第1話 境界の少年 #9

文字数 1,489文字

「降りないのかい?」
 ふいに息が楽になり、頭をあげる。
 と、正面から顔をつきあわせていたはずの彼の姿が、忽然と消え去っていた。
 驚いて首をめぐらせる。
 列車はいつのまにか駅に停車していた。
 大きく開かれたコンパートメントの扉の外から彼が顔をのぞかせ、こちらをうかがっている。その向こうには、乗降客でにぎわうプラットホームと、ありふれた煉瓦造りの駅舎。深緑の駅名標には、白抜きのダラムの文字。
 あれだけ濃かった霧は欠片の掃き残しもなく、やわらかな午後の陽が降り注いでいる。
 ……戻ってこられたのか。
 かたく組んだまましびれかけた両腕を、おれはぎこちなくほどいた。
「ここは──」
 おずおずときりだしたとたん、彼にさえぎられる。
「ダラムだよ。きみ、聖カスバート校の編入生だろう?」
 いまさらの問いにおれはとまどった。
「そう……だけど」
「ああ、やっぱり! 声をかけてみてよかったよ。他にそれらしいのが降りてこなかったから、きみじゃないかと思ったんだ。危うく寝すごすところだったね」
「寝すごす」
 おれはわけがわからず目をまたたかせる。
 彼のふるまいは明らかに妙だった。まるでたったいまこのコンパートメントにたどりつき、顔をあわせたばかりだとでもいうような……。
 混乱するおれには頓着せず、彼は一方的にまくしたてる。
「ぼくは聖カスバート校の生徒さ。今日の午後、ロンドンから新しい生徒がやってくると寮監から伝えられてね。早めにでてきて正解だったよ。行き違いになったら、とんだ無駄足だからね」
 おれはかろうじて訊きかえした。
「……つまりきみは、おれを出迎えるために駅で待っていた?」
「そのとおりだよ、編入生どの。でも礼には及ばないよ、別件のついでみたいなものだから。お望みなら町を案内するけれど?」
「…………」
 呆然とするおれをからかうように、彼は小首をかしげた。
「どうしたんだ、白昼夢でもみたような顔して」
「あ……いや」
 白昼夢。
 そう……だったのか。なにもかもが、おれの夢だったのだろうか。
「で、降りるのかい? 降りないのかい?」
 彼は指先で扉の縁をこつこつと叩き、放心したおれに選択をせまる。
「まあ、きみがこのままどこかへ運ばれていきたいというなら、無理にひきとめはしないよ。できるならぼくもそうしたいくらいだからね」
 皮肉めかした語りようは、おれの知る彼と変わらない。
 出会ったことのないおれが、なぜ彼を夢にみることができたのか。彼の語った境界も、あの少年の存在も、おれの頭のつくりだした幻にすぎなかったというのだろうか。
 吞みくだせない幾多の謎が、依然おれの胸にうずまいている。それでもいったん、おれは解けない疑問をふりきった。
「すぐに降りるよ」
 あたふたと腰をあげ、網棚から手提げトランクをおろしにかかる。
 すると彼は、おれの隣に並んだ楽器を指さした。
「そのチェロ、ぼくが運ぼうか」
 おれは一瞬、動きをとめる。だがゆっくりと首を横にふった。
「──ありがとう。でもこれは自分で持つよ」
 彼の口許にじわりと笑みが生まれる。
「そうだな、魂は気安く他人に預けるものじゃない。じゃあ、ぼくはこっちを」
 一歩、車内に踏みこんでおれの手からひょいとトランクを取りあげると、さっさと列車に背を向けて歩きだした。
 おれも続こうと急いで楽器を担ぎかけ、息を吞んだ。
「あ……」
 留め金がすべて外れている。
 一インチほどのわずかな隙間からのぞいているのは、疵のひとつひとつが記憶に刻まれたおれの相棒だけだった。
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