第1話 境界の少年 #3

文字数 3,860文字

「じつはこの鉄道と、うちの生徒にまつわる怪異の噂があってね」
「きみの知りあいか?」
 彼はわずかにくちごもり、首を横にふった。
「……直接には。その生徒が在籍していたのは、ぼくが入学するだいぶまえだから」
 十年ほどまえのことだという。
「新学年を控えて、ひとりでダラム行きの列車に乗っていた生徒がいた。入学して二年めの秋を迎えたばかりだったらしい。ちょうどいまの時期のことだね」
 生来のものか、環境のせいもあったのか、内気で病弱な少年だった。
 父親は裕福な実業家だったが、実母が他界して後添いが弟を産んでからは、跡取り息子としての期待が弟に移り、次第に家族から顧みられなくなっていったそうだ。
「彼は学校にもなじめなくて、うまく友だちを作れないまま孤立していたんだ」
 それは──さぞかし気の重い旅路だったことだろう。
 家にも学校にも居場所がない。
 どこにもいられない。どこにもいたくない。
 そんな悲鳴で軋む心を置き去りにして、からっぽの身体だけが粛々と運ばれていく。
 このままずっと、列車に身を委ねたままどこにもたどりつかなければいい。そんなふうにも思っただろうか。
「学校に戻りたくないその子の願いは、意外なかたちで成就することになった。彼は列車内で不幸な死にかたをしたんだ」
「車内で?」
 めったにないだろう状況に、おれは意表をつかれた。
「病気の発作……それとも、脱線事故かなにかか?」
「殺されたのさ」
「え?」
 あっけないひとことの意味が、水底に沈みこむようにゆらりと頭の奥までたどりつく。
「ちょうどこんな一等客室に、彼はあとから乗りこんできた見知らぬ男と閉じこめられたんだよ」
 そして逃げることも、助けを呼ぶこともできないまま、命を奪われた。
「長く苦しみはしなかったんだ。席をたってこちらに近づいてきた相手を不審に思った次の瞬間、華奢な首に手をかけられてほどなく意識を失った。自分の身になにが起きているのか、考える余裕もなかったんじゃないかな」
 たしかにそんな襲われかたをしたら、子どもでなくとも恐慌状態になって、相手の正体や意図を察するのは難しいかもしれないが。
「その子が狙われたのには、なにか理由があったのか? それとも──」
 不運にも、たまたま乗りあわせた殺人鬼の犠牲にでもなったのだろうか。
「本来は身代金目的の誘拐事件だったらしい。その子の父親は成功した実業家だから、大金をせしめることができると考えたんだろうってね。新聞沙汰にもなって、一時期はかなり騒がれたみたいだ」
 おれは首をひねった。
「身代金がめあてだとしたら、大切な人質を殺してしまうのはおかしくないか? 要求どおり用意された金との交換は、たいてい攫われた子の無事が確認できてこそ成りたつものだろうに」
「脅しておとなしくさせるだけのつもりが、激しく抵抗されたから弾みで殺してしまったんだろうというのが警察の見解だった。脅迫状がまだ投函されていなかったのは、それでもなんとか身代金を手にする方法がないか考えあぐねていたせいだとすれば、平仄もあうしね」
 本人がそう自白したわけではないらしい。とすると──。
「まさか犯人はまだ捕まってないのか?」
「すぐに捕まったよ」
「だったら──」
「捕まえたのは死神だから」
「え?」
 おもわずびくりとしたおれを見遣り、彼は口の端をあげる。
「少年を手にかけた翌日、犯人はエディンバラの宿で死んだのさ。どういうわけか、階段から転落して首の骨を折ったらしい。男が泊まっていた部屋には、少年の実家に宛てた書きかけの脅迫状と遺体が残されていて、そこから事件が発覚したんだ」
「遺体も?」
「だって列車に放りだしていくわけにはいかないじゃないか」
「だけどどうやってコンパートメントから運びだしたんだ?」
 少年が生きていれば、ひそかに短銃やナイフを突きつけるなどして命令に従わせることもできる。だが死んでしまっては、世にも厄介な荷物でしかない。少年がぐっすり眠っているふうを装って、背負っていくわけにもいかないだろう。大勢の乗降客や駅員の目にさらされる駅で、誰かひとりにでも怪しまれたら万事休すだ。
 すると彼はくすりと笑った。
「きみは鋭いようでいて意外に抜けているんだな。まさにおあつらえ向きのものを、きみも持っているというのに」
 おれははっとした。
「トランクに隠したのか」
「ご明察」
 すると彼がおれの持ちものをいきなり棺呼ばわりしたのは、現実の殺人事件をなぞっていたわけだ。
「犯人はその子の遺体を隠した旅行用の大きなトランクを担いで、終点のエディンバラで下車したらしい」
「つまり列車に持ちこまれたとき、トランクは空だったわけか」
「そうだろうね」
 だがおれはふと違和感をおぼえた。
「ちょっと待ってくれ。犯人があらかじめそんな容れものを用意していたなら、最初からその子を殺すつもりだったことにならないか?」
 彼はじっとおれをみつめる。そして静かに目を伏せた。
「これは誰にも話していないことだけれど……ぼくはこの一件、本当は誘拐にみせかけた依頼殺人だったんじゃないかと思っているんだ」
 一呼吸おいて、おれは目をみはった。
「依頼って……まさか義理の母親からのか?」
「たぶんね」
 おそらく彼女にとっては、義理の息子がいなくなりさえすればよかったのだ。だが良家の子息が理由もなく失踪したり殺害されたりしたら、大々的な捜査が展開されることだろう。それを避けるために、偽装誘拐という手段を選んだのではないか。実業家の長男なら誘拐犯に狙われてもおかしくないし、おとなしくさせようとしたあげくに殺してしまうことも充分にありえる。
 そんな考えをめぐらせているうちに、はたと思い至った。
「ひょっとして犯人は、口封じのために殺されたのか?」
「それはなんともいえない。状況からして純粋な事故だったみたいだけれど、どちらにしろ共犯を証拠づけるようなものはなにもみつからなかったし、表向きには円満だった家族に警察の疑いが向けられることもなかったんだ」
「当事者が両人とも死んでしまったから、真相はわからずじまいか」
 そういうことだね、と彼はうなずいた。
「それからさ。毎年その事件の日になると、空のはずの一等客室にぽつねんと座る少年の姿が目撃されるようになった。誰にも知られずに命を絶たれた彼は、いまもひっそりと最後の旅の道連れにする子どもを探しているんだ」
「なるほどね」
 おれは胸にためこんだ息を吐きだした。たしかによくできた怪談だ。
「だからダラムの駅でこの件を耳にしてから、ぼくは後輩たちに忠告しているんだ。もし休暇を早めに切りあげることになっても、その日に戻ってくるのだけは避けたほうが賢明だってね。おかげで犠牲者はいまのところでていないよ」
「……それはきみの手柄になるのか?」
「もちろんだとも」
 彼は得意げだが、目撃者のいないはずの殺人事件の顚末を、まるで自分が体験したかのように語っていることからしても、この幽霊譚にはそもそもかなりの脚色がほどこされているはずだ。あるかどうかもわからない怪異に巻きこまれずにすんだと力説されたところで、苦笑するしかない。
 とはいえ、下級生たちが彼の忠告に従いたくなるのはわかる気がした。
 車輛のコンパートメントごとに取りつけられた左右の扉は、外からしか開かない仕様になっている。乗りあわせた相手から逃れる方法は、窓から腕をのばして車体の外の取っ手を操作し、決死の覚悟で飛び降りる以外にない。要するにほぼ不可能だ。
 だから列車の個室というのは、現実的な恐怖の空間なのだ。
 めったにあることではない、だがいつ自分の身にふりかかるかもしれない脅威への不安が、幽霊を避けるという行動によっていくらかでも和らぐのなら、胡散臭い怪談にもそれなりの効能はあるといえるだろうか。
 道連れを探す少年という着想も、生徒たちの感じている旅の心細さと、そんな弱気へのうしろめたさが投影されたものなのかもしれない。
 だとしたらこの怪談は、聖カスバート校に新たな生徒がやってくるかぎり、語り継がれていくのではないだろうか。
「ずっと風化しないでいるのも、それはそれで憐れな気がするな」
 おれの独り言を耳にとめた彼が、興味深そうに首をかたむける。
「なぜだい?」
「代々きみの忠告が伝わって、みんながみんなそれに従うようになったら、この怪談にはいつまでも決着がつかない。つまりその幽霊の少年は、旅の道連れを探して永遠に彷徨い続けていることになるじゃないか」
 彼はわずかに眉をあげ、ほどなく目許をゆるめた。
「きみは情が深いんだな」
「そんなことは……」
 思いがけないきりかえしにまごついたおれを、彼はおもしろがるようにながめている。そしてふいに笑みを消し去ると、
「でも用心したほうがいい。彼らは概してなりふりかまわない傾向にあるから、気を許すとすぐに取り憑かれてしまうよ。なにしろ失うもののない連中だからね」
 妙に真に迫った口ぶりに、おれはどきりとした。だがこうやって人を煙に巻くのが相手の常套手段だったと、すぐに我にかえる。
「これからはせいぜい気をつけるよ」
「うん。そうしたほうがいいね」
 あしらわれたのに気づいているのかいないのか、彼は大真面目にうなずきかえす。やはりかなりの変わり者らしい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み