第1話 境界の少年 #6

文字数 3,457文字

 おれは突然の麻痺に襲われたように、眼球を動かすことができなくなった。
 もし──もしも死体から流れだした血が、床板にどす黒い血溜まりをつくっていたら。
「そんな、馬鹿なことが」
「あるはずないって?」
「あたりまえだ」
「本当に?」
「え?」
「だってきみ、憎まれていたんだろう?」
 おれは息をとめた。
「どうして、そんなこと」
「わかるよ、ちょっと頭を働かせたらね。きみが弾くつもりもない楽器を肌身離さず持参したのは、後見人のところに残してきたらどんな扱いをされるかわからなかったからだろう? きみにとって大切な品なのは明らかなのに──いや、だからこそかな、そんな心配をしなければならないなんて、よほどひどい間柄らしいじゃないか」
「──っ!」
 たちまち頭に血がのぼった。親友でもないのにずかずかと他人の私情に踏みこんでくるなんて、礼儀知らずにもほどがある。
「ひどい邪推だな。たとえそうだとしても、おまえには関係のないことだ」
「あるよ。いまさら放ってはおけないからね」
「な……あるわけないだろう! 聴罪司祭の真似事でもするつもりか?」
 たまらず声を荒らげると、彼は不敵に笑んだ。
「聴罪司祭ね。つまりきみには告白するべき罪があるわけだ」
「そんなものはない」
「でもきみを断罪する人間はいたんだね。いったいどんな言葉をぶつけられたんだろう。罪の子はせいぜい神に赦しを乞いながら一生を終えろとか?」
「やめろ」
「それとも、もっとはっきり罵られたのかな。一族の面汚しめ、母親といっしょに死んでいてくれればよかったのに」
「黙れ!」
 だが奴は黙らなかった。
「きみは自分がどこかで人知れず殺されてもおかしくはない存在だってこと、薄々勘づいていたんじゃないのかい?」
 ──そうだ。
 おれは憎まれていた。いないほうが都合の良い子どもだった。
 だからロンドンから遠く離れた寄宿学校に追いやられた。目障りなものは、さっさと目の届かないところに閉じこめてしまうのが得策だからだ。けれどそれよりもっと確実に、目にふれないようにする方法がある。
 この世界から消し去ってしまえばいいのだ。いまこのときこそが、その絶好の機会ではないか? そもそもおれは、異母兄から一方的にダラム行きを通告された。用意されたのは、日時を指定した一等客室の切符。
 たとえば──その手の汚れ仕事に長けた者を雇い、おれとふたりきりになるよう手筈を整えておけば。そこで誰がどんなおぞましい所業に及ぼうが、多少の物音なら列車の音にかき消されてしまう。
 そして皮肉なことに、おれは死体を隠すのにおあつらえむきの楽器用のトランクを持ち歩いている。楽器の代わりに死体を詰め、邪魔な楽器のほうは列車が森にさしかかったときにでも投げ捨ててしまえばいい。
 あとは何食わぬ顔でトランクを背負って下車し、どこかで死体もろとも処理する。そうすれば残される事実は、神学校に編入するはずの生徒が行方をくらませただけだ。
 いや、そもそも編入の話からして、おれをこの罠に誘いこむための出鱈目だったのではないか。とすれば事態はいっそう単純だ。身許不明の少年の遺体がダラムから遠く離れたどこかで発見されたとき、顔の判別もつかないほどに腐敗が進んでいれば、依頼者とのつながりが浮かびあがることもない……。
「そう。きみの顔こそが、なにもかもの要だったんだ」
 おれの心を読んだかのように、彼はひとり結論づけた。
「最初から不思議だったんだ。きみの身なりからしても、聖カスバートへの編入がすぐに認められたことからしても、きみの後見人はかなりの名士らしい。血のつながりを主張してくる相手がいたら、たとえなにか証拠になるようなものがあったとしても、そう簡単には認めないはずだろう? それなのに、没交渉どころか存在すら知らなかったらしいきみのことを、どうして家族として迎えることにしたのか。それだけきみに愛情を感じる理由があったから?」
 彼はみずから首を横にふる。
「そうは思えない。だって手さぐりにでもきみとの信頼関係を築いていくつもりがあるのなら、せめて新学期が始まるぎりぎりまではいっしょにすごす時間を持とうとしたんじゃないかな。つまりきみのことは認めたくない、にもかかわらず放っておくわけにもいかない重大な理由があったんだ」
 そしておもむろに、指先でこめかみをつつきだした。
「ほら、なんといったかな。近年流行の写真術。ダゲール、なんとか……」
 おれは喉から声を絞りだした。
「……ダゲレオタイプ」
「そうそう、それ! ひと昔まえなら画家に肖像画を描いてもらわないといけなかったところを、いまなら誰もが手軽にポートレートを残せるようになった。一族や同僚がなにかの記念に集合写真を撮って、それぞれに配ることだってできる。紙に焼きつけた自分の影がいつまでも他人の手許にあるなんて、ぼくはなんだか気味が悪いけれど。きみも写真は嫌いなんだろう?」
「大嫌いだ」
 おれが吐き捨てると、彼はほんの一瞬、痛ましげに目を伏せた。
「さっきぼくがきみの顔だちについて話題にしたとき、きみはひどく嫌がった。つまりはそういうことなんだ。──きみは似ていたんだね、父方の親族と」
 おれは観念し、かたくまぶたを閉ざした。
「──ああ、ぞっとするほどにな」
 母の弁護士は、こちらからの働きかけが先方に鼻先であしらわれる可能性も考慮して、事情を説明する書簡におれの最近の写真を同封したらしい。その周到さがおれにとっては裏目にでた。
 長兄は三十代なかば。齢は離れているが、若かりし時分の彼を知る者からすれば、おれはほとんど生き写しの弟と映るはずだった。そこここに残されているだろう当時の写真と照らしあわせてみれば、おそらく言い逃れはできない。
 父の死後、伯爵家を継いだ長兄は、政治家として上流社交界でも重要な地位を占めてきたらしい。あの傲慢な性格からして、容姿さえ似ていなければおれの存在など事実無根の申し立てとして捨て置かれただろう。
 だが都合の悪いことに血のつながりは明らかで、しかもおれの望んでいる将来に問題があった。それが弁護士によって、先方の知るところとなったのがいけなかった。
 王立歌劇場であろうと場末のミュージック・ホールであろうと、上流階級の連中にしてみれば歌い手など娼婦とほとんど変わらない。その歌手の息子というふれこみの青年が、かつての自分と同じ顔で舞台に登場することにでもなったら……。
 兄にとって、その未来は世にもおぞましい悪夢でしかないだろう。
 焦った兄の行動は迅速だった。相続の手続きをするためにロンドンまで出向いたおれを弁護士事務所で待ちかまえ、ほとんど拉致する勢いで自邸に連れこみ、軟禁したのだ。
 そして本日より伯爵家の一員として認めるかわりに、家長たる自分の命令に逆らうことは今後いっさい許さない。この恩を仇でかえすような真似をしたら、そのときは命はないと心得るよう申し渡された。
 母の弁護士とどういう交渉がなされたのかはわからない──いくばくかの金を握らせたのかもしれない──が、未成年であるおれの私有財産は、いつのまにか後見人たる兄の管理するところとなっていた。
 おれはもはや、自由を奪われた無一文の囚人でしかなかった。
 もちろん音楽の勉強を続けることが許されるはずもなく、伯爵家の末弟としての体裁を整えるべく、そして醜聞が広まるのを避けるべく、ロンドンから遠く離れた神学校に送りだされた。
 新学期が始まるまでまだ日があることはわかっていた。つまりその指示は、もはや一日たりとも屋敷でおれと同じ空気を吸っていたくないという先方の意思表示であり、こちらとしてもそれは同感だったので逆らわなかった。もとよりその死刑宣告のような片道切符を受け取らない選択肢など、おれにありはしなかったが。
 弾くあてもない楽器を未練がましく連れてきてしまったのは、あの屋敷に置いてきたら早々に売り払われるか、あるいは焚きつけにでもされかねなかったからだ。あの男なら、それくらいの嫌がらせは嬉々としてやってのけそうだ。
「きみは過去を奪われ、未来を絶たれた。きみと同じ顔をした、きみの分身のような相手にね。そして心の底から憎まれた。その憎しみに、きみの心は切り裂かれたんだ」
 とっさに笑い飛ばしてやろうとしたが、かすれた息が洩れただけだった。
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