第1話 境界の少年 #1
文字数 1,779文字
「それはきみの棺かい?」
夜のせせらぎのような声だった。
ひたひたと鼓膜の奥に浸みこんで、仄暗い夢にいざなう声。
「────?」
ふいに胸がざわめき、顔をあげる。
と、ついさっきまでひとりきりだったはずの一等客室に、いつのまにか新たな乗客が加わっていた。
ロンドンのキングズ・クロス駅を発って五時間。
イースト・コースト本線で初秋のイングランド東部をひたすら北上するうちに、このところの気疲れのせいもあってか、うつらうつらしていたらしい。
どこか異国の気配をただよわせた少年だった。
小柄だが、齢のころはおそらく同年輩──十六、七のようだ。
漆黒の髪と瞳に、淡いセピアの肌。南の血が流れているのかもしれない。
襟の高い、司祭平服に似た黒ずくめの装いに身をつつんだ彼は、あえてかどうかおれの正面の座席に腰をおろしていた。
窓辺に頰杖をつき、天鵞絨めいた瞳でこちらをうかがっている。
奇妙に、焦点の在り処の読みにくいまなざしだった。
じわりと不穏なとまどいが増した。
「おれの……なんだって?」
「棺だよ」
「棺」
「その大きな黒い箱のことさ」
少年はおれのかたわらに視線を移した。
そこにしんと寄り添っているのは、座ったおれの背丈を超える革製のトランクだ。
「ずいぶん大切なもののようだから。違うのかい?」
「…………」
黒々とそびえるトランクは、たしかに遺体を納める棺を思わせなくもない。
だが長年使いこんで傷だらけのそれは、チェロの輪郭をなぞったゆるやかな曲線を描いており、誰の目にも楽器がしまわれているとわかる代物だ。
つまりは、いささか悪趣味な軽口のつもりなのだろう。
──煩わしいな。
正直なところ、そう感じずにはいられなかった。
だがこうしてふたり膝をつきあわせた個室で、いまさら相手を無視するというのも相当に気づまりなものだ。なにしろ一等車輛に側廊はなく、走行中の各コンパートメントは即席の密室と化しているのだ。
どうせ行きずりの仲だ。適当にあしらって済まそう。
おれはため息を吞みこみ、相手に調子をあわせた。
「あいにくと、棺桶を担いで歩く趣味はなくてね」
「ふうん? でもきみにぴったりだ」
「まさか。おれには丈がたりないだろう」
「そうかな? ぎゅうぎゅうに押しこんだらどうだろう? 手足をばらばらにして詰めるとか」
まじめな顔で怖いことをいう。
切断された四肢の配置を生々しく想像してしまい、嫌な気分になった。
そもそも死者が安らかに仰臥できてこその棺だ。あちこち身体を折り曲げなくては納まらない棺など、まるで訳あってまともに埋葬できない死体を、隠すか捨てるかするための箱ではないか。
「……さあ。コントラバスのケースなら、なんとかなるかもしれないけど」
「これはチェロ?」
「ああ」
「もう長いつきあいになるの?」
そのくちぶりは、まるで楽器がおれの生きた相棒であるかのようだった。不躾な問いかけに応じる億劫さが、いくらか薄らいだ。
「五年くらいかな。この楽器とは」
「そのまえは他の楽器を?」
「分数楽器……全体にこう、寸法の縮められた楽器を、身長にあわせて何台か乗り換えてきたから」
「じゃあ、手ほどきを受けたのはかなり早い時期だったんだね」
「まあね」
「聴いてみたいな」
一瞬、返事につまった。
「……たいした腕じゃないさ」
相手の目から隠すように、左手を握りこむ。かたく鍛えられた無骨な指先は、弦楽器を扱う人間特有のものだった。だがここ数週間はまともに楽器にふれていないので、だいぶなまくらになっているはずだ。
この先に待っている生活で、それはますますひどくなっていくだろう。息をするように楽器と戯れているのがあたりまえだった日々には、もう二度と戻れないのだから。
車窓に視線を逃がすと、外の景色は流れる霧の向こうにかすんでいた。
先刻まではくすんだ午後の陽光を受けとめた丘がゆるやかに連なっていたが、いまはどこを走っているのかうかがい知れない。こころなしか肌寒くなってもきたようだ。
ふと気になって懐をさぐり、蓋つきの銀時計をとりだす。
先だって他界した母に贈られた品だ。
午後三時二十分。
予定では、もう目的地に着いていてもおかしくない時刻だった。
夜のせせらぎのような声だった。
ひたひたと鼓膜の奥に浸みこんで、仄暗い夢にいざなう声。
「────?」
ふいに胸がざわめき、顔をあげる。
と、ついさっきまでひとりきりだったはずの一等客室に、いつのまにか新たな乗客が加わっていた。
ロンドンのキングズ・クロス駅を発って五時間。
イースト・コースト本線で初秋のイングランド東部をひたすら北上するうちに、このところの気疲れのせいもあってか、うつらうつらしていたらしい。
どこか異国の気配をただよわせた少年だった。
小柄だが、齢のころはおそらく同年輩──十六、七のようだ。
漆黒の髪と瞳に、淡いセピアの肌。南の血が流れているのかもしれない。
襟の高い、司祭平服に似た黒ずくめの装いに身をつつんだ彼は、あえてかどうかおれの正面の座席に腰をおろしていた。
窓辺に頰杖をつき、天鵞絨めいた瞳でこちらをうかがっている。
奇妙に、焦点の在り処の読みにくいまなざしだった。
じわりと不穏なとまどいが増した。
「おれの……なんだって?」
「棺だよ」
「棺」
「その大きな黒い箱のことさ」
少年はおれのかたわらに視線を移した。
そこにしんと寄り添っているのは、座ったおれの背丈を超える革製のトランクだ。
「ずいぶん大切なもののようだから。違うのかい?」
「…………」
黒々とそびえるトランクは、たしかに遺体を納める棺を思わせなくもない。
だが長年使いこんで傷だらけのそれは、チェロの輪郭をなぞったゆるやかな曲線を描いており、誰の目にも楽器がしまわれているとわかる代物だ。
つまりは、いささか悪趣味な軽口のつもりなのだろう。
──煩わしいな。
正直なところ、そう感じずにはいられなかった。
だがこうしてふたり膝をつきあわせた個室で、いまさら相手を無視するというのも相当に気づまりなものだ。なにしろ一等車輛に側廊はなく、走行中の各コンパートメントは即席の密室と化しているのだ。
どうせ行きずりの仲だ。適当にあしらって済まそう。
おれはため息を吞みこみ、相手に調子をあわせた。
「あいにくと、棺桶を担いで歩く趣味はなくてね」
「ふうん? でもきみにぴったりだ」
「まさか。おれには丈がたりないだろう」
「そうかな? ぎゅうぎゅうに押しこんだらどうだろう? 手足をばらばらにして詰めるとか」
まじめな顔で怖いことをいう。
切断された四肢の配置を生々しく想像してしまい、嫌な気分になった。
そもそも死者が安らかに仰臥できてこその棺だ。あちこち身体を折り曲げなくては納まらない棺など、まるで訳あってまともに埋葬できない死体を、隠すか捨てるかするための箱ではないか。
「……さあ。コントラバスのケースなら、なんとかなるかもしれないけど」
「これはチェロ?」
「ああ」
「もう長いつきあいになるの?」
そのくちぶりは、まるで楽器がおれの生きた相棒であるかのようだった。不躾な問いかけに応じる億劫さが、いくらか薄らいだ。
「五年くらいかな。この楽器とは」
「そのまえは他の楽器を?」
「分数楽器……全体にこう、寸法の縮められた楽器を、身長にあわせて何台か乗り換えてきたから」
「じゃあ、手ほどきを受けたのはかなり早い時期だったんだね」
「まあね」
「聴いてみたいな」
一瞬、返事につまった。
「……たいした腕じゃないさ」
相手の目から隠すように、左手を握りこむ。かたく鍛えられた無骨な指先は、弦楽器を扱う人間特有のものだった。だがここ数週間はまともに楽器にふれていないので、だいぶなまくらになっているはずだ。
この先に待っている生活で、それはますますひどくなっていくだろう。息をするように楽器と戯れているのがあたりまえだった日々には、もう二度と戻れないのだから。
車窓に視線を逃がすと、外の景色は流れる霧の向こうにかすんでいた。
先刻まではくすんだ午後の陽光を受けとめた丘がゆるやかに連なっていたが、いまはどこを走っているのかうかがい知れない。こころなしか肌寒くなってもきたようだ。
ふと気になって懐をさぐり、蓋つきの銀時計をとりだす。
先だって他界した母に贈られた品だ。
午後三時二十分。
予定では、もう目的地に着いていてもおかしくない時刻だった。