第1話 境界の少年 #8

文字数 2,506文字

「……おれたちは、どこに向かっているんだ」
「このまま乗っていても、ダラムの駅に到着しないことはたしかかな。もちろんスコットランドのエディンバラにも。終点になにが待っているかはわからない。さすがのぼくも、死んで生きかえった経験はないからね」
「そういうことはイエス・キリストにでも訊いてくれって?」
「上手いこというね、きみ」
 彼はさもおかしそうにくつくつと笑った。
「でもこういう場所に迷いこむのは、そうめずらしいことじゃないんだよ。知らないふりをしているだけで、ここはぼくらのすぐ隣にある世界なんだから」
「だろうな。おれはもう、きみがなにを言いだしても動じない自信があるよ」
 おれはもはや突き詰めて考えるのを放棄して、よろめくように腰をおろした。
「じゃあ、あの事件について話し残していたことを教えようか」
 じつはね、と彼は語りだす。
「あの子の死に不審を感じて、警察の捜査が終わったあとも独自に調べてまわった人物がいたんだ。たぶんあの子のことを心から気にかけていた唯一の……。彼はね、犯人の事故死を目撃した宿のメイドから、こんなことを聞いたらしい。上階の客室にこもっていた犯人は、まるでなにか恐ろしいものから逃げるように部屋から飛びだしてきて、その勢いで階段を踏み外したんだって」
「逃げるように?」
「メイドがおそるおそる犯人の部屋をのぞいてみると、隅に置かれたトランクからかすかな物音がしたそうだ。かりかり、かりかり──と、爪の先でトランクの内張りをひっかくような音がね。彼女は仔猫でも隠れているのかと思ったらしいけれど」
 おれははっとした。
「まだ息があったのか」
「──いいや。すぐに警察が呼ばれて医者が検死をしたところ、殺されてしばらく経っていることは明らかだったって」
「だったらその音は」
「もちろん小動物が発見されることもなく、気のせいでかたづけられたそうだよ」
 おれはじっと彼をうかがった。
「……きみはどう思うんだ」
「狭いところに閉じこめられたら、誰だって外にでたくなるだろう」
 暗い暗い箱のなか。自分がなぜそこにいるのかすらわからないまま、ひたすらに存在を訴えかけようとする少年。
 そのとてつもない心細さが、怯えた獣の牙のようにおれの胸壁を抉った。
「そもそも彼は、殺されたことに強い恨みを持っているわけじゃない。犯人に復讐したいだとか、誰かを自分と同じ目に遭わせてやろうだとか、そういう悪意はまるでないんだ。ただたださみしくて、寄る辺のない想いが残って、それを誰かと分かちあいたいと望んだだけなんだ」
 誰かにそばにいてほしかっただけなんだ。
 ぽとりと床に落ちた彼の声が、かすかな波紋を描いて消えてゆく。
「それで……おれは呼ばれたのか」
 いつ、どの瞬間からこの特別待遇の貸し切り列車に閉じこめられたのかは、考えるだけ無駄なのだろう。
「きみは耳が良さそうだから、より共鳴しやすかったんだろう」
「共鳴?」
「そう。そこで窒息しかけたきみの半身とね」
 おれの半身。おれの相棒。おれの夢。おれのすべて。
 おれは我知らず、楽器を納めたトランクの肩先に手をのばしていた。
「ほら、聴こえないか? しばらくまえから騒ぎだしている」
 耳を澄ますように、彼が顔をかたむける。
 そのとき、指先にかすかな気配が伝わってきた。
 さりさり、さりさり──と乾いた枯れ葉のさざめくような、かぼそいふるえだった。
 不思議とおぞましさは感じなかった。代わりに、霧雨のような哀しみが胸に広がった。
「その子は、いまここにいるのか」
 おれと同調し、増幅した無念の響きが、このなかで木霊しているのか。
 彼は黙ったまま、トランクの奥の誰かと視線をあわせるように身を屈める。そして呼びかけた。
「きみの身になにがあったか、思いだせたかい?」
 ふつりと物音がとぎれる。数秒後、ふたたびそれは始まった。
 かりかり、かりかり──と明確な意志を伝えるように、次第に強さを増しながらくりかえされる。こちらの声はちゃんと届いているのだ。
「そこは暗くて狭いだろう。もう閉じこめられたままでいたくはないんだね?」
 音が激しくなる。
 がりがり、がりがり──と出口を求めた鉤爪がおれの鼓膜にすがりつき、鋭く走った裂けめに痛みと熱が弾ける。
 おれの半身と同化した、おれの声が訴える。
 でたい。でたい。ここにはいたくない。寒い。苦しい。息ができない。
 助けて。助けて。助けて。助けて。
「おい! どうするつもりだ。このままじゃ──」
 たまらず叫んだおれを目線でとめ、
「きみにはまだ忘れていることがある」
 彼は真摯に語りかける。
 最期の感情にとらわれて、みずから孤独な檻をつくりだしてしまった少年のために。
「きみは本当にひとりきりだったかい? 顔をあわせるたびに、いつだってきみを心から気遣ってくれていた誰かがいなかったかい?」
 確信をもってたたみかける口調だった。おれは息をつめてなりゆきを見守る。
 いつのまにか音は途絶え、途方に暮れたような沈黙が広がっていた。
「あの日も彼は、仕事をしながらきみのことを気にかけていた。休暇を早めにきりあげたきみがそろそろダラムに戻ってくるんじゃないかと、きみが汽車から降りてきたらきっと笑顔で出迎えてあげようと待っていたんだ」
 汽車から降りた少年を、仕事中に出迎えてやることのできる者ということは……。
 並べられた条件から、その正体を導きだしかけたまさにそのとき、おれは幻視した。
 優しいまなざしでこちらを見おろす年老いた駅員──駅長だろうか──の姿を。とても背が高くて……いや、そうじゃない。これは彼自身の視線なのだ。
 ──ああ、そうか。
 まだほんの子どもだったんだな、きみは。
 胸の内でつぶやいたそのとき、不可視のいましめが砕け散り、あたたかな波が四肢へと広がっていった。
「もっと早くに気がつけたらよかったな」
 そっと頭をなでてやるように、彼がささやく。
 そしておれはまっすぐに、トランクの留め具に手をのばした。

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