第1話 境界の少年 #2

文字数 4,147文字

「ダラムの駅は──」
 おもわず腰を浮かせると、
「すぐ近くだよ。いまはまだね」
「まだ?」
 それはじきに到着するということか、あるいは乗りすごしてまもないということか。
 とっさの判断がつけられずにいると、
「そう慌てることはないよ。ぼくも同じ駅で降りるつもりだから」
「……そうか」
 では、すでに降りそびれたわけではなかったのだ。どうやら列車は定刻よりやや遅れているらしい。
 ふたたび席につくと、少年はこちらの網棚に目をやった。
「ダラムには旅行で?」
 網棚には、身のまわりの品を詰めた手提げトランクが載せてある。
「ああ……いや。この秋から、ダラムの寄宿学校に編入することになったんだ。郊外にある神学校らしいんだけど」
「聖カスバート校?」
「そう。知ってるのか?」
「町で知らない人間はいないよ。それにぼくはそこの生徒だから」
「本当か? それは奇遇だな」
 さすがに予想外のめぐりあわせだった。
「とすると、きみのその格好は──」
「お察しのとおり、聖カスバートの陰気きわまりない囚人服だよ」
 敬虔な信者なら、およそ口にはしないだろう見解だ。おれはようやく、この胡乱な少年にわずかながら親しみをおぼえた。
「囚人服か。それはぞっとしないな」
 制服は学校に着いたら支給されると聞いていたが、それがこの地獄の使者のような衣裳だとは、なおさら暗澹たる気分になる。
「断っておくけれど、いまのは決して修辞的表現ってやつじゃないよ」
 彼は片手をひらめかせると、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「きみは寝覚めは良いほう?」
「そうでもないな。朝は苦手だ」
「朝は六時半起床。七時からミサ。月火水木金土日──といっさいの例外はなしで、遅刻した者にはもれなく鞭打ち刑のおまけつき」
「鞭打ち? ミサに遅れただけでか?」
「当然」
「冗談だろう……」
 それでは気の休まるときがないに等しい生活ではないか。
「ついでに七時四十五分からの朝食は、パンにバターがひとかけ。そして申し訳程度に色のついた薄い紅茶のみ。夕食はたいていじゃがいもと牛肉。ただし金曜日だけは鱈がメインで、特別に干しぶどう入りのプディングがつく。夜食にはパンとココアが少々」
 おれはますますげんなりした。
「それでやっていけるのか?」
「もちろんやっていけないよ。だからたいていの生徒は、土曜の半休になると小銭を握りしめて、町までくりだすのが習いになっているのさ」
「食糧を漁りに?」
「そういうことだね」
「町まではどれくらい?」
「三マイルってところかな」
「かなりあるな」
 歩きなら一時間はかかる距離だ。
「ちなみに学校の周辺は人家もまばらで、ただただ荒れ地が広がるばかり。特にこれからの季節は、この世の果てに置き去りにされたみたいな気分になるよ」
「この世の果ては大袈裟だろう」
「そうでもないよ」
 独り言のようにつぶやき、黙りこむ。
 おれがとまどっていると、彼はふっと口許をゆるめた。
「まあ、あのあたりは通り道になっているから、真夜中でもそれなりににぎやかな日はあるけれどね」
「通り道って?」
「きみはこんな体験をしたことはないかな?」
 彼はおもむろに頰杖を解くと、声をひそめた。
「皆が寝静まった夜更け、寝台でひとり眠れない時間をすごしていると、届くはずのない汽車の警笛がどこからともなく聴こえてくるんだ」
「届くはずのない?」
「うん。最終列車はとっくに終わっているにもかかわらず、その警笛は哀しげに、さみしげに、まるでバンシーの泣き声のように尾をひきながら近づいてくるんだ」
 低いささやきが狭い個室の壁をじわじわと這いすすみ、背から覆いかぶさってくる。
「勇気をだして窓から外をのぞいてみると、線路も街道もないはずの荒野を、ぽつりぽつりと並んだ淡い光の列が流れるように駆け抜けていく。それは長い長い列車だった。車輛はすべて一等客室で、それぞれの個室からこぼれたほのかな灯りが、闇にうっすらとその姿を浮かびあがらせているんだ」
 巧みな語り口に誘われて、おぼろな光を放つ列車の幻影が眼裏にちらついた。耳鳴りのような警笛が、頭の奥でかすかに木霊する。
「目を凝らしてみると、車窓には黒い霞のような人影が浮かんでいる。個室ひとつにひとりずつ。なかにはぼくの知った顔もあった。ダラムの町で雑貨屋を営む老店主だ。そして翌日、町まででかけたぼくは知らされる。その老店主がまさに昨晩、脳溢血で息を引き取っていたことをね」
 彼はふわりと口の端をあげる。
「──そう。ぼくが前夜に目撃したのは、その日に命を落とした者たちをまとめてあの世に連れていく幽霊列車だったんだ」
 おれはぎこちなく唾を吞みこんだ。
「……臨時列車かなにかだろう? 地主階級が支線を敷いて、一族専用の客車を走らせることもあるっていうじゃないか。幻の列車の正体はきっとそんなところさ」
「学校の周辺にそんな支線は存在しないよ」
「だったら目の錯覚かなにかで、遠くのものが近くにあるように感じられたとか……そもそも最初からきみの夢だったんじゃないのか。夢ならどれだけ理屈にあわないことが起きてもおかしくないからな」
「ふむ。たしかにきみのいうとおりかもしれないね」
 あっさり認めたものの、彼はめげたふうもなく続ける。
「でも雑貨屋の店主が死んだことについては、どう説明するんだい? 仮に幽霊列車が夢の出来事だったとして、ぼくは彼の死を感じとっていたことにならないかな。何マイルも離れたところにいる彼の異変が、学校で寝ているぼくにわかるはずもないのに。これって不思議なことだよね?」
 おれは腕を組み、質問した。
「きみがその店主と最後に顔をあわせたのはいつだった?」
「ええと、彼が死ぬちょうど一週間まえの外出日だね。でもそのときはぴんぴんしていたんだよ」
「見かけはそうかもしれない。だけど身体の細かな血管とか神経とかの単位では、きっともう異変が始まっていたんだろう。どんなことも原因あってこその結果だ。その不具合を、きみは動物的な感覚で察知していた。もしくはほんのささいなしぐさ──よろめきとか、息切れとかを記憶にとどめて、そうと意識しないまま彼の死が近いと結論づけた。だからきみは、彼がどこか遠いところに連れ去られる夢をつくりだしたのさ。夢をみたのと、彼が死んだ日が同じだったのはたまたまだ。その程度の偶然ならどこにでも転がっているものだからな」
「なるほど、そういう考えかたもあるか。きみはなかなか鋭いね」
 彼は素直に感心した様子だ。
「それはどうも」
「でも突発的な事故の予知となると、話は変わってくるんじゃないかな?」
「事故?」
「じつはこんな話があってね」
 とある鉄道員の体験談だ、と彼はとっておきの秘密のように語りだす。
「その信号手の仕事場は、じめじめとした岩の壁に挟まれたトンネルの入口だった。そこに設置された小屋に詰め、信号の切り替えという任務をこなしていた彼は、あるとき赤い危険信号灯のそばから見知らぬ男が呼びかけているのに気がついた。その男は片腕で顔を隠し、片腕をめいっぱいふりながら叫んでいた。『おうい、そこの人! 気をつけろ!』とね。あわてて駆け寄った信号手がその男に手をのばしたとたん、相手は霧のように消えてしまった」
「気をつけろ?」
 おれはひっかかりを感じたが、彼はかまわず先を進める。
「その数時間後のことだ。この路線で史上最悪の列車事故が発生して、数えきれないほどの死傷者がトンネルから外に運ばれていった。まさにあの謎の男が警告を発していた場所を通り抜けて……。けれど信号手の恐るべき体験は、それだけでは終わらなかった。それから半年ばかりが経ったある夜明け、またも──」
「ちょっと待て。その話、最近どこかで……」
 聞いたのではない。読んだのだ。週刊誌に掲載されていたものを。
「そうだ! しばらくまえの『オール・ザ・イヤー・ラウンド』に、たしかそんな短篇が載っていたはずだ」
「なんだ、知っていたのか。チャールズ・ディケンズの『第一支線。信号手』だよ」
 彼は悪びれたふうもなく、
「あれはきっと実話だね。さすがにうまく脚色されているけれど、ぼくも似た経験をしたことがあるよ。鉄道の周辺では、得てして摩訶不思議なことが起こるものなのさ」
「噓を吐け。とんだほら吹きだな、おまえは」
 おれはすっかり脱力して、座席の背にもたれかかった。
「こうやっていつも、新入りをからかっては楽しんでいるんじゃないだろうな」
「ふふ。初級の坊やたちなら、あっさりひっかかってくれるのにな。やっぱり半端に学がついてくると、人間ろくなことがないね」
「呆れたな」
 とんでもない発言に、こちらもついつい遠慮を忘れた。
「いたいけな下級生をいたぶるのはやめておけよ。慣れない寮生活で、ただでさえ不安に耐えてる子だって少なくないだろうに」
「だからこそさ。ぼくは彼らの感じている怖いものを集めて、それにこういう話でかたちを与えてやるんだ。視てしまった怖い夢は、黙っていてもいなくても消えはしない。ならいっそのこと、他の誰かと共有してしまったほうが楽になるだろう? 怖いものは自分の内より外にあったほうが安心できるのさ」
「たいした持論だな」
 どうにも妙な奴と知りあってしまったものだ。
 にもかかわらず、いつのまにか気心の知れた友人同士であるかのようなやりとりをしているのが、不思議だった。
「新学期がいまから楽しみだよ。休暇中に仕入れた怖い話を、みんなはりきって打ち明けにきてくれるからね」
「きみのところに? まさか報酬でもばらまいてるのか?」
「うん。でもちゃんと内容を吟味して決めているよ。この怪談はそう目新しくないものだから、チョコレートの欠片ふたつぶんの価値かなとか」
 どう考えても、神学校の戒律には反するふるまいだろう。
「感心な上級生なことで」
「そう馬鹿にしたものじゃないよ。ぼくがあちこちから蒐集した話が、生徒の命を救うこともあるんだから」
「命を救う? いったいどういうわけで?」
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