7:預言者
文字数 6,069文字
夕食を食べ終えた俺は部屋で独り、聖書をめくっていた。テーブルの反対側には、ラップで包んだ食事が置いてある。……アイツが帰ってきた時に、「私のご飯が無いじゃないですか!」と騒がれても迷惑だからだ。
随分と時間がかかってしまった気もするが、どの文章が強力な魔法と成り得るか分からないし、何より勉強と両立して読んできたのだ。これくらいのペースが限界だ。
数日前なら、ベラベラと得意げに解説してきて、聞いてもいない情報まで語り始めていたのに。肝心な時に役に立たない天使だ。
ヨセフとはユダヤ人の祖先であるヤコブの子として生まれ、奴隷として売り飛ばされたりするも、敏腕を振るってエジプト王ファラオの宰相になるまで出世した男だ。大飢饉から人々を救った大人物であるため、その名が後世で使われてもおかしくはない。
……そんな凄い人と俺が同じ『預言者』だなんて、何だか申し訳なく思うくらいだ。俺はヨセフのように立派な人間ではないのだから。
ピンポーン、と。来客を告げる音が部屋に鳴り響いた。
となると、思い浮かぶのはアイツだけ。わざわざドアチャイムを鳴らさなくとも、壁や天井を透過できるのだから、そのまま入ってくれば良いものを。
あの時は少しキツイ言い方をしてしまったが、別に怒っているわけではないのだから、ユカエルも気にすることは無いと伝え――。
いわゆる警察官の制服は着ておらずスーツ姿だが、警部クラスともなると私服捜査になるのだろう。ドラマとかで見た事ある。
そんな彼が来た目的は、ユカエルとも以前に話した『連続強盗犯』についての聞き込みだった。
そんな他愛もない事を考えながら、与名警部に応対していると――。
ユカエル以外では初めて見る。『他の』だ。俺の人生で二度目となる、本物の天使との遭遇。
その本は俺もよく知っている。毎日触れて、読んでいるのだから。
――魔導聖書だ。
間違いない。この男、俺と同じ――!
防げな……ッ!
瞬間、俺の身体は後方に吹き飛んだ。引っ張られているのか押し出されたのかも分からないほど、痛みも思考も消し飛んで一瞬気絶するほどの衝撃。
身体はそのまま部屋を突っ切り窓ガラスを割り、夜の街に血潮が舞う。
そして道路を超えた向かいにある自然公園へ、背中から叩きつけられた。受け身も取れず、その着地の激痛で意識を取り戻したようなものだ。
そうして強制的に覚醒させられると、今度は全身に電流を流されたかのような感覚が襲ってくる。
浅い呼吸を繰り返し、迫り来る『死の実感』からどうにか逃れようと思考を回す。本当は考え事なんてできる状況ではないが、痛み以外の事を考えないと発狂してしまいそうだった。
ユカエルの帰宅と勘違いして不用意にドアを開けた。警察手帳を見せられただけで、ちゃんと確認もせずに相手が警察だと信用してしまった。それが本物かニセモノかなんて、素人には分かるはずないのに。
俺とした事が、随分と人間を信じやすくなってしまっていたようだ。
更に上空からは、俺の財布や通帳を手に持った赤毛の天使も。
どうやら口振りからして間違いなく、ヤツらが最近ニュースで騒がれている『連続強盗犯』なのだろう。聖書の力を悪用すれば、その程度は余裕だ。
だが俺の聖書が無いとは、どういう事だ。俺は隠し持ってなんかいない。先程の衝撃破で、どこかに吹き飛んでしまったか。
……だとするとマズイ。相当にヤバい状況だ。奴らに対抗する術を持たない状況で『攻撃』されては。一撃でリタイアとなる。
……思えば与名の言う事が正しい。本気で救世主になりたければ、あるいは勝ち残りたければ、ちまちまと慈善活動なんかしていない。『自分以外の預言者を全員排除する』。これだけで済む話だ。むしろ俺の方が異端だったのだろう。
バベルの塔やら何やら、街中で派手に魔法を使ってきて。この『預言者バトルロイヤル』においては、カモにして下さいと言わんばかりの行動だった。
俺がもう少し本気だったら。もっと真剣に聖書や預言者、ユカエルと向き合っていれば。少なくとも、こんな無様な恰好にはなっていなかっただろう。
だが言い訳も後悔も全てが遅い。もう俺は虫の息。なぶり殺されるだけだ。
全身を青銅の装備で固め、太く長い槍と、何よりそれに負けない巨体を持った男。およそ3メートルはあろうかという、巨人にも似た戦士。
俺は今から、コイツに踏み砕かれるのだろう。
今も全身には激痛が走っているが、それは同時に『生』の実感でもあった。命が続いていることの証明。
どういう事かと、目を開けてみると――。
分厚い聖書。俺の魔導聖書。与名達に襲撃された時、アイツが咄嗟に部屋から持ち出したのか。
……だけど……。
それでも諦めずに連中と俺との間に割って入り、待っている。俺が参戦するのを。
そうしてゴリアテは俺を殺そうと迫るが、ユカエルはその足にしがみ付いて止めようとする。
事前に調べてきているのだと思った。だが違った。
ずっと――。ずっと傍に、居てくれていたんだな。
……その通りだよ。与名の言う通りだよ。俺は立派な人間じゃない。
誰も信じてこなかった。両親に何もしてやれてないまま死にかけている、お前にちゃんと謝罪していないまま死にそうな、ダメな奴なんだよ。
なのにどうして、お前は諦めないんだ。
信じる者を救ってやれよ。人も神も信じない俺は、地獄なり何なり送ってくれて構わないから。
だからせめて。何でもかんでも信じやすい、キリスト教大好きなあのアホを、ポンコツ天使くらいは救ってやれよ……!
信じる者は救われるんだろ……!? だったら、今すぐ――!
――『声』が、聞こえた気がした。
――預言者。
上体を起こす。痛ぇ。知らねぇ。
感覚のない手足をムリヤリ動かして。泣きたくて叫びたくて、それでも立ち上がって。
救世主になりたいわけじゃない。
金も地位も要らない。
相変わらず神様なんて信じちゃいない。人間はもっと信じるに値しないと、改めて感じた。
ただ――。
魔導聖書は夏の夜に激しく輝く。
夏休み六日目。
俺は今日、たぶん生まれて初めて、他人からの『信頼』に応えたいと思った。