7:預言者

文字数 6,069文字

 夏休み六日目。7月も終わりを告げる頃。

 夕食を食べ終えた俺は部屋で独り、聖書をめくっていた。テーブルの反対側には、ラップで包んだ食事が置いてある。……アイツが帰ってきた時に、「私のご飯が無いじゃないですか!」と騒がれても迷惑だからだ。

……『ヨセフは兄弟達に言った。「私は間もなく死ぬ。しかし神は必ずお前達を顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださる。」それからヨセフはイスラエルの息子達に――』……。
 アダムから人類が始まり、ヨセフの生涯が終わると同時に『創世記』は読破。

 随分と時間がかかってしまった気もするが、どの文章が強力な魔法と成り得るか分からないし、何より勉強と両立して読んできたのだ。これくらいのペースが限界だ。

……そういや、『ヨセフ』ってイエス・キリストの父親の名前でもあったような。同名なだけか?
 ……返答は無し。俺の疑問に答えてくれる奴はいない。

 数日前なら、ベラベラと得意げに解説してきて、聞いてもいない情報まで語り始めていたのに。肝心な時に役に立たない天使だ。


 ヨセフとはユダヤ人の祖先であるヤコブの子として生まれ、奴隷として売り飛ばされたりするも、敏腕を振るってエジプト王ファラオの宰相になるまで出世した男だ。大飢饉から人々を救った大人物であるため、その名が後世で使われてもおかしくはない。

 ……そんな凄い人と俺が同じ『預言者』だなんて、何だか申し訳なく思うくらいだ。俺はヨセフのように立派な人間ではないのだから。

……次は『出エジプト記』か。
 創世記を読み終えてキリも良いし、学校の勉強にでも移ろうかと思った。しかしもう少しだけ、触りだけでも読んでみようかと、聖書のページをめくった――その時。

 ピンポーン、と。来客を告げる音が部屋に鳴り響いた。

……ったく。ようやく帰ってきやがったか。
 数々の勧誘を撃退してきた俺の部屋に来る人間など、ほぼ限られている。ご近所付き合いは当然ない。親が来るとも聞いていない。

 となると、思い浮かぶのはアイツだけ。わざわざドアチャイムを鳴らさなくとも、壁や天井を透過できるのだから、そのまま入ってくれば良いものを。

お前、今まで何処ほっつき歩いて――。
 ガチャガチャと、何重ものロックを外して玄関を開ける。

 あの時は少しキツイ言い方をしてしまったが、別に怒っているわけではないのだから、ユカエルも気にすることは無いと伝え――。

………………。
……あっ。
 アイツじゃなかった。色々と恥ずかしい。
……どうも、夜分にスイマセンね。●●署の与名と申します。最近この近くで強盗犯が出たってニュースにもなってますんで、ちょっとお話聞かせて貰っても良いですか?
 警察手帳を見せた中年の男は『ヨナ』と、そう名乗った。

 いわゆる警察官の制服は着ておらずスーツ姿だが、警部クラスともなると私服捜査になるのだろう。ドラマとかで見た事ある。

 そんな彼が来た目的は、ユカエルとも以前に話した『連続強盗犯』についての聞き込みだった。

……あ、あぁ、ハイ。大丈夫っす。でも俺、怪しい奴とかは見かけていな――。
 むしろ聖書片手に泥棒少年を注意したり無灯火自転車を追いかけたり、俺の方が不審者として通報されてはいやしないかと心配しているくらいだ。天使のユカエルは他人の目に映らないのだし。

 そんな他愛もない事を考えながら、与名警部に応対していると――。

………………。
……!? て、んっ――!
 少しドアを開くと、与名警部の背後には赤毛の男が浮かんでいた。

 ユカエル以外では初めて見る。『他の』だ。俺の人生で二度目となる、本物の天使との遭遇。

……オレが見えている。コイツで間違いないぞ、ヨナ。
おっけーい。んじゃ、悪いな兄ちゃん。
 急に砕けた口調になる与名警部。後ろに隠すようにしていた左手には、輝く分厚い本が握られていた。

 その本は俺もよく知っている。毎日触れて、読んでいるのだから。

 ――魔導聖書だ。

『サムエル記』十七章、4節。
 悪意と敵意に満ちた目で。歪んだ笑顔と共に、与名警部は俺に向かって右手をかざす。

 間違いない。この男、俺と同じ――!

預言者……!
 ヤバい。相手は既に詠唱を終えている。聖書。俺の魔導聖書。背後、部屋だ。マズった。警察じゃねぇ。手帳、偽造。


 防げな……ッ!

――『ゴリアテ』。
 ――大気が爆発する。


 瞬間、俺の身体は後方に吹き飛んだ。引っ張られているのか押し出されたのかも分からないほど、痛みも思考も消し飛んで一瞬気絶するほどの衝撃。

 身体はそのまま部屋を突っ切り窓ガラスを割り、夜の街に血潮が舞う。

 そして道路を超えた向かいにある自然公園へ、背中から叩きつけられた。受け身も取れず、その着地の激痛で意識を取り戻したようなものだ。

 そうして強制的に覚醒させられると、今度は全身に電流を流されたかのような感覚が襲ってくる。

がッ、は……!? ぐ、ぁああ……っ!!
 痛みと混乱で言葉にならない声が漏れる。血も出てるし骨も何本か折れているだろう。

 浅い呼吸を繰り返し、迫り来る『死の実感』からどうにか逃れようと思考を回す。本当は考え事なんてできる状況ではないが、痛み以外の事を考えないと発狂してしまいそうだった。

(……甘かった……! 何もかも……!)
 普段から人間不信だと自分に言い聞かせ、他者とコミュニケーション不全に陥るほど警戒していたのに。それがこのザマだ。

 ユカエルの帰宅と勘違いして不用意にドアを開けた。警察手帳を見せられただけで、ちゃんと確認もせずに相手が警察だと信用してしまった。それが本物かニセモノかなんて、素人には分かるはずないのに。

 俺とした事が、随分と人間を信じやすくなってしまっていたようだ。

……いやいや、こんな上手くいくとはなぁ! 俺と同じ『預言者』だっていうもんだから、バレやしないかと不安だったが……。何だよ、他の不用心な一般人と変わらないじゃねーか!
 与名警部……いや、『預言者』の与名は夜の公園に入ってくる。

 更に上空からは、俺の財布や通帳を手に持った赤毛の天使も。

……金目の物はこれで全てだ、ヨナ。
あー? まぁガキだし、貴金属なんか持ってるはずねーわな。
だが、肝心の『聖書』が無い。……どこかに隠したか。
あぁ? むしろソッチが本命だろ。何やってんだよウラエル。……まぁ良いさ、兄ちゃんが持ってる風でもないしな。
 金品を奪われた。聖書も探しているようだったが、見失ったようだ。

 どうやら口振りからして間違いなく、ヤツらが最近ニュースで騒がれている『連続強盗犯』なのだろう。聖書の力を悪用すれば、その程度は余裕だ。

 だが俺の聖書が無いとは、どういう事だ。俺は隠し持ってなんかいない。先程の衝撃破で、どこかに吹き飛んでしまったか。

 ……だとするとマズイ。相当にヤバい状況だ。奴らに対抗する術を持たない状況で『攻撃』されては。一撃でリタイアとなる。

まぁ良いさ、兄ちゃん本人を殺せば聖書があろうと関係ねーし。……しっかし、ライバルが頭の弱いガキで良かったぜ。
 お褒めに預かり光栄だよ、クソッタレ。


 ……思えば与名の言う事が正しい。本気で救世主になりたければ、あるいは勝ち残りたければ、ちまちまと慈善活動なんかしていない。『自分以外の預言者を全員排除する』。これだけで済む話だ。むしろ俺の方が異端だったのだろう。

 バベルの塔やら何やら、街中で派手に魔法を使ってきて。この『預言者バトルロイヤル』においては、カモにして下さいと言わんばかりの行動だった。

……クソッ……!
 仰向けになって夜空を見上げ、何もかもが迂闊だった事を悔やむ。激痛で指一本動かせない身体では、それしかできない。


 俺がもう少し本気だったら。もっと真剣に聖書や預言者、ユカエルと向き合っていれば。少なくとも、こんな無様な恰好にはなっていなかっただろう。

 だが言い訳も後悔も全てが遅い。もう俺は虫の息。なぶり殺されるだけだ。

『ペリシテ人の陣地から一人の戦士が進み出た。ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜を被り、身には青銅五千シュケルの重さのある鱗閉じの鎧を着、足には青銅のすね当てを付け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シュケルもあり、彼の前には盾持ちがいた』
 与名の詠唱によって、その『戦士』は形作られる。

 全身を青銅の装備で固め、太く長い槍と、何よりそれに負けない巨体を持った男。およそ3メートルはあろうかという、巨人にも似た戦士。

 俺は今から、コイツに踏み砕かれるのだろう。

サムエル記十七章4節。『ゴリアテ』。
 あぁ、でも。最期に。最後にちゃんと、アイツに謝っておきたかった。
 ユカエル――。
……ッ!?
……!
……?
 おかしい。覚悟を決めて瞳を閉じたのに、予想していた痛みが来ない。

 今も全身には激痛が走っているが、それは同時に『生』の実感でもあった。命が続いていることの証明。

 どういう事かと、目を開けてみると――。

――ふん……ッ! ぐぐぐ……!
 そこでは天使が――俺の『守護天使』が、巨人兵の槍を素手で掴んでいた。
……ユ、カ……。
東治さん! これ……! 受け取ってくださいッ!
 ユカエルは必死な顔で、額に大粒の汗を浮かべながら、それでも俺の方に『本』を投げ寄越した。

 分厚い聖書。俺の魔導聖書。与名達に襲撃された時、アイツが咄嗟に部屋から持ち出したのか。

 ……だけど……。

オイオイ! ゴリアテの槍を止めるとか、なんつー怪力だよこの嬢ちゃん……!
……だが、長くは持つまい。ゴリアテはイスラエル軍と戦った、ペリシテ人最強の戦士だ。
 言葉通り、ユカエルはゴリアテの振り回す槍を握り続けることができず、その柄を放してしまった。

 それでも諦めずに連中と俺との間に割って入り、待っている。俺が参戦するのを。

東治さん……! コレはビッグチャンスですよ! 預言者でありながら罪を重ねるこの者達を成敗すれば、まさに救世主としての……!
 ごめん。ごめんユカエル。――もう、手足の感覚が無いんだわ。
……東治さん……!?
ハハッ! 無駄だっての! ゴリアテの攻撃を間近で受けて、立てる人間なんかいねーよ!
……邪魔をするな、守護天使。これは預言者同士の戦いだ。貴様はただ、行く末を見守っていろ。
きゃあっ!
 ゴリアテのパンチを受けて、ユカエルは公園の地面に転がる。

 そうしてゴリアテは俺を殺そうと迫るが、ユカエルはその足にしがみ付いて止めようとする。

……や、め……。
 やめろ。よせユカエル。そう言いたいのに、喉の奥に血が溜まって声が出ねぇ。
そんなに死にたいなら、まず嬢ちゃんから殺してやるよ……! まぁ、天使って死ぬのか分かんねーけどな! やれゴリアテ!
……天使に生死の概念はない。ただ……魔導聖書の効力に晒されたとあっては、天使であろうと『消滅』は免れないだろうな。
……だと、しても……っ!
 もう良いって。ボロボロになって、血だらけになって。槍の柄で叩かれ、拳で殴られ、蹴り飛ばされて。そうまでして、お前が立ち上がる理由なんかないだろ、ユカエル。
私は、東治さんを守ります……! 私は東治さんの守護天使だから!
 意味分かんねぇよ。出会って一週間も経っていない俺のために、そこまでする理由なんて――。
16年前、彼がこの世に生まれ落ちた時から……! 御使いとして、彼を見守る守護天使として……! ずっと、ずっと私は……! 貴方達には、分からないでしょうが……っ!
 ゴリアテの攻撃を喰らいながら、それでも立ち上がって『壁』になるユカエルに。その言葉に。俺の心臓は跳ね上がった。
東治さんがどれだけ純朴で真面目な子供だったか……! それが『お兄さん』に裏切られ、人を信用できなくなって……! 半年以上も、声すら出せなくなり……! でも諦めずに、また歩き出して……!
 最初に出会った時から、妙に馴れ馴れしいと思っていた。やけに知った風な口を効く奴だと。

 事前に調べてきているのだと思った。だが違った。

預言者に選ばれたと聞いて、私がどれほど嬉しかった事か……! どれほど誇らしく思った事か! ご両親のために毎日頑張って勉強して、離れて暮らしても、感謝の気持ちを忘れず……! どれだけ彼が立派な人間か! 救世主に相応しい人間なのかを! 貴方達は理解していない! そんな貴方達に、ここで退場させられて、良いはずがないッ!!
 どうしてユカエルの声を聴くと安らぐのか。他人を疑ってばかりの俺が、何故ユカエルの言葉だけは受け入れたのか。
 ずっと――。ずっと傍に、居てくれていたんだな。
ゴチャゴチャうるせーわ。ただのガキだろ。
 ゴリアテの振り下ろした拳で、ユカエルは後頭部を殴られる。そして地面が割れるほどの衝撃で叩きつけられた。


 ……その通りだよ。与名の言う通りだよ。俺は立派な人間じゃない。

 誰も信じてこなかった。両親に何もしてやれてないまま死にかけている、お前にちゃんと謝罪していないまま死にそうな、ダメな奴なんだよ。


 なのにどうして、お前は諦めないんだ。

……『信じる者は、救われる』……ッ!
……まだ立つのか。
私ッ、は……! 神の教え……! 聖書……ッ! 信じ……!
 ……なぁ、神様。神様よォ。アンタ、どれだけ性格が悪ければ気が済むんだよ。

 信じる者を救ってやれよ。人も神も信じない俺は、地獄なり何なり送ってくれて構わないから。

 だからせめて。何でもかんでも信じやすい、キリスト教大好きなあのアホを、ポンコツ天使くらいは救ってやれよ……!

 信じる者は救われるんだろ……!? だったら、今すぐ――!

私はッ! 襟矢東治さんという人間を、信じているんですッ!! 正しい心を持った彼なら、どんな困難や逆境も乗り越えられると!!! 16年間、彼を見守り信じ続けてきた私は、それを知っていますッッ!!!



 ――『声』が、聞こえた気がした。




「救ってやれよ。お前を信じてくれる奴をさ」



 神の『言葉』を『』かる『』。

 ――預言者




……ははっ。


 ――やっぱアンタ、性格悪ぃだろ……!



ぬぅぅあああああああああああああああッッッ!!!!!!




 寝ている場合じゃ、ないと思った。





!?
まさか……馬鹿な……!
……東治さん……っ!
 血反吐を吐き出す。

 上体を起こす。痛ぇ。知らねぇ。

 感覚のない手足をムリヤリ動かして。泣きたくて叫びたくて、それでも立ち上がって。


 救世主になりたいわけじゃない。

 金も地位も要らない。

 相変わらず神様なんて信じちゃいない。人間はもっと信じるに値しないと、改めて感じた。


 ただ――。

今だけ……っ! 今だけで良いから、力を貸せよ魔導聖書ッ!! アイツを――俺を信じてくれる『ユカエル』を、救えるだけの力をッッ!!!
 初めてユカエルの名前を声に出した。

 魔導聖書は夏の夜に激しく輝く。


 夏休み六日目。

 俺は今日、たぶん生まれて初めて、他人からの『信頼』に応えたいと思った。

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登場人物紹介

襟矢 東治(えりや とうじ)
16歳。過去のトラウマから極度の人間不信に陥った高校生。

ユカエルから魔法の聖書を手渡され、魔術師として新たな救世主を決める預言者同士の戦いに巻き込まれていく。

ユカエル

東治の守護天使。明るく元気な平和主義者。

神や人間を深く愛しているが、何でもすぐに信じ込んでしまうドジな部分も。

与名(よな)警部

連続強盗犯を追う警察官。飄々としているが他人に安心感を与える声色の持ち主。

東治に捜査の協力を願い出る。

ウラエル

与名の守護天使。厳格で冷淡な性格。

救世主になるためなら多少の犠牲や汚れ仕事も必要だと考えている。

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