第1話 境界の少年 #7
文字数 1,599文字
「おれはそんなに柔じゃないよ。あんな男に憎まれたくらいで傷ついたりしない」
「でもきみの魂はそう感じていない。弾けなくなったのがその証拠さ」
「いったいなんのことだ」
光を吸いこむような黒の瞳が、真正面からおれを射貫く。
「きみはあえてその楽器を弾かないことにしたんじゃない。弾けなくなったんだ。きみをがんじがらめにしている、悪意に染まった現のせいでね」
またたくまに喉が干上がり、息ができなくなる。
「おれは──」
おれの夢は──おれの音楽は、嵐のような現に蹴散らされて消えてしまった。
ボウイングの流れに、ヴィブラートのかけかた。リズムの揺らぎに、ハーモニーのかさねかた。手をのばしてつかみとるべき世界がなにもかも紛いもののように感じられて、しまいには手が動かなくなった。
なによりも耐えがたかったのはそのことだ。
それをまさかこんな、出会っていくらも経たない少年に暴かれることになるとは。
そしておれはいまさらのように思い至った。彼がいつ列車に乗りこんできたのか、おれは知らない。彼はいつのまにか、亡霊のようにそこに座っていたのだ。
巧みな騙りで人を惑わす、悪魔の化身のように。
「おまえは……いったい何者なんだ」
「ぼくはただの人間だよ。それになにか特別な力があるわけでもない。普通よりいくらか目が悪くて、そのぶん別のものが視えやすいだけさ。たとえばきみがここに誘いこまれたこととかね」
「……誘いこまれた?」
「さっき話しただろう。ダラムに向かう列車の個室で殺されたうちの生徒が、最後の旅路の同行者を探し続けていること」
「でもあれは、あくまであんたの作り話で──」
そのとき彼が窓の外に目をやり、おれは口をつぐんだ。
いまや車窓はみっしりとした霧に閉ざされて、昼夜の区別もつかなかった。そして列車は先刻から変わらず、滑るように走り続けている。
……滑るように?
そんなはずはなかった。こんな動きはありえない。
いくら起伏のない路線でも、低速でも、継ぎ目のある線路を走るかぎり揺れが伝わってこないわけがない。それなのに、ただひたすらに走っていることだけが感じられる。
その異常さを認識したとたん、うねるような恐怖が足許から這い昇ってきた。
連れていかれる。
得体の知れないどこかに向かって。
「冗談じゃない」
たまらず窓に飛びついた。だが上げ下げ式の窓は、どれだけ乱暴に揺さぶってもびくともしない。
「力業でかかっても窓は開かないよ。硝子もきっと破れない。ここは境界だからね」
彼の声は凪いでいた。おれは手をとめ、ぎこちなく首をめぐらせる。
「境、界?」
「ぼくの育ったアイルランドでは、そういう呼びかたをしている。此岸と彼岸──こちらがわとあちらがわの端境のことさ」
「…………」
理解の追いつかない説明に、息苦しさが増していく。たまらず胸許に手をのばすと、肌に懐中時計の鎖がふれた。とっさに鎖をたどり、ひっぱりだした時計の蓋をふるえる指先で跳ねあげる。
「そんな」
針は先刻とまったく同じ位置をさしていた。
とまっている? いつから?
それとも針が動かないのは、ここが尋常でない領域だからか。あるいは──この世でのおれの時間が、すでにとまっているからとでもいうのか。
「こういうのも、めぐりあわせというのかな」
ふいに彼の声音がやわらいだ。
「彼はね、乗りあわせた人間をやみくもに連れていこうとしているわけじゃない。呼ぶ声に応えるだけの資質──失意と孤独に押しつぶされそうになっている、そんな子どもしかこの列車には乗りこめないんだ」
おれはごくりと唾を吞みこんだ。
「まさかその子の死んだ日っていうのは」
「今日だよ」
おれは言葉を失った。なにをどう考えたらよいのかわからず、ただ窓枠にしがみついて身体を支えているのが精一杯だった。
「でもきみの魂はそう感じていない。弾けなくなったのがその証拠さ」
「いったいなんのことだ」
光を吸いこむような黒の瞳が、真正面からおれを射貫く。
「きみはあえてその楽器を弾かないことにしたんじゃない。弾けなくなったんだ。きみをがんじがらめにしている、悪意に染まった現のせいでね」
またたくまに喉が干上がり、息ができなくなる。
「おれは──」
おれの夢は──おれの音楽は、嵐のような現に蹴散らされて消えてしまった。
ボウイングの流れに、ヴィブラートのかけかた。リズムの揺らぎに、ハーモニーのかさねかた。手をのばしてつかみとるべき世界がなにもかも紛いもののように感じられて、しまいには手が動かなくなった。
なによりも耐えがたかったのはそのことだ。
それをまさかこんな、出会っていくらも経たない少年に暴かれることになるとは。
そしておれはいまさらのように思い至った。彼がいつ列車に乗りこんできたのか、おれは知らない。彼はいつのまにか、亡霊のようにそこに座っていたのだ。
巧みな騙りで人を惑わす、悪魔の化身のように。
「おまえは……いったい何者なんだ」
「ぼくはただの人間だよ。それになにか特別な力があるわけでもない。普通よりいくらか目が悪くて、そのぶん別のものが視えやすいだけさ。たとえばきみがここに誘いこまれたこととかね」
「……誘いこまれた?」
「さっき話しただろう。ダラムに向かう列車の個室で殺されたうちの生徒が、最後の旅路の同行者を探し続けていること」
「でもあれは、あくまであんたの作り話で──」
そのとき彼が窓の外に目をやり、おれは口をつぐんだ。
いまや車窓はみっしりとした霧に閉ざされて、昼夜の区別もつかなかった。そして列車は先刻から変わらず、滑るように走り続けている。
……滑るように?
そんなはずはなかった。こんな動きはありえない。
いくら起伏のない路線でも、低速でも、継ぎ目のある線路を走るかぎり揺れが伝わってこないわけがない。それなのに、ただひたすらに走っていることだけが感じられる。
その異常さを認識したとたん、うねるような恐怖が足許から這い昇ってきた。
連れていかれる。
得体の知れないどこかに向かって。
「冗談じゃない」
たまらず窓に飛びついた。だが上げ下げ式の窓は、どれだけ乱暴に揺さぶってもびくともしない。
「力業でかかっても窓は開かないよ。硝子もきっと破れない。ここは境界だからね」
彼の声は凪いでいた。おれは手をとめ、ぎこちなく首をめぐらせる。
「境、界?」
「ぼくの育ったアイルランドでは、そういう呼びかたをしている。此岸と彼岸──こちらがわとあちらがわの端境のことさ」
「…………」
理解の追いつかない説明に、息苦しさが増していく。たまらず胸許に手をのばすと、肌に懐中時計の鎖がふれた。とっさに鎖をたどり、ひっぱりだした時計の蓋をふるえる指先で跳ねあげる。
「そんな」
針は先刻とまったく同じ位置をさしていた。
とまっている? いつから?
それとも針が動かないのは、ここが尋常でない領域だからか。あるいは──この世でのおれの時間が、すでにとまっているからとでもいうのか。
「こういうのも、めぐりあわせというのかな」
ふいに彼の声音がやわらいだ。
「彼はね、乗りあわせた人間をやみくもに連れていこうとしているわけじゃない。呼ぶ声に応えるだけの資質──失意と孤独に押しつぶされそうになっている、そんな子どもしかこの列車には乗りこめないんだ」
おれはごくりと唾を吞みこんだ。
「まさかその子の死んだ日っていうのは」
「今日だよ」
おれは言葉を失った。なにをどう考えたらよいのかわからず、ただ窓枠にしがみついて身体を支えているのが精一杯だった。