4:はじめての悪魔払い
文字数 2,626文字
そして道路を挟んだ向かいにある、市民公園へ入る。木々や草花が多く植えられ、中央には池もある広い自然公園だ。
夏休みとあって、いつもより多くの人々が訪れていた。
ユカエルが悪目立ちするのは勝手だが、俺までテレビやネットで晒し者にされるのだけは避けたい。
このままでは俺だけが笑い者にされる。
咄嗟に左腕に聖書を抱え、『小走りで図書館に勉強し行く学生』を装い、周りからの注目を集めないように公園を突っ切った。
そうして人の少ない、公園の敷地としては端の方に向かうと――。
ただの木登りなら気にすることはない。だが少年は、高いフェンスの向こうにある木――公園と隣接する農家が育てている桃の木に、その果実に手を伸ばそうとしていた。
公園の木に登ってフェンスを乗り越え、ああして盗んでいく者が結構いるのだろう。
……子供でも『悪』に手を染めたり嘘を付くのだ。これだから人間ってのは信用できない。
その縄は動き、太く膨らんだ先端を持ち上げ、赤い眼光と舌を俺達に向けた。
――あれは縄ではない。『蛇』だ。
蛇は俺達に気付くと木を下り、地を這って迫り来る。悪意と敵意を孕んだ、邪悪な気配をひしひしと感じる。
聖書を開いて呪文を唱え、あの蛇を撃退しろという事は察する。
だが何を唱えれば。どの文章を読めば良い。こちとらまだ創世記を読み終わってすらいないんだぞ。
最初に使った『光あれ』なんか使っても、どうする事もできないだろう。
アダム達を誘惑した蛇は、神から怒りを込めて呪いをかけられた。そのために蛇は地を這う動物となったのだ。
その一文を引用すれば、黒い蛇を倒せるのではないかと――。
……そんな方法が通用するなら、最初から魔導聖書なんか渡してこないだろう。ユカエルも、こんなに緊迫した声を出してはいないはずだ。
黒い蛇は牙を剥く。毒でも持っていれば命に関わる。迷っている時間は――もうない。
現実化させるのは、夏の不快な湿気すら焼き焦がす、火炎の天使――。
天使――『ケルビム』が扱う炎の剣によって、黒い蛇は頭部を刺し貫かれ、灰も残さず滅却された。
その力を借りて召喚できた時間は僅か一瞬だったが、それでも肺を焦がすような熱気と、眼球が沸騰するかのような灼熱に、俺は『畏怖』を覚えた。
黒い蛇は燃え尽き、ケルビムも消える。
後に残ったのは、元の日本的な夏の暑さと、セミ達の鳴き声だけ。
それをユカエルがキャッチし、優しく着地させた。少年は何が起きたのか理解できていないようだったが。
……結果的に、あの子供は窃盗に手を染めることなく終わったというわけだ。
聖書の力を使って悪魔払いとは……。いよいよ俺の日常がファンタジーに侵食されてきた。
あの黒い蛇は悪魔の中でも低級だろう。何せ子供の泥棒だ。世の中には殺人や強盗や誘拐など、更に重大な悪事が満ちている。
それらを誘発する悪魔がいるなら、あの蛇とは比べ物にならないだろうし、創世記だけの知識では対抗できない。
……この力が昔の俺にあったなら、『兄ちゃん』も道を踏み外さなかったのだろうかと――今更考えたって無意味な事を、独り想いながら。