第1話 境界の少年 #5

文字数 3,624文字

 それにしても、彼は音楽好きなのだろうか。同年輩とはいえ、行きずりの相手に積極的に声をかけてきたのも、おれが楽器をたずさえていたからかもしれない。
「シーズンのあいだは、毎晩の舞台で帰りが遅くなるだろう? 昼公演や稽古だってあるし、どうしたって子守の都合がつかない日もでてくる。だからしかたなく、楽屋とか舞台裏でおれを遊ばせていたわけさ」
「なんだか楽しそうだね」
「退屈した記憶はないな。大道具に小道具、舞台の書き割りなんかがごちゃごちゃ積まれていて、がらくたみたいなものでも子どもにとってはまさに宝の山だった。本番を控えた楽団員が、予備の楽器をさわらせてくれたりもしたしね」
「楽器にふれたのは、それがきっかけ?」
「ああ。母としては、息子に音楽をやらせるつもりはなかったらしい。でもおれがいつも楽器相手に飽かずに遊んでいるものだから、自己流で変な癖がつくよりかはって習わせることにしたんだそうだ」
「きみの母上は本当は嬉しかったのかな、きみが音楽に興味を持ってくれて」
 彼の視線は、いつのまにか足許に落ちていた。
 ひょっとしたら……とおれは考える。彼は自分自身の母親のことに想いを馳せているのだろうか。
「どうだろう。やめさせようとしたことは一度もなかったし、道を極めたいなら全身全霊でやれと忠告されはしたけどね」
 それは厳しい世界で戦い続けてきた先達としての、精一杯の励ましだったのかもしれない。いくら息子であろうと──いや、だからこそまるで才がなければ、ためらうことなくそう告げていただろうから。
 やがて彼はためらいがちにきりだした。
「きみはさっき、新しい後見人のことを話していたね」
 いまさら隠すもなにもないだろう。おれはひとつ息をつき、簡潔に伝えた。
「母は先月死んだ。オペラ座での舞台稽古がはねたあと、劇場からの帰途に馬車の事故でね。それで見ず知らずの父方の親族に、引き取られることになったんだ。もっとも向こうにとっては、おれの存在自体が寝耳に水だったらしいが」
 あれからまだひと月も経っていないとは信じられない。
 母の突然の死から葬儀、弔問客の応対など、おれが目先の雑事を捌くのに精一杯だったころ、事態はすでにめまぐるしく動いていた。
 母の弁護士が、おれの父方の親族と連絡を取ろうとしていたのだ。
 名も顔も知らないおれの父親は、まだ歌姫として華々しい活躍を始めたばかりの時代の母の恋人だったらしい。おれが子どものころから、母にはたいていそうした相手がいたので、その関係には想像がついた。パトロンを必要としていたというよりは、気のあう賛美者を心の支えにしていたふうで、ときには彼らがおれの即席の家庭教師に取りたてられたこともある。
 父が身分ある相手だったらしいことは、ぼんやりとではあるが教えられていた。
 母が子どもを宿したのを機に、ふたりは関係を終わらせたという。それは母自身の望みだった。貴族とのあいだに私生児を産んだことが醜聞となって、つかみかけた仕事の成功をふいにすることこそ、母がもっとも恐れていたことだったからだ。
 父はそれを吞み、母は幸い拠点を大陸に移す機会にめぐまれたので、おれの出生の秘密が暴かれることもなかった。
 父について語る母の口ぶりはあっさりとしたもので、どうやら後腐れのない別れかたをしたようだった。もともと結婚を望んでもいなかったのだろう。
 その父が二年ほどまえに他界したと聞かされたときも、特になにも感じなかった。母は幾分しみじみとしていたようだが、知らないものを慕うことも惜しむことも難しい。
 父の死は、おれの人生になんら変化をもたらさなかった。
 ただ母にとっては、息子の身の上について考えなおすきっかけとなったらしい。もしも母の身になにかあったら、おれには頼れる親族がひとりもいなくなる。それを案じた母は弁護士に事情を打ち明けて、残された息子のための手筈を整えておいたのだ。
 おそらく母は、おれが父方の親族と連絡をとる気などさらさらないことを、承知していたのだろう。だからこそ弁護士に動いてもらうことにしたのだ。
 弁護士から連絡を受けたレディントン伯爵家の現当主──おれの腹違いの長兄にあたる男だ──は意外なことにあっさりおれを一族の者として認めた。そして今後の生活の面倒をみると、おれをロンドンの屋敷に引き取ったのだった。
 おれはなんの努力もせずに、まさにディケンズの小説の主人公なみの立身出世を遂げたわけだ。
「きみは自分の境遇にとまどっているのかい?」
 彼の問いかけで、おれの回想は散り散りになった。
「……そうだな。いずれは音楽院に進むつもりでいたから、まさか神学生になる日がくるとは想像したこともなかったよ」
 もはや音楽が人生の一部となっていたおれは、いずれチェロで身をたてていくために、そう遠くないうちに音楽院で学ぼうと決意していたのだった。
「なるほど。それならきみは、ますます聖カスバートの暮らしに向いていなそうだね」
「心がけの悪いおれには、友人のひとりもできそうにないって?」
「そういうことじゃないよ。でもきっとすぐに耐えられなくなる」
「どうして?」
「だって聖カスバートには、自由な時間なんてほとんどない。聖歌以外の音楽には縁がないし、その楽器だって自室に持ちこむのが許されれば上等なくらいだ」
「……知ってるさ、それくらい。べつに弾くためじゃない」
「そうなの?」
「もう楽器はやめるよ。専念できないのなら、さわっても意味がないから」
「じゃあ、なんのために持ってきたんだい?」
「いきなり手放す気にはなれなかっただけだ。それなりに値打ちのあるものだし」
「いざというときの軍資金代わりにするつもりだってこと?」
「ああ、そんなところだ」
 おれは投げやりに答え、顔をそむけた。彼の不躾さのせいで、いままでどうにかなだめてきた神経が、ささくれだってひりひりと痛みだすようだった。
「そのうちに慣れるさ。誰だってそうだろう」
「でもきみは違う。きみは夢をかたちにしないと生きていけない人間だからね」
 おれはめんくらった。
「……なんだって?」
「だって音楽は夢と現の隙間を埋めるものだろう?」
 底の知れない瞳で、呪文のようにささやく。
「きみは夢にかたちを与えるやりかたを知っている。ぼくたちが現実だと信じているものこそが、儚い幻のようなものだとわかっている。すべては夢。夢こそがすべて。ぼくたちが夢と同じものでできていることをね」
「……プロスペローか」
 それはシェイクスピア晩年のロマンス劇『テンペスト』に登場する魔術師の科白だ。
 ──我々は夢と同じものでできている。
 おれは続きをつぶやいた。
「そして我々のささやかな人生は、眠りとともにめぐる」
 毎夜の眠り。永久の眠り。
 豊かな夢の世界へと続く眠りのかたわらで、人はつかのまの現実を生きている。
 おれがすぐさま応じてみせたのが嬉しかったのか、彼は満足そうに笑んだ。
「そのとおりさ。夢と現の境界なんて、そもそも人間が勝手に決めたものだ。なのにいまさら境界を超える手段をなくしたら、たちまち魂が朽ちてしまうよ。それこそ永久の眠りに身を投じるしか逃げる道はないくらいにね」
 大仰な科白を、笑い飛ばすこともできたはずだった。
 だが無視のできないなにかが鉤爪のようにひっかかり、ぷつりと破れた心の膜から滲みだしそうになるものから、おれはとっさに目をそむけた。
「きみはおれを買いかぶりすぎだ。演奏を聴いたこともないのに」
「どうせ聴かせるつもりはないんだろう」
「──そうさ。もう弾かないことに決めたんだ」
「じゃあ、やっぱりその箱はきみの棺じゃないか」
 彼の視線がそろりと動き、おれのかたわらのトランクをさした。
「だってそこにはきみの夢が閉じこめられている。つまりはきみからもぎとられた半身が葬られているってことだろう」
「おれの、半身?」
 おれは我知らずトランクに片腕をのばしていた。楽器を支えようとしたのか、それとも支えにしようとしたのかわからないままに。
「人は夢を封じたままでは生きられない。それでも平気だというのなら──」
 ねえ、と彼は呼びかけた。
「本当はきみ、もうとうに死んでいるんじゃないのかい?」
 黒い瞳が、すくいあげるようにおれの身の内をのぞきこむ。
「きみはすでに殺されていて、そのトランクに詰めこまれているのに、そのことを忘れているだけなんじゃないか?」
「忘れている?」
 一瞬のとまどいを狙いすましたように、先刻の問いが脳裡によみがえる。
 ──それはきみの棺かい?
 ぞわりと視界がさざめいた。
 そもそもの始まりから、彼はおれのトランクにこだわっていた。死んでから用意される棺を、持ち歩いているはずもないのに。
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