第8話 「真夏の幻影」

文字数 1,191文字

 真夏の夕暮れ――。
 放課後、ボクはひとり校舎のなかを歩いていた。高校生になったボクの夏は、まるで実在を欠いたような、現実味のない空虚な存在だった。
 ふらふらと何のヤル気もなく、日常が別の世界のなかに居るようで。
 ……まるで彷徨っているような、そう、幽霊みたいだった。

 朱に溶けだした夕陽が、校舎の窓ガラスを炎のように染めている。
 欝々した長い梅雨は明けたというのに、ひどく蒸し暑い。ボクは朦朧としていた。
 まとわりつく熱せられた異なる空間の空気が歪んで淀み、意識しないと鳴いているのも分からない校庭からの夏の音色。低い耳鳴りにしか聴こえてこない蝉の声が、そのとき突然と消え伏せた。
 辺りは静寂に留まり、知らぬ間に這入っていた美術室のなか。そこでは、二年上だった日菜乃先輩が、透明な裸体のままイーゼルのまえに佇みながら、ひとりでアリアス像の石膏デッサンをしている。

 ――透き通るように白い、女神のような肢体が振り向いた。
 そう、かのじょは一週間前に校舎の屋上から身を投げて、真っ赤に染まった筈だった。
 ボクが観ているのは……ボクの全身を、脱け殻のような魂と未熟な肉体を、その双眸とオンナという唇で奪った日菜乃先輩の幻影なのだろうか?……。
 もしや、かのじょの知念だけが、そこに留まっているのだろうか?……。
 ……絢斗には、まるで分からなかった。

     ◇     ◇

 わたしが校舎の屋上から飛び降りて死んでしまったのは……あの子とは無関係なこと。
 ――ぜんぜん関係ないことなの。
 わたしが以前から付き合っていた美術部の顧問の先生から、無理やりされたされたことなんだ。誰にも言えない、口が裂けても言えない酷いことをされて、どうかしてしまった末に起こしてしまったことだから……。

     ◇     ◇

 高校三年生の日菜乃は、付き合っていた美術顧問の先生に、大学の美術部のヌードモデルのバイトを紹介され、いやいやだったが裸婦デッサンのモデルを引き受けた。
 そこまではよかったのだが……。
 こともあろうに、男子学生たちから集団で性的暴行を受け、そのときの悍ましい動画も撮影されてしまったのだ!
 それも、信じられないことに……愚劣で異常な欲望を満たすための奇行な狂劇。なにもかもが、その男の差し金だった!?
 ――日菜乃は誰にも理由を告げず、校舎の屋上から身を投げて死んでいった。
 その後、美術部の顧問をしていた男は精神を病んでしまい、すでに学校を辞めて現在でも入院している。いまでは、かのじょへの罪悪感から、なのだろうか?……日夜、かのじょの亡霊に悩まされ、みるも無残な廃人となっていた。

     ◇     ◇

 せめて絢斗くんのまえでは、わたしの綺麗だった昔の姿を見せてあげたい。

 ……ただ、それだけのことなの。

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