに藤崎は遠まわしに訊ねてみた。「ちょっと仕事の関係で教えていただきたいことがありまして。あくまで参考までにという話です。こちらの業務と直接かかわりのあることではありません。弁護士といっても、テレビの二時間ドラマとちがって世間のことにはとんと疎いものでありまして」
 「はぁ……どのようなことでしょうか」女は右手を頬にあてるふりをして巧妙に鼻孔を押さえた。途端、藤崎の嗅覚もなぶられた。緊張のせいか自分が発する臭いをいまのいままで忘れていた。だがもはやどうしようもない。
 「こちらは証券会社のコールセンターのようなところですよね」
 「はい、そのとおりです」
 「お客さんの苦情を受け付けるような」
 「そのとおりです」
 「なるほど」相づちを打ちながら藤崎は自然とカウンターの向こうに身を乗りだし、相手の足元に目をやった。
 コーヒーが通過しただけの空っぽの胃袋がぎゅるっとよじれた。女が履いていたのは、黒のパンプスどころか、サンダル履きだった。ミルクコーヒー色をしたクロックスだ。まさかそれで出勤してくるわけがない。休憩時間以外は外出することがめったにないのだろう。だがここで引き下がるわけにいかない。
 「アウトバウンドのようなこともやるのですか」
 女は眉をひそめた。そのとき女の背後の壁にかけたホワイトボードに出勤表のようなものが書かれているのが見えた。名前を書いたマグネット式の札が七枚貼りつけてある。一番上が高野、そして前田、佐藤、多葉田、高畑、松本、大田。するとこやつは高野嬢か。だが「鳥居」の名前がない。偽名なのか。「アウトバウンドとおっしゃいますと、こちらからお客さまに営業をさせていただくという意味でしょうか」
 「まあそんなようなことです、ええと……」わざと目を泳がせてみせたら、いったんデスクにもどり、ようやく名刺を持参してきた。やっぱり高野だった。高野藍子。女子高生みたいな名前だな。藤崎は、防犯カメラを欺いてリップスティックに手をのばす万引き常習犯さながらに、注意深くもう一度やつの胸元に目を走らせ、その膨らみを堪能した。
 「コールセンターのなかにはそういうことをする会社もあると思いますが、こちらではあいにくそこまで人手が回らないのが実情ですね」
 「やっていないということですね、高野さん」
 「残念ながら」高野は同情するようにわずかに頭をさげたが、腹のなかで藤崎を追いだしにかかっていた。なにしろたとえエアコンがギンギンにきいていても、むっとする臭いが立ちのぼってくる。藤崎が退散したら窓を開けて空気の入れ替えが始まるんじゃないか。それでも高野はつけくわえてくれた。「もしアウトバウンドのことをお聞きになりたいのなら、うちの営業部門にお取次ぎいたしましょうか」
 「そうだなぁ……」考えるふりをして藤崎はデスクの女たちのほうを眺め、耳をすませた。五人のうち三人が電話を取り、応対を開始していたのだ。藤崎の脳裏から鳥居のあのねっとりとした声と恨みがましい口調が消えることはなかった。「そうしていただけるとありがたいです。アウトバウンド営業に対するクレームが弁護士会にも届くようになってきているんですよ」
 さらに二人が電話をはじめ、ぼそぼそとつぶやくようだったが、五人全員の声が聞こえるようになった。これを聞き分けられるのは結構たいへんだな。藤崎は聴覚を研ぎすませた。高野同様、まっとうなOL並みのブラウスにスカート姿の者もいれば、学生アルバイトのようなTシャツにジーンズといったいでたちの者もいる。
 藤崎から一番近いデスクに陣取る女に見覚えがあった。けさエレベーターで九階まで同乗した金髪の小太り娘だった。「投資リスクというものはどのようなケースでも生じるものでございまして……」声にだまされてはならんな。藤崎はあらためて痛感した。クレームを入れてきた顧客は、おそらく相談員の落ち着いて艶のある声音、そして同情的でこちらの悩みに存分に共感してくれる口調に自然と怒りのほとぼりを冷まし、五分もしないで「ありがとう」と告げて気持ちよく電話を切ることだろう。まさか彼女の外見が、およそ証券会社というお堅いイメージからかけ離れたものだとは露とも知らずに。「わたくし、大田が承りました。お電話ありがとございます」五分どころでない。ものの二十秒で小娘は電話を切り、やってられないわと言わんばかりにぐるりと首を回し、そのついでに藤崎のほうをじろりと見た。
 ほかの連中も見た目と声とのギャップは似たようなものだった。だがだれ一人として藤崎がぴんとくる声の女はいなかった。もどかしさを覚え、藤崎はいまいちどカウンターの内側に身を乗りだした。なんとしても足元が見たい。
 「お電話はこちらの番号でよろしいでしょうか。のちほど本社の担当からかけさせますので。ほかならぬお隣のよしみですから」あんた、ホームレスなんじゃないの? 早く失せなさいよ。高野の声音にトゲが出始めた。
 藤崎は粘った。「不動産販売とかはやってませんよね」
 「は? 不動産……ですか?」
 「えぇ、ワンルームマンションとか」
 「弊社は証券会社ですので」
 「パーソナル・リアリティーというのはごぞんじですか」
 それにはもはや高野は返事すらしてくれなかった。藤崎自身、とんまなことを聞いているとの自覚が強まっていた。
 転がるようにして廊下に出たときには、ふたたび全身汗まみれになっていた。それもそのはずだ。真夏の盛りにウインドブレーカー。エアコン対策だなんてだれも思うまい。藤崎はふらふらとエレベーターホールにもどり、腰に両手をあてながらあらためてフロアマップをたしかめた。
 反対側の廊下は南端のミルトン・バケーション・クラブからチェックすることにした。黒澤証券で浴びた冷たい視線を考えれば、あまりにばかげた行動かもしれない。だがやらなかったらどうなる。包帯を巻いた左手がずきりと疼く。弁護士でなくとも、このけががあきらかな犯罪の証拠であることは自明だ。それをおれはあえて警察に報告せずに、自らシャーロック・ホームズとなる道を選んだのだ。
 六億円を守るために!
 もう一人の自分、おしゃべりなフジオくんがまたしてもしゃしゃり出てきた。
 ミルトンの事務所に入るなり、なかにいたダークスーツ姿の二人の男の顔に緊張が走った。まるで職場で覚醒剤を炙っているところを見つかった財務官僚のようだった。だがそれには理由があった。本来ならそこにいるはずの女性従業員の姿がないからだ。その女、小松志保はいま丸の内署の留置場で留置係にじろじろ見られながら便座に腰かけているころだろう。
 「たったいま、そちらにうかがおうと思っていたところでして……」支社長の名刺を差しだした五十がらみの白髪男が腰を九十度折ってから話した。うしろでおなじように何度も頭をさげる若い男は、手に虎屋の紙袋を持っている。大方、ついさっき東京駅の地下街あたりであわてて購入してきたのだろう。
 「つまらないものですが」支社長は部下からひったくるようにして紙袋を受け取り、なかば無理やり藤崎の手にその持ち手を握らせた。あたかもそれですべてが法的に解決すると信じているかのように。
 「いや、まあ、おどろきましたよ。事情はだいたい警察から聞いているんですが」藤崎は視線を落とし、ずしりとくる紙袋の中身に目をやった。やっぱりだ。羊羹だろう。親父ならまだしもおれはあれが大嫌いなんだ。海外のリゾートホテルを扱ってるのなら、生ケーキ十個とか、もっとその手のものにしてくれたってよさそうなものを。
 「わたしたちもあの子がそんな大それたことをするなんて思ってもみませんで……」
 気を引き締めたほうがいいぜ。
 足元にひそんでいたフジオが上を向いて言った。
 この二人はジャックの家のことを知っている。まちがいない。
 だから彼女が侵入した動機について、ここでよもやま話をくりひろげるわけにいかなかった。
 「基本的には容疑者が刑事責任を追及され、民事責任も負うわけです。こちらの会社に責任があるわけではありませんから、法的に」最後の言葉を聞き、支社長はほっとしたようすだった。「ええと、こちらの事務所は三人でお仕事をされていたのですか」
 「はい、さようでございます。いちど藤崎先生の事務所にもごあいさつさせていただいたと記憶しているのですが、海外リゾートを一週間単位で利用する権利を販売しておりまして、ネットで募集して、ネットで応対するのが基本でございます。ときにはキャンペーンとして説明会のようなものも開きますが、基本的にはわたしもふくめ、三人で十分対応できる業務となっております」
 要するにここにこれ以上いたってムダってわけさ。女はあいつしかいないんだから。
 わかってるって。
 ふたたび腰を直角に折り曲げた二人を残し、藤崎はふたたびエレベーターホールにもどり、フロアマップと対峙した。そのとき藤崎の事務所側の廊下から女があらわれた。それも北側の黒澤証券お客様相談センター側でなく、藤崎総合法律事務所のほうから姿をあらわしたのだ。見覚えのない中年女、どこにでもいそうなタイプの白のブラウスとグレーのスカートの地味な女だった。たとえばバス停で前に並んでいてもぴくりとも興味がわかない、顔だちはどことなく崩れているが、だとしてもブスとも言えぬ、しいて言うなら空気のような印象だった。
 うちに来たクライアントだろうか。ちがう意味で藤崎はときめいた。新しい仕事かと思ったのである。だが女はエレベーターには乗らず、藤崎のわきを通過して廊下を右に曲がった。そしてミルトンの手前のオフィス、富士原商事に吸いこまれていった。
 便所だな。
 すぐにわかった。紗江から前に聞いたことがある。女子トイレは、フロアの二つの廊下の南端にそれぞれあるが、九階は女性従業員が多いらしく、よく向こう側の廊下のテナントの人たちも使いに来ると。それに微妙な女性心理からか、オフィスに近いトイレだと同僚と鉢合わせしてしまい、落ち着いて個室でおならすらできず――それはつらい。マジに――便秘の原因にもなるそうだ。だから常習的にホールを行き違い、反対側の女子トイレを目指す流れがあるという。
 いや、待て。
 さっき便所で包丁みたいな刃物で切りつけられたあと、非常階段のドアが閉まる音がした。それでてっきり犯人は階段を使って逃走したのかと思ったが、一階の防犯カメラにはその時間帯、階段側から姿をあらわした者はいなかった。エレベーターホールのカメラもチェックしたが、藤崎の事務所側からあらわれた者も皆無だった。
 もしやおれを襲ってから非常階段のドアを開け閉めして音をたてたのち、いまのいままで女子トイレに潜んでいたのか?
 それを裏付ける大きな、まるで象の足跡のような巨大な証拠があった。
 すたすたと藤崎から逃げるような足取り、それをささえていたのはパンプス、それも爪先が丸みを帯びた黒のパンプスだった。
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