第1話 境界の少年 #4

文字数 3,342文字

「それにしても、きみはなぜこんな時期に来たんだい?」
「え?」
「だって授業が始まるまで、まだ半月近くもある。たいていの生徒は、ぎりぎりまで休暇を満喫してくるものなのに」
 あいかわらず遠慮の欠片もない質問だった。
 おれは肩をすくめてみせた。
「たいした理由はない。編入生だし、おれは寄宿生活の経験もないから、いまのうちに寮暮らしになじんでおいたほうがいいと思っただけさ」
 実際のところは、あらかじめ押さえたこの列車の切符を、一方的に渡されたのだった。
 と同時に、ダラムの神学校とやらへの編入手続きが整ったので、荷物をまとめてひとりで向かうよう告げられたのである。ほんの一昨日のことだ。
「その齢までとはめずらしいね。これまではお屋敷で、家庭教師がつきっきりだったのかい?」
「とんでもない。おれがそんなたいそうな育ちに見えるか?」
 すると彼はおれの頭から爪先まで、検分するように視線を走らせた。
「でもきみの服も靴もかなり上等そうだ。肩幅も丈もぴったりだから、どこか一流どころの紳士服店で特別にあつらえたものだろう? それにきみの顔だちには、いかにも生粋の英国貴族めいた雰囲気があるよ。たしかにそのぞんざいなしゃべりかたは坊ちゃんらしくないけれど、口さえ閉じていれば立派な御曹司に──」
「やめてくれ」
 おれは我慢ならずに言い放った。
「おだてているつもりなら、見当違いもいいところだ」
 そむけた視界の端では、彼が目を丸くしている。おれはたちまちきまりが悪くなった。
「……すまない。顔のことをあれこれいわれるのは好きじゃないんだ」
「こっちこそごめん。気に障ったのなら謝るよ」
「いや」
 彼はそれ以上、からかうような物言いはしてこなかった。
 たしかに仕立てたばかりの外出着一式は、フロックコートもウエストコートも憎らしいほどぴたりと身体の線に添っている。あてがわれたその快適さが、おれにはたまらなく息苦しくてならなかったが。
 おれは弁解するように、当たり障りのない来しかたを語ってみせた。
「生まれてこのかた、親の仕事の都合であちこちの国を転々としてきたんだ。だからその時々で自宅のそばの学校に通ったり、親の知りあいに教師役を頼んだり、かなり気ままにやっていたのさ」
「ああ、たまに不思議な訛りが混ざるのはそのせいか」
「そんなにおかしいか?」
「べつにおかしくはないよ。ぼくは嫌いじゃないな。土地にも生まれにも縛られていない自由な感じがして」
「……そうか」
 自覚なく身につけたものについて、そんなふうに評されるとは意外だった。なんだか喉の奥がこそばゆくなる。
「きみはなかなかおもしろい経験をしてきたんだね。赴任先はインド? エジプト? それともカリブ海かな? ああ、でも陽にはあまり焼けていないみたいだね」
 海を越えた帝国の領土に関心があるのか、彼は熱のこもった口調でたたみかけてくる。おれの親の職業が、英国領の各地に派遣される上級外交官かなにかだと考えているのかもしれない。残念ながらその予想は外れていたが。
「拠点は主にヨーロッパだったから。あとは合衆国にも渡ったことがあるけれど」
「へえ。それがどうしてまた、よりにもよって聖カスバートなんかに? 急に神に仕える人生を歩みたくなったとか?」
 神学校はもともと、未来の聖職者を育成するための機関だ。
 もちろんすべての生徒がその道に進むわけではないが、聖カスバート校がとりわけ厳格な教育をおこなっていることは、おれの身のふりかたを決めた相手から告げられていた。その現実が想像以上だったのは、いましがた思い知らされたばかりである。
「おれの──」
 おれはくちごもり、言葉を探した。
「つい最近、おれの後見人になった人間は、そうさせたいらしい」
「後見人ね」
 含みのあるまなざしでくりかえすと、彼は不遜な笑みを浮かべた。
「きみがその後見人どのの意向に副うつもりなら、ぼくにはあまり近づきすぎないほうがいいかもしれないな。きっと監督官に目をつけられる」
 たしかに普段からこの態度なら、教師との折りあいが悪いのも納得だ。
「いま、問題児の自覚はあるんだなって思ったね?」
「そんなことは」
「いいよ、事実そのとおりなんだから」
 彼は頓着したふうもなく、重苦しい上衣をばさりと蹴りあげて足を組んだ。
「それでもぼくが退学にならないのは、寄付がかなりの額になるからだろうな」
「きみの保護者からの?」
「父方の大叔母のね。彼女は熱心なカトリックなんだ」
「きみが聖カスバート校に在籍しているのは、その大叔母さまの意向?」
「そう。ゆくゆくは聖職者にするつもりで送りこんだわけさ」
 彼は気のない様子で欠伸をかみ殺した。
「不服そうだな」
「まあね。でも逆らえないよ。ぼくはもうずっと大叔母さまの世話になってきたからね。きみのいうところの後見人というやつさ」
 大叔母──血縁としてはずいぶん遠いつながりだ。
 ならば父母はどうしたのか、という当然の疑問が浮かんだが、口にはしなかった。
「聖カスバート校は、イートンとかウィンチェスターなんかに比べれば二流どころのパブリック・スクールだけれど、カトリック界ではまあ名の知れた学校だからね。生徒は英国領の各地から集まっているよ。もちろん、この近くの町から来ている生徒もそれなりにいるけれど」
「きみもそのひとりか?」
 そうかえしてから、すぐに問うまでもないことだったと悟った。休暇中にダラム周辺にいるならと単純に考えたのだが、自宅からの外出なら制服を着ているはずがない。
 こちらの気まずさを見て取ったのか、相手はふっと笑った。
「ぼくは居残り組だよ。今日はたまたま野暮用があって、ダラムまででてきたんだ。大叔母の屋敷はダブリンにある」
「きみはアイルランドの出身か」
「そこで育ったというだけさ」
 そっけない口調だった。彼はそれきり黙りこみ、視線をそらした。
 霧はますます濃くなっているようだった。真綿の壁で幾重にも外の世界から隔てられたかのように、車内には奇妙な静けさが満ちていた。
 なにも映らない車窓に、彼はこつりと頭をもたせかける。
「休暇になっても帰省しない生徒は、ここではめずらしくないよ。聖カスバートは、厄介者を押しこめておくのにうってつけの場所なんだ」
「……厄介者?」
「いろいろな理由で、家にいるのが歓迎されない子どもたち。でもひどい扱いをして世間様に謗られるようなことは、なんとしても避けなきゃいけない。名の知れた良家ならなおさらね。そういう家にとって、うちの学校は特に都合が良いんだ」
 一流どころの生徒のように、いずれ上流社交界で華々しい地位を築くための交友関係が期待されることもなく、古くより嫡男以外の良家の子息は軍人や聖職者を目指すのが通例となっているので、外聞も悪くない。
「つまりは捨て子の吹き溜まりみたいなものだってことか」
 おれがこぼすと、彼は片眉を跳ねあげた。
「きみもたいがい口が悪いんだね」
 さすがに気分を害したかと身構えたが、彼はくつくつと忍び笑いを洩らしている。おれはほっとして肩の力を抜いた。
「ちびのころから、歌劇場の裏方たちともつきあってきたせいかな。ああいう世界の人間はなかなか辛辣だから」
「歌劇場だって?」
 とたんに彼は目を輝かせた。
「じゃあきみのその楽器は、楽団員の仕事で使っていたものなのかい?」
 しまった。口がすべった。
 おれは胸の内で舌打ちする。具体的な生いたちにまつわることを、打ち明けるつもりはなかったのだ。そもそも口外を禁じられてもいた。
「とんでもない。編成の都合で団員の数が足りないときに助っ人で乗るくらいで、とても仕事とは──」
「それだって充分すごいことだよ。たいした腕じゃないだなんて、謙遜にもほどがあるね」
「大袈裟だ。おれが舞台裏に出入りできたのは、親が歌い手だったからさ」
「まさかプリマドンナ?」
 おれはしかたなく、相手の好奇心をなだめた。
「まあ、そんなところだ。それであちこちの歌劇場を渡り歩くのに、おれもついてまわっていたんだよ」
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