4:はじめての悪魔払い

文字数 2,626文字

 大した説明もないままに、ユカエルに連れられてアパートを出た。

 そして道路を挟んだ向かいにある、市民公園へ入る。木々や草花が多く植えられ、中央には池もある広い自然公園だ。

 夏休みとあって、いつもより多くの人々が訪れていた。

オイオイ! 天使が人前に出て良いのかよ!
 翼を生やした少女が、空を飛びながら男子高校生の手を引いているのだ。大変な騒ぎになるだろう。

 ユカエルが悪目立ちするのは勝手だが、俺までテレビやネットで晒し者にされるのだけは避けたい。

問題ありません! 守護天使が見えるのは、同じ預言者の人間くらいなものですから!
何……!?
 つまり今の俺は、傍から見れば『何もない上空に語り掛けながら右腕を伸ばして走っている奴』という事か。

 このままでは俺だけが笑い者にされる。

 咄嗟に左腕に聖書を抱え、『小走りで図書館に勉強し行く学生』を装い、周りからの注目を集めないように公園を突っ切った。


 そうして人の少ない、公園の敷地としては端の方に向かうと――。

……あ、居ました! あの人です!
 そこには。小学生くらいの小さい男の子が、公園の木に登っていた。

 ただの木登りなら気にすることはない。だが少年は、高いフェンスの向こうにある木――公園と隣接する農家が育てている桃の木に、その果実に手を伸ばそうとしていた。

……オイオイ、果物泥棒かよ……。
 そういえば、俺が住んでいるアパートにも貼り紙が出されていた。『公園の草花や近隣農家の作物を、勝手に取らないで下さい』と。

 公園の木に登ってフェンスを乗り越え、ああして盗んでいく者が結構いるのだろう。


 ……子供でも『悪』に手を染めたり嘘を付くのだ。これだから人間ってのは信用できない。

注意すれば良いのか?
違います! あの子の、少年の首元をよく見てくださいっ!
首元……?
 目を凝らす。少年の首回り――肩にかけて、何か黒い縄のような物が巻き付いている。

 その縄は動き、太く膨らんだ先端を持ち上げ、赤い眼光と舌を俺達に向けた。


 ――あれは縄ではない。『蛇』だ。

気付かれました! 聖書を開いて!
なッ……!?
 普通の蛇じゃない事は一目で分かった。

 蛇は俺達に気付くと木を下り、地を這って迫り来る。悪意と敵意を孕んだ、邪悪な気配をひしひしと感じる。

開け、ったって……!
 焦る。これは『実戦』だ。初めての戦闘経験。

 聖書を開いて呪文を唱え、あの蛇を撃退しろという事は察する。

 だが何を唱えれば。どの文章を読めば良い。こちとらまだ創世記を読み終わってすらいないんだぞ。

 最初に使った『光あれ』なんか使っても、どうする事もできないだろう。

お、『お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き――』……!
 桃の木から果実を盗もうとする少年、そして蛇を見て、楽園追放の話を思い出した。

 アダム達を誘惑した蛇は、神から怒りを込めて呪いをかけられた。そのために蛇は地を這う動物となったのだ。

 その一文を引用すれば、黒い蛇を倒せるのではないかと――。

いけません! 蛇を踏み潰す人間の女性がいない状況で、それを唱えても!
じゃあどうしろってんだ!
 蛇はもう近くまで接近して来ている。こうなれば、もう自分の足で蹴り飛ばしてやろうか。

 ……そんな方法が通用するなら、最初から魔導聖書なんか渡してこないだろう。ユカエルも、こんなに緊迫した声を出してはいないはずだ。


 黒い蛇は牙を剥く。毒でも持っていれば命に関わる。迷っている時間は――もうない。

『智天使』を呼び出してください!
 瞬時に次のページをめくる。
『こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東に智天使と煌く剣の炎を置かれた』……!
 またしても。ユカエルの言葉を一切疑わず、俺は聖書を読んで呪文を唱えた。
創世記第三章、24節!
 魔導聖書は光を放ち、周囲の気温が一気に上昇する。

 現実化させるのは、夏の不快な湿気すら焼き焦がす、火炎の天使――。

――『ケルビム』ッ!!
 ユカエルとは別の、剣を持った天使が現れた。そしてその背後には、天使が護る禁断の果実の木。

 天使――『ケルビム』が扱う炎の剣によって、黒い蛇は頭部を刺し貫かれ、灰も残さず滅却された。

……すっ、げ……。
 アダム達が追放された後、楽園の知恵の果実を守る役目を与えられた智天使。

 その力を借りて召喚できた時間は僅か一瞬だったが、それでも肺を焦がすような熱気と、眼球が沸騰するかのような灼熱に、俺は『畏怖』を覚えた。


 黒い蛇は燃え尽き、ケルビムも消える。

 後に残ったのは、元の日本的な夏の暑さと、セミ達の鳴き声だけ。

あっ……!
 ユカエルが飛んで行く。何事かと思ったが、桃を盗もうとした少年はバランスを崩し、木から落ちそうになっていた。

 それをユカエルがキャッチし、優しく着地させた。少年は何が起きたのか理解できていないようだったが。

……オイ、小学生。他人の物を盗んだらダメだぞ。
 まさか俺に見られていたとは思わなかったのか、少年は深い後悔の色を見せて「ごめんなさい!」と謝罪し、一目散に公園から出て行った。

 ……結果的に、あの子供は窃盗に手を染めることなく終わったというわけだ。

お疲れ様でした、東治さん! 今みたいに、人心を惑わし堕落の道へと誘惑する『悪魔』を倒すことで、救世主への道はぐっと近付きます!
 あの黒い蛇は、やはり『悪魔』だったのか。

 聖書の力を使って悪魔払いとは……。いよいよ俺の日常がファンタジーに侵食されてきた。

……ったく、何とか勝ったは良いが、そういう説明はもっと最初にだな……。
読みふけって私の話を聞いてくれなかったのは、東治さんじゃないですかー!
 文句を垂れるユカエルをスルーし、聖書をパラパラとめくる。

 あの黒い蛇は悪魔の中でも低級だろう。何せ子供の泥棒だ。世の中には殺人や強盗や誘拐など、更に重大な悪事が満ちている。

 それらを誘発する悪魔がいるなら、あの蛇とは比べ物にならないだろうし、創世記だけの知識では対抗できない。

……誘拐、か……。
……東治さん?
……帰るぞ。流石に腹が減ったわ。買い物に行く。
あっ、じゃあハンバーグ! 私ハンバーグが食べたいです!
お前さっきチャーハン食ったばっかだろ!
 やかましい天使をあしらいながら、俺は公園を後にした。


 ……この力が昔の俺にあったなら、『兄ちゃん』も道を踏み外さなかったのだろうかと――今更考えたって無意味な事を、独り想いながら。

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登場人物紹介

襟矢 東治(えりや とうじ)
16歳。過去のトラウマから極度の人間不信に陥った高校生。

ユカエルから魔法の聖書を手渡され、魔術師として新たな救世主を決める預言者同士の戦いに巻き込まれていく。

ユカエル

東治の守護天使。明るく元気な平和主義者。

神や人間を深く愛しているが、何でもすぐに信じ込んでしまうドジな部分も。

与名(よな)警部

連続強盗犯を追う警察官。飄々としているが他人に安心感を与える声色の持ち主。

東治に捜査の協力を願い出る。

ウラエル

与名の守護天使。厳格で冷淡な性格。

救世主になるためなら多少の犠牲や汚れ仕事も必要だと考えている。

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