八章

文字数 15,186文字

 八章
 二十二
 気づいたときは身動きができなくなっていた。いすに梱包用のビニールひもで縛られている。後ろ手に拘束され、両足首の縛めからのびるひもが手首に巻きつき、ちょっとでも体を動かそうとすると、手足をたがいに引き合い、背骨がエビぞりになった。自分のいすではない。紗江がむっちりした尻を日がな一日こすりつけている、入り口近くにあるいすだった。
 事務所はしんとしていた。
 左のこめかみが脈打つたびにズキズキと痛むし、意識が朦朧としている。ねっとりとしたものが頬に付着している感じもする。出血したらしい。それがリノリウムの床を汚しているかどうか、電気がついていないからはっきりしないが、向かいのビルの明かりならぞんぶんに差しこんでいた。それをもとに目を凝らすと、事務所内がひどく荒らされていることがわかった。ミルトンの小松嬢も警備員が来なければ、このくらいはやっていたのだろう。紗江のデスクはもちろん、祐介の机もひきだしを開けられていたし、藤崎のデスクもやられているみたいだった。
 壁ぎわの書棚の前では本や書類が大量に散乱していた。はっとして背後の資料室のほうを振り返ったが、さいわいにもドアは破られていなかった。南京錠の鍵はズボンのポケットにある。さすがにあれがないと開けられないはずだ。
 廊下側の壁にかけた丸時計は午後十時過ぎをさしていた。
 その真下のあたり、冷蔵庫の向こう側に人影が見えた。だれかがいすに座っているようだった。周囲には工事用のシートのようなものが敷いてあった。
 紗江だった。
 猿ぐつわをかまされ、藤崎同様、体を緊縛されている。気を失っているのか、ぐったりと目を閉じていた。
 ふいに声が降ってきた。いつのまにかまうしろにしのび寄られていた。「呼んだつもりはないんだけど」女の声だった。「でも結果的には来てくれたほうが手間がはぶけていいのかもね」ぐるりと回って藤崎の前に姿をあらわした。
 掃除婦だった。いつもの制服を着ている。
 「おまえは……」そう口にしながら藤崎の頭には疑問符が点灯していた。きのうから行方不明になっている元検事はたしかに掃除婦に化けていたが、もうすこし体格が良かったような気がする。だが相手の目鼻立ちをもう一度たしかめたとき、ぼんやりとしていた頭が即座にしゃきっとした。
 「おひさしぶり、藤崎クン……パパさん」
 「か……川島……」信じがたい思いと幻滅に近い自己嫌悪に藤崎は襲われた。薄暗がりではあったが、それはたしかに中学時代の同級生のようだった。顔だちに面影があったとは言いきれないし、むしろ変貌のほうが激しい。しかしそれよりも皮膚感覚的ななにかが、藤崎にその事実を一種の警報装置のように明確に伝えていた。
 「こうやって話をするの、何年ぶりかしら。“鳥居”さんの迷惑電話はべつにして」話しながら川島素子は、藤崎の背後にしゃがみこみ、重そうななにかをつかんで紗江のほうへ引きずっていった。「そうだ」川島はうれしそうな声で言った。「あの日以来じゃないかしら……二十三年ぶりってことね」
 引きずっていたのは、手足が縛りあげられた祐介の体だった。着ている服と体格でわかった。顔はわからない。東京都指定の半透明のゴミ袋を頭からかぶされていたからである。首のところがガムテープでぐるぐる巻きにされていた。
 「祐介!」思わず身じろぎし、立ちあがろうとしたら、いすごと床にぶっ倒れた。
 川島は大人の男の体を引きずる手を休め、まるでいたずらっ子をにらみつける田舎の農婦さながらに両手を腰にあて、藤崎の前に仁王立ちした。「立場をわきまえなさいよ、パパさん。その年になって社会人としての最低限のルールもわからないの?」
 祐介はぴくりとも動かない。やつの留守電が録音されてからどれくらいが過ぎた。まさかずっとあの格好で……。
 「彼のことなら心配いらないわ。もうとっくにこと切れてる。わたしにまかせてちょうだい」
 「祐介! 祐介……」藤崎は倒れたまま声をあげた。つぎの瞬間、目の前が真っ暗になった。スニーカーでみぞおちを力いっぱい蹴りあげられたのだ。藤崎はふたたび意識を失いかけたが、意志の力でこらえた。大粒の涙が自然と両目から噴きだしてきた。
 「すきを見て電話をかけたのよ、あなたに。留守電に切り替わっちゃったけど、それって社会人として絶対にしちゃいけない振る舞いでしょ。こうなるのもしかたないわ。世間の厳しさを教えてあげただけよ」
 「…………」言葉を発せられぬまま藤崎は、二十三年ぶりに目の前に出現した同級生をにらみつけた。あのとき感じたのとは、異質な感情――嫌悪感とかそういうものとはあきらかに異なる、より具体的な憎しみと迫りくる恐怖――にさいなまれ、藤崎はエアコンのきれた蒸し暑い事務所でとてつもない寒気をおぼえた。
 それを無視してふたたび川島は祐介の遺体をビニールシートのほうへと運んでいった。それにくるんで遺棄しようというのだろうか。
 「だけど本当にしつけができていないのは、この小娘のほうね。あなたももっと気をつけなきゃだめじゃない」川島は紗江の隣に立ち、うなだれた顔を両手ではさんで藤崎のほうに向けた。「この唇、なんていやらしいのかしら」川島は吐き捨てた。「あなた、いつもへんなこと考えて仕事してたんじゃないの? でもアルバイト雇うなら慎重にね。家庭環境とか、付き合っている男とかまでばっちり身上調査しとかないといけないんだから。つまりね、この唇が弄んでいたのは――」
 聞かないほうがよかった。藤崎の頭は真っ白になった。
 「あなたのおとうさまよ」
 川島は、紗江の小さな頭を両手でつかんだまま、まるで首筋のマッサージでも施すかのようにゆっくりと回転させた。藤崎は必死に目を凝らした。紗江はかろうじて目を開けているようすだった。それに猿ぐつわの向こうから弱々しいうめき声もかすかに聞こえた。
 「元は銀座のホステスよ。あの太めの検事がぜんぶ教えてくれたわ。おとうさまの愛人だったってわけよ」
  愛人――。
  紗江が親父と……。
 たしかに紗江は親父のことを気安く「士朗先生」なんて呼んでいた。会ったことすらないのに妙だと思っていたが、ホステスなら合点もいく。ただ、堅物と思っていた親父が若い女に溺れていたなんて。妻に先だたれてさびしかったのか、それともおれの知らぬところでは、以前から結構なやり手だったのだろうか。藤崎は複雑な心境となった。
 「だけどおとうさまも相当入れこんでいたみたい。だいじなことまでぜんぶ教えちゃうんだから」
 暗さに完全に目が慣れてきたので、紗江の状況がさっきよりもわかってきた。いすに腰掛けた格好で、両手は後ろに回されていたが、そろえたひざの下は掃除に使うバケツに突っ込まれていた。まるでリフレクソロジーを受ける前のフットバスのようだった。なぜそんなことをしているのか、さっぱり見当がつかなかった。
 「これ見ればわかるでしょ。この女狐の本性が」川島はスマホを取りだし、動画を映しだした。紗江のスマホだった。

 二十三
 藤崎は腰をかがめ、金庫のダイヤルを回していた。資料室の奥、父親が使っていた金庫だった。手元にピントが合い、右と左にどれだけ回転させるかがはっきりとわかる。
 「気がつかなかったの? 盗撮されていたのよ。あなたが金庫を開けるってわかっていたんでしょう」
 「どういうことだ……」倒れたままの格好で藤崎は聞いた。
 「米丸直太郎のカネを手にできるヒントがここにあるって、おとうさまから聞かされていたのよ。それでおとうさまが亡くなったあと、事務員として勤めはじめた。そのうちにこの男と手を組むようになって、資料室を調べだしたのよ。ジャックの家の場所を探るためにね」
 やっぱりだ。
 川島はジャックの家に気づいたのだ。
 「だけどさっぱりわからないうちに、ジャックの家に関する情報がネットに拡散した。そのとき唯一調べていないのが金庫だったってわけ。匿名の手紙、届かなかった? パパさん」
 おとといの朝のことだ。あの手紙が届いたのは。それがすべての始まりだった。
 米丸先生の裏金
 管理人は士朗先生
 事務所の金庫
 紗江があれを書いただって……? それですぐにおれは資料室にこもり、金庫を開けて調べた。それが撮られていたとは。信じられなかったが、たしかに紗江は飼い猫のような愛らしさを見せる一方で、時折、ふいに藤崎の身の回りのことやプライベートに関して、踏みこんだことを訊ねてきた。そのたびにおれに気があるのだろうと勘違いし、こっちもだんだんとその気になってきていた。なにしろ若く、みずみずしいエロスを毎日放っていた。だからこそ祐介との関係を疑い、二人して資料室から出てきたときには、ついかっとなってしまった。だがあれは情事などではなかった。盗撮した映像をもとに金庫を開けていたのだ。
 「この男、見た目とちがってかなり神経質みたいね。今夜、この娘に何度か電話してきて、つながらないから不審に思ってここに舞いもどってきた。この子がジャックの家の場所をついに割りだしたのかと心配になったんじゃないかしら。独り占めされると思ったのよ」
 「川島……おまえ、いつ気づいたんだ……? ジャックの家……」
 合点したように川島は暗がりでうなずいてみせた。「きのう出勤したら、ミルトンの女の子があなたの事務所に侵入したって聞いたの。ふつうの物盗りとはちょっとちがうと思ったわ。そうしたらビルの掃除スタッフがこの子と――」川島は、おもちゃに飽きた子どものように紗江の頭から手を放し、紗江はふたたびぐったりとうなだれた。「九階のトイレで朝っぱらから話しこんでいるのを聞いちゃったのよ。清掃スタッフはどういうわけかこの子があなたのおとうさまの愛人で、財産目当てにあなたに接近したことを見抜いていた。びっくりしたわ。清掃スタッフのくせに、そのことをあなたにバラすって脅していたのよ。だからなにかあるにちがいないって思ったの」
 「トイレで……きのうの朝……」藤崎は記憶をたどった。きのうの朝といえば、刃物による切りつけ事件が起きている。あのときパンプスを履いた犯人は、エレベーターホールの防犯カメラには映っていなかった。「うちの事務所があるほうの女子トイレか」
 川島は隠しだてもせずに答えた。「そう、ちょっと長居していたのよ。掃除用具入れのなかでね。そしたら二人が入ってきたの。勝手に話しだすものだから、いやでも聞こえたわ。だからって罪じゃないでしょ」
 「その前にとんでもない罪を犯しただろう。それで隠れていたんだな」
 「ふふ、その意味じゃ、あなたのおかげかもね。こんな話が転がりこんでくるなんて思ってもみなかったから。だからってあなたに聞くわけにいかないじゃない。それでミルトンの男たちが昼食に出たときについていって、話に聞き耳を立てたのよ。あなたもそうでしょうけど、いくらおなじフロアに勤めていても職場がちがえば、顔見てもわからないでしょ。ミルトンの連中、ぜんぶしゃべってくれたわ。それでジャックの家のことを知ったのよ。それはそうと、あの中華屋であなたともすれちがったわよね。声かければよかったかしら、指をどうされましたかって」
 川島はゆっくりと藤崎のほうへ近づいてきた。右手を背後に隠している。そこになにが握られているだろう。藤崎のなかで恐怖が極大化した。「おまえ、こんなことをして……」へいきだと思ってるのか。そう訊ねようとしたが、逆上させるのが怖くて言葉にならなかった。
 川島は藤崎の前にしゃがみこみ、両手を突きだした。ナイフもアイスピックも握られていなかった。川島は藤崎の体をいすごと起こそうと奮闘を開始し、やっとのことでそれに成功した。「だめよ、もう、パパさん、暴れたりしたら」それから川島は話しはじめた。「わたしね、ニューヨークで働いていたことがあるの。そのとき郊外の大学で銃の乱射事件が起きて何人も殺されたんだけど、わたしがしていることはそういうのとはわけがちがうのよ。それだけはわかってもらわないと。ちゃんとした理由があるんだから」
 「おなじ職場の女が……行方不明なんじゃないのか」藤崎は慎重に訊ねた。「おまえにつらくあたっていた上司なんだろ」
 「谷本さんのこと? ジャックの家の話、もうすこし早く聞いていれば、わたしの興味もちがうところに向かっていたかも。そうしたらあの人だって生き残ることができたかな」藤崎の前に立ったまま川島は物思いにふけるように黙りこくり、しばらくして口を開いた。「でもやっぱりだめ。ああいう女は思い知らせてやらないと。所詮は芸能事務所あがりでしょ。犬畜生とおんなじよ。まっとうな企業社会に割りこんでくること自体、まちがっているのよ。だからそれをちょっと教えてやっただけ」
 全身をめった刺しにして……そこまでは藤崎も口に出せなかった。だが新たな疑問が浮かんできて思わず聞いてしまった。「おまえが着ているその服だが……清掃スタッフの――」
 「そうよ。えぇと、なんだっけ名前……神田……だったかな。あの端山さんとかいう元検事が化けてたんでしょ。だけどさ――」川島は胸のボタンを外してピンクの制服を脱ぎだし、おなじ色のズボンも脱いだ。服の下にはともに黒っぽいTシャツとレギンスをはいていた。体がいっそう暗がりに沈みこんだように見える。「防災センターを通過するためだけに着てみたんだけど、やっぱりわたしにこの格好は似合わないわ。この手の制服が似合うのは、国家公務員とかそういう辛気臭い商売やってる女じゃないとね」
 「その制服をおまえが着てるってことは――」
 黒づくめになった女はぐいと藤崎の前に身を乗りだし、中学時代の同級生の鼻先に顔を近づけてきた。歯周病でも患っているみたいな汚臭が藤崎の嗅覚をなぶった。「みじめな終わり方だったわ。せっかく司法試験合格して高級官僚の道を歩めたんだから、余計なことしないでもいいのにね。わき道にそれるからいけないのよ」
 「殺ったのか」
 「話してほしいことがあったのよ」
 「いつだ」
 「きのうの夜かな。情報交換しないって持ちかけたら、のこのこ出てきたの。質問には洗いざらい答えてくれた。元検事とは思えない極悪人だった。びっくりしちゃった」川島は肩をすくめてみせた。
 いったいどんな拷問をくわえたのだろう。谷本道子がどんな目に遭ったか思いだし、藤崎はぞっとした。
 「最大の焦点は、ジャックの家の場所なんでしょ。それがわからないから、パパさんもふくめ、みんな困っていた。だけど端山さんは、特捜部時代に米丸直太郎の金庫番だった建設会社の社長から事情を聴いていたの」
 建設会社社長の金庫番、西原康夫のことだろう。「端山昌美は、金庫番からジャックの家の場所を聞いていたのか」
 「それならあの女も苦労しないでしょう」あきれたように言うと、川島は子どもにするみたいに藤崎の頭をなでまわした。
 このあと自分はなにをされるのだろう。想像したくなかった。
 「そうじゃないのよ。具体的な住所までは端山さんも聴取できなかった。だけどある程度、口を割らせることに成功した『米丸先生が自宅で映画を見ているとき、カネの隠し場所を先生に教えた。先生はその住所をなにかに書きつけてメモしていた』金庫番の男はそう話したらしいわ。それで米丸の自宅を家宅捜索したときに、彼女は必死になってそのメモを探したんだけど見つからなかった。その後、米丸は無罪になり、自分は左遷された。だけど復讐の意味もこめて、その後もずっと探しつづけていたそうよ」
 「ジャックの家を……か」
 川島は藤崎の背後にまわり、いすの背に手をかけて前に押しはじめた。キャスターがきゅるきゅると音をたてて前進を開始する。「そうこうするうちに七月になって、ネットに掲示板があがった。ジャックの家の話が拡散しはじめたのよ。そして月末になって、この事務所の写真が載ったってわけ」
 「それで偽名を使って黒澤ビルサービスに」
 「端山さん、耳と指を失っても、わたしに話を持ちかけてきたのよ」
 川島に押され、いすごと藤崎はブルーシートの端まで連れてこられた。紗江のほうに目をやると、相変わらずぐったりとうなだれたままだ。
 「話って……なんだよそれ……?」
 「山分けしようっていうのよ」
 六億の半分、三億円ずつか。「それを断ったんだな」
 「山分けなんて、聞こえはいいけど、要は共犯関係ってことでしょ。相手が捕まったときのことを考えたら、リスクが倍増するだけじゃない」
 「だがその相手を殺すのも大きなリスクだと思うがな。一つ罪が増えるわけだから」
 「かもね。さすがはパパさん、現実的ね」川島は感心したように言うと、ふたたび藤崎の前に立った。「だけどあたし、谷本さんはべつにして、今回の一件で自分でもかなり無理していると思うの。わかるでしょ、その意味」川島の視線は、足元に横たわる祐介の遺体と、なんらかの拷問の果てに朦朧としている紗江の体を交互にさまよった。「どうしてこんな乱暴なまねをつづけていると思うの?」
 おまえが狂ってるからだろ。
 藤崎は怒鳴ってやりたかった。だが影の声であるフジオでさえも、いまはじっと押し黙っている。
 「あなただってきっと理解してくれるはずよ」川島は懇願するようなもの言いになった。
 その変化が奇妙に感じられた。だがつづいて発せられた言葉に、藤崎は打ちのめされた。真闇の広がる山中で彷徨しているとき、光輝く菩薩が突如眼前にあらわれたかのような、じつに深い理解、そして共感であった。だれだってそうだろう。藤崎は人生そのものを達観してしまった。元同級生ははっきりとこう告げたのだ。
 「だって……六十億よ」

 二十四
 ライズ企画に勤める武井嬢によれば、川島素子は彼女とともに銀行から出向してきているという。だったらすくなくとも計算力においては、人並み以上に優れているはずだ。とくに人生に関する計算高さという意味では、川島は他人とは異なる尺度を持っているかもしれない。それに照らし合わせればもちろんだし、たとえ常人並みのものさししか持ち合わせていないとしても、川島のように考えて無理はない。
 問題は、人はいくらなら殺人を犯すかという点だ。
 一九六〇年代、ポール・サイモンは「水曜の朝、午前三時」の中で、二十五ドルちょっとのためにやらかしてしまった若い男を例にとり、犯罪と金の関係について分析している。しかしそれは酒屋への押しこみ強盗の話であり、人命とは縁遠い。銃を突きつけて「Hold up!」とすごむまではいいが、そこから先、レジのなかにいくら入っているかでじっさいに引き金を絞るかどうかが決まる。当時の二十五ドルが半世紀後、十倍ほどにまで膨らんでいたとしても、すでに老境に入ったとおぼしきかつての若者が発砲することはあるまい。二万五千円ちょっとだ。それで殺人罪になるのでは割が合わない。サイモンだって、そのあたりは同意してくれるだろうし、二十五万円でもおそらく多くの者が引き金は引くまい。
 だが二百五十万円ならどうだろう? 相手はただの酒屋の親父。妻子へのDVさえも疑われそうな飲んだくれの店主。強盗犯の数%が、証拠隠滅と犯行の完遂のために、目の前で命乞いする親父の脳みそに一発食らわせることだろう。
 それが二千五百万円となると確率は一気に高まる。まず第一にそれだけの大金は、酒屋のレジには入らない。成城や白金といった静謐な住宅地で、依然として昭和の暮らしから抜けだせずにいる六十代夫婦の寝室のクローゼットあたりで眠っているというのが相場だ。酒屋への押しこみに見切りをつけたサイモン少年は、それだけの大金を前にしたら迷わずバンバン‼
 二億五千万円――バンバンバンバン‼
 二十五億円――ババババババババ‼ ババババババババ‼ もはやちんけな三十八口径なんかじゃもの足りない。トミーガン? AK47? やっぱりマイアミのコロンビア・マフィアあたりが手にするMAC10ぐらいでハチの巣にしちまおう。それだけの暴力に見合うだけの金額だ。
 六十億円――。
 夢だ。夢のようじゃなくて、完全に夢だ。
 totoBIGだって六億だもんな。
 その十倍。手に入るならあんたの人生は確実に一変する。いちいち腹のたつことを言う義父母ともおさらばだ。請け合うぜ。
 藤崎は暗がりに立ちつくす菩薩さまをぼんやりと見つめた。きのうエレベーターではじめて見かけたときの、ぞくぞくするようなエロチシズムをふたたび感じた。ただそれは股間でなく、胸の奥のほうにズキズキと突き刺さってきた。エロスを超えたバイオレンスの世界観だった。
 この女が何人殺ったなんてもう関係ないぜ。
 わかってるって。要は手を伸ばせば届く夢をどうやってたぐりよせるかだろ。
 そうさ。そのためにはこの女をまだ敵に回さないほうがいい。端山や紗江の口からどんな情報を引きだしているかわからないんだからな。
 殺人犯と手を組むってわけだな。
 もちろん最後にはあんたも――。
 つまるところ腹をくくれるかどうか。
 びびりの問題だな。
 「人生わからないもんだな」藤崎はできるだけ腹に力をこめて言い切った。そうでもしないとこの先の展開を乗り切れまい。「こんなふうに再会するなんて」
 川島が暗がりでほほ笑む。「再会……うれしい響きね。あなたがそんなふうに言ってくれるなんて思ってもみなかった。邪魔者あつかいどころか、完全に無視されてると思っていたから」
 「あのころの話か」
 「ひとつ聞いていいかしら」川島はそばにあったデスクに腰掛け、川の堤防で沈みゆく夕陽をぼんやりと見つめる少女のように足をぶらつかせた。「どうしてあんなものが好きだったの」
 「あんなもの?」
 「コーラ・キャンディーよ。合成着色料と香料の塊じゃない」
 「さあな、いまじゃもうわからないよ。甘ったるいだけのフルーツ飴よりも刺激があると思ったんじゃないか」
 「やっぱりチョコのほうがよかったかな」川島は薄闇を見つめてつぶやいた。なんだかすこしばかり胸が痛んだ。「だけど好きそうだったから」
 「いまさらどうしようもないだろ」藤崎は慎重に言葉を選んだ。「あのときは悪いことをした。あやまるよ……ゴメン……」さすがに口元が引きつった。明かりがついていたらウソをついているのが顔色でバレていただろう。
 いまわしい記憶を反すうするかのように川島はしばらく押し黙った。落ち着かぬ沈黙のなか、聞こえていたのは藤崎の不規則な呼吸音だけだった。
 「そのまま踵を返してくれたほうがよかったわ」平板な口調だったが、ついに川島は思いのたけをぶちまけた。「地面にはたき落したのよ。わたしの目の前で。あれはやりすぎだったと思う」
 藤崎はあらためて記憶をさらい、反論した。もちろん相手を逆上させないだけの丁寧な口調で。「その点なんだが、おれの記憶ちがいかもしれないけど、そこまで乱暴なこと……したかな? そのまま家に帰ったような気がするんだよなぁ……」
 スニーカーキックがふたたび飛んでくるかと身構えたが、そうはならなかった。「目撃者なんかいないから、いまさらどうしようもないわ。でも事実は事実。あなたはわたしの手からバレンタインのプレゼントを空手チョップみたいにしてはたき落として、足で地面に踏みつけた」これが大学の講義なら催眠効果は抜群だろうと思わせる、じつに平板な口調だった。
 「足で……地面に……?」
 「そう。最後は唾まで吐きかけたじゃない」
 狂ってる。完全に。
 抵抗禁止だ。
 「傷ついたわ。もう生きていけないと思った。悔しかったし、みじめだった。なにより恥ずかしかったわ。パパさん……藤崎クンがほかの子のこと好きだって知ってたから。恵美ちゃんとかでしょ。浜田恵美ちゃん。かわいかったもんね。つぎの日とそのつぎの日、学校休んだの。おぼえてる? 忘れちゃったかな。わたしがばかなことしたって、恵美ちゃんたちに笑われると思ったら、もう恥ずかしくて恥ずかしくて……ベッドから起きあがれなかった。それで挙句の果てにこの始末――」
 暗がりで川島は左手をかかげ、手首の部分を藤崎のほうにかざした。いちいち説明を受けずともわかった。そこにある真一文字の深いしわ。それは中学最後の年に自ら刻みつけた傷だったのだ。
 「だけど頭のどこかに理性みたいなものが残っていて、てゆうか、気丈な両親から受け継いだDNAだと思うんだけど、それが負けちゃだめだって寝室のドアをたたいてきたの。それで高校入ってから、わたし、勉強に目覚めてね。二流高校だったけど、ずっと一番取って、大学はなんとか現役で国立に入ったわ。経済学部だった。そこで徹底的に金融の勉強をして、語学も必死に頑張った。それで就職したのが新光銀行。このおんぼろビルの隣に輝くあの銀行よ。もうそのころにはあなたのことなんて、思いだしもしなかった。営業で成績あげて、ニューヨーク支店勤務になって、そこで五年間、向こうの弁護士連中を相手にそれこそ億単位の仕事にどっぷりつかっていた。だから弁護士ってものに対するわたしのイメージは、そのときに形づくられたのよ」
 「年収五十万ドルの豪邸暮らしってやつか」
 「まあそんなものかしらね」
 「おれとは雲泥の差だな。だけどおまえだって相当稼いでいたんだろ」
 「そうはいってもサラリーマンでしょ。限界があるわ。だけどやりがいはあった。高校、大学としゃかりきになって勉強しといて本当によかったと思ったわ。藤崎クンも司法試験通って弁護士になったのはすごいけど、わたしもおなじくらい頑張ったのよ」
 「おれなんかダメさ。弁護士になったはいいが、そこから先、努力しなかったからな。いまじゃろくに仕事もない。この事務所だって風前の灯火なんだよ」
 「だけどクビにはならないし、弁護士は腐っても弁護士じゃない。人事異動だってないじゃない」
 「個人営業だからな」
 「三十二のときに日本にもどってきて、法人営業部勤務になったの。そこでのめぐり合わせが最悪だったわ。部長と課長が最低の男たちでね。無理難題を押しつけてきて、徹底的にわたしのことを攻撃してくるの。自分たちのいすが遠からず奪われると思ったんでしょう。日本的な汚いやり方よ。しかも耳を覆いたくなるようなわいせつな話まで職場で大声でするのよ。だからもう耐えられなくなってわたし――」
 パワハラとセクハラで訴え出たんだろ。社内のしかるべき部署に。ライズの武井からすでに聞いている話だった。そしてやがてエスカレートして、しまいにはペンを握りしめることになった。いまや独り言のようにぶつぶつとつぶやくようになった女の愚痴――一方的な妄想で引き起こした数々の事件に関する告白――に真剣に耳を傾けるふりをしながら、藤崎はひそかに合点していた。その手の性癖というのは、三十歳を過ぎたころに表に出てくる。どこかでそんなような話を聞いていたからだ。
 「だけどいまの部署に流れついたのも、いまにして思えばなにかの縁かもね。あなたにこうして再会できたんだし、もっとすばらしいものも手に入りそうなんだから。やっぱり感謝の気持ちはたいせつよ。でもなぁ――」川島はデスクからひょいと飛びおり、ふたたび藤崎に顔を近づけてきた。口臭がさっきよりひどくなっている。やつも緊張しているにちがいない。唾液が出なくなって口内細菌を押し流せずにいるのだ。「バアさんはないよね」
 そのフレーズに緊張したのは藤崎のほうだった。月曜にかかってきた最初の電話にブチ切れて、つい口にしてしまったのだ。「いや……そのぉ……相手がだれだかわからなかったから――」
 「あれでもいちおうは営業のつもりだったんだけどな。たしかにこっちのやり方にも問題があるけど、藤崎クン、あれはひどいわ。これまでの社会人人生のなかで、あんなこと言われたことは一度もなかった。セクハラでとっちめてやった上司がいるんだけど、その人だってあんなことは口にしなかったもの。あれじゃまるで、わたしが売春婦とかそういうのみたいじゃない」
 それ以上言い訳するのは危険だった。六十億を手に入れる前にペンで失明させられる恐れがあった。片目ならまだいいが、いまのやつなら両目をやりそうだ。
 「だけど話しているうちに、なんだか声の調子に聞きおぼえがあるような気がしてきたの。しかも名前が藤崎でしょ。あんまりにも不愉快だったからこっちから電話切ったけど、ずっともやもやしていたの。そしたらエレベーターホールで、たったいましていた電話の中身を大声でしゃべってる男がいた。こんな偶然あるのかと、しげしげと眺めてみたら、たしかに中学のころの面影があった。それでネットでも調べたら、おなじフロアにある法律事務所が、あなたのものだとわかったの。そりゃもう感激したわ。どうやってあいさつしようかってドキドキしちゃった」
 「それでキャンディーを?」
 「ノックしたんだけど返事がなかったから、入らせてもらったわ。その場で待たせてもらってもよかったんだけど、あの日はやらなきゃいけない仕事があったの。それでいったん引き返して、とりあえずあいさつがわりに夕方電話したのよ」
 「名乗ればよかったじゃないか」
 「そんな雰囲気じゃなかったでしょう、藤崎クン。警察に訴えるとかなんとか。かなりカッカしてたじゃない。それにほんと、あの日はわたしも忙しかったのよ。夜に川崎に行かないといけなかったから」
 「谷本さんか……」思わず口走ってしまった。
 川島は逆上したりしなかった。いすに縛りつけられた目の前の男の額を人差し指で小突いただけだった。デコピンってやつだ。「あの女、あなたへの営業が不調だったからっていつも以上になじってきたの。それがきっかけだった。だから考えてみれば、あの女が制裁を受けたのも、結局は藤崎クン、あなたのせいなんじゃないかしら。だからあなたにもそれなりに責任を取ってもらおうと、あれこれ考えていたんだけど、そうこうするうちにあなたがトイレに入ったのよ」
 藤崎は左手に目を落とした。包帯はいつのまにか取れてしまっていた。もう出血はしていないが、すっぱりと切られた傷痕が、隣のオフィスから漏れてくる明かりのなかに痛々しく浮かびあがっている。
 「二十三年間の思いをこめたあいさつ。そう思ってほしかったわ。だけどいまはもうどうでもいい。そうでしょ? あなたもわたしも」

 二十五
 川島はいきなり藤崎のズボンのポケットに手を入れてきた。反射的に身をよじると、強烈なひじてつが側頭部に食らわせられ、またしても意識が遠のいた。
 背後で金属片が触れ合う音がした。鍵だ。はっとして藤崎は振り向いた。
 資料室の前に川島がいた。ポケットから鍵を奪い取ったのだ。藤崎は精いっぱいの声で言った。「本当にそっちの資料室にヒントがあるのかな。おれも月曜から調べているんだが、さっぱりなんだ」
 据えつけたばかりの南京錠を開けながら川島が言う。「そこの銀座のホステスさんだけどね、米丸先生の遺品がヒントだってことをおとうさまから聞いているのよ。ジャックの家の住所を記した書類があるらしいのよ」
 「遺品……」やっぱりそうだったか。
 「米丸の金庫番だった男とあなたのおとうさまはずっと懇意にしていたらしいじゃない。だったら米丸の遺品だってここにあるんじゃないかしら」そこまで告げると川島は資料室へと消え、そっちに明かりが灯った。
 米丸の遺品――。
 死後硬直が始まりだした祐介の遺体を眺めおろしながら、藤崎は記憶をたどった。端山昌美の特捜部時代の捜査内容に関するものだ。それについてさっき、川島はなんと言っていた? ひどい拷問の果てに、金庫番のどんな証言を端山から得たと話していた?
 米丸先生が自宅で映画を見ているとき、カネの隠し場所を先生に教えた。先生はその住所をなにかに書きつけてメモしていた――。
 それが金庫番である西原康夫から端山が得た証言ではなかったか。
 米丸は学生時代に映画研究会に所属するほど映画好きだった男だ。その後も映画を見るさいにはなんらかの資料や文献に囲まれていたはずだし、ノートのようなものだってあっただろう。そこに金庫番がやって来て、ジャックの家の住所について伝える。それを記したメモ……遺品……。
 すくなくとも藤崎が資料室を調べたかぎりでは、メモを書きつけたノートのようなものは見つからなかった。米丸にかかわってきそうなものと言えば、学生時代の友人だった鈴木順三なる人物が自費出版した映画評論「『アメリカの悲劇』とその時代」ぐらいだ。あれが米丸本人の遺品だったとしても、目黒のマンション以外にジャックの家につながる端緒は発見できなかった。
 資料室から家探しの音が聞こえてきた。だがすでにあそこは調べつくしている。ほかにいったいなにが見つかるというのだろうか。やがてなにかの箱をひっくり返したような音が響いた。奥のダンボールに手をかけたな。そう思ったとき天啓のようなものが藤崎の体を突き抜けた。
 出所不明のものがあった。それがダンボール箱に押しこんであった。しかも大量に。
 DVDだ。
 どれも映画のものだった。
 父親がどこかから譲り受けたものだった。それが米丸の遺品なのか。DVDは作品ごとにプラスチック製のパッケージに収まっている。そこにはなにが同梱されている? 解説書? 類似作品のリーフレット? いずれにしろあのパッケージには、本編DVDのほかなにかを収納する――隠す――だけのスペースがある……。
 盲点だった。それをいま怪物と化した中学時代の同級生があさりだしている。カッとなって藤崎は力いっぱい身をよじった。だがビニールひもは巧みに体を縛りあげ、どうにも動きようがなく、へたをするともういちど床に転がるはめになりそうだった。
 絶対に見つけさせるものか。
 強烈な思いに駆られながら藤崎は、隣でぐったりとする紗江のほうを見た。拷問のせいなのか、それとも睡眠薬でも飲まされたのか、正気づく気配がない。ただあいかわらずかすかにうめいている。死んではなさそうだ。藤崎は体を揺すっていすを動かし、すこしずつ彼女のほうへ近づいていった。「紗江ちゃん……紗江ちゃん……」川島に気づかれないよう注意して声をかけた。
 時間がなかった。あと十センチというところまで接近し、藤崎は両足を紗江のほうに向け、思いきってキックしてみた。だがうまく蹴ることができず、彼女の足元のバケツをひっくり返しただけだった。
 どろっとした液体が床のブルーシートに広がった。資料室から漏れる明かりがそれを赤々と照らしだした。
 「ひぃっ!」
 思わず悲鳴をあげ、藤崎はのけぞった。バケツがあった部分に紗江の脚はなかった。藤崎がいつも遠くから眺め、舐めまわす妄想に浸っていた形のいいふくらはぎは左右とも失われ、ひざの下に二本の骨が白々と輝いているだけだった。倒れたバケツから木の棒のようなものが顔をのぞかせていた。先端に金属のようなものがついている。
 鉈だった。
 それに脚を切断され、想像しがたい激痛と大量の失血により、紗江はいままさに生と死のはざまをさまよっているのだ。
 動揺している場合じゃなかった。藤崎は心を鬼にして体をよじり、いすを回転させて背後で縛られた両手の指をのばした。
 あれさえつかめればなんとかなる。
 そうねがった先にあるのは、紗江の血を溜めていたバケツだった。その縁まであと数センチだった。
 資料室のドアまで四メートルほど。映画のDVDを詰めたダンボール箱があるのは、さらにその七、八メートル先だ。そっちから相変わらず物音が聞こえてくる。やつがもどってくる前に反撃態勢をととのえないと。
 倒れたバケツの縁に指先が触れた。藤崎はさらに指をのばし、それをつかむことに成功した。指先に全神経を集中させ、慎重にたぐりよせる。欲しいのはそのなかにあるものだった。バケツのぬるりとする部分に指が触れ、あやうく取り落としそうになった。ぐっと息をつめて縁を握りしめ、やがて藤崎の両手の間に鉈の柄が滑り落ちてきた。あとは鉈の先端を指先でたぐりよせ、石器時代の原始人のように刃先を手首のビニールひもにこすりつけた。そのたびにぬるぬるした感触が指をはいのぼってくる。それが紗江の血であることは百も承知だった。
 銀座のホステス。父親の愛人。毎日眺めていたいやらしい腰つき――。さまざまな思いが頭に浮かんだが、それらを一つ一つ撃破しながら藤崎はいまなすべきことに注力した。
 突如、両手が開放された。
 しびれがひどかったが、それにもめげず藤崎は鉈の刃先をこんどは両足首の間に押しこんだ。そのとき頭上から声が降ってきた。
 「なにしてるの、パパさん」
 藤崎は動転し、体のバランスを崩していすごと転倒してしまった。つぎの瞬間、マッチの炎で炙られたような鋭い痛みが右足首に走った。鉈の刃が藤崎のアキレス腱を切り裂いていた。
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