5:変化
文字数 4,173文字
夏休み三日目。
最近、食費が増えた。原因は言うまでもなく、俺の頭上でレジの数字を眺めている『天使』のせいである。重いから
お豆腐やらモヤシを無造作に選んだと見せかけて、この数を導き出すとは……。
東治さんったら、生粋の預言者なんですから~、もー。
スーパーの店員や周りの買い物客にはユカエルの姿が見えていないので、俺は何も言わない。
出来る事なら「ただの偶然じゃねーか」とツッコんでやりたいところだが、謎の独り言を叫ぶ変人にもなりたくなかった。
店員の手が止まる。目を見開いて俺を凝視し、ついには絶句した。
だが俺は構わず、『確認作業』に没頭する。
だがそんな俺に、頭上から非難の声が飛んできた。
ユカエルが何に対して文句を言っているのか、理解に苦しむばかりだ。
そもそも、一円単位で大事にしなければいけないのは、主にコイツのせいでもあるのだから。
預言者になる事を決めてから、桃泥棒の子供に憑り付いた悪魔を払い、『教会』とかいう団体から金が振り込まれた。
しかしやたらと食欲旺盛なユカエルのせいで、我が家の家計は逼迫されていた。このペースで行けば、支援金などすぐに底をつき、家賃を払えるかどうかも怪しくなってしまう。
左脇の用水路には透明な農業用水が流れ、涼しさと風情を感じさせた。
そんな夕暮れの街に、ユカエルの下手くそな口笛が響く。
もう一つ二つ、小言を言ってやろうかと上を見上げ――すると後方から、チャリンチャリンと自転車のベルが鳴った。
ここは車道も歩道も大して広くないため、堂々と真ん中を歩いていたら轢かれてしまう。
それにユカエルに話しかけようとしたタイミングだったため、危うく不審者に思われるところだった。
そんな俺の気遣いや、『預言者』であることを知るはずもない大学生風の男は、自転車で俺達を追い越していく。
だが――。
『まだ明るいから』とかいう問題ではない。ライトは車などの相手にいち早く、自分を認識してもらうためのものだ。
しかも――その男の1メートル頭上では、コウモリにしてはやたらとデカく、水蒸気のような黒い瘴気を上げる『悪魔』が飛行していた。
いつどんな時でも悪魔に対応できるようにとのつもりだったが、コレを持ち歩くの地味にキツイ。ならばその重量分、せめて働いて貰わなければ。
だがイヤホンをしているせいで制止の声は届かず、自転車の青年は俺に気付かない。
このままでは、引き離される。
聖書を開き、早口で読み上げる。
だが既に、『水』は来ている。
左脇を流れる農業用水路の『かさ』は異常なスピードで増え、まるで台風でも来たかのような水量へと変貌する。
しかし『箱舟』というよりは、それはサーフボードか何かに近かった。だがそれで良い。そもそも『大洪水』のパワーを完全に再現したら、この街どころか世界中が海に沈むのだ。
人類の罪や悪意を全て洗い流す洪水と呼ぶには小規模な、しかし立派に流れは速い激流に乗って、箱舟は自転車を追う。
サーフィンは初体験だが、中々にエキサイティングだ。
コウモリ型の悪魔は猛追してくる俺達の存在に気付き、牙を向けてから更に空高く舞い上がった。
上空からの降下攻撃か。だが――箱舟の上で、『詠唱』は既に開始している。
これもノアの箱舟と同じくらい有名な『塔』の逸話――。
そうしてコウモリは黒い霧のように消滅し、バベルの塔もまた、誰にも気付かれることなく崩れ去っていった。
さっき追い越したはずの高校生が、突然水路から眼前に飛び出してきたのだ。予想通り大学生風の若い男は驚き、急ブレーキで停止した。
「お、お前……! 何……ッ!?」
自転車の兄ちゃんは己の落ち度に気付いたようで、素直に反省してちゃんと安全な状態で漕いで行った。
悪魔が憑り払われたのだから、元の善良な市民に戻ったのだろう。話せばちゃんと分かってくれる。俺達はバベルの塔崩壊後、同じ『日本語』で対話する事にした者達なのだから。
仮に救世主になったとしても、買い物袋を追いかけた預言者と天使の話なんて、神話に書き残すこともできないだろう。このエピソードはカットだカット。
たとえこの先どんなに、強力な悪魔達を英雄的にやっつけるような日が来ても――。
――『別に嘘は言っていませんよ! 本当に凄いと思っていますから!』
今までそんな奴はいなかった。親ですら、幼い俺に教育のためにと小さな嘘を付くこともあった。
それは悪い事だと思っていないが、それでも、嘘を付かない人間など存在しない。
だから俺は誰も信用しない。そうして生きてきたんだ。なのに。
どうしてだか『信用』してしまっている自分に――今までなかった感情に、俺は人知れず心を揺らしていた。