5:変化

文字数 4,173文字

「合計1480円になりまーす」


 夏休み三日目。

 最近、食費が増えた。原因は言うまでもなく、俺の頭上でレジの数字を眺めている『天使』のせいである。重いから頭頂部(つむじ)にアゴを乗せるな。

おっ、これは何と奇跡的な数字。1480は数秘術(ゲマトリア)的には『神性を持ったイエス・キリスト』を暗示します。

お豆腐やらモヤシを無造作に選んだと見せかけて、この数を導き出すとは……。

東治さんったら、生粋の預言者なんですから~、もー。

 スーパーの店員や周りの買い物客にはユカエルの姿が見えていないので、俺は何も言わない。

 出来る事なら「ただの偶然じゃねーか」とツッコんでやりたいところだが、謎の独り言を叫ぶ変人にもなりたくなかった。


「2000円のお預かりですねー、520円お返しになりまーす。……スイマセン、500円玉が不足しているので細かくなってしまいます~」
あ、細かくても大丈夫です。
「ありがとうございます~。ハイこちら、ご確認ください。それでは次のお客さ、ま……」


 店員の手が止まる。目を見開いて俺を凝視し、ついには絶句した。


 だが俺は構わず、『確認作業』に没頭する。

いち、にぃ、さん、しぃ、ご、ひゃく……。じゅう、にじゅう円。……よし。
 過不足なしの釣銭を数え終え、財布に入れる。

 だがそんな俺に、頭上から非難の声が飛んできた。

か、感じ悪ッ! 何ですかソレ!? 店員さん、ビックリしていますよ!?
あー? 「確認して下さい」言われたから確認しただけだろ。何が悪いんだよ。
 購入した食材を袋に詰めながら、周りの人間には聞こえない声量でユカエルに答える。

 ユカエルが何に対して文句を言っているのか、理解に苦しむばかりだ。

だからと言って目の前であんな露骨に……。他の方々はそんな事していませんよ。
俺からすれば、確認もせず財布にそのまま突っ込める方が理解できねーよ。人間なんだから間違うかもしれないだろ。自動で釣銭が出てくるレジも、機械だから故障するかもしれないし。
機械すら信用していないんですか……。
 ドン引きしているユカエルを無視し、スーパーを出て行く。俺は俺の信条を曲げるつもりはない。

 そもそも、一円単位で大事にしなければいけないのは、主にコイツのせいでもあるのだから。


 預言者になる事を決めてから、桃泥棒の子供に憑り付いた悪魔を払い、『教会』とかいう団体から金が振り込まれた。

 しかしやたらと食欲旺盛なユカエルのせいで、我が家の家計は逼迫されていた。このペースで行けば、支援金などすぐに底をつき、家賃を払えるかどうかも怪しくなってしまう。

ったく、誰のせいだと……。暴食は罪なんじゃねぇのかよ……。
 店を出て、暗くなり始めた街を行く。19時前なのにまだ茜色の空が残り、日暮れも随分遅くなったものだと感じる。

 左脇の用水路には透明な農業用水が流れ、涼しさと風情を感じさせた。


 そんな夕暮れの街に、ユカエルの下手くそな口笛が響く。

な、七つの大罪は聖書に書かれていませんしー。カトリック派が言っていることですし~。
 言い訳を並べて誤魔化そうとしている。天使がそんな事で良いのか。


 もう一つ二つ、小言を言ってやろうかと上を見上げ――すると後方から、チャリンチャリンと自転車のベルが鳴った。

おっ……と。
 咄嗟に左端に寄る。

 ここは車道も歩道も大して広くないため、堂々と真ん中を歩いていたら轢かれてしまう。

 それにユカエルに話しかけようとしたタイミングだったため、危うく不審者に思われるところだった。


 そんな俺の気遣いや、『預言者』であることを知るはずもない大学生風の男は、自転車で俺達を追い越していく。


 だが――。

あっ……! 東治さん!
 その男は片手でスマホを操作し、イヤホンを両耳に付けて音楽を聴き、しかも自転車のライトを点けていなかった。

 『まだ明るいから』とかいう問題ではない。ライトは車などの相手にいち早く、自分を認識してもらうためのものだ。


 しかも――その男の1メートル頭上では、コウモリにしてはやたらとデカく、水蒸気のような黒い瘴気を上げる『悪魔』が飛行していた。

……麻雀はやった事ないが、いわゆる『役満』ってやつか! コレ持ってろユカエル!
 買い物袋を投げ上げ、空いた手で『魔導聖書』を取り出す。

 いつどんな時でも悪魔に対応できるようにとのつもりだったが、コレを持ち歩くの地味にキツイ。ならばその重量分、せめて働いて貰わなければ。

待て! そこの自転車ッ!
 夕暮れの街を走り出す。ユカエルは空から、大地からは俺が追う。

 だがイヤホンをしているせいで制止の声は届かず、自転車の青年は俺に気付かない。

 このままでは、引き離される。

俊足で有名なアキレウスとかって、聖書に出てこなかったっけか!?
アキレウスはギリシャ神話です! それよりも、『水』を使いましょう!
 未だ創世記を読み終わっていないせいで、手持ちのカードは少ない。読んできた内容、覚えた呪文で勝負するしかない。


 聖書を開き、早口で読み上げる。

『ノアが600歳の時、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁達と共に洪水を免れようと箱舟に入った。清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものも全て、二つずつ箱舟のノアの元に来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった』……!
 重い聖書を抱えながら全力疾走し、同時に呪文を唱えるのは中々に大変だ。

 だが既に、『水』は来ている。

 左脇を流れる農業用水路の『かさ』は異常なスピードで増え、まるで台風でも来たかのような水量へと変貌する。

創世記第七章、6節!
 そして増水した用水路の中から――木製の、小さな『舟』が現れる。
『ノアの箱舟』!
 用水路へとジャンプし、箱舟に飛び乗る。

 しかし『箱舟』というよりは、それはサーフボードか何かに近かった。だがそれで良い。そもそも『大洪水』のパワーを完全に再現したら、この街どころか世界中が海に沈むのだ。


 人類の罪や悪意を全て洗い流す洪水と呼ぶには小規模な、しかし立派に流れは速い激流に乗って、箱舟は自転車を追う。

 サーフィンは初体験だが、中々にエキサイティングだ。

東治さん、来ますっ!
 おっと。遊び半分で楽しんでいる場合ではない。

 コウモリ型の悪魔は猛追してくる俺達の存在に気付き、牙を向けてから更に空高く舞い上がった。

 上空からの降下攻撃か。だが――箱舟の上で、『詠唱』は既に開始している。

『主は(くだ)り来て人の子らが建てた、塔のある町を見て言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているからこのような事をし始めたのだ。これでは彼らが何を企てても妨げる事はできない。我々は降って行って直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしよう」』……!
 天まで届く塔を建設したために、神の怒りを買い、人々はバラバラの言語を使い始めるようになった。

 これもノアの箱舟と同じくらい有名な『塔』の逸話――。

創世記第十一章、5節!
 急転直下で襲ってくるコウモリ目掛け、アスファルトの大地から煉瓦の塔は突き上がる。
『バベルの塔』ッ!!
  塔の建造は僅か一瞬。洪水よりも速いスピードで天を突き、コウモリの腹に直撃する。アレは相当痛いだろう。

 そうしてコウモリは黒い霧のように消滅し、バベルの塔もまた、誰にも気付かれることなく崩れ去っていった。

よっ、と!
 そしてノアの洪水の効力も消える。箱舟が消えて、水路に落ちてしまう前にジャンプし、自転車の兄ちゃんの前に立った。

 さっき追い越したはずの高校生が、突然水路から眼前に飛び出してきたのだ。予想通り大学生風の若い男は驚き、急ブレーキで停止した。


「お、お前……! 何……ッ!?」

……イヤホン、付けたままは危ないっすよ。あとライトも。
 動揺する彼の質問には答えず、注意点だけを述べてさっさと立ち去る。

 自転車の兄ちゃんは己の落ち度に気付いたようで、素直に反省してちゃんと安全な状態で漕いで行った。

 悪魔が憑り払われたのだから、元の善良な市民に戻ったのだろう。話せばちゃんと分かってくれる。俺達はバベルの塔崩壊後、同じ『日本語』で対話する事にした者達なのだから。

お疲れ様でしたー! 連戦連勝ですね! よっ、現代に甦った無敵の預言者! ダビデ王もビックリですよ!
……やかましいわ。もうちょっと上手く(ねぎら)えないのか、お前は。
別に嘘は言っていませんよ! 本当に凄いと思っていますから!
…………。……だから厄介なんだよ。
はい? 何か言いました?
別に何も。……てかお前、買い物袋はどうした。今晩の俺達の夕飯。
……アレ? あっ! し、しまったぁー! さっき悪魔を追いかけるのに夢中で、用水路に落としてしまいました!
 確認すると、1480円分の食材が詰まった袋が水路に流れて、どんぶらこ。下流へと逃げて行ってしまっていた。
オイィィィィィ何してんだぁぁぁぁぁっっ!!!
 二度目の全力疾走。

 仮に救世主になったとしても、買い物袋を追いかけた預言者と天使の話なんて、神話に書き残すこともできないだろう。このエピソードはカットだカット。

 たとえこの先どんなに、強力な悪魔達を英雄的にやっつけるような日が来ても――。


 ――『別に嘘は言っていませんよ! 本当に凄いと思っていますから!』

………………。
 だから困る。ポンコツで大食いで頼りなくて、本当に天使か疑いたくなるユカエルの言葉は――全て『真実』なのだから。疑いようがないほど、コイツは正直な気持ちだけを俺にぶつけてくる。


 今までそんな奴はいなかった。親ですら、幼い俺に教育のためにと小さな嘘を付くこともあった。

 それは悪い事だと思っていないが、それでも、嘘を付かない人間など存在しない。

 だから俺は誰も信用しない。そうして生きてきたんだ。なのに。

東治さん! 聖書っ、魔導聖書使いましょう! オリーブの葉をくわえてきて世界の水嵩(みずかさ)が減った事をノアに知らせた鳩を召喚して、取ってこさせるのです!
そんな私的利用して良いものなのかよ!? ……あぁクソ、これも夕飯のためか!
 アホなユカエルの声を、言葉を。

 どうしてだか『信用』してしまっている自分に――今までなかった感情に、俺は人知れず心を揺らしていた。

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登場人物紹介

襟矢 東治(えりや とうじ)
16歳。過去のトラウマから極度の人間不信に陥った高校生。

ユカエルから魔法の聖書を手渡され、魔術師として新たな救世主を決める預言者同士の戦いに巻き込まれていく。

ユカエル

東治の守護天使。明るく元気な平和主義者。

神や人間を深く愛しているが、何でもすぐに信じ込んでしまうドジな部分も。

与名(よな)警部

連続強盗犯を追う警察官。飄々としているが他人に安心感を与える声色の持ち主。

東治に捜査の協力を願い出る。

ウラエル

与名の守護天使。厳格で冷淡な性格。

救世主になるためなら多少の犠牲や汚れ仕事も必要だと考えている。

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