一章

文字数 13,837文字

 一章
 一
 藤崎統一郎はいらだっていた。
 だれでもいいからあたりちらしたい気分だった。だからそこへ電話をかけてきた女は格好の餌食となった。弁護士らしからぬ八つ当たりだったが、藤崎はそれを正当化した。所詮は勧誘電話、迷惑電話だ。そんなものかけてくるほうが悪い。多少乱暴なことを言われたって自業自得ってものだろう。
 問題は、そもそもなにに藤崎がいらだっていたかである。
 それには三人の男の死がかかわっている。もちろん自然死。殺し屋に暗殺されたわけでも、ままならぬ人生を悲観して自ら命を絶ったわけでもない。むしろあすの成功を夢見て臥薪嘗胆すべき苦闘の時期は終わり、三人とも確たる成功どころか人もうらやむ地位と名誉をそれぞれ、それなりに手に入れていた。あとは人生の穏やかな終幕に向け、それまで会いたくても会えなかった懐かしき人々を訪ねたり、仕事にかまけているうちについあとまわしにしてきた小さな冒険に踏みだせばいいだけだった。ところが人生のじつにやっかいな不運というやつのせいで、残念ながら三人ともあの世に召されてしまった。それも相次いで。
 それで問題が生じた。
 彼らがどんな秘密を共有していようと、死人に口なしのはずだが、あるとき封印が破れてしまったのだ。遺された者、つまり、皇居を見渡す一角にある古めかしいオフィスビルに事務所をかまえる藤崎がそれに巻きこまれることになり、この日、八月四日月曜の朝から事務所奥の埃っぽい資料室にこもりっきりとなっていた。資料室は、さびれた田舎町の公民館に併設された図書室ほどのサイズで、公判記録がびっしり詰まったキャビネットの森を分け入ったところには、高さ一メートルほどの時代遅れの無骨な金庫がある。そのなかにとんでもないものがあるというのだが、いくら探してみても見つからない。どうでもいいものなら気にもならないが、それは藤崎にとってけっしてどうでもいいものではなかった。だからどうにももどかしく、とめどなく不機嫌になるのである。
 政界のドンが残した莫大な不正資金を親父が管理していただと?
 藤崎は、問題の手紙をけさ受け取って以来、くりかえし頭に浮かぶ疑問にかぶりを振った。大手町を舞台とした壮大な再開発計画から取り残された「黒澤セントラルビル」のなかでも、最上階である九階は、くすんだ白壁といい、大理石調の床といい、とりわけ昭和四十年代にタイムスリップしたような辛気臭さを醸しだしていた。なぜかギリシャ風の四つの白い円柱に囲まれたエレベーターホールを中心にH字形に広がる廊下には、いくつかのテナントが並んでいる。そのなかで藤崎の事務所は片方の廊下の南端にあった。移転なんて考える余裕もない。弁護士になって九年。ずっと親父の事務所に勤めている。
 事務所では庶務の紗江がきょうもいやらしく脚をくんで、下着の線がはっきりとわかるスカートの裾をはねあげたまま伝票を処理しているし、アシスタントの祐介は来るはずのない司法試験合格の日を妄想しながら数少ないクライアントの準備書面作りに励んでいる。二人とも藤崎がちょっとぐらい資料室に長居しても呼びにくるわけがないが、それにしたってこれではどうしようもない。
 「からかうのもいいかげんにしろってんだ」
 藤崎は金庫を閉め、薄汚れた窓を見やった。
 通りをはさんだ向かいにまもなく完成する新光銀行の新社屋がこちらをのぞきこむようにして建っている。高さはこちらのビルの三倍以上ある。そっちの法務部あたりには、藤崎なんかよりずっと器用で運のいい弁護士が何人も棲息しているのだろう。もちろん実入りは段違い。想像するだけで不愉快になった。
 父親でおなじく弁護士だった藤崎士朗が、日本で一、二を争う老獪な政治家、自由改新党の米丸直太郎と付き合いがあったこと自体、初耳だった。だが紗江がけさメール室からピックアップしてきた郵便物のなかに、それを指摘する匿名の封書がまぎれていた。ぴんとくることといえば、父の大学時代の友人に米丸の地元である山形の建設業者がいることぐらいだった。建設業者は、十年前に藤崎の父親が事務所を改装したさいにも請け負っており、亡くなるまで付き合いがあったようだった。
 最初に亡くなったのは米丸だった。新聞に大きく載った話だ。おととしの夏だった。東京地検に収賄容疑で起訴されながらも、鉄壁の弁護団により無罪をむしり取ってから一年足らずのときだった。
 それから一年後に父が亡くなった。建設業者のことはさっきネットで調べた。米丸の地盤を引き継いだ長男の後援会名簿のなかに、藤崎の記憶と合致する建設会社「西原建設」が見つかり、そこからたどったところ、社長を務めていた西原康夫という男がこの春に心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となっていた。
 「いたずらにもほどがあるぜ」
 勧誘電話がかかってきたのは、そう吐き捨てて藤崎が資料室をあとにしたときだった。
 スマホ画面には携帯電話の番号が表示されていた。クライアントだろうか。最初はそう思い、藤崎は誘うようにいすの上で揺れ動く紗江の腰つきを眺めながら電話に出た。
 「もしもし」だが返事はなかった。「もしもし、藤崎でございます」
 さらに一拍置いてから声が漏れてきた。おびえたような女の声だった。「藤崎さまの携帯電話でいらっしゃいますね」
 「そうですが」
 こんどは声のトーンがすこしだけあがった。それでも会社の電話交換手のような無感情な感じだ。四十代ぐらいに聞こえた。「わたくし、パーソナル・リアリティーの鳥居ともうします。藤崎さまの担当となりましたので、ごあいさつさせていただきたくお電話いたしました」
 「はい……? パーソナル……?」
 「パーソナル・リアリティーでございます」
 藤崎は首をひねった。そんな名前の会社と付き合いがあっただろうか。しかしすぐに迷惑電話だとぴんときた。リストに基づいて機械的に電話をかけ、マニュアルどおりの口上を吐く。その手のトラブルなら始終耳にしているし、じっさいに何度か事務所にもかかってきた。しかしスマホにかかってくるのははじめてだった。
 「なんの用ですか」紗江や祐介の前だったが、藤崎はぞんざいな応対に変わった。「売りこみならお断りしますよ」
 「いえ、そうではありません……きょうはごあいさつです。担当になりましたもので」
 「担当? だれがきめたの? だいたいお宅、なんの会社なの?」振り返った紗江の視線を浴び、藤崎は踵を返して資料室に逆もどりした。
 「だいいちこの電話番号、どうして知ってるんだよ」後ろ手にドアを閉めてから、話し声が聞こえぬよう公判記録が詰まったキャビネットのさらに奥へと藤崎は足を進めた。
 「こちらのリストに掲載されているものでして――」
 「おおかたどっかの名簿屋が横流ししたんだろう。個人情報の漏えいもいいとこだ。いったいどこから手に入れたんだよ?」
 「それは……」相手はややむっとしたようすだった。「弊社の資料です。担当するお客さまにお電話をさせていただいているだけです」
 「いるだけってなによ?」そのとき藤崎ははっと気がついた。もともと向こうはこっちの名前を知らなかったのだ。ただリストにある番号を順番にかけつづけ、出た相手が名乗るのを待って営業を開始する。よくあるやり口だ。「あんた、わたしの名前、知らなかったんだろう?」
 「藤崎さまで……いらっしゃいますよね」
 「それはこっちが名乗ったからわかったんだろ。クソ忌々しい。なんの売りこみだよ。あてずっぽうで電話してきやがって」藤崎は資料室の奥にある作業机に片足をのせ、スマホを持っていないほうの手でワイシャツの胸ポケットに差したピンクの蛍光ペンをつかみ、くるくると親指を軸にして回しだした。「忙しいんだよ、こっちは」
 「恐縮です。お時間取らせませんから」
 「こうやって話してること自体、時間の損失なんだよ」とはいえ腹のなかでは藤崎はもうすこし付き合ってやろうと決めていた。最初の八つ当たり的な敵意が微妙に変化していた。悪趣味のたぐい、言うなれば、小学校の帰り道、死にかけたバッタを捕まえて肢を一本ずつもいでいったときのような、残忍な快感を得んがための衝動からだった。気がつくと藤崎は、向かいの新光銀行の壁面をゴンドラに吊られた作業員がせっせと磨いているのを見つめていた。
 「資産運用のご案内です」形勢不利な状況を一変させようと、女は声に力をこめた。受話器を握りしめ、胸でも張っているんだろう。いったいどんな胸だ? 声からして四十代後半から五十代。ブラジャーを外した途端に張りのない乳房がだらりとたるみはじめるお年頃ってやつか。
 「資産運用ねぇ……わたしがどんな仕事しているか知らないからそんなこと言えるんじゃないかな」スチール製の作業机には未整理の公判資料が山積みとなっていた。いずれ整理するなり処分するなりしないといけないが、先送りにするうちに今日に至ってしまった。机の下にはダンボール箱が三つ四つ突っこんである。こちらは父親がどこからか譲り受けてきた大量の映画のDVDだった。映画好きの父親は老後の楽しみにいつか持ち帰ろうと準備していたのだが、結局は一人息子の手をわずらわせるだけのガラクタとなってしまったというわけだ。
 「すみません」それでも女は電話交換手的な声音で食い下がった。「もしよろしければどんなお仕事か――」
 「バカか、おまえ」高速で回転しつづけていた蛍光ペンをはたと握りなおし、それを目の前の相手に突き刺すようにして口にした瞬間、まるで炎天下にきんきんに冷えたビールを口にしたときのような爽快感が藤崎の体を駆け抜けた。「ずうずうしいにもほどがあるんだよ」
 「高利回りで、銀行に預けるよりずっと利益率が高いんです」
 「言ってみろよ。なにを売りつけたいのか!」藤崎は怒鳴っていた。
 「いえ……ですから……」
 「だから言ってみろって」粗野な口調で迫った。
 「新築のワンルームマンションがございまして」
 胸にためていた息を藤崎は一気に吐きだした。これではっきりした。完璧な迷惑電話。違法ぎりぎりの勧誘電話だ。高揚感さえおぼえた。おたがいの立場のギャップが明確になったときほど、この男の気分を浮き立たせる瞬間はなかった。二重人格というわけではないが、ふだん温厚そうな藤崎はたちどころにサディストに豹変するのだ。それは湘南の高級住宅地に居を構える小金持ちの子息ならではの“えせ”上流階級的な底意地の悪さであり、司法浪人時代に夢見ていたゴージャスな生活から縁遠い現実――ろくに仕事がないのだ!――でたまった澱が暴力的に噴出される瞬間であった。藤崎がそこにたしかな快感を得ていたのはまちがいない。じつは中学のころからそうだった。言ってみれば、好き嫌いが激しいということにつきる。
 最低よ、あんた――。
 同級生の女子から言われたことがいまでも頭にある。そもそもなぜそんなふうになじられたのかは、もう覚えていない。たしか自分に好意を寄せていた女子にひどく冷たくしたとかなんとか。そんなようなレベルの話だ。だが好きでもない女にやさしくして、へんに勘違いさせたら、そっちのほうが罪作りってもんだろう。おれはただ物事をはっきりさせたいだけなんだ。だから多少その過程を楽しんだからって、せいぜい眉をひそめられる程度。非難にはおよばない。その状況がいま目の前にあらわれ、藤崎は思わぬごちそうを前によだれを垂らしていた。手紙の件でばかな捜索をさせられたこの日はとくにいたぶってやりたい気分だ。
 「あんた、なんでそんな仕事してるんだい」藤崎は話の主導権を握った。「専業主婦でもできそうだと飛びついたのか、それともブラック企業から借金して返済がわりに働かされているのかな。いずれにしても百万回電話かけても、話に乗ってくるやつなんていないぜ。世のなかそんなに甘くはない」
 相手が電話の向こうで息を飲んだ。「いえ、お話を聞いていただき、ご契約された方もいらっしゃいます。これはアウトバウンドと言われる確立された営業手法でして――」
 「アウトバウンド? 驚いたな。ただの迷惑電話じゃないか。気の弱い人間につけこんで強引に契約取ってるんだろ。そんな契約、無効なんだよ」こっちは弁護士なんだからな。喉まで出かかったが藤崎はこらえた。向こうはこっちのことなんてなにも知らない。へたな個人情報は伝えないにかぎる。
 「三分で結構です。お話だけでも聞いていただけませんか……」女は懇願した。妙なことに声がだんだんとエロチックに聞こえてくる。SMプレーの感覚だった。まんざらでもない。
 藤崎は図に乗った。資料室の奥で突如勃起してきた。脳裏には紗江の腰つきが浮かんでいた。「そんな仕事辞めちまったほうが身のためだぞ、あんた。それより吉原でも歌舞伎町でもいいから、風俗の仕事見つけたほうが確実だぜ。手っ取り早くLINEで相手見つける手もあるし」
 「藤崎さま、わたしはそんなんじゃ――」
 なるほど年齢的な問題か。藤崎は妻のことを思い浮かべた。ヒロミは今年三十五歳になる。風俗? 夫婦としては完璧な倦怠期だが、客観的にはまだ通用するし、小学生の息子が二人いたとしても熟れごろだ。しかし電話の向こうの女はどうだろう。藤崎は、父親のつてで全国紙の東邦新聞社に顧問弁護士として潜りこんでいるが、代表電話にかけたときに出てくる交換手は何歳ぐらいなのだろう。ああいうのを専門とする人間――選挙のウグイス嬢もそうだろうが――は、声と見かけがかけ離れているのが定石だ。だとするといま話をしている女も、じっさいは恐ろしく年を食っているのかもしれない。六十とかそれ以上とか。蜘蛛の巣の張った老婆か。へどが出そうになり、藤崎は思わず口にした。
 「バアさんで体がきかないんじゃ無理だけどな」
 沈黙が流れた。移動中に電波の圏外に突入したみたいな感じだったが、数秒後、女が口を開いた。
 「わたくしは――」
 そこで電話が切れた。電波状況が本当に悪くなったのか。いや、そうではない。向こうに切られたのだ。藤崎は直感し、スマホ画面を見つめた。
 炎が噴きあがった。
 怒りの炎だ。
 迷惑電話をかけてきた相手から電話を切られた。これ以上の侮辱があるだろうか。藤崎は着信履歴を表示させ、かけ直して罵倒したい衝動に駆られた。相手は風俗嬢にもなれないババアだ。しかしなんとかこらえ、藤崎はオフィスにもどった。
 正午を過ぎていた。猛烈に腹が空いてきた。
 「祐介、どうだ、調子は」
 三十六歳でいまだ司法試験に合格しない、貧相な体つきの眼鏡男が振り向いた。「すいません。難航してます」暗い表情で言った。いつだってそうだ。苦悩が顔にはりつき、藤崎よりずっと年上に見える。大学の読書室に朝から晩までこもりすぎて、いつのまにか鶴田祐介は社会不適応になってしまった。高校生のアルバイトにだってできそうなパソコン仕事ですら、おっかなびっくり取り組む始末なのだ。五年前に藤崎の父親が救いだしてやらなければ、いまごろノートルダムのカジモドのように姿形まで変容していたことだろう。
 「じゃあ、焦らずゆっくりやってくれ。どうせ急ぎの仕事じゃないんだ」藤崎は自分のデスクのほうにまわり、パソコンメールをチェックした。仕事の案件は入っていなかった。「紗江ちゃん、メシ行こう」
 ボスに声をかけられ、庶務担当のバイトは肩をすくめて立ちあがった。
 「行ってらっしゃい」ふたたびパソコン画面に顔を近づけ、祐介がぼそりとつぶやいた。
 昭和四十五年竣工とはいえ、建物は十年前の大規模修繕のさいに、ICカードをかざさないと通過できないエントランスやエレベーターホールに設置した防犯カメラなど、セキュリティー面が多少は強化されていた。そこの最上階にあたる九階で、死に際の老人のように緩慢なエレベーターを待ちながら藤崎は口にした。「まいったよ」ピンクの蛍光ペンを胸に差したままだった。
 「なにがです?」リスのようなくりくりした瞳で紗江はボスを見あげてきた。
 小さくすぼまった唇を思わず藤崎は奪いたくなった。だがエレベーターホールにはべつのオフィスの連中――大半は紗江と同年代のOLだった――が集まってきており、そんな冒険はできるわけがない。藤崎はもやもやした思いを胸に覚えつつ言った。「さっきの電話だよ」
 「あぁ、なんかへんな感じでしたね。セールスですか」紗江はちゃっかり耳をそばだてていた。バイトに採用して一年弱だが、仕事の飲みこみは早いし、気もきく。なにより若くてセクシーだ。多少なれなれしいところはあっても、藤崎は目をつぶっていた。
 「迷惑電話だよ。女から。ワンルームマンションの売りこみさ。携帯の番号が流れてるんだよ」
 「相手の番号をネットで検索したらどうですか。悪質業者ならすぐにヒットするはずですよ」
 「パーソナルなんとかって言ってたな。でも向こうも携帯からだったからどうかな。いずれにしろもうかけてこないさ。撃退してやったから」エレベーターが到着し、扉が開いた。ひとあし先に昼に出ていたらしいOLたちが四人、鉄の籠のなかからあらわれた。アールグレイのような香水の匂いに鼻先をくすぐられながら、藤崎はいっしょに待っていたほかの女性陣が先にエレベーターに乗りこむのを待ちながら、小声で紗江に言った。「風俗でも行ったほうがいいんじゃないかってな」
 「ウソでしょ」この手の話を聞かせるときの常で、紗江はタメ口になった。
 紗江のあとから藤崎も乗りこんだ。「アドバイスさ。まぁ、バアさんで体がきかないんじゃ無理だろうとは言っといたんだが」
 「なにそれ」紗江は顔をしかめた。
 エレベーターの扉が閉じた。それから先、一階に着くまで藤崎も口をつぐんだ。

 二
 紗江の希望でランチはホテルのバイキングにした。夜ならおごってやらないこともないが、藤崎はたとえ薄給のアルバイト相手でも昼は折半することにしている。けじめってやつだ。
 ガーリックとバターの風味がなかなかの鶏胸肉のローストを頬張りながら紗江が話してくれた。前の職場で聞いた話らしい。「最近多いのが会社の電話に『部長さまいらっしゃいますか』って聞いてくるやつ。たいていどこの職場でも部長と名のつく人はいるでしょう。だから電話を取った社員は、なにか重要な電話じゃないかと思って部長につないでしまう。それでまんまと引っかかって部長本人が出ると、投資の勧誘を始めるんですよ」
 「重要な電話かどうかなんて、相手が名乗ったときにわかるんじゃないか。社名を聞けば、取引先かどうかなんて気づくもんだろう」藤崎はロースト肉を食べおえ、いまはデザートの杏仁豆腐をすくっていた。すっきりとした甘味のなかにかすかな苦みがある。薬膳のようだが、この味は悪くない。酷暑同様、滅入ることの多いこの夏、身も心もしゃっきりさせるにはもってこいだ。あとでおかわりしてこよう。そう思うと藤崎はすこしは気が晴れた。
 「前触れもなしにかかってきたら、相手が何者かなんていちいち気にしないですよ。それに一流企業とおなじ社名を言ってくるんですよ」
 「それはまずいだろ。かたりじゃないか」
 「漢字がちがうんです。読みがおなじでも。『光』に美しいの『美』に武士の『士』でミツビシ。『桃』に人工衛星の『衛』で――」
 「まさかトウエイか」
 「そうなんですよ。そうしたら映画会社の人かって、ふつう思うでしょう。ぱっと言われて、おかしいって思う人いないですよ。だけどそんな迷惑電話をへいきでかけてくる会社だから、やり方も幼稚なんですよ。名簿屋から手に入れたリストに基づいてかたっぱしからかけてくる。最初のがだめなら、その次、それがだめならまたその次って。だけど職場の電話って、おなじ職場内に複数の外線が引かれてるものじゃないですか」
 「電話一本じゃ仕事にならないからな」うまい。藤崎は杏仁豆腐の汁をごくりと飲んだ。天にも昇らん心地だった。
 「だからおなじミツビシとかトーエイとかから職場の電話に順番にかかってくる。さすがにそうなると、かけられた職場のほうだってばかじゃないから、だれか気の強そうな男の人が出て、びしっと注意するわけですよ」口元がぎらぎらと脂ぎっていたが、紗江は一向に気にするようすはない。それが藤崎を誘惑しているようにも思えた。ここはホテルのレストランだ。上の階には寝心地のいいキングサイズベッドが並んでいる。栄養満点の食事で元気が回復した藤崎の頭にはあらぬ妄想が鎌首をもたげていた。
 そんな気分に紗江が水を差した。「だけど最近は注意して引き下がるような素直な連中ばかりじゃないみたいですよ。逆ギレして悪態ついてきたり、無言電話をくりかえしたり。ほんとに職場に訪ねてきて、ストーカーまがいのことをされた人もいるみたいです。だから先生も、相手が女だからって、あんまりひどいこと言わないほうがいいですよ。しつこさなら男より女のほうがひどいかも」
 「いやなこと言うなよ」藤崎はコーヒーをすすり、杏仁豆腐のおかわりを取りに立った。
 紗江もついてきた。ケーキバイキング狙いだ。四種類ものケーキを皿に盛り、うれしそうにもどってくるなり、話をつづけた。「先生みたいな男の人が一番危ういんですよ」
 「なんだよ、それ」
 「女のめんどくささがわかっていない。先生、むかしっから勉強ができて、モテたでしょう」
 「あえて否定はしないけど」杏仁豆腐をつつきながら藤崎は鼻を鳴らした。
 「だから基本的に女なんて、どうにでもなるし、どうだっていいって思ってる」
 「どうだっていいなんて思っていないさ」
 「ウソ。だってさっきの迷惑電話だってそうじゃないですか。いくら迷惑電話でも、バアさんで体きかないとかひどいですよ。てゆうか、ふつうそんなこと思ってても口にできないし、そもそも思いつきもしないんじゃないかしら」
 「おれは想像力が豊かなんだよ。それに物事ははっきり言うほうだからな」
 「物事をはっきり言って、自分だけスッキリして。だけど言われたほうは、プライド傷つけられるわけですよ」
 藤崎は中学時代にもどったような感覚をおぼえた。そんなようなことを同級生の女子から言われた記憶がまたよみがえった。「プライドねぇ……だけど事実は事実じゃないか。ウソついておだてるほうがたちが悪いと思うがな」
 「ウソをつけなんて言ってないですよ。そうじゃなくて、言わなくてもいいことだってあるってことですよ」紗江はケーキを頬張りながら上司にずけずけとものを言いつづけた。それこそ言わなくてもよさそうなことまで。
 藤崎は顔をしかめた。「サエちゃん、きょうは厳しいな」
 「ふふ」いたずらっぽい笑みを浮かべ、紗江は紅茶をすすった。「てゆうか、先生、ぜんぶ言っちゃうから。正直ってゆうか、がまんできないってゆうか。なんかほんと、中学生みたいなところあるからなぁ」
 「だって、相手は迷惑電話かけてきてるんだぜ。非があるのは向こうじゃないか」
 「そうなんですけどぉ」子どもを諭すような口調になり、紗江はテーブルに身を乗りだしてきた。「人に言えないようないろんな事情を抱えて、そういう会社に勤めてるってこともあるんじゃないかな。それまで勤めていた会社をリストラされたり、借金苦だとか。だからふつうの人以上に、傷つきやすくなっているかもしれない。つまりそれって一触即発ってことですよ。へたすると逆ギレどころでなくなる可能性がある。それだけ危険な相手だってことですよ。あんまりひどいこと言うと、逆に向こうから一方的に電話切られて、不愉快な気分に拍車がかかることにもなる」
 「たしかにそれも一理あるな」さっきの女――名前はなんだった?――もそうだった。ちょっとからかってやっただけなのに、向こうから電話を切りやがった。藤崎のなかで腹だたしさが再燃した。
 「だからそういうのって、交通事故みたいなものだと思って割り切るしかないですよ。いまの世のなかなら一定の確率でかならず起きる。いちいちカリカリしないで、聞き流すのがいちばん。そうしないととんでもないことになっちゃうんだから」
 紗江はジプシーの占い師のようだった。
 じっさいそのとおりになった。エレベーターで九階にもどってきた途端、スマホが鳴ったのだ。さっきとおなじ着信番号だった。藤崎はうんざりした。せっかくの鶏胸肉のガーリックローストと杏仁豆腐が喉元にせりあがってきた。
 「もしもし」びしっと言ってやろうと、紗江を先にオフィスに帰してから藤崎はエレベーターホールで電話を取った。
 「パーソナル・リアリティーの鳥居です」
 「番号見りゃわかるよ」紗江の忠告はわかっていたが、どうしてもぶっきらぼうな口調となってしまった。「迷惑なんだけどな」
 「三分で結構です。藤崎さまにフィットしたプランを検討してみました」
 おれにフィットした……?
 午後の仕事にもどるべく二基のエレベーターからひっきりなしにあらわれる者たちを見やりながら、藤崎は午前中の怒りがぶり返してくるのを感じた。「いいかげんにしてくれよ――」
 女は大胆にも藤崎を制し、決意したようにしゃべりだした。「いま藤崎さまがいらっしゃるオフィスが入るビルは、大手町のなかでもとりわけ再開発が遅れている、いわばガラパゴス諸島のような建物でいらっしゃいますよね。賃料はさほど高額ではないはずです。九階のエレベーターホールをはさんで左右に入る店子、リゾートホテルの会員権販売会社とか証券会社の相談センターとか、つまり移転しようにも経営にゆとりがなくて新しいオフィスのことなんか考えられない会社が入っていることを見ても、ある意味、居心地のいい避難所的なオフィスビルなのだと思います」
 「なに言ってんだ、あんた」とはいえ藤崎は驚いてもいた。たしかに事務所のある九階には、ほかにハワイのホテルの一週間分の利用権を販売する会社――たしかミルトン・バケーション・クラブとかいう名前だ――と、大手証券会社の子会社が運営するコールセンター――こっちはビルのオーナー会社系列の黒澤証券お客様相談センター――が入っている。しかもそれらはたしかにエレベーターホールをはさんで左右、すなわちエレベーターをおりて左に行けば、ミルトンといくつかの会社、右に行けば相談センターとうちの事務所がそれぞれ並んでいる。そのへんのところを迷惑電話の女は見てきたかのように把握している。
 「藤崎さまほどの方がそのような場所に事務所を構えているということは、ある意味、将来的な投資に備えた貯蓄の一環であると思うのです」
 気味が悪くなり、藤崎はエレベーターホールからミルトン側の廊下に出て、左右を見渡した。が、ミルトンのオフィス前も、ほかの三つの事務所――いったいなんの会社か不明だった――の前にも電話をかけているような人影はなかった。取って返して藤崎は黒澤証券お客様相談センターと自分の事務所が入る側の廊下に向かったが、そっちにも不審人物は見あたらない。エレベーターホールを中心にH字形にのびる九階の廊下で、もっともあやしい人物と言えば、藤崎以外にいなかった。脇の下から汗がひと筋滴り落ちた。
 「ネットで調べたんだな」藤崎はつとめて冷静な口調で言った。藤崎総合法律事務所はホームページを持っている。そこに記された住所には入居先のビルが載っている。それに基づき、店子を調べれば事足りる。
 「前にももうしましたが、わたくしは藤崎さまの担当なのです」
 「多少の営業努力はしているんだな、あんた」
 「はじめてほめていただきましたね。ありがとうございます」感情の起伏をまるで感じさせない、言うなれば人工知能がしゃべっているかのような低い声だった。深夜ラジオならこの手の語り口のほうがむしろ好まれそうだが、他人の財布のひもを開かせるうえでは、たとえ百円玉ひとつでも難しそうだった。
 とはいえ藤崎の溜飲はまだ下りておらず、喉元でしこっていた。藤崎は自分が弁護士であるとはひと言も伝えていない。だから「藤崎」の苗字だけから勤務先を検索するなんて発想は、そもそも思い浮かぶはずないからだ。まさかやつの手元にある携帯番号リストには、こっちの住所まで記してあるのだろうか。いや、そんなことはあるまい。
 そして藤崎の疑念は、さらに膨らむことになった。相手は藤崎が身につけているものにまで言及してきたのである。「わたくしも肌身離さず蛍光ペンを胸に差して、書類のなかに気になることをなにか見つけるたびに線を引くことにしております」
 思わず藤崎は胸ポケットを見やった。ピンクの蛍光ペンはまだそこに収まっている。まさか――。
 「いくら電話してきてもマンションなんて買うつもりはないんだ。もう電話しないでくれるか」後難を恐れ、なだめるような口調でそれだけ伝えると、こんどは藤崎のほうから電話を切った。
 「だいじょうぶですか」オフィスにもどるなり紗江が訊ねてきた。顔に出ていたらしい。
 「またさっきの迷惑電話だよ」
 「着信拒否にすればいいんですよ」
 「いまやるよ」藤崎はスマホを操作しはじめた。
 「先生、ちょっといいですか」祐介が気の弱い背後霊のように近づいてきた。「東邦新聞とナショナル・インベスターの件ですが、東邦の法務部から先ほど電話がありまして、自分たちで決着できる見通しがついたそうです」
 「なんだ、そりゃ。どうしろって言うんだよ」
 「先生から電話がほしいそうです。法務部長あてに」
 「マジかよ。困るよ、そんなの。こっちは準備進めてたんだから」
 それは東邦新聞が一週間前に社会面に掲載したインサイダー取引に関する記事のことだった。ナショナル・インベスター社があたかもインサイダー取引に手を染めているような印象を持たれると先方からクレームがつき、向こうの弁護士が書面を東邦に送りつけてきたのだ。東邦とは父親の代から顧問契約を結んでおり、いまは藤崎が法的アドバイスを行っていた。東邦は大新聞だ。ほかにも顧問弁護士は複数いる。しかしこっちからすれば貴重な生命線。いまの藤崎総合法律事務所にとって、唯一の顧問契約だった。藤崎統一郎は二十七歳で司法試験に受かり、弁護士にはなったものの、思うような就職口を見つけられず――きわめて数字に弱く、企業会計の知識が皆無だったのは痛かった――結局、父親の事務所に入った。父親は絵に描いたようなクソまじめで地味な弁護士で、元検事だったこともあっていくつかの一流企業と顧問契約を結び、それなりに安定した経営を保っていた。ところがそれにおんぶに抱っこの一人息子は、それまで営業努力を怠ってきたツケがいまになって回ってきた。
 東邦新聞側は、息子の能力が低いことを見抜いており、顧問契約打ち切りを画策しているようなのだ。法務部長に電話を入れると、そのことをにおわせる話をされた。
 藤崎は追い詰められていた。
 投資を勧誘してきた女は、藤崎が弁護士であることを理由に遊休資金があるとふんでいた。ところが実態は正反対だった。藤崎だってこんな辛気臭いオンボロビルからは一刻も早く抜けだしたい。六本木か青山あたりのタワービルにピカピカのオフィスをかまえ、抱えきれないほどの顧問契約や欧米企業との取引仲介によって左うちわの安定経営に落ち着きたい。だが現実は事務所の家賃にくわえ、紗江や祐介のバイト代支払いによって、藤崎自身の収入は減る一方だった。そもそも父親が雇っていたアシスタントや女性スタッフを解雇し、紗江や祐介たちを新規採用したのもコストカットの一環だった。東邦の顧問契約を切られたら、つぎはなにを切り詰めればいいだろう。考えるのもうんざりだった。
 これ以上、ヒロミの実家に頼るのはごめんだ。広尾のマンションは、もとは妻の両親が暮らしていたところだ。銀行役員だった義父が退職し、義母と長野の別荘に引っこむうえで娘に譲ったのである。築三年のほとんど新築物件だった。それに妻が乗りまわし、藤崎自身も週末にハンドルを握ることがあるベンツも購入資金を用立てたのは義父だった。ほかにも二人の子ども――小学三年と一年。どっちも残念ながらあきらかに母親似の男の子だ――の養育費では、あれこれと向こうから現金が流れてきている。たとえ弁護士とはいえ、義父母とも藤崎の生活力に疑問を抱いており、結婚して七年が過ぎようとする昨今、彼らの視線は急速に厳しくなってきていた。
 藤崎は自分のデスクにもどり、父親が使っていた年季の入ったいすに腰をおろした。デスクのいちばん下のひきだしを開ける。ハリウッドの名作「陽のあたる場所」など、例のDVD箱から拝借したパッケージが何枚か並ぶわきに一通の茶封筒が押しこんであった。宛名はラベルに印刷され、あらためてたしかめてみたがやはり差出人は書かれていない。記念切手が貼ってあり、三日前の消印が押してある。都内からだった。藤崎はスラックスの尻ポケットからその茶封筒に入っていた手紙を取りだし、読みなおした。
 米丸先生の裏金
 管理人は士朗先生
 事務所の金庫
 四つ折りにされたA4判の再生紙に大げさなフォントで印字してあった。まるでテレビドラマに出てくる誘拐犯からの脅迫状のようで、一読しただけではそれが意味するところが理解できなかった。だが「米丸」が政界の大物だった米丸直太郎であることに気づいた途端、合点がいった。それで山形の建設業者である西原康夫のことが頭に浮かんだわけだが、資料室内の金庫を洗いざらい調べたいまとなっては、金庫があるとされる「事務所」は、故人となった米丸の関係事務所である可能性が高い。いくら親父がその事務所に鎮座する大金を管理していたとしても、藤崎にはどうすることもできなかった。
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