四章

文字数 21,459文字

 四章
 九
 本能的に藤崎は富士原商事の前まで走り寄った。ドアわきの壁に埋めこまれた看板には堂々と「不動産取引」と記してある。土地なのかマンションなのか事業内容は判然としなかったが、黒澤証券での経験で、探偵藤崎も多少の度胸がついていた。ドアを開けたあとは、藤崎統一郎でなく、好奇心旺盛で猜疑心にあふれ、恐ろしく粘り腰のフジオくんにまかせればいいのだ。
 新たな教室に足を踏み入れる前に藤崎は無謀にも体臭チェックを行い、さらに幻滅した。雑菌の繁殖速度が速すぎる。まるで肉体そのものがやつらの餌となり、あちこち蝕まれているようだ。そういえば背中も腹もさっきから始終かきむしっている。ダニの群れにでも咬まれたみたいだった。
 それでも藤崎は富士原商事のドアを開けた。真夏の日差しがさんさんと差しこむオフィスにはデスクが並んでいるものの、がらんとして人気がなかった。ドアを入って左手すぐのところに、座面がかなり擦り切れたソファが一対、安っぽい感じのローテーブルをはさんで並んでいる。その向こうに離れ小島のようにして置かれたデスクに、その女がいた。
 にこりともせずに女は立ちあがり、例の黒いパンプスのまま滑るようにして藤崎のほうに近づいてきた。まるで幽霊のようで、ソファを回りこんできたところでようやく「いらっしゃいませ」と声を発した。
 そっくりだった。
 きのう三度にわたって聞いたあの声と。
 さらに藤崎は驚愕した。首を絞められたカラスが鳴くような短い悲鳴をあげてうしろに一歩飛び下がり、ばかでかい音をたててキャビネットの角に左足をぶつけてしまった。
 「だいじょうぶ……ですか?」女が心配そうに訊ねてきた。その手元から藤崎は目が離せなかった。女は包丁を手にしていた。白い握り手部分が赤っぽく濡れている。包帯を巻いた左手が急に激しく痛みだした。
 ヤバいぜ。
 フジオが口にしたとき、藤崎は動転して背後に目をやった。なんてこった。ドアが閉まっている。
 落ち着けよ。ドアクローザーがついてるだけさ。
 そのとおりだった。藤崎の事務所もそうだった。自分で閉めなくともドアクローザーがついているから勝手に閉まるようにできている。鍵はどうだ? まさかオートロックなんかじゃないだろ?
 「あぁ、すみません。びっくりさせてしまいまして」女は踵をかえしてデスクにもどり、包丁を置いてもどってきた。タオルで手を拭いている。みるみるピンクの染みがタオルに広がった。
 「スイカを切っていたものでして」うやうやしく女は藤崎に頭をさげた。
 藤崎は喉まで飛びだした心臓を飲みこむのに精いっぱいだった。たしかに女がいたデスクには、広げた新聞紙にカットしたスイカが整然と並んでいた。だが安心からはほど遠かった。
 「なにかご用でしょうか。いま営業の者はすべて出払っておりまして。あいにくわたくしは庶務係なものでして、営業のことはさっぱり――」
 あの声だったのだ。藤崎は確信した。スイカはカモフラージュにちがいない。まさかおれは蟻地獄に自分のほうから踏みこんでしまったのか。
 そうだ。まちがいない。だってふつうならこういう場合、どうする? 黒澤証券を思いだせよ。こっちが客だと思ったのなら、まずは自分が何者か名刺を差しだすものだろう。たとえ儀礼に過ぎなくとも。それなのにこの女は一向にそれをしようとしない。それにもっとほかの理由もある。なんだこの妙な落ち着き具合は。黒澤のあの女、高野だったか、やつはおれがオフィスに入ってくるや、あからさまにいやな顔をして、鼻の穴をふさいだんだぞ。それなのにまるで鼻栓でもしているかのように平然としている。大学で受けた犯罪学の講義がふいに頭にのぼった。無理にこっちを安心させるような迎合的な態度。そういうのは根っからの犯罪者ならではの特徴なんじゃなかったか。
 「あうぅぅ……と……ばうんんんん……ど」
 「はぁ?」女は小首をかしげ、まるで頭の弱い大人でも相手にするように口元を引きつらせて無理に微笑んだ。
 「アウト……バウンド……ですよ」どうしたんだ。みるみるひざから力が抜けていく。ここはどこだ。ビルの九階。自分の事務所とおなじフロア……のはずだが、どこかひどく遠く、まるで異次元空間に足を踏み入れてしまったかのようだった。いまここでうしろを向いてドアノブに飛びつこうものなら――ロックされている確信があった――スカートの腰のところに挟んだサバイバルナイフで胸をひと突き――。
 おれがいったいなにをした……?
 電話口で悪態ついて、体を売れとかなんとか、年だからそれも無理だとかなんとか。そんなようなことを口にしただけじゃないか。たしかに年齢はおれが想像していたよりもずっと若い。そんな相手におれもずいぶんとひどいことを言ったものだ。その点はあやまる。だが電話なんだから声で判断するしかないじゃないか。それにそもそも迷惑電話をかけてきたのは、おまえのほうじゃないか。
 「すみません。おっしゃっていることが……お向かいの弁護士先生でいらっしゃいますよね。ぞんじあげておりますよ」
 やっぱりだ。やつはおれのことを知っている。「ワンルーム……ワンルームマンションだよ。電話をかけてきただろう、きのう」
 「うちの営業の者がですか」そう言って女はそばにあった案内書を手にした。「いまはあまりあつかわないのですが、もしかするとこちらのことでしょうか」女は案内書を藤崎のほうにしめしてきた。
 相手の動きから目を離さないよう注意しながら、藤崎はちらちらと何度か視線を案内書に落とした。そこには「たしかな資産運用」との文字が印字されている。やっぱりだ。このワンルームマンションの営業だ。案内書には女の指紋がついている。それとコーラ・キャンディーの包装紙の指紋を照合すればいい。
 「そのことでなにか……もしやご迷惑をかけてしまったとか。うちの営業の者が」
 「ちがうよ……」
 あんただよ――。
 それが口にできたらどんなによかったことか。だがそのときの藤崎にはそれができなかった。ただ反射的にスマホを取りだしていた。指紋照合なんてまどろっこしいことはやる必要がない。電話一本、それで確定診断がくだる。
 前日の昼前、最初にかかってきたとき、鳥居は携帯電話でかけてきた。その番号が着信履歴に残っている。藤崎は震える指先を必死に制御しながらリダイヤルした。このオフィスのどこかで呼び出し音――着メロはなんだ? この手のネガティブな女は逆に明るい曲、たとえば「愛は勝つ」なんかを設定しているかもしれない――が聞こえたらビンゴだ。
 そのときはこの女とどう対峙しよう?
 スマホの受話口から呼び出し音が聞こえだし、くりかえされる。しかしオフィスのどこからも電話の着信をしめす音または音楽は聞こえない。目の前の女の顔がしだいに不愉快そうにゆがんでいく。
 不安が募ったとき、電話口に相手が出た。
 なぜだ。
 頭のなかはそれしか浮かばなかった。発信者番号通知をオンのままかけてしまったことに気づいたのは「おはようございます。藤崎さん」と例のやや甲高い声であいさつされたときだった。「指がちぎれそうになって、投資に対するお気持ちが変わったのでしょうか。ですが、わたくしはもっとべつのものに興味を持ちました」
 「あのぉ……だいじょうぶですか?」しびれをきらせたように庶務の女が訊ねてきた。
 ちがうな、こりゃ。
 がっかりしたようにフジオが言った。
 おまえの前に突っ立ってるオバサンは鳥居とは無縁だ。
 それを理解したとき、鳥居が電話の向こうから訊ねてきた。藤崎はひざから力が抜けるどころか、失禁しそうになった。じっさいすこしだけちびった。
 「教えてほしいことがあるんですけど、パパさん」
 なれなれしい呼びかけに腹がたった。だがなにか気になる。
 パパさん――。
 おれはそんなふうに呼ばれたことがあったのか?
 鳥居はまくしたてるようにつづけた。「ちょっと聞いたんですけど、ミルトンって会社の女の子がお宅に泥棒に入ったらしいじゃないですか。それってなにか特別な理由でもあったんですか。なんだかウラがありそうですよね――」
 まくしたてるような口調に変化した魔性の女をシャットアウトすべく、藤崎はあわてて電話を切った。
 「だいじょうぶですか……」庶務の女は本当に親切心から心配してくれていた。藤崎にもそれがわかった。だがいまはここを出るしかなかった。
 バレたのだろうか。
 やつもジャックの家に気づいたのか。
 藤崎はもはや立っているのもやっとだったし、股間が濡れている感じがした。だがそんなことに気を取られているひまはない。ジャックの家に興味を持つネット世界の住人たちが何人いるか知れない。そのうちの大半は現実には行動を起こさないはずだ。しかし鳥居はべつだ。やつは現にコーラ・キャンディーを配達にやって来て、自分が藤崎のデスクにまで到達できることをデモンストレーションしている。藤崎士朗があつかった事件記録が保管されている資料室はその目と鼻の先だ。
 もしバレたのなら、やつを捕まえないと。
 いつの間にか藤崎は、さらに隣のアイテック産業の前まで来ていた。ほかのオフィスとちがってドアが開いている。なかからわっと笑い声があがった。男が数人、女も一人いる。みんな若かった。電話に出たり、パソコンと格闘したり、活気が伝わってきた。
 「なにしてんですか」背後から声をかけられた。アイテックの連中に見つかったかと思ったらちがった。紗江だった。「もういいかげんそのブレーカー脱いでくださいよ。チョー目立って恥ずかしいですよ。汗かくしぃ」
 小憎らしかったが、窮地の藤崎にとっては一服の清涼剤だった。それなりのバイト代を支払っている。それくらいは当然かもしれない。藤崎はその場にしゃがみこみ、深呼吸をくりかえしてから言った。「いろいろあってな。ほら、ミルトンの従業員だったろ、逮捕された女。いまいろいろ聞いてきたところなんだよ。気味が悪いから」
 「紗江ちゃん!」さっき笑い声をあげていた女が廊下に出てきた。紗江の知り合いのようだ。「けさ帰って来たの」
 「ノリちゃん、紹介するわ。うちの先生」紗江はしゃがんだままの藤崎のほうに手を広げた。
 ふらふらと藤崎は立ちあがり、ノリちゃんと呼ばれた女のことを見つめた。
 「あ、はじめまして」即座に名刺が差しだされた。アイテック産業東京営業部。伊藤紀子は唯一の女性営業部員だった。「紗江ちゃんとはヨガ教室でいっしょなんです」
 「お昼いっしょに行こうって誘いにきたんですよ。でも先生はダメ。きょう、臭いから」紗江はずけずけと言った。
 「あ、そうだ」紀子は職場にいったんもどり、瓶詰の飲み物を持ってきた。「これどうぞ。お客さんにいっぱいもらったんです。スタッフだけじゃ飲みきれなくて」
 グレープジュースだった。甲府ブドウの搾りたてと書いてある。途端に藤崎は喉の渇きをおぼえた。渇かないほうがおかしいだろ、こんな状況で。
 「うまい」藤崎はぐびぐびとたちまち一本飲み干してしまった。「冷たくておいしい」
 「あ、まだありますから」すばやく紀子はもう一本持ってきた。紗江ほどの色気はないが、気さくな感じがした。靴は茶のパンプス。だが履き替えることは可能だ。
 「けさ帰ってきて、すぐ仕事? 疲れない」
 「ぜんぜん。グアムだもん」紀子は夏休みでグアム島に行っており、けさの便で帰国したばかりという。そのまま職場に直行し、開放されたドアのわきにピンクのスーツケースが置かれていた。「いま渡しちゃうわ、お土産」そう言って紀子はデスクにもどり、免税店のビニール袋を持ってきた。
 そのすきに藤崎はスーツケースの把手についたままの航空会社の荷物タグに目を凝らしていた。たしかにけさの便だった。つまりきのう藤崎に電話を入れることは不可能でないが、キャンディーの配達となると、タグをつけかえでもしていないかぎり、彼女にはできない。
 それに見るからに明るく快活そうな彼女がそんなことをするとは思えない。なにしろアイテック産業は、ワンルームマンションの販売でなく、購入後の管理専門の会社だったからだ。
 さっきみたいに例の番号に電話してみたらどうだ?
 フジオがせっついてきた。
 だがきらきらと輝くような紀子を前にして、藤崎はそこまでする必要はないと断じた。
 残るはひとつ。廊下の北端にあるライズ企画だ。紗江を安心させるために藤崎はいったん事務所にもどり、三十分ほど落ち着かぬ時間を過ごしてから、満を持してそちらに向かった。
 「パーソナル・リアリティー……申し訳ございません。弊社ではそのような……」
 声音は鳥居に似ていなくもなかった。でもあなたではないでしょう。ずかずかと三メートルほど立ち入った場所からオフィスのドアのところまであとずさり、できるだけ自分の体臭を嗅がれまいとつとめながら藤崎は確信した。こちらの会社でいらっしゃいましたか。けさがた、エレベーターで遭遇した黒髪の姉さん、目元に憂いをたたえた艶っぽい女性。その彼女が応対してくれた。
 不動産関連といってもなんの会社かにわかにはわからない。ライズ企画では、姉さん――うやうやしく頂戴した名刺によるとチームリーダーの谷本道子……ちょっとダサい名前だな――のほかに四人の女性スタッフが、しんとした雰囲気のなか黙々とデスクに向かっていた。電話をかけている者がいないから、ほかに声を聞き分けることもできない。ただ、一番手前のデスクからすっと立ちあがり、場違いな真っ赤なウインドブレーカーをまとったひどく臭う中年男の相手をしてくれた谷本嬢の説明を聞くかぎり、ここではいまは不動産系の仕事はしていないらしい。
 外見よりも弁護士の名刺のほうに恐縮してくれたらしく、谷本嬢はじつに丁寧に話してくれた。「以前はマンション販売を手掛けたこともありましたが、いまはもっぱら人材育成事業のほうにシフトしているんです」
 「たしかにこういう時代ですからね」どういう時代だよ。藤崎は相づちを打ちながら自問自答した。「女性ばかりですね」
 「そうですね。いまはこんな感じです。以前は男性もいたのですが」藤崎の訪問の真意をはかりかねると言わんばかりに左手で鼻を押さえ、谷本嬢は首をかしげた。そのとき左手首に横一直線の深いしわが刻まれているのが見てとれた。見ようによっては、ためらい傷にも見える。好いた男に捨てられでもしたのだろうか。藤崎はどきどきしてきた。もしかするとわけありの女かもしれないぞ。もちろんそれはうれしい驚きだったが。
 だが藤崎は自分がやって来た理由を思いだし、包帯を巻いていないほうの手をオフィスのほうに広げて訊ねた。「これでフルメンバーですか」
 「いえ、交代制ですから。そうですね、全員だと……十人は超えますが」
 「なるほど」そうか。休んでいるとなると厄介だぞ。おなじことを何日もかけて聞き歩かねばならない。
 「不動産取引をめぐるトラブルかなにかあったのでしょうか」心配そうに谷本嬢は訊ねてきた。じっと見つめられると、へその下のあたりがもぞもぞしてくる。藤崎のなかにあらぬ思いが首をもたげてきた。
 「えぇ、まあそんなようなところですかね。もしや参考になる情報はないかと思いまして、こちらにうかがったしだいです。きょうはわけあって、こんな妙ちくりんな格好をしてますが、ふだんはちゃんとした格好をして、まともに裁判所通いをしている身です。それにしてもおなじフロアなのに――」
 「そうですね。なかなかお話をする機会もなくて」ほんの一瞬のことだった。彼女の表情にぱっと赤みがさし、悦んでいるのがわかった。
 「まったくです」どうですか、こんどべつの場所でご一緒してみるというのは? 訊ねたい衝動を無理に抑えたとき、窓辺のほうから視線を感じた。
 手のひらサイズの葉を広げたウチワサボテンの鉢が置かれた窓の手前のデスクだった。ぱっちりとした瞳に見覚えがあった。けさのエレベーターに同乗していたもう一人の女、デスクに隠れて下半身は見えないが、三浦大根のような足首をしたあの小柄な娘だった。あのときはもう一人のスタイルだけは自慢できそうなブス女と話していたが、そっちの姿は見あたらない。藤崎が大根娘の視線をとらえると、向こうのほうから避けるように頭ごとデスクに沈みこんだ。その刹那、藤崎は胸の奥にかすかな違和感をおぼえた。
 「だいじょうぶですか」
 谷本嬢に問われ、はっとした。
 「おじゃましました。今後ともよろしくおねがいいたします」そう告げながらも藤崎はスマホをタッチしていた。例の携帯番号だ。
 呼び出し音が受話口から漏れる。だがライズ企画のオフィスはしんとしている。やがて電話は留守電に切り替わった。藤崎はもう一度、大根娘のほうを見やったが、向こうは机に向かったままだった。マナーモードだったのか、それともここにも鳥居がいないのか判然としない。
 谷本嬢は不審そうな目を藤崎に向けている。後ろ髪が引かれる思いだったが、退散しないわけにいかなかった。

 十
 事務所にもどり、ウインドブレーカーを脱いだ。
 汗だくだし、臭いもひどい。かといってもう昼になる。いまから家にシャワーを浴びに帰るわけにもいかない。藤崎は紗江に三千円を渡し、地下の商店街にあるゴルフショップでなんでもいいからポロシャツを一枚買ってくるよう頼んだ。
 セール中だったというグレーのポロシャツには、胸のところにラコステみたいなマークがついていた。中国製のまがいものだったが、着替えたら気分がすっきりしたし、汗臭さもだいぶ取れたみたいだった。血まみれのポロシャツをゴミ箱に放りこみ、藤崎は父親のいすに深々と腰を下ろした。
 あの大根娘が鳥居だろうか。
 藤崎は、鉤形に曲げた右手の人差し指を鼻の下にあてて思案した。それにしては年齢が若過ぎはしまいか。声は確認できなかったが、エレベーターではぼそぼそとつぶやいていた。藤崎はそれを思いだそうと試みたが無理だった。
 ライズ企画は人材育成業が主だと、谷本嬢は話していた。たとえば企業にコンサルタントを派遣し、セクハラやパワハラの講演会を開いたりしているのだろうか。しかしそんな連中とワンルームマンションの押し売りはつながらないだろう。ならば本業のかたわらで、あの大根娘はおれに個別営業をしかけてきたというのか。
 がちゃりと音がして事務所のドアが開いた。
 「失礼しますぅ」ピンク色の清掃着姿の太った中年女が掃除機を引きずってのっそりとあらわれた。「お掃除入らせていただきますぅぅぅぅ」
 ビルの管理会社が雇っている清掃員だった。二日に一度、ゴミ箱をひっくり返し、掃除機をかけにやって来る。おばちゃんはダイソンの業務用掃除機にスイッチを入れ、騒音をまき散らしだした。
 藤崎はこれから先起きることを予想してみた。一般的な問題として、ミルトンの女のような輩が出現する恐れがある。しかしそれ以上に鳥居がジャックの家探しに参戦してくることのほうが嫌だった。やつはただの窃盗犯とはわけがちがう。藤崎のことを逆恨みし、刃物を使ってじっさいに逆襲してきた。ジャックの家を狙うとしても、それは自らの金儲けというより、藤崎への嫌がらせのつもりだろう。しかもこのフロアに勤めている。それを藤崎は肌で感じ取っていた。入館証があるぶん、ジャックの家に関するあの掲示板を見た外部の連中なんかより危険だ。
 考えようによっては、さっきほかのテナントを藤崎が巡回したのはある意味、こっちが警戒していることをしめすいい機会だったかもしれない。ミルトンの小松のような人間がほかにいたとして、住居侵入を逡巡させるだけの効果はあったはずだ。ただ、やつはちがう。
 異常者だ。
 男子便所に入ってきて包丁を振り回すサイコパスだ。ジャックの家のことがもしやつにバレたのなら、つぎにやつがこの事務所にやって来るときは、ピッキングなんてかわいらしい手口でなく、日中、堂々と押し入ってきて、紗江や祐介をいきなりサバイバルナイフで刺しまくり、あっけにとられる藤崎の喉笛に切っ先を突きつけて、大金のありかを問いただしてくるだろう。ナイフでペニスを切り落とすなんて拷問だっていとわないかもしれない。それを思うと、包帯を巻いた左手がいまいちどズキリと疼いた。もう血がにじんでいる。藤崎は包帯交換を始めながら頭をめぐらせた。
 時間がなかった。ジャックの家に気づきしだい、やつはすぐにでも襲撃してくる。それを食い止めないと。だがここで武装して迎撃の機会を待つというだけではだめだ。
 もっと広い視野で考えてみたらどうなんだ?
 事務所のなかにまでフジオがついてきていた。
 「わかってるって」藤崎は苦りきった。
 カレンダーを見た。きょうが火曜。金曜の夜には、ヒロミの両親が待つ長野の別荘、藤崎統一郎にとっての刑場にいやでも向かわねばならない。
 根本的な問題にかたをつける絶好のチャンスかもな。
 フジオは藤崎の肩口でにやりとした。
 つまりこういうことだ。
 最善策は、藤崎自身がジャックの家の端緒をつかみ、都内のどこのマンションにお宝が眠っているか――もしくはまったくのデマであるのか――を確定することだった。そしてそれがデマでないと判明したなら、藤崎はフジオの言う“広い視野”に立つことができる。
 父親が弁護士だったため、一人息子がその職を目指すことは自然の成り行きだった。だが適量のワインに刺激されて心地よい眠りにいざなわれ、まだうぶだった高校時代にもどった夢を見たりすると、目が覚めてから藤崎は寝床でじっと考えこむことがあった。
 医者もよかったし、パイロットもよかった。アクション映画に影響されて、本気で秘密情報部員なんてものを夢想したこともあった。だが突き詰めたところ、藤崎は世界中を飛び回りたかった。べつに仕事でなくともいい。NHKのドキュメンタリーに登場するような地球上のさまざまな場所に自分の足で立ってみたいとの衝動が強かった。自爆テロが頻発していようと中東のオアシスの町で過ごしたかったし、想像を絶する過酷な環境だったとしても極地を体験してみたかった。
 それともうひとつ。
 始終痛感する問題があった。性欲で脳みそが満たされていた高校時代にはわからなかったが、それは断じてセックスにかぎった話ではない。義務を負わぬ恋愛にずっと身をゆだねられる自由な境遇こそ、藤崎がそもそも望んでいたことではあるまいか。そしてジャックの家こそが、それを現実のものとする神からの賜りものだった。
 それに思い至るなり、藤崎は祐介に向かって言った。「なあ、司法試験受かったら、どうするつもりだ」
 幾度となく訊ねてきたことだったが、きょうは意味がちがった。だが祐介にそんなことわかるはずがない。うんざりしたような顔でパソコンから目をあげた。「いつも話してるとおりですよ。つぎで合格れば検察官、もっと先なら弁護士から始めますよ」
 「つまり法律家の道ってことだよな」交換をしおえた包帯をビニール袋に詰め、デスクの一番下のひきだしに放りこんだ。映画のDVDが何枚か目に入った。やれやれ、ジャックの家を見つけたら、ゆっくりこいつを鑑賞することだってできるだろうに。
 「そうですよ」
 「うちは親父が弁護士だったから自然とそっちの道を選んだが、おまえはなにかほかのことを目指したりしなかったのか」
 それだってもう何度も聞いている話だった。「なんですか、あらたまって。でもまあ、そうだな……高校三年までは理系だったから、遺伝子工学とか考えたこともありましたよ」
 「研究者か」
 「まあそんなようなの」
 「もう間に合わないか」
 祐介は紗江のほうを見やり、わけがわからないという顔をした。「二百パーセント無理ですね。司法試験のほうが確実に可能性ありますよ」
 「そうか」だったらせめて結婚だけはするなよ……とは付け加えなかった。それよりも藤崎を現実世界に引きもどす喫緊の事態が起きていた。
 掃除機の音が聞こえなくなっていたのだ。掃除機のコードは事務所のドアのところから、まだしっかりとのびている。資料室のほうに向かって――。
 即座に立ちあがり、藤崎はそっちに急いだ。資料室のドアはダイソンのコードを挟んだ格好で閉まっている。あのおばちゃんが入ってから何分たった? 藤崎はドアが外れるほどのいきおいでノブをつかみ、引き開けた。
 目の前にダイソンが鎮座していた。故障したのなら、そこにしゃがんでスイッチをいじっている清掃員がいてもよさそうだったが、姿が見えない。目隠しのように林立する背の高い書棚の間を走り抜け、藤崎は清掃員を捜した。
 いちばん奥の作業机の前におばちゃんはしゃがんでいた。
 「おい、なにしてんだよ!」どたどたと近づきながら藤崎は怒鳴った。
 「はい」おばちゃんはゆっくりと振り返り、大きなマスクの奥から耳の遠い老婆のようなことを口走った。「ゴミ箱です」
 「なにしてんだよ、そこで!」
 「ゴミ箱ですよ。中身を空けないと。あぁ、ビックリした」そう言って彼女は立ちあがり、ひざまでの高さのスチール製のゴミ箱を藤崎にしめした。
 たしかにそこには紙の束が詰まっていた。見てすぐにわかった。以前使っていたプリンターのトリセツだ。きのう祐介が――きっと紗江とちちくりあったあとにでも――捨てておいたと言ってたやつだ。
 「いいんですよね、捨てて」心配そうに訊ね、事務所のあるじを見あげてきた。マスクをしているからはっきりとはわからないが、おばちゃんと呼ぶほどでもないようだった。まだ四十代ぐらいか。肉づきのいい真ん丸顔に分厚い眼鏡をかけ、茶に染めた髪をうしろでツインテールに結んでいる。顔同様、ぱんぱんに膨れた胸元には「黒澤オフィスサービス 神田友紀」とのネームプレートがあった。
 「ずいぶん時間がかかっているじゃないか」
 「すみません。きょうはすこし念入りにしました」この声を電話で聞いたなら、むしろ二十代とかんちがいするかもしれない。見た目とのギャップがいちじるしい、アニメの声優にいそうなかわいらしい声をしていた。つまり鳥居とは別人だ。
 それでも藤崎の猜疑心はおさまらなかった。「なんで? なんで、きょうは念入りなの?」
 「埃がずいぶん落ちているように見えまして。それでやっとゴミ捨てにたどりついたんです」神田の額には玉のような汗が噴いていた。それを首に巻いたタオルで拭き取ったとき、右の首筋に紫色をした大きな痣があるのが見えた。生まれつきのものだろう。藤崎の視線に気づいて、神田はその部分をタオルでふたたび隠した。「これでおしまいですから」それだけ告げると神田は、胸の前にゴミ箱を抱えて出ていった。
 「どうしたんですか」藤崎の背後に紗江が立っていた。「なんかヘンですよ、先生。いつものお掃除じゃないですか」
 「空き巣に入られたばかりだろ。ふつうじゃいられないって」そう吐き捨てて藤崎は事務所にもどった。
 カーキ色の作業着に身を包んだ見知らぬ若い男が立っていた。
 「先生、いらっしゃいましたよ、鍵屋さん」祐介が告げた。
 動揺が残っていた。心臓がドキドキするし、いま血圧を測ったら上は二百近くまではね上がっているにちがいない。藤崎は一計を案じた。どうせお盆休みだし、そもそもやるべき仕事なんてほとんどない。紗江も祐介も資料室が使えないならラブホに行けばいい。そこで藤崎は、鍵屋の若者にまずは事務所入り口の錠前を新調させたのち、無理を言って資料室の扉に南京錠をつけさせた。その作業をしている間、紗江も祐介も藤崎への不信感に言葉を失っていた。だがここでいちいち事情を説明するほど藤崎も小心者ではなかった。
 「うちで一番大事なものと言えば、事件記録だからな」鍵屋が帰ったのち、藤崎は口を開いた。「多重債務者の個人情報なんかを狙っている連中だっているかもしれない。念には念を入れようと思ってな」真新しい南京錠の鍵を藤崎はチノパンのポケットに放りこんだ。
 事務所開けてるときも鍵かけとくんですか。それをいま、この神経質な主人に訊ねるほど二人も野暮ではなかった。
 さすがにばつが悪くなり、藤崎は二人に先に昼食に行かせ、彼らが帰ってきたあと、ふらふらと東京駅のほうへ歩いていった。
 入ったのはガード下の中華食堂だった。たまに入る店だ。中国人店員の愛想は悪いが、味は悪くない。そういえば未明に“出勤”させられてからコーヒーしか飲んでいなかった。藤崎は迷わず回鍋肉定食を大盛りで頼んだ。
 それを待つ間に気づいた。店の奥にさっき訪ねたミルトンの支社長と若い従業員がいた。こっちは知らんぷりをしていたが、向こうは若いほうがちらちらと視線を向けてきた。東京ドームほど広い店ではない。小学校の教室の半分ぐらいの店だった。女性従業員が空き巣に入った事務所の経営者が同席していることなど、とっくに気がついているだろう。
 そもそもジャックの家は、小松嬢を取り調べた丸の内署の篠原警部から聞いた話だ。支社長ならそのあたりの事情を警察から聞いているかもしれないし、逮捕された部下と接見した可能性だってある。ランチセットをかきこむ二人の男は、いまの藤崎にとって新たな脅威かもしれなかった。
 べつの客が店に入ってきた。そっちを見て藤崎は進退窮まった。ミルトンの野郎たちのそばからは一刻も早く逃げだしたかったが、新しくやって来た客とは相席でもいいから接近したかった。
 名前はなんだったか。
 名刺入れを取りだそうとチノパンのポケットに手を突っこみそうになったところで、記憶がよみがえった。
 谷本道子……さんだ。
 憂いをたたえた瞳がそそる黒髪のあの人――。
 だがよりによって道子さんは、ミルトンチームの隣の席に吸いこまれていってしまった。
 おまえ、さっきカネさえあれば、自由恋愛にふけることができるとかなんとか、ぬかしてなかったか?
 テーブルの向かいに座り、お冷やをちびちびやりながらフジオがいやらしく訊ねてきた。
 だったらまずはカネ、ジャックの家、見つけろよ。
 うるせえな。
 残りのご飯を猛スピードでかきこみ、藤崎は伝票をひっつかんだ。
 なあ、フジオ、よく聞くがいい。見つけたいのはおれだってやまやまなんだよ。だけどな、見つからないから困ってるのさ。だったらどうするよ?
 急がば回れってやつさ!
 藤崎はきょとんとするフジオの頭をポンポンとたたき、炎天下の街にふたたびもどっていった。

 十一
 藤崎の父親、士朗は弁護士を開業するまで検察官だった。最後は東京地検特捜部で捜査検事を務め、そのころの同僚のなかには、立派に出世していまや巨大企業に見事、天下っている者もすくなくない。そんななかにあって来春、定年を迎える検察事務官の大田基弘は人がいいだけで、うだつのあがらぬ凡庸な国家公務員の典型だった。
 大田は士朗とコンビを組んでいた時期が長く、家族ぐるみの付き合いだった。それで藤崎も知っており、弁護士になってからは、手持ち事件についてアドバイスを受けようと何度か会ったことがあった。
 「定年したら釣りでも行きましょうって、よく言ってたんだよ」昼休みが終わるころを見計らい、黒澤セントラルビルの隣にある広場から藤崎が電話を入れたら、大田はしきりに士朗のことを懐かしがった。そういえば四十九日の法要のとき以来かもしれない。「女房とも相談して、辞めたら東京を離れようと思ってるんだ。娘も勤めてるし、そのうち結婚だってするだろう。年金は期待できないが、これまでに貯めたぶんもある。田舎で静かに暮らすよ。でもなぁ、親父さんが生きてりゃなぁ……」
 毛先のねじくれた古いほうきのようなくせ毛の白髪頭をしきりになでている姿が想像できた。白シャツにグレーのスラックスという昔ながらの公務員スタイルで地検の中庭あたりで夏空を見あげているのだろう。大田に話したいだけ話させてから、藤崎は三年前の無罪事件について切りだした。
 大田はいまも特捜部にいる。向こうだってなにか特別な事件のことを元上司の一人息子が訊ねてきたものと踏んでいるだろうし、守秘義務に関しては、ほかの特捜部連中と大田は変わらなかった。それでも遺恨の事件だったようで、門前払いはもちろん遠回しにあきらめさせるような態度にも出なかった。
 「裁判所が買収されたんだよ」いきなり告げられた。「知らなかったのか。有名な話だぞ」
 「有名って言ったって……」
 「まあ、新聞には載っていないが、本当だ」
 「金が渡ってたんですか」藤崎は慎重に言ったつもりだったが、大田はそれを鼻で笑った。
 「そんなわかりやすいものじゃないよ。こういうときはいつだって人事さ。やつらも公務員だ。給料に執着はないし、裁判官出身なら弁護士になったときの引き合いもちがう。そこでやつらがこだわるのは、やっぱり自分の出世なんだよ。一刻も早く最高裁にのぼりつめる。それしかないんだ」
 「それをちらつかされた?」
 「証言はいくらもあるさ」
 「調べたんですか」
 「それが仕事だからな、うちらの」大田は自慢げに言った。「だがそれ以上、どうしようもなかった。米丸の悪事は明白なのに、法的には無罪が確定してしまった。動かしようがないんだよ。涙酒飲んで気持ちを切り替えるほかなかった」
 それから大田は当時の捜査態勢を聞かせてくれた。
 「いちばん頑張ってたのは、ハヤマっていう女検事だな。粘り腰で、下についていたおれたちは徹底的に証拠集めさせられたよ。それでも嫌な感じはしなかった。正義感が強くて、言葉に説得力があった。そうだ、統一郎、おまえと大学おなじだぞ。年も近いんじゃなかったかな」
 「ハヤマ……」
 「端山昌美。聞いたことないか。三年生で合格ってる」おまえとちがって卒業してから司法浪人をつづけるようなことはなかったぞ。そこまでは大田も口にしなかった。「子どものころから検察官を目指していたらしい」
 「なるほど。エリート検事だったんだ」できるだけ感情をあらわさぬようつとめたが、どうしても嫉妬しているようにしか聞こえなかった。「まさかそれで美人だとかいうんじゃないでしょうね」
 「そこは安心しろ」大田は藤崎の自尊心を慰撫するように言った。「米丸事務所の家宅捜索のニュースを検索してみろ。そこに映ってるから。まあ、うちの娘のほうが女としちゃ、ずっとましだよ」藤崎は大田の娘は見たことがない。もう勤めているとの話だったが、さえない風貌の父親から想像するに月並み以上ということはあるまい。父親のひいき目を差し引いたとしても、端山はテレビドラマに登場する女検事のようではなさそうだった。「だから余計な誘惑に駆られることもなく、勉強に精をだせたんだろう。実家は浅草の靴問屋。セレブの家柄でもないな。男っ気のない仕事ひと筋のやつだったよ」
 「やつだった?」
 「いまちょっと休んでる」
 「休んでる?」あらぬ想像に藤崎は思わず大きな声を出した。藤崎のいる広場には、きょうも八月の強烈な日差しが降り注いでいたが、それでもくたびれたサラリーマンたちが何人かベンチに腰掛け、コンビニのおにぎりを頬張ったりしていた。彼らの視線がいっせいにこっちを向いたので、藤崎はあわてて背を向け、浮き立つ心を抑えた。
 「あの事件がきっかけさ」なかば藤崎をからかうように大田は言った。「根詰めすぎたんだな。捜査主任のもとで、彼女は米丸の政治資金の流れを追っていたんだ。それで莫大な資金がストックされているのを見つけた」
 「見つけたんですか」訊ねてから藤崎はしまったと思った。それがジャックの家である確証はないし、もしそうならこっちがそれに興味を抱いていることを知られるのは得策でない。
 それに感づいたようすもなく大田はつづけた「自分で見つけたわけじゃない。関連する証言を得ただけさ。現金で何億円も隠してある場所があるとのことだった」
 六億円でしょ、あんた。
 電話口に顔を近づけ、フジオがつぶやいた。
 「すごいな。でも裏付けは取れなかったってことですか」
 「そうなんだよ。それにその金の話がなくても、起訴は可能だった。ところがだ」
 「無罪になった」
 「あれからもう三年になるか……。やつはひどく悔しがったよ。当然さ。もうすこし証拠を積みあげておけばよかったんだ。いまにして思えば性急な起訴だったというわけだ。やっぱり金の流れをもうちょっと押さえてからのほうがよかった。あとひと息だったんだから」
 「ひと息……」
 「自信があったみたいだ。その……現金の隠し場所について」
 「ほぉ……すごいじゃないですか」藤崎はわきから顔を突っこんでくるフジオを押しやるのに必死だった。
 「だが時間は巻きもどせない。無罪を食らって検察への政治圧力が一気に高まった。その結果、捜査チームは解散させられ、多くが左遷の憂き目さ。あいつもその一人で、法務省の閑職に飛ばされた。一年もたたずにうつ病になったよ。権力につぶされることなんて、この世界じゃ日常茶飯事だが、彼女には耐性がなかったんだな。休職あつかいになったのは今年の春先だったんじゃなかったかな。おれも事件当時の勤務状況について、いろいろ事情聴取されたから知ってるんだ」
 「かわいそうに」
 「もう無理かもしれんな。ピュアな子だったから」
 「弁護士になればいいのに」表面的に同情しながらも藤崎は自らの興味に忠実だった。「休職ってことは実家に引っこんでるってことですかね」
 「いや、まだ官舎にいるよ。辞めたわけじゃないんだから」
 「九段下でしたっけ」藤崎はあてずっぽうに言ってみた。大田が引っかかってくれればいいのだが。彼はベテランの事務官。同僚のことならプライベートまで熟知している。父親がかつて言っていたことが本当なら、ここは勝負をかけるタイミングだった。
 「どうした。彼女からなにか聞きたいのか」図星をつかれ、藤崎は返答に窮した。「きょう診療所に来るんじゃないか。毎週火曜の午後は産業医面談のはずだ」

 十二
 追い出し部屋に入れられたことをパワハラだと主張する中年男との打ち合わせが、二時に予定されていた。だが過去二回の面談で、すでに藤崎は勝ち目がないと断じていた。まともに訴訟になった場合、クライアントが勝てる見こみはゼロに近かった。リストラ目的でいわゆる追い出し部屋に入れられたと主張するなら、使用者側があきらかに要員整理のためにそれを行っていることを立証する必要がある。しかし現実的には、パワハラを主張する側の多くに業務懈怠や不法行為などの就業規則違反があり、使用者側も手をこまねいている場合が多い。つまりだれが見てもそれとわかる札付きの従業員というわけだ。
 パワハラを主張する従業員には二つのタイプがある。作為型と不作為型だ。一億総神経症とも言えるいまの時代、どこかの専門家が分析していたが、圧倒的に多いのは不作為型だという。屁理屈ばかりつけて働かなかったり、心の病を理由にして出勤すらおぼつかない怠慢社員。そんな連中が職場に増殖し、自らの無能を棚にあげて給料をむしり取っているのだ。一方、上司や同僚を讒言し、被害妄想のようにわめきちらし、時として周囲に具体的な危害をくわえる攻撃的なタイプもすくなからず存在し、管理職を悩ませている。
 ただ、パワハラの主張に使用者側は委縮する傾向にあるが、裁判所はそのへんはシビアだ。すなわち変人やダメ人間に対しては、それなりの手しか差し伸べない。だから今回のクライアントの行状を見るかぎり、彼が法的に救済される見こみは極めて薄いのである。だがたとえそうであっても、いまの藤崎にとって邪険にあつかっていい相手など存在しない。面会を重ね、クライアントの言い分をとにかく拝聴して相談時間を増やすことこそが、生活費を稼ぐうえでの絶対条件だった。だがきょうにかぎってはちがった。大田との会話を終えた二十秒後、藤崎はキャンセルの電話をクライアントに入れ、憤然とした相手がだらだらと文句を言いだす前に切った。小金を稼ぐことに汲々とする生活にもそろそろおさらばしなければならない。
 診療所は合同庁舎のなかにあると大田は言っていた。神経科がくわわったのは何年も前のことらしい。なにかと批判される国家公務員だが、現実にはその世界でも心の病が蔓延しているようだった。
 タクシーでそこに向かう間に藤崎はスマホを操作して、YOUTUBEで過去のニュース映像を拾いだしていた。そのなかに米丸事件の家宅捜索の模様を伝えるものがあった。米丸の東京事務所が入るオフィスビルに十人ほどのダークスーツの一団が吸いこまれていく。そのなかにまずは大田の姿があった。控えめな性格がその場でも発揮され、銀縁眼鏡のいかにもエリート面をした先頭の中年男とその配下の若僧二人組の陰にかくれ、背中を丸めて歩いている。
 端山昌美はすぐに見つかった。女は一人しかいなかったからだ。就職面接に着ていくような黒のジャケットとパンツに身を包み、男たちに負けじと集団のまんなかを突き進んでいた。藤崎は映像を拡大して顔をたしかめた。
 大田が言ったとおり、天は二物を与えなかった。どう見てもカフェのアルバイトには採用されまい。デパートの従業員で言うなら、地下食品売り場のさつま揚げ専門店、しかも裏のほうで一日じゅう油と取っ組み合っているのがお似合いというタイプだ。太っているわけではないが、どうも顔のサイズが目立つ。あごのラインが男のようだった。さらにビル風を受けてめちゃくちゃになったと疑わせるほど短い黒髪は逆立ち、ひいでた額があらわになっていた。
 弁護士の名刺を使って合同庁舎への侵入に成功した藤崎は、診療所の待合室で彼女を見つけようとたくらんだ。しかし自動ドアが開いた途端、受付カウンターの姉ちゃんからにっこり微笑まれたので、巧妙なウソをついて退散した。エレベーターホールのわきに自販機コーナーがあった。そこで藤崎は缶コーヒーを飲むふりをしながら診療所の人の出入りをチェックした。
 新しいポロシャツに着替えてきてよかった。真っ赤な私立探偵のままだったら、十分もしないで警備員がやって来たはずだ。だがそれでも一時間を超えるころになり、さすがに出入りする看護師から妙な目で見られるようになった。藤崎はスマホで端山昌美の顔を何度も確認した。ことによるとひと足先に帰ってしまったのか。それとも大田の勘違いだったのだろうか。あきらめかけたとき、だぶだぶのTシャツに太った体を包んだ女が幽霊のように目の前を通過した。肩からナイロン製の大きなスポーツバッグをさげている。診療所にやって来たところだった。黒のレギンスもはちきれそうに張りつめている。だがもし彼女がそのとき「法務省」と印字された封筒を手にしていなければ、藤崎の興味をことさらにひくことはなかっただろう。
 三十分ほどして女が出てきた。まだ封筒を手にしている。藤崎は自販機コーナーから飛びだし、エレベーターを待つふりをして死角に立った。そして気づかれぬよう首をのばして注意深く封筒に目を落とし、そこに書かれた宛名に目を凝らした。そこには小さなペン字で「端山昌美様」とはっきりと記されていた。
 エレベーターが到着し、扉が開いた。Tシャツの襟もとがだらしなく広がり、肩からさげたバッグの幅広の持ち手を肉厚の皮膚にじかに食いこませた女がなかに吸いこまれる。だが藤崎はあとについていけず、かわりにへたなフォークダンスでも踊っているかのように右方向にぎこちなく三歩ステップして、こちらに向きなおった端山の視線から逃れた。YOUTUBEで見たときはスーツを着ていたからだろうか。それにしても印象がちがう。ショートカットのままだったが、針金のように突き立っていた髪はぐったりと頭皮に張りついている。体もぼってりと太っていてしまりがない。これではスーツは無理だろう。だがそれよりも藤崎を逡巡させたのは、横からほんの一瞬だけ見えたどんよりと暗い目つきだった。心を病んでいる。藤崎はなんと声をかけたらいいか戸惑った。米丸直太郎のジャックの家のことを聞きたいと正面から訊ねるべきだろうか。だがいきなりそう告げても不審がられるだけだし、守秘義務の壁がある。だいいち本当に信用できるのかもわからない。やつこそが例の掲示板を書きはじめた人物である可能性だってある。
 それだけでなかった。
 どこかで会った記憶があったのだ。それもごく最近――。
 逡巡しているうちに扉が閉まってしまった。はっとわれに返り、藤崎はエレベーターの隣にある非常階段に飛びこんだ。診療所は五階だ。下までダッシュで降りて間に合うか。藤崎はなまくらな脚に鞭打って転げ落ちるように階段を下った。
 一階に着いたとき、すでに端山は二十メートルほど前方を歩いていた。息を整えながら藤崎はそのあとについた。その間にもなんと言って声をかけるか、それともかけずに尾行をつづけるべきか、それよりいったいどこで会ったことがあるのか、必死に頭をめぐらせた。
 合同庁舎の外に出るなり、午後のとんでもない日差しになぶられた。めまいさえおぼえたが、端山はものともせずに桜田通りのほうへ歩いていく。産業医面談では職場復帰の可能性について訊ねられたにちがいない。もう一度、特捜部にもどりたい。そんな希望を伝えたのだろうか。地下鉄の入り口へと近づいていく肉厚の背中からは推し量りようがなかったが、藤崎は意を決した。おなじ法曹なのだし、大学の同窓生。ことによると同学年だったかもしれない。声をかけて事情を説明したらきっとドトール――最近はあそこばっかりだ!――にだって同行してくれるはずだ。
 端山は地下鉄に下りなかった。引きずるような足どりで、桜田通りから内幸町方面へと歩きつづける。タクシーを捕まえるならとっくに手をあげているはずだ。だったらこのままべつの場所、たとえば銀座あたりにでも向かうのだろうか。藤崎は葛藤した。いまここで声をかけるべきか。それとも尾行をつづけ、自宅まで割りだしておくべきか。しかしふいにタクシーに乗られないともかぎらない。ええい、そうなったらこっちもべつのタクシーをとめて、あとをつけるまでだ。
 藤崎は相手との距離を危険なまでに縮めた。端山は気づきもしない。日比谷交差点で立ちどまったさいには、五メートルほどにまで近づき、ずた袋のようなバッグを肩から下ろした姿を斜めうしろからスマホのカメラで撮影もした。
 銀座には向かわず、大手町方面に端山は足を進めた。藤崎御用達のドトールの前も通過し、藤崎は自分の事務所に帰っているような錯覚に陥った。もしややつはついにキレて、藤崎の事務所に対する私的強制捜査に踏みきろうとしているのではないか。体じゅうの水分を奪い取らんと頭上から降り注ぐ日差しに首筋を焼かれながら、藤崎は困惑しはじめた。
 予想は二十分後に的中した。端山は黒澤セントラルビルの前にやって来て、エントランスに近づいた。もしなかに入ったら、そこでつかまえるしかない。藤崎は心をきめた。そのまま九階まであがらせるわけにはいかない。やつを事務所に入れるつもりはなかった。だが彼女はエントランスの前を通過し、そのままビルを通り過ぎて、真夏の太陽をぎらぎらと照り返す隣の銀行との間にある通りを右に曲がってしまった。藤崎は速足でそっちに近づき、角のところからまるで『家政婦は見た』の市原悦子ばりに路地のほうを見やった。
 端山の姿はなかった。雑踏に消えたわけではない。片側一車線の通りで七、八十メートル先の大通りまで歩道はまばらだった。藤崎は路地に進み、すぐにいやな予感に駆られた。そこには黒澤セントラルビルの通用口があった。防災センターがわきにあるところで、夜間の出入り口となるほか、業者がゴミ収集にやって来たりする、いわばビルの肛門のような場所だった。
 通用口の奥をのぞきこんだが、まぬけそうな警備員と目が合っただけだった。だがここからなかに入った可能性は高い。外部の人間は正面からでないとなかに入れない規則だから、端山は入館証を手にしており、つまるところテナント従業員に化けていたというわけか。
 藤崎は入館証を取りだし、通用口に飛びこんだ。小さなゲートを通過すると、警備員が「おつかれさまです」と声をかけてきた。いちべつすらせずにエレベーターの前に急ぐ。テナントの従業員らが使うものでなく、業務用の大型エレベーターだった。それがぐんぐん上昇していくのが階数表示板でわかった。それがもどって来るのを待つわけにいかない。藤崎は通路を走り抜け、正面エントランスに出た。こういうときにかぎってエレベーターが来ない。いらいらが頂点に達したときにようやくやって来たそれに乗りこみ、藤崎はドアクローズボタンをぶったたいた。
 獲物に飛びかからんとする肉食獣さながらの猛然たるいきおいで、藤崎は九階のホールに転がりでた。ミルトンの支社長が目の前でエレベーターの到着を待っていて、あやうく頭突きを食らわせるところだった。「あぁ……すみません……」と素っ頓狂な声をあげたのは、もちろん支社長のほうだ。
 支社長の姿が鋼鉄の箱に消えると、フロアは静まり返った。昼下がりのまったりとしたひととき、テナントの従業員たちはそれぞれの居場所で人知れぬ悪事をそれぞれにたくらんでいることだろう。
 ホールの端、ミルトンの事務所などが並ぶ廊下側でひそひそと話しこんでいる二人がいた。一人は藤崎の事務所にもやって来た茶髪の清掃員の女。だがこちらに背を向ける女性の姿に藤崎はびくりとした。動転した姿は見られたくない。本能的にそう思い、藤崎は自分の事務所のほうに足音をしのばせて急いだ。谷本嬢だ。とんまな掃除婦を相手に清掃指導を行っているようだった。
 事務所では、紗江と祐介が黙々と仕事をしていた。ぱっと見にはそう思えたし、すくなくとも資料室に鍵がかかって入れないからといって、ソファでまぐわったりしているわけではなかった。
 「だれか来たか」まっさきに訊ねると、「いいえ、だれも」と顔もあげずに紗江がめどくさそうに返事をした。
 藤崎は資料室の真新しい南京錠をたしかめ、落ち着かぬ気分で事務所内をうろうろと歩きまわった。端山は今夜にもやって来るだろうか。やつは掲示板に書かれている以上のことを特捜部の捜査を通じて知っているはずだ。だったらやはりこの事務所内に、ジャックの家につながるカギがあるというのだろうか。
 待てよ。
 藤崎はスマホを取りだし、先ほど撮影した写真をズームアップしてたしかめた。背筋を寒気が走る。
 やっぱりだ。
 氷が詰まったように頭が急に重くなってきた。
 写真の女、日比谷交差点でバッグを下ろした太った元特捜検事の肩には、紫色の染みのようなものが写っていた。大きな痣のようだ。藤崎はきょうの昼前、この事務所で、しかもよりによって資料室のなかでそれとおなじものに出くわしていた。
 ネームプレートにはなんと書いてあった……?
 かん……神田。そうだ……神田友紀……ではなかったか。あのときは眼鏡にマスクをしていたからわからなかった。茶髪のツインテールはかつらだろう。ちくしょう、あいつ、資料室にずっと出入りしていやがったんだ。
 いったいいつからだ。
 藤崎は猛然と事務所を飛びだし、エレベーターホールに急いだ。谷本嬢がいてもかまうものか、理由をつけて事務所に連れこみ、徹底的に尋問してやる。
 ホールは無人だった。
 谷本嬢の姿もない。藤崎はエレベーターの階数表示板を見た。下に向かって急降下していく。そこへ偶然、もう一台がやって来た。藤崎は即座にそれに乗りこもうとしたところで立ちどまった。追いかける必要はない。所属する黒澤オフィスサービスに問い合わせて、やつの連絡先をつかめばいいのだ。適当な理由をつけて。
 藤崎は興奮した雄牛のように肩をいからせながら事務所にもどった。まちがいない。ジャックの家の場所をしめすカギは、目と鼻の先の部屋にあるのだ。たとえ元特捜検事を拷問することになろうとも、だれよりも先にそれを見つけてやる。それにより鳥居なるストーカーからはもちろん、ヒロミからもその義父母からも、そして鬱陶しいあらゆる現実からも逃れることができる。
 六億だ!
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