七章

文字数 16,113文字

 七章
 十八
 ジョッキに生ビールを半分以上残したまま、藤崎はスマホを操作した。同姓同名の女が惨殺された。それはとんでもない偶然の一致にすぎない。理性で考えればそうなのだが、そうとは割り切れぬいやな予感に藤崎は駆られていた。どことなく憂いをたたえ、救いをもとめるようなあのまなざし。多少は染めているのだろうが生命力を象徴するような長い黒髪。それにスーツのうえからもわかる大人の女特有のやわらかな体の線。彼女のオフィスで言葉をかわしたときの記憶が頭のなかにあふれ、藤崎は息苦しくさえなってきた。
 新聞社のサイトを開き、おなじニュースを探してみた。そして被害者の顔写真に出くわし、ようやく藤崎はほっとした。ライズの谷本嬢とは似ても似つかぬ、腫れぼったいまぶたの下に団子っ鼻のついた丸顔の女だった。考えてみれば、あの谷本嬢が三十三歳だとは思えない。酸いも甘いも嗅ぎ分けた熟女とまではいかないが、四十歳は過ぎているだろう。藤崎は残りのビールをあおり、おかわりを注文した。
 悪い冗談はよしてくれ。いまはほかに考えなければならないことがあるんだから。つきだしの枝豆を口に運びながら、藤崎はぼんやりと混み合う店内を見まわした。近くのテーブル席のカップルがタブレットに見入っていた。その会話が耳に飛びこんできて、ビールの苦みが喉をせりあがってきた。テレビでたったいま報じられたニュースを引き合いにだしていた。
 「大手町の人材育成会社勤務だって」
 「チームリーダーってなにしてたんだろう」
 「いじめたんじゃないか。部下を。そうじゃなきゃ、こんな殺され方しないよ」
 二人はニュースとはちがうサイトを見ているようだった。きっと興味本位で氏名から検索して被害者のプロフィールを探っているのだろう。
 「サボテンだ。見るからに痛そう」
 藤崎はふたたびスマホを操作した。ブログはすぐに見つかった。被害者のものではない。彼女と仕事上の付き合いがある女性のものだ。被害者が大手町にある人材育成会社のチームリーダーである旨が記してあり、プライベートな交流がつづってあった。そしてそこには被害者が送ったと思われる職場で働く自らの写真が併載されていた。写真の背後の窓辺にはサボテンの鉢があった。
 人間が手のひらを広げたような肉厚で黄緑色の葉をしている。藤崎はそれに見覚えがあった。それはつい最近の記憶だった。藤崎総合法律事務所とおなじ九階のフロアに入るテナントをきのう一軒一軒まわったとき――。
 「ライズ企画……」思わずつぶやいてしまった。
 写真は彼女じゃないけどな。
 ビールの代金を支払い、藤崎は店を出て篠原警部に電話を入れた。川崎の事件なら神奈川県警が捜査しているのだろうが、そっちには知り合いの刑事も検事もいない。それに被害者の勤務先が大手町なら、そこを管轄する丸の内署だって無関心ではいられないのではないか。事件発生の情報ぐらい入っているだろう。
 「先生だからお話するんですよ。守秘義務がありますからね」そう前置きしてから篠原は教えてくれた。被害者は入浴中に襲われ、猿ぐつわをかまされ、手足を縛られたうえで、錐かアイスピックのような先端がとがった金属で、全身を百か所以上めった刺しにされていたという。しかも心臓や頸動脈など急所が巧妙に外されており、被害者は失血によりこと切れるまで数時間、激しい痛みに悶え苦しんだはずだと篠原は説明した。「風呂場じゅうに血が飛び散っていました。強烈な怨恨ですね。先生とおなじフロアのライズ企画という会社の従業員ですよ、被害者は」
 藤崎は全身がマヒするような感覚をおぼえた。「写真が出ていたんだが」
 「写真ですか」
 「顔写真さ。おれの知る谷本さんとはちょっと、てゆうかずいぶんちがう印象なんだが」
 「整形でもしたんじゃないですか。いまはそういうのも手軽にできるのでしょう」篠原は意に介することなくさらりと答えた。
 「そんなことないって。別人だと思うんだが」
 「では新聞社のほうで別人の写真を載せてしまったのでしょうか。それはそれで問題だとは思いますがね。でもとにかくライズ企画の谷本道子さんですよ。その点はまちがいない」
 「信じられないな。だってきのうの午後も職場で見かけたんだぜ。元気だったのに」
 篠原はため息をついた。「きのうの午後? ありえませんよ」諭すように話しだした。「報道発表していることだし、記事でも言及していると思いますけどね。もう一度おたしかめになっていただいてもいい。川崎の自宅で遺体が見つかったのは、きのう火曜の午前十一時半なんですよ。藤崎さん、どなたかと勘違いされてませんかね?」
 「見つかったのが、きのうの午前……?」
 「そうです。すくなくともきのうは出勤できなかったでしょうね。犯行推定時刻は月曜の深夜から火曜の未明にかけてだと思われます」
 電話を切るなり、藤崎は名刺入れから彼女の名刺を取りだし、職場に電話を入れた。妖艶な顔だちが脳裏に焼きついて離れなかった。
 若い女の声が電話から聞こえてきた。谷本嬢のことを訊ねると、動転したようすでかろうじて不在を告げてきた。電話を切ったあと、藤崎はしまったと思った。発信元非表示で架電するのを忘れていた。もし神奈川県警の捜査員がそばにいたら、あらぬ疑いをかけられてしまう。
 五分後、その通りとなった。恵比寿駅前のロータリーを渡っているときだった。
 「先ほどお電話されましたよね。声でわかりました。藤崎さん、弁護士の先生ですよね。おなじフロアの事務所の」
 「ライズ企画の……方?」
 「はい。武井ともうします。きのう、会社にいらっしゃったとき、お見かけしたものでして。一瞬目が合ったような気もします。窓側の席に座っていた者です」
 それでぴんときた。ウチワサボテンの鉢の手前、顔はかわいらしいが、下半身に難のある例の大根娘だ。
 「いま職場の外からかけています。警察の人が来ているので。ちょっとお知らせしておこうと思ったことがありまして」
 「まさか谷本さんのことで?」藤崎は息をのんだ。
 「名刺を渡されたんですね、あの人から」
 「あの人……?」恐ろしい予感が背筋を走った。おれに名刺を渡してきたのは……。
 「谷本なんかじゃないですよ」
 「おたくの管理職とかじゃないのかな」
 「川島というスタッフです」
 「川島……なぜだ、なんで違う名刺を渡してきたの?」
 「谷本はきのう休んだんです。というか出社しなかった。わかりますよね、ニュースのとおりです。藤崎さんが訪ねていらしたとき、あの人、なにくわぬ顔をして谷本の名刺をつかんで、藤崎さんと話をしたんです」
 川島――。
 あの人のことだろうか。ひさびさにおれをときめかせたあの黒髪の。「なんでそんなことを」
 「なにかやましいところがあったんじゃないかと思うんです。弁護士の方がいきなりいらっしゃったんで取り乱したのかもしれない」
 「やましいところって、なんですかね?」
 「川島さんは、藤崎先生のことを知っていたんじゃないですか」
 「知っていた? そんなことはないと思う。きのうが初対面だった」だがそれより以前に向こうはこっちのことを知っていた可能性はある。なんといってもおなじフロアで働いているのだから。
 「おととい、電話を差しあげていたような気がするんですが。営業の――」
 営業の電話……。
 藤崎は絶句した。
 まさか。だが冷静に考えれば、あの声は彼女に似ていなくもないし、それにおととい、防犯カメラに撮られたエレベーターホールの映像には、たしかに彼女が映っていた。ランチに向かうさい、紗江の前でつい「バアさん」と口走ってしまったあのときだ。
 「お宅の会社……」やっとのことで藤崎は声を絞りだした。「ライズ企画……だっけか。いったいなんの会社なの……?」
 「いちおうは隣の新光銀行系なんですが、不動産販売とか先物取引とか投資関連の電話勧誘をおもに行っています」
 「おい、待てよ」藤崎はわけがわからなかった。「こないだは人材育成事業がどうとか言ってたじゃないか」
 「それは川島さんが言ったことですから。じっさいにはちがいます。あたえられたリストにもとづいて、ひたすら電話をかけつづける。そんな勧誘に引っかかる人なんて絶対にいないってわかっているのに、とにかくかけつづけて話をする。それが仕事です。嫌われようとなにをしようと、くりかえし電話をする。ようするに迷惑電話ですよ。かけているほうだって、いやな気分になる不毛な作業。それが仕事なんです。だから相手を怒らせるなんてあたりまえ。へたをすると訴えられるから、みんなテレホンネームをあたえられているんです」
 「テレホンネーム……?」だが察しはついた。ペンネームのようなものだろう。だったらそれが……。「その川島って人のテレホンネームはなんなんだよ」
 「お察しのとおりです。“鳥居”です」
 朝のエレベーターでドアボタンを押して、おれを先に下ろしてくれたあの女、先方の事務所をどたどたと訪問したおれの話に気づかわしげに耳を傾けてくれたあの女、そしてガード下の中華屋に一人でさみしげに昼食をとりにやって来たあの女。
 なにより左の手首にためらい傷のような痕があったあの女――。
 あれが鳥居だったのか。
 これではっきりした。やつは月曜の昼、エレベーターホールでおれと紗江の会話を耳にしたのだ。それであてずっぽうでかけた勧誘電話の相手が目の前にいることを把握したというわけだ。
 こりゃひどいな。
 耳元でぼそりとフジオがささやいた。
 生まれてはじめてじゃないか。こんなに幻滅したことは。
 怒鳴ってやりたい気分だったが、電話口では、武井と名乗るライズの女が話をつづけていた。それを聞きのがすわけにいかなかった。
 それこそが話の核心部分。丸の内署の篠原警部に聞かされた事件にもかかわってきそうな驚愕の事態だった。

 十九
 待ち合わせ客でごった返す恵比寿駅前で、藤崎は呆然と立ちつくしながら、スマホを握りしめていた。ある意味、これは弁護士としての電話相談。それも無料電話相談であった。やりようによっては、貴重な収入源にすることだってできたかもしれない。武井嬢もかつては親会社――といってもグループ会社の頂点と末端中の末端といった関係だったが――の新光銀行で法人営業の仕事をしていた。だが職場でうまくいかずに心の病を患い、さらにそれがもとで配置転換と休職がつづき、気づいたときには会社のお荷物社員になっていたという。そして三十六歳になった今年出向させられた人材開発会社のさらに子会社が、テレアポ専門のライズ企画だった。
 「殺された谷本は、わたしより三つも年下でした。以前は芸能事務所でマネージャーをやっていたそうですが、わたしが来る一年ほど前にヘッドハンティングされてライズに入社し、チームリーダーを務めていました。ヘッドハンティングされたのは、谷本には得意分野があったからです」武井は吐き捨てるように言った。「女性のくせに血も涙もない。実行不可能とわかっている業務を課して、結果を出させようとする。音をあげようものなら、その場で立たせて、ねちねちと陰湿になじってくる。癇癪持ちですぐにキレるし、相手に逃げるすきをあたえず、人を人と思わずに徹底的に追い詰めるパワハラぶりは、中学のいじめっ子とか部活の問題顧問そのものです。朝から夕方まで一日八時間労働。昼休みもちゃんと一時間もらえますが、あとはじっとオフィスに座らされて、ひたすら電話をかけるだけ。あの女に監視されながらですよ。だけどライズに流れついた者たちは、そこから先、どこにも行くことができない。だから必死に耐えているんです。逃げだしたら、職場放棄で処分の対象になってしまう」
 あのオフィスを訪ねたとき、すでに谷本はいなかった。だからだろうが、さほど異様な雰囲気は漂っていなかった。だがそれより以前、新たなクライアントを見つけようと躍起の藤崎が無料法律相談会への出席を希望する返信メールを弁護士会あてに書いていたころ、目と鼻の先、エレベーターホールの向こう側では、こっちの飯のタネになりそうなパワハラ行為が平然と行われていたのだ。「それにしても、なんでそんな生産性のない仕事をしているんだろうね。余剰人員……いや、失礼……人材のもっと有効な活用法とかないのかな。大銀行の系列なんだから」雑踏のなかで藤崎は向かいのアーケードに目を凝らした。新光銀行のキャッシュコーナーがある。あの銀行は、武井嬢ならずとも藤崎も好きになれなかった。新光銀行は、いまもずっと頭があがらない義父が以前役員を務めていたところだった。
 「待ってるんですよ。じっと」泣きだしそうな声で武井は訴えた。「わたしたちが辞めるのを」
 藤崎は今夜の飲み代を下ろそうとキャッシュコーナーにひっきりなしに出入りするサラリーマンたちを見て、吐き気さえ覚えてきた。「それでじっさいに――」
 「そうです。もう何人も辞めています。再就職がとりわけ厳しいこのご時世に、三十歳そこそこで無職に転落させられる。なにも悪いことなんかしていないのに」
 それはそうだろうが。藤崎はやるせない気分になった。悪いことをしなければ雇いつづけてくれるほど、いまの世のなかは甘くない。おなじ職場の社員どうし、痛烈を極める競争も避けては通れない。ピラミッド構造である以上、年齢があがれば、だれかが落ちていく。武井は甘えている。それも一つの真実だろう。だがコストカットのために、非人間的なやり方で無理やり退職に追いこむのは、健全とは言えまい。藤崎はからなずしも人としてまっとうに生きてきたわけではないし、ぐうたら社会人の最たるものだが、それくらいの感性は持ち合わせていた。「もしかしてその谷本って人の“得意分野”とやらは、つまり……ある種の人材管理ってことかな? その能力にたけていると」
 「そういうことです。新聞でいろいろ言われてますけど、ライズ企画こそが正真正銘のブラック企業で、そこの追い出し部屋をパワハラによって管理していたのが、殺された谷本、あの女なんです。だからこんなことを言ってはなんですが、いい気味だという気持ちが強いですね」それから武井は独り言のようにつぶやいた。「あぁ、言っちゃった。でもスッキリした」
 そういえばきのう、追い出し部屋に入れられたって主張する男からの法律相談をすっぽかしたんだったな。いや、すっぽかしたんじゃない。延期だ。無視したわけじゃない。あの男はたしか電話をかけるのでなく、電話番を押しつけられたんじゃなかったかな。おれとの面談でも屁理屈ばっかりこねて、いったい気が強いんだか弱いんだかわかりゃしない優柔不断な野郎だった。おそらくいま電話で話しているこの女も、要するにやつと似たり寄ったりにちがいない。だが“鳥居”こと川島はちがった。だから武井嬢は電話をしてきたのだ。じっさいに殺人が起きたのだから。
 「川島さんは銀行の二期上の先輩で、今年三十八になるはずです」
 「三十八……本当かい。もっと年上に見えたんだけどな。それならわたしと同い年ですよ」
 「見た目、落ち着いていますからね。わたしも法人営業部でいっしょに仕事をしていたことがあります。どういう縁か知りませんが、川島さんとおなじ職場に流れつきましたが、わたしたちに共通するところはまったくありません」まるで身の潔白を訴えるように言った。「谷本さんなんかより、まちがいなく凶暴です。その話は刑事さんにもしたばかりです」
 藤崎は口のなかにたまった唾を飲みくだした。パワハラを主張する従業員には二つのタイプがある。作為型と不作為型だ。学者による分析を藤崎は思いだした。そのうち武井は、残念ながら大多数が属する不作為型だ。しかし、いま話題となっているテレホンネーム“鳥居”なる女は、作為型らしい。
 「あの人ならこんなところに押しこまないでも辞めさせることはできたと思います」武井は身震いしているようだった。
 川島は入行当初はちやほやされ、本人も明るく振舞っていたが、数年前にライン職を外されたころから行動が異常になってきたという。というかその兆候があらわれたために傍流部署に移されたというのが真相のようだった。「客観的な事実が存在しないというのに、セクハラやパワハラをでっちあげては、職場で大声で泣きわめいて騒ぐんです。それで自分の主張が受け入れられないと、方々の部署に訴え出る。ネットにまで拡散させることもあって、名指しされたほうがノイローゼになるほどでした。それであるとき、がまんの限界に達した上司が、彼女を会議室に呼びだしたのですが、しばらくして会議室から飛びだしてきたのは、上司のほうでした。悲鳴をあげながら、右目を押さえてね」
 会議室では、ボタンの取れたブラウスの胸元をおさえた川島が立っていた。いきなり上司が胸を触ってきたという。そのための正当防衛として、ペンを振り回したら顔にあたってしまった。川島は同僚にそう説明した。
 「会社だってばかじゃありませんから、そんなウソは見抜きました。それで落ち着いたころを見はからって、こんどは人事部の担当者が直接、関連会社への出向を打診したんです。そうしたら――」
 「また暴力ざた」
 「いいえ、もっと悪質になりました。翌日から横浜の青葉台にある幼稚園のまわりに出没するようになったんです」
 「幼稚園?」
 「人事部の担当者のお子さんが通っている幼稚園です」
 「子どもに手を出したのか。それならすぐに――」
 「手なんか出しませんよ。ただ、毎朝出かけていって、そばで見つめるだけ。そして子どもを連れてきた母親にあいさつをする」
 「名乗って?」
 「もちろん。それが一週間ほどつづきました」
 「なにもしないのなら通行人とおなじだよな」
 「でも人事担当者は青くなりましたよ」
 「ペンの一件があるからか」
 「それからは彼女の人事はずっと凍結のまま。仕事なんてしてませんよ。ただ会社に来るだけでした。それで先月になってようやく人事部がもう一度動いて、なんとかライズに押しこんだんです」
 「いろんなウソを並べてだろ。その手の相談はわたしの専門でね」藤崎はさも事情にくわしいように言った。だが姿かたちとのギャップもあって、川島なる女の異常さが余計際だって感じられた。手首に残る例のためらい傷のような痕だって、自作自演の狂言自殺だったかもしれないし、だれかと格闘したさいの傷だってこともある。「七月に異動してきたってことは、まだ一か月もたっていないってことか」
 「本物の事件を起こしてしまったみたいですね」
 「とんだ追い出し部屋だな。もし本当にその谷本って人を殺したのなら、言い方は悪いが、新光銀行にとっては願ってもない話なんじゃないか」
 「捕まれば、ですけどね。でもそれまでに被害者が増えないともかぎらない」
 「かつての職場への復讐か」
 武井は声をひそめて言った。「それだけじゃないかも。あの人、もう完全にイッちゃってますから。ライズ企画は、獣を閉じこめておく檻でもあったんですよ。その錠が壊れて、あの人、解き放たれてしまった。そんな気がしてならないんです。藤崎先生、あの人と電話で話したとき、なにか刺激するようなことはおっしゃってませんよね」
 それには藤崎も口ごもった。
 バアさんで体がきかないんじゃ無理だけどな――。
 あの一言が怪物を刺激していた。その後の会話でその点ははっきりしている。しかもやつは電話の相手がおなじフロアに勤めていることを把握し、わざわざあいさつに来た。コーラ・キャンディーまで持参して。本物の谷本道子が殺害されたのはその後ということになる。つまりおれが引き金を引いたというのか。藤崎は腹の底に重苦しいものを感じた。
 「警察が動いてるんだろ。時間の問題じゃないか」
 「だといいんですけど。きょうは出社していないんです」
 被害者は、錐のようなもので全身を百か所以上めった刺しにされ、長時間、痛みに悶え苦しみながら死を迎えたという。
 ふいに妻子のことが藤崎の頭をよぎった。まさか。やつは自宅の住所まではつかんでいまい。だが武井の話を聞かされたあとでは、漠たる不安は容易には払しょくされそうになかった。
 あんたに復讐したいんだよ。
 武井嬢の声が遠のき、スマホからフジオの声が聞こえてきた。
 でも家族を襲うなんて古めかしい手を使うかな。それじゃ自分の身が危うくなるだけじゃないか。その川島って女は、きっと頭のきれるやつなんだろう。社会常識もぶっちぎってるが、相当計算高いこともたしかなんじゃないか。とくにあんたを相手にした場合、家族に危害をくわえる以上におトクななにかがあるんだからな。
 「ジャックの家……」
 「はい?」武井が聞き返してきた。
 「あ、いや、失礼。きょう出社していないのなら、逃走しているかもしれないな。でも自宅以外の立ち回り先なんて、すぐにわかるものだよ。友人の家とか親元とか。それにこの手の犯人の場合、出身地とかゆかりの場所に向かう傾向があるんだ。たぶん警察もそのへんに網をかけているさ」刑事事件などろくに手掛けたこともないくせに藤崎はぺらぺらとしゃべった。「生まれはどこだかわかってるの?」
 「神奈川県の藤沢です。ずっと前に食事をしたときに聞きました。海のほうだって言ってました。鵠沼ってごぞんじですか」
 「ウソだろ……」藤崎も鵠沼の出身だった。くねくねと入り組んだ路地の左右に時折、いにしえのお屋敷も並ぶ瀟洒な町。さして自慢したことはないが、湘南の中心地でもあり、世間的には羨望のまなざしで見られている。「鵠沼のどのへんだろう」思わず訊ねた。
 「小田急線の駅の裏だって言ってました」
 「駅って本鵠沼? それとも鵠沼海岸?」つい訊問口調になってしまった。
 「いやぁ、そこまでは……どうしてですか。くわしいんですか、あのへんのこと」
 「いや……昔よく行ったからね」
 「あぁ、江の島とか湘南海岸ですからね。そうそう、海のすごく近くだって言ってたような記憶があります」
 「じゃあ、鵠沼海岸だ!」藤崎は叫び、青ざめた。そばでスマホをいじっていた若い男がぎょっとして顔をあげた。
 まさに藤崎の実家の最寄り駅が鵠沼海岸だった。駅まで歩いて五分のところだった。たしか武井嬢は、川島が三十八歳だと言っていた。ということは学年も藤崎といっしょである可能性が高い。高校は私立の男子校だったが、藤崎は中学までは地元の公立校に通っていた。
 「川島さんだが、参考までに下の名前を教えてもらえるかな」
 「はい、モトコです」
 脳の奥深くでかすかな反応、眠っていたシナプスが目を覚ましたかのようなきらめきが起きた。「字はどう書くの?」
 「味の素の素。それに子どもの子です」
 川島素子。
 失われた記憶は意外と早くよみがえった。ほとんど瞬間的だった。同時に藤崎に三度目に電話をかけてきたとき、やつが口走ったフレーズが頭のなかで狂ったようにダンスをはじめた。

 二十
 電話を切ってから藤崎はたまらずもう一軒、べつの店に飛びこんだ。チリ産のシャルドネがグラスで九百円もするぼったくりのようなカウンターバーだったが、とにかくなにか冷たいものをぐっと喉に流しこみたかった。そうでもしないと沸騰した記憶の逆流に体のなかがやけどしてしまいそうだった。
 出たがりのフジオを抑えつけ、藤崎は記憶と対峙した。
 ランチバイキングのときに紗江にも指摘されたことだが、おれは相手が女だろうとだれだろうと、思ったことをつい口にするし、見境のない行動に出る傾向がある。思うにそれは、思春期のころに形成されたまま、大人になっても治らなかった悪癖にちがいない。だからあのころだって、それに関して厳しく指摘してくれた同級生はいた。
 その一人、浜田恵美は、おれの家から百メートルほどのところにあるパン屋の長女だった。二年生の二学期からバレー部の主将を務め、たしか平塚の商業高校に進んだあと、バス会社に就職したんじゃなかったかな。あとで聞いた話だが、勤めた早々、夜勤明けでムラムラと溜まっていたゴロツキみたいな運転手に社員食堂の厨房で犯られてしまったのだが、最終的にそれを逆手にとって結婚にまでこぎつけたらしい。そこまでしたたかだとは思わなかったが、凶暴な運転手でなくとも欲情をかきたてられる、学年で一、二を争ういい女だった。なにしろ十五歳とは思えぬほど胸と尻がいやらしく突きだし、一日の大半をオナニーに費やしていたあの当時、おれは二時間に一度はあいつのことを夢想しては学生ズボンを膨らませていた。
 あるとき、その官能的な小娘に言われたのが、おれがいかに唾棄すべき男であるかという話だった。
 最低よ、あんた――。
 放課後のだれもいない教室で、あいつと二人きり、夢のような展開を想像しておれは全身が硬くなっていたっていうのに、あいつは見事に水を差してきやがった。
 三年生の二月。
 もっと正確に言うなら、二月十四日の数日後だったんじゃないか。おれは私立の第一希望に合格し――親父のアドバイスで出願先をワンランク落としていたから、合格(うか)るのはあたりまえだったけどな――あとは気ままに過ごせばいいだけだったし、浜田のほうも推薦をもらっていたから受験とはおさらばしていた時期だった。
 テーマは二月のその時分にありがちな話だった。ただ、いま考えても、あれがキャンディーだったのは問題を複雑化させた大きな原因だったのではとおれは思う。
 それでも浜田は言い放った。
 「年がら年中、ペロペロやってるのを目の前で見させられたら、やっぱり手作りチョコレートなんて、いろんな意味で失敗する可能性の高いものに挑戦するよりも、単純に好きなものをあげたほうがいいって考えるのも当然よ。どうしてそういう女の子の気持ちがわからないのかなぁ、パパさん」
 パパさん――。
 いつのころからそう呼ばれるようになり、いつのまにそう呼ばれなくなったのかさだかでない。ただ、ふいによみがえってきた記憶をたどるかぎり、中学のころはそうだったような気もする。風貌と立ち振る舞いがほかの男子よりも大人っぽかったというわけではない。あのころから性格的にせっかちで、まわりでのろのろやってる連中がどうにもがまんならなかった。それで「パッパとやれよ」とか「パパッとすませろ」とか、なにかにつけて口うるさく言ううちに、つけられたのがそのあだ名だった。最初は「パッパさん」とか「パパッとさん」だったのかもしれないが、そのうち「パパさん」に短縮された。
 そのあだ名で呼ばれていた十五歳の当時、どうやらおれは、コーラ風味の香料を混ぜただけの茶色い飴玉がやたらと好きだったとみえる。口のなかで弾けるキャンディーとか粉末クリームソーダとか、あの時分の子どもがときとして狂ったように夢中になるものの一つだったのだろう。もしかしたら袋ごと学校に持ってきて、授業中も麻薬中毒患者のように口のなかで転がしていたのかもしれない。
 二月十四日の夕方、悪友たちと別れて一人で下校していたとき、不穏な足音が背後に迫るのが感じられ、おれは振り返った。百円玉を何枚か握りしめて時々通っていた釣り堀の前だった。
 恥ずかしいくらい真っ赤なリボンをぐるぐる巻きにしたピンクの包装紙を胸の前で抱える制服姿の女生徒がいた。
 女生徒?
 なんとよそよそしい。
 どこから見ても見間違うはずがない。
 うちのクラスの女。浜田のようなスポーツ志向の活発なグループとは対極にいる、いまふうに言うならマイノリティーに属する生きもの――あえてそう言わせてもらうが、口を聞いたことはそれまで一度もなかった。だったら人となりだってわかりゃしないのだから“生物”以外になんて表現したらいい? とにかくいちばんわかりやすく言うなら
 ブスだった。
 そいつはしゃっくりでもがまんしているかのような口調で、うつむきかげんにこう言った。「藤崎クン……これ……もらって……くれる……かしら……」
 おれがどうしたかって? 返事もせずに突っ立ってたよ。体はガチガチだった。勘違いされるといけないから弁明しておくが、それは浜田がそばにいるときのあの怒張するような興奮とはぜんぜんちがった。正反対の縮こまるような感覚。胸にこみあげていたのは、恐怖と嫌悪、そして恥辱だった。さらにもうひとつ。浜田のことがちらついていた。あいつは一年前はチョコレートをくれた。それもラムボールとかいう手作りチョコだ。ところがその年はなにもくれなかった。クラスは変わらない。心が変わったのか。じゃあ、だれに? そんな失意にも似た焦燥感に駆られた、やるせないバレンタインの下校だったのである。その日はあと数時間残されていた。チャンスはまだある。だからそんなところで安きに流れて浜田の不興を買うわけには絶対にいかなかった。
 ところがそんなことおかまいなしにやつはしゃべりつづけた。いちいちどもりながら。「チョコじゃなくてごめんなさい。買っちゃったの、コーラ・キャンディー」
 そこまで言いきると、よりによってやつはおれのほうに一歩近づいてきた。ピンク色の包装紙に包まれた物体を、不届きにもおれの鼻先にぐいと突きだして。そのときうつむきぎみだったやつの顔がほんの一瞬垣間見えた。スーパーの精肉売り場でただで手に入る牛脂みたいな色をした分厚いまぶたの下から、めらめらと燃える二つの小さなまなこが見あげてきた。
 いらねえよ。
 心のうちで吐き捨てていた。だが言葉にならなかった。かろうじて口からこぼれたのは
 「いいよ……」
 まるで三年生のワルに万引きしてくるよう命じられた気の弱い一年生みたいな、消え入るような拒絶声明だった。
 やつはひるまなかった。
 「おねがい……パパ……さん……わたし――」
 プレハブ建ての釣り堀の窓がすぅっと開き、陰気な店主がのぞき見ているような気がしてならなかった。もう限界だった。いまにして思えば、そのときのおれには社員食堂の厨房で浜田のあそこに肉棒をぶちこんだ運転手にも迫る衝動がみなぎっていたのだろう。だからこそおれのなかでスターターピストルが鳴りひびき、体の呪縛が解けて脱兎のごとく走りだすことができたのだ。
 「あやまりなさいよ」
 バレンタインの数日後、せっかく二人きりになった放課後の教室で、浜田はおれになにかを打ち明けるべく接近するどころか、いじわる教師さながらのねちっこさで糾弾してきた。「あの子がかわいそうじゃない」あいつがなんでやつの肩を持つのかさっぱりわからなかったが、どうやらだれかを経由して、話を聞きつけたらしかった。でなきゃ、おれでさえ記憶にない顛末を知っているはずがない。
 「地面にたたきつけるなんて、信じられない。もらうことができないなら、そう言って断ればいいだけじゃない」
 でも本当に記憶にないんだ。自分としては走って逃げただけだと思っていたのだが、どうやらおれはそのとき、一九五〇年代のSF映画に出てくるタコじみた宇宙人の触手のようにのばされたやつの手からピンクの物体をはたき落したというのだ。
 ウソついてるんだよ、あの女が。
 浜田にそう言ってやりたかったが、そのときそんなことを口にしたら、ますます嫌われるだけだった。おれはぐっとこらえ、いつの日か――できれば卒業式までに――浜田とおまんこできることをひたすら祈った。だがとうとうその日は訪れなかった。高校に入り、あとはすべてが急速に薄れていった。それが十代ってもんだ。
 あれから二十年が過ぎ、三十五歳になったとき、藤沢駅前のホテルではじめて同学年による同窓会が開かれた。約百八十人の卒業生のうち、六十人近くが集まり、かなり盛りあがった。だが藤崎はほとんどの時間を壁の花と化し、かつての仲間たちの輪のなかにあえて入ろうとはしなかった。気乗りしなかったわけではない。あまりに過酷な時の流れに言葉を失っていたのである。その最たるものが、ほかでもない浜田恵美だった。あんなにもむしゃぶりつきたかった女子は、体の締まりが失われた――そういえばパン屋をいとなんでいたやつの母親がそうだった――こともさることながら、生活臭漂う下品なおばさん顔になりはて、まなざしにもあのころのきらめきが消失していた。
 だったらその逆もあるってことなのかい?
 おなじグラスワインを傾けながら、フジオがカウンターの隣に腰掛けてきた。
 「川島素子が……か?」
 ほかにだれがいる。
 「そんなことあるかよ」もうとっくに空になったグラスに向かってつぶやきながら、谷本道子と思いこんでいた女、電話口で“鳥居”を名乗ったあの女の姿かたちをあらためて思い描いた。
 パパさん……はっきりそう言ってたろ。そのことがずっとおまえのちょっと足りない頭の片隅に引っかかっていたんじゃないか?
 そのとおりだった。“鳥居”は電話口でおれのことを昔のあだ名で呼んだのだ。それにしたってあの川島が? 認めがたいほどの美人、というより妖艶な女に? 容易には受け入れられなかった。「整形かな」
 ちがうね。
 フジオは冷静だった。
 女は変わるんだって。むしろ恵美ちゃんのほうが例外なんだぜ。蜜をたっぷりと滴らせる花のめしべ同様、たいていの女は二十歳を過ぎると色気と艶が出て、男の気をひくようになる。それが三十過ぎると、こんどは果物とおんなじで、ゆっくりと熟れてくる。腐りだすってことさ。そのときに女はさらに輝く。つまり――。
 「腐りかけが一番うまいってか」藤崎はあきれたように言った。「自己嫌悪でゲロ吐きそうだよ」
 食えなんて、だれも言ってないぞ。要はそう考えると、話のつじつまが合うってことさ。
 「事務所で見つかったコーラ・キャンディーのことだろ。わかってるって。やつがいまになって、おれに復讐しに来やがったんだ。それも追い出し部屋に送りこまれるほどのサイコ女にまで腐りきったタイミングでな」
 復讐にもいろいろあるだろうな。
 その言葉にぞっとした。きのうの昼前“鳥居”は、藤崎総合法律事務所にミルトンの女従業員が侵入して逮捕されたことを知り、藤崎に訊ねてきた。つまりジャックの家について知見を得た可能性があるということだ。
 その後、やつはどうした?
 そうだ。きのうの午後の一件がある。元検事の端山昌美を追跡中の藤崎が、奇しくも自分の事務所が入るビルに舞いもどってきたときのことだ。エレベーターで九階に上がってきた藤崎は、やつが掃除婦と話している現場に出くわした。その掃除婦こそが変装した端山であった。「川島はジャックの家を狙う元検事と言葉を交わしていた。つまり元検事のたくらみに気づいた。そういうことか?」
 もっと言えば横取りじゃないか?
 「目黒のマンションにあった代物がどこへ持ち去られたか、端山がつかんでいたらそうなるな」だれかをアイスピックでめった刺しにして得られる刹那的な爽快感とは異質だが、その後の人生を切り開き、一発逆転を狙ううえでは、ずっと手堅い話だぞ、これは。「うかうかしていられないな」
 そう口走ったとき、藤崎はスマホのディスプレイが点滅していることに気づいた。
 留守電が入っていた。

 二十一
 録音されたのは、いまから十五分前、午後八時二十三分のことだった。その声が祐介のものだとはすぐにはわからなかった。それほど取り乱し、裏返った悲鳴だった。
 「先生! た……すけて!」
 祐介の声で聞こえたのはそれだけだった。それでも留守電はつづいた。なにかを引きずるような音とパタパタという足音が聞こえ、しばらくして電話から離れたところで話す声が聞こえた。ぶつぶつとつぶやくような女の声だったが、なにを言っているのか聞き取れない。しんとした周囲のようすからすると屋内らしい。きょうは司法試験の予備校はないはずだ。たいてい祐介はこの時間、すでに帰宅している。途中でなにかあったのだろうか。まさか誘拐でもされたのか? そのとき女のつぶやき声の一部が聞き取れた。
 「来ない、来ない……パパさんなんて……」
 そこで留守電が終了した。女は祐介にかわって留守電に吹きこんだわけではなさそうだった。電話に向かって助けをもとめた祐介に対して女が言い放った声を、留守電がかろうじて拾ったようだった。
 藤崎はぞっとして悲鳴のような声をあげた。バーテンが驚いて目を向けてきた。背中が板のように硬直し、藤崎は急に息苦しくなってきた。その声に記憶があった。迷惑電話の女“鳥居”だ。つまり川島素子である。
 どういうことだ。
 なぜ祐介が川島といっしょにいるんだ。しかも状況的には、和やかな雰囲気ではなさそうである。川島は帰宅途中の祐介を襲撃し、拉致したのだろうか。やつを人質にしておれとジャックの家に関する交渉をしようっていうのか?
 藤崎はバーを出るなり、祐介の携帯に電話を入れた。が、すぐに留守電に切り替わった。自宅にかけてみると母親が出て、まだ帰宅していないと告げてきた。
 来ない、来ない……パパさんなんて……。
 川島だと思われる女の言葉を藤崎は反すうしてみた。来ない……おれが……? おれがどこに来ないというのだ。誘拐先だろうか。だがおれが冷酷な人間であることは、川島自身が一番よくわかっているはずだ。事務所のさえないアシスタントをさらったところで、おれが救出に走るとは思わないだろう。ましてや六億円もの現金にいたるカギを教えるとでも?
 そうじゃない。
 藤崎はタクシーに飛び乗った。おれが行く場所は二つしかない。広尾の自宅と大手町の事務所。そのうち祐介がうろちょろしているのは事務所しかない。
 事務所にはなにがある? 資料室にはなにがある? しかも川島は事務所を訪ねてきたことがある。懐かしのコーラ・キャンディーをこんどこそおれに食わせようと持参して。
 「急いでくれ!」後部座席と運転席を仕切る防犯用のプラスチック板に額を押しつけて、藤崎は運転手を怒鳴りつけた。
 それから二十数分間、藤崎は運転手をなじりながら曲がるべき近道を指示した。大手町にもどったのは九時半前だった。黒澤セントラルビルの通用口前で降車し、会釈してきた警備隊長を無視して正面エントランスまで廊下を突っ走り、エレベーターで九階まであがった。
 煌々と照明の灯るフロアはしんと静まりかえっていた。残業の連中もいないようだった。ユニクロズボンのポケットから真新しい鍵を取りだし、藤崎はどたどたと事務所に走った。
 ドアの曇りガラスの向こうは暗かった。やはり祐介はどこかに拉致されたのだろうか。息があがり、心臓がばくばくいって喉から飛びだしてきそうだった。それをこらえて、きのう変更したばかりの防犯装置の暗証番号を打ちこもうとした。だがシステムは解除されており、鍵だけがかかっていた。なかにだれかいるのか。錠を開けて飛びこむなり、向かいの銀行のワーカホリックたちがたむろするオフィスのきらめきが目に飛びこんできた。一瞬、金臭い、血のような臭いが藤崎の鼻をかすめたが、人影は見えない。
 「祐介!」
 声をあげたところで、左の視界になにかが入ってきた。それがなんであるか把握する前に、藤崎は側頭部に激痛をおぼえた。
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