2:信じない者も割と足元をすくわれる
文字数 3,039文字
明らかに人間技ではない方法で部屋に侵入してきた女――ユカエルと名乗った『天使』は純白の双翼から、フワフワとした白い羽や光の粒を床に落とす。
散らかるので正直やめて欲しいと思ったが、それらは床やテーブルに触れると、すぐに消滅した。
世界は今、数多くの由々しき問題に直面しているのです! 地球温暖化とか生態系の乱れとか、不景気とか移民とか! あと弾頭ミサイルが頭上を飛んで行ったり!
それをどうにかせねばと、我らが『主』はお考えになったのです!
そして世界各国の『資質』を持つ者達を預言者として選定し、この魔導聖書を――。
待て、まて待て! 一気に畳みかけるんじゃねぇ! ちょっとは頭の中を整理させろ!
ユカエルは笑顔で俺の昼食に手を付け始める。
熱々のチャーハンはスプーンで口に運ばれ、モグモグと美味しそうに頬張るユカエルの体内へと消えて行く。
幻覚の類じゃない。間違いなく、実体としてそこに存在している。
――夢であってくれと願った。だが現実だ。目の前にいるのは、本物の天使。
己の目で見た物と、耳で聞いた物以外は何も信じない。それが俺の人生哲学というかルールだった。
しかし今、自分の五感すらも疑いたくなる気分だった。だが自分自身すら信用できなくなってしまっては、いよいよ俺はこの世界で生きていくのが困難になる。
人外の存在だと、俺の常識や想像を超えた領域にいるのだという事は理解した。
理解というより、受け入れるしか他に無かったとも言えるが。
ですから先程も述べたように、『真約聖書』を完成させ、新たな救世主となって欲しいのです!
あっ、大丈夫っす……。救世主志望じゃないので僕……。大学進学を目標にしているんで……。
何故ですか!? 人類を救うヒーローですよ!? 永遠に人類史に名前が残るんですよ!
現代には戦争や貧困など、課題が山積みだというのに! 見過ごせるのですか!?
学生には夏休みの課題が山積みなんだよ。遠くの紛争を解決するより、受験戦争を生き残らないといけないんだよ俺達は。
ぐぬぬ……! なんと勤勉な……! ゆとり教育はもう終わってしまったのですね……!
ナザレのイエスは12歳で学者達とも語り合えたので、てっきり東治さんも勉学をマスターしているものかと……!
どういう展望を持ってやって来たんだよ。見通しが甘すぎるだろ。
ポンコツではありません! 確かに救世主候補の他の預言者達は皆、既に聖書を受け取ったらしいですが! 未だに説得できていないのは私だけらしいですが! それでも、天界から追放されないよう必死に頑張っているんです……!
俺以外にもいるのか? その……救世主になる資質を持った奴ってのは。
はい。正確な人数は伝えられていませんが、日本だけでも十数人はいるとか……。
ならソイツらに任せれば良いじゃねぇか。俺はパスで。やる気も信心も無い俺がやるより、ヒーロー志望の奴に完成させてやった方が良いだろ。そのナントカ聖書ってやつ。
これで問題解決。ハイ終わり。この話はここまで。
差し出したチャーハンはまだ皿に半分残っているが、ここらでお帰り頂こう。
しかし。見込みが甘いのはむしろ俺の方だった。
壁や天井を通り抜けてまで侵入してくるユカエルが、この程度で引き下がるはずもなかった。
良くありません! 資質があるとは言え、善良な人間ばかりであるとも限りませんし、何より……!
そもそもさぁ、平和とか何だとか、全部そっちの都合だろ? 俺が救世主を目指すメリットが、何ひとつ無いじゃねーか。
め、メリットはあります! 本当は見返りなど求めず活動して欲しいのですが……。救世主になれば歴史に名が残ります! 全人類からの厚い信仰を集めるのですよ!
楽園へ入る資格を確実に得て、天国で永遠に救済されます! 人間不信の東治さんでも安心の、疑ったり騙されたりしない世界が……!
……俺が人間不信だなんて、知ったような口をきくなよ。
それに天国に行くまでが長いわ。早死にするつもりねーし。
ぐっ……! 手強い……!
……具体的なメリットと言えば後はもう、お金くらいですかね……。預言者には『教会』からの支援金が給付されるので……。
ですが人は『神』と『富』の両方に仕えることはできませんし――。
え、えぇ、まぁ……。預言者として活動している間、生活を気にすることなく善行を積めるようにと……。
考え込む。俺は常々、バイトをするべきかと悩んでいた。
俺の事情を知り尽くし、心配してくれる両親は独り暮らしを許してくれた。学費も家賃も、「気にすることはない」と言って快く出してくれている。
ならば良い大学に入って就職して、恩返しするのが『筋』だと思っている。遊び呆けたりバイトをして成績を落とせば、それは本末転倒だ。
だが『預言者』とやらの、その活動内容によっては――両親の負担を減らせるかもしれない。
勉強に支障が出たり怪しげな内容なら、さっさとリタイアして辞退すれば良いだけだ。最初から救世主なんぞに興味はないし。
それに。人間を信用せず、今まで多くの他人を疑ってきた俺には、目の前のユカエルが嘘を付いているようには見えなかった。
そもそも演技なんぞできるような『タマ』ではないだろう。……人間じゃないから確かな事は言えないが。
何よりユカエルに対してだけは、不思議と警戒心を抱かなかった。半信半疑である事に変わりはない。だがいつもは相手が親だろうと、俺の心はざわつくのに。
ユカエルの声や表情は、超常の存在と出くわしてパニックになっていたはずの頭を、何故だか落ち着かせてくれた。
……これが詐欺だったら警察に突き出す。この部屋には防犯カメラとボイスレコーダーが仕掛けてあるから、言い逃れはさせない。
ええぇ……。き、極まってますね……。
で、ですが詐欺ではありませんので、問題ありません! ご安心ください!
視線を落とす。床には、先程ユカエルから渡された分厚い本が置いてある。怪しいので放置していたのだ。
見るからに胡散臭い表紙だ。どこの国のかも分からない文字で記されたタイトル、その下には魔法陣のように複雑な円形模様が描かれている。
だが俺は、それでも。
その『魔導聖書』とやらに――手を伸ばした。
信じてなんかねーよ。……ただ、俺は俺の判断に従うだけだ……!
信じられるのは己のみ。
利用できるものは全て利用し、降りかかる火の粉は自力で払う。
そうやって生きてきた。そうやって、これからも生きていく。
厚く重い本を持つ。
ずっしりとしたその『聖書』は、世界を救う人間がこれから背負う重圧に比べれば、微々たるものだと思えた。
チャーハンを食べ終えたユカエルはスプーンを置き、満面の笑みで瞳に輝きを宿した。
始めるんです……! いえ、ここから始まるのです! 貴方と私による、新たなる救世の『神話』が!
7月後半。夏休み初日。
人間不信に陥った俺は、『救世主勧誘』の話に乗り。ポンコツ天使と共に、『預言者』としての道を歩み始めた。
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