第7話 「壊れた笑顔」

文字数 1,855文字

 もしも時間を巻き戻せるなら――。
 あのときに戻って、やり直したいと思っているキミは、いまの現状に満足していないか……それとも、なにか大切なものをすでに失ったひとだろう……。
 そうだ。自分では、なんにも変わっちゃいないと誤魔化してはいるが……。
 さらさらと時間は勝手に流れ、透明で見えない小川のように流れてゆき、不確定な寿命はどんどん近づいてくる。

 糞う……糞う……こん畜生っ!
 なんで俺ばっかりが……。
 こんなツライ人生を送らなければならないんだ?……。

 世のなかには、なんの苦労もしないで幸せになる奴らがいる。それとは逆に、自分のほうには、ずっと不幸が舞い込んでくる。
 彼の心のなかはネジけてしまい、そんなふうに世のなかを斜に見ていた。そう、どうしようもなく捻くれた考えの持ち主だった。
 彼の意識のなかでは、社会や世間の仕組みが悪いんだと、ずっと前から自分に言い聞かせている。自分を高める努力もなしに、ずっと手近な短期の派遣バイトで首をつなぎ、とりあえずの仕事で流し流され、低賃金でキツイ労働をしていた。
 そして、ある晩、彼は包丁を握りしめて、自分よりもチカラの劣る「か弱い少女」を求めて、雪の街を彷徨うのだった。

 ……ああ~。糞う……ああ~。
 寒い……手足がじんじん冷えてくる……。

 彼の頭のなかでは、何故か、寒さと寂しさと、そして自分よりも弱い少女に向けての殺戮は同じことのように思えた。
 そんな彼のまえに、ひとりの少女がひょっこりと現れた。どこから来たのか、まるで誘いだしたかのように姿を現したのだ。
 その女の子は中学生ぐらいで、この雪の降る寒さのなか、コートも着ずにセーターとマフラーにミニスカートに長靴を履いた、とても薄着な格好だった。
 彼は家から持ってきた包丁を、コートの腹のなかで握り締めていた。見知らぬ少女を殺すため、何度か同じように外で使ったそのステンレスの包丁を、大きなコートに隠し持っていたのだ。
 急いでやって来た雪の街角で、彼は少女をまのあたりにする。ずっと探していた獲物と偶然にも出くわしたかのように、その細い首を目掛けて突き刺そうと身構えた。
 すると意外なことに、あどけなさを残す少女の顔は愛くるしいのだが、どこか崩れたような得体の知れない素顔でニヤリと笑って、見つめてくる。
 もしや、悪意でもあるのか?……。
 さわりを孕んだ壊れた笑顔で、彼をじっと見つめてきたのだ。
 予想外な少女の笑顔に、彼は面喰うように驚いた。なにかを裏切られたような、自分の暗い意識のなかに、重くて太いクサビを刺し貫かれたような不気味な戦慄を覚える。それは暗い闇のなかでの予感のような、得体の知れない怖ろしい危惧を感じさせた。嫌悪が胃のなかに重く伸し掛かり、冬の冷気とともに悪寒が襲い、彼は思わず嘔吐しそうになる。

 なにを思ったのか、雪の降り続く夜空を見上げながら、彼は堪えきれずに大声を出して叫んでいた。
 自分のなかの鬱積した思いが、社会への歪んだ思いが、まさか? 目のまえの悪魔のような少女を作りだしたというのか?……。

 彼は想った――。
 あの顔を、あの少女の笑顔を……、
 どこかで見たような気がする。
 可愛らしい少女には不調和すぎる壊れた笑顔は、紛れもない中学生だったころの自分の顔だった。それは、男の子とも女の子とも判別がつかない自分の素顔。あのころの笑顔……希望に満ち溢れていた自分の、うっとりと鏡のなかで見つめていた、一番好きだった自分の顔。なにものにも縛られていない思春期のころの、勝気で未成熟な可愛らしい少女の顔だった。
 彼は雪の降り積もる夜道で、包丁を振り回している。それも、なにかに怯えたように、一心不乱に宙に向かって包丁を刺している。
 彼は心のなかで、ずっと想っていた――。

「……ごめんよ。ほんとうに……ごめんなさい」
 あの顔を、あの少女の壊れた笑顔を、どこかで何度も見たような気がする。
 寒い雪の街で大勢の通行人が足を止め、不審な彼のことを遠巻きで見ていた。

 ――包丁を手に持った危険な狂いびと。
 雪に滑って倒れては起き上がり、なにかを怖れて怯えて、狂乱しながらも逃げまわる彼を見つめていた。通行人たちは遠くに離れながらも、恐る恐る自分の携帯電話で誰かと喋っている。
 パトカーのサイレンの音が、追いかけてくる壊れた笑顔の自分の笑い声のように、けたたましく辺りに鳴り響いた。










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