第1話 境界の少年 #10

文字数 3,258文字

 彼はすたすたとホームを横切り、駅舎を背にしたベンチまでおれをうながした。
「汽車が発つまでここで待っていてもらえるかな? かたづけておきたい用がもうひとつあるんだ」
「ああ、もちろん」
「すぐに済むから」
 おれと荷物を残して、彼は踵をかえした。誰かを捜しているのか、あちこちに視線をやりながら人波をすり抜けていく。
 ベンチの席は空いていたが、おれはその横でざわめきに身をさらしていた。
 にぎやかな青年の集団は、ダラム大学の学生たちだろうか。信心深そうな老婦人の一行は、ダラム大聖堂の聖遺物でも拝みにきたのかもしれない。
 ぱたん、ぱたんと駅員がせわしなく個室の扉を閉めていく。
 一等客室に乗りこむ客はさほど多くなく、おれたちの──おれの乗ってきた個室は空のままだった。
 なんとはなしに、ものさびしい気分になった。
 彼の姿を捜すと、ホームの先でつかまえたらしい壮年の駅員と、親しげな様子で言葉をかわしている。こうしてみると、まるきり普通の少年だった。
 やがて話をきりあげた彼が、つかつかと戻ってくる。
「彼はここの新しい駅長なんだ」
「新しい?」
「前任の駅長は、今年の頭に病気で亡くなったから。それでいちおう、これを捧げる許可をもらっておこうと思ってね」
 彼が黒の上衣から取りだしたのは、ほんの小さな花束だった。
「亡くなった駅長に?」
「いや。十年くらいまえ、うちの生徒が列車内で扼殺される事件があってね、その犠牲者にだよ。駅長はその子のことをよく知っていて、事件の日になると毎年、彼のために花を捧げていたから」
 おれはまじまじと彼の横顔をみつめた。
 しばしの沈黙のあと、わかりきった問いをあえて口にする。
「それが──今日のことだった?」
「うん。だから今年は、代わりにぼくがその役目を務めるつもりで来たんだ」
「その駅長とは、きみも親しかったのか」
「良い人だったよ」
 伏せた彼の目許が、ふっとゆるむ。
「駅や街で顔をあわせるたびに、いつも声をかけてくれた。帰省のための列車に乗るときも、かならず笑顔で見送ってくれた。また元気な姿で戻ってくるのを楽しみに待っているから、休暇の土産話をたくさん聞かせてくれってね。ぼくも昔、彼のそのひとことに助けられた経験が──」
 そのとき、宙を裂くような蒸気の音が、彼の声を吹き散らした。
 つかのまの眠りから醒めた機関車が、たて続けに高熱の息を吐きだして、圧倒的な存在感を放ち始める。
「エディンバラ行き。エディンバラ行き。ご乗車のかたはお急ぎください!」
 負けじと車掌が声を張りあげ、ホームに残った人々に発車が近いことを知らせる。
 やがてすべての扉を閉め終えた駅員が、大きく手をふって合図をする。
 すると花束を握りしめた彼が、おもむろに足を踏みだした。あの空のコンパートメントに相対して、ホームの縁に花束を横たえる。
 そのうしろ姿を見守りながら、おれはひとり考える。
 ひょっとしたら、かつて彼自身もあの列車に誘いこまれそうになったことがあったのではないだろうか。
 彼もまた、呼ばれるだけの資質を持った子どもだった。だからこそ、誰にもわからないはずの少年の死を追体験し、今日もあの列車に乗りこむことができた。
 そして時期はずれの、いわくありげな編入生が連れ去られてしまうことを案じて、列車の到着をダラムの駅で待ち受けていたのだとしたら。
 おれは編入初日にして、すでに彼にたいそうな借りができたことになる。
 ──だからあえてそ知らぬふりを?
「白昼夢……か」
 夢にしろ、現にしろ、きっとたいした違いはないのだ。
 なにしろおれたちはみな、夢と同じものでできているらしいのだから。
 そのときだった。
 壁際にいたおれの背後から、なにかがふわりと肩口をかすめていった。
「え?」
 おれは目をみはった。
 それはわずかに背の曲がった、穏やかなたたずまいの老人だった。
 おれが幻に視た、すでに他界したというあの老駅長だ。少年の記憶よりもいくらか齢をかさねて、制服もややくたびれた風情だったが、まちがいない。
 おれは息をするのも忘れて、その動きを目で追いかけた。ゆったりとした足どりで彼のもとにたどりついた老駅長は、その肩にねぎらうように手をかける。そして出迎えるように扉の開いたコンパートメントの奥に、音もなく乗りこんでいった。
 席についた老駅長の向かいには、いつのまにかひとりの少年が座っていた。ひどく小柄で、気の優しそうな少年だった。華奢な膝をそろえ、はにかむような笑顔でなにかを話しかけている。老駅長もまた、それを全身で受けとめるように、熱心にうなずいている。
 再会したふたりの語りあうその部屋は、きっともう冷たい檻ではないのだろう。
 長い警笛が秋空にたなびき、重い腰をあげるように列車がすべりだす。
 それが別れを惜しむしぐさめいていて、置き去りにされたこちらも不思議となぐさめられるようだった。煤の混じった空気が、ひどく目に痛かった。
 やがて帰ってきた彼は、肩の荷のおりたような表情をしていた。
「終わったよ。待たせて悪かったね」
「かまわないさ」
 おれはなにも訊かず、彼もなにも説明しようとはしなかった。
 彼は両腕を天に突きあげるように伸びをすると、
「そうそう。いまは寮の部屋にちょうどいい空きがなくてね、きみはぼくとの二人部屋になるらしいよ」
「ええっ〖縦中横:!?〗」
「……ひどいな、そんなに嫌がらなくても」
「いやいや、そういうわけじゃ」
「どうかなあ」
 ただ予感がしたのだ。この風変わりな隣人のそばにいるかぎり、おれはこれからとんでもなく面妖な体験をかさねることになるのではないか。
 内心うろたえるおれを、彼はさもおかしそうにうかがっていたが、
「ところでそのチェロはきみの楽器かい?」
 とぼけているのかどうか、そんなことを訊いてきた。
「そう……だけど」
「ならいつか聴かせてくれるんだろう? 隣人として、それくらいの権利はあると思うな」
 挑むような視線が、まっすぐおれに向けられる。
 そのとき、おれはようやく気がついた。母の死から、もうずっと自分を支配し続けていたかたくなさが、ほんのわずかだが和らいでいることに。
 おれは静かにうなずいた。
「──そうだな、いつか」
「時間ならたっぷりあるさ」
 知っているかい、と彼はささやく。
「枯れた花も、根さえ腐っていなければいずれまた咲くものさ。冬のあとにはかならず春がやってくる。それがこの世界の理なんだから」
 その声音は不思議におごそかないたわりに満ちていて、おれの隣にたたずむ小柄な少年は、まるで古代の賢者かなにかのようだった。
「きみはいったい何者なんだ」
 冗談めかしてたずねたが、そうは聴こえなかったのかもしれない。
 彼は開きかけた口を閉じ、わずかにためらったあと、迷いをふりきるように告げた。
「──パトリキオス・レフカディオス・ハーン。ただの人間さ」
 パトリキオス・レフカディオス?
 耳慣れない響きの名を、おれは口の内でくりかえす。
 パトリキオス──パトリックは、彼が育ったというアイルランドの守護聖人だ。
 ではレフカディオスのほうは?
 だが彼はそれ以上は語らずに、おれのトランクを手に提げた。
「さてと。寮の貧しい夕食の時間までは、まだだいぶある。まずは腹ごしらえだな。安くておいしい軽食をだす店を知っているんだ」
「…………」
 ひとりで決めて、ひとりで歩きだす彼を、おれはぽかんと見送る。
 そのうちに、ふつふつとおかしさがこみあげてきた。なによりもまず腹ごしらえを優先するとは、たいした賢者さまだ。
 おれは笑いをこらえながら楽器を担ぎあげ、彼のあとを追った。
 駅舎の出入口にたどりついたところで、ふと列車をふりかえる。
 そして遠ざかる最後尾に向けて、最後の挨拶を送った。
「──良い旅を」
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