第3話__現れた彼
文字数 1,975文字
ドッと肩の力が抜けて、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われる。それは貧血のときのめまいにも似ていて、私は塀に背中を預けた。ふと我に返り、瀬名の方へと目を向ける。瀬名は、その手を硬く胸の前で握り、食い入るように私の脚を見つめていた。
「だ、大丈夫だよ、見た目は派手だけど、消毒して絆創膏とか」
「藍果」
瀬名は、こわばった顔で言葉を続ける。
「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物が擦れ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」
震える指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。スーパーのドアが開き、膨らんだ買い物バッグを持った親子が喋りながら出てくる。いつも通りの光景が、今の私にはぼやけて見えた。
横断歩道の向こうを見れば、信号の下段だけに青い光が灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。
「説明」
はっと顔を上げる。瀬名は、ポケットティッシュを差し出しながら、私のことをまっすぐに見ていた。
「明日、学校でしてよ。隠し事が気にくわないのは、本当だから」
じゃあね、と言って瀬名が塾へと走っていく。痛みがだんだん増してきて、スカートをそっとたくし上げた。思ったよりも傷がひどい。伝い落ちた血が、白い靴下を染めている。
とりあえず止血しなければならない。リュックの中を探ってみるが、ティッシュは残り一枚だった。申し訳ないが、瀬名に渡された分を使うしかなさそうだ。
「瀬名……」
そのポケットティッシュを見て、私は唇を噛み締めた。瀬名が渡してくれたのは、中身がいっぱいに詰まった未開封の新品だった。
夕食を終え、自室のベッドに腰掛けた。守り刀を隣に置けば、その重さでシーツが沈む。膝を抱え、腕の中に顔をうずめて目を閉じる。瞼の裏に映るのは、恐怖で凍りついた瀬名の表情。
家にたどり着いてすぐ、シャワーで傷口を洗い流して手当てをした。ロング丈のスカートで隠してはいるが、至るところにガーゼが貼ってある。さっきのことは、まだ家族には話していない。ありのまま話したって、そう簡単に信じてはもらえないだろう。どう伝えるべきか、もう少し考える時間が欲しかった。
目を閉じていると、時計の秒針の音がよく聞こえてくる。足の痛みは、時間が経つほどに酷くなっている気がした。まるで火箸でも当てられているように、傷口がじんじんとうずく。ガーゼを一つ外し、改めて状態を確認する。
「勘弁してよ……」
血と、かすかな膿のにおいが鼻をついた。犬の咬み傷にも似たそれは、かすり傷とは言い難い。毒や菌が無ければいいが。
私、朝まで生きてる?
いやもう、これまで普通に過ごしてきて、こんな心配をすることになるなんて思いもよらなかった。それに、大丈夫だったとして痕が残ることは間違いない。一箇所二箇所なら、まぁ、いいのだけれど。
足を伸ばし、スカートを膝上まで上げる。ガーゼの白が目にまぶしい。
ベッドの上に体を倒し、天井を眺める。朝までこうしていたところで、視界は何も変わらない。当たり前だ。
「説明、か」
思い浮かぶのは家族の顔。それから、私を捕らえて揺さぶるような、瀬名の熱く鋭い視線。
ゆっくりと息を吐いて、よし、と心を決めた。守り刀を手繰り寄せ、その刃を照明にかざしながら、そっと鞘を引き抜いていった。
あの蔦に襲われたとき、最初からこうすればよかったのだ。これまでの反応を考えると、多分瀬名にはあの子の姿も見えない。さっさと助けを求めていれば、瀬名を怖がらせることもなかった。
それなのに。
「あっ」
考え事をしていたせいか、手を滑らせてしまった。鞘から刃先が躍り出て、顔の上に落ちてくる。
サーッと頭から血の気が引いて、思いっきり首をひねった。この近さだ、避けきれるかどうか分からない。見るからに切れ味の良さそうなあの刀、耳くらいなら簡単に裂くだろう。いくら平常心じゃないにしたって、それくらいのことには気づいてほしい。強く目を閉じ、自分自身にうんざりしながら痛みを待つ。
「いい加減にしろ」
降ってきたのは刀ではなかった。ふぁさ、と少し硬めの布が顔を覆う。稲藁の匂いにも似た、どこか懐かしくほっとする香りがした。ぽす、と小さな音がして、守り刀が再びシーツに沈む。
薄花色の袖が払われ、目の前が明るくなる。私を覗 き込んでいたのは、水干に袴姿の男の子。右に寄せられた前髪が、薄い影を作っている。
「あ……」
こうして近くで見ると、顔の造形がよく分かる。細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や粘膜に差した赤みは不思議な色気を感じさせる。暗い茶色の虹彩には、金色の薄片がちらちらと混ざっていて。血色のいい唇を引き結び、少年は怒った顔で私のことを見下ろしていた。
「だ、大丈夫だよ、見た目は派手だけど、消毒して絆創膏とか」
「藍果」
瀬名は、こわばった顔で言葉を続ける。
「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物が擦れ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」
震える指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。スーパーのドアが開き、膨らんだ買い物バッグを持った親子が喋りながら出てくる。いつも通りの光景が、今の私にはぼやけて見えた。
横断歩道の向こうを見れば、信号の下段だけに青い光が灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。
「説明」
はっと顔を上げる。瀬名は、ポケットティッシュを差し出しながら、私のことをまっすぐに見ていた。
「明日、学校でしてよ。隠し事が気にくわないのは、本当だから」
じゃあね、と言って瀬名が塾へと走っていく。痛みがだんだん増してきて、スカートをそっとたくし上げた。思ったよりも傷がひどい。伝い落ちた血が、白い靴下を染めている。
とりあえず止血しなければならない。リュックの中を探ってみるが、ティッシュは残り一枚だった。申し訳ないが、瀬名に渡された分を使うしかなさそうだ。
「瀬名……」
そのポケットティッシュを見て、私は唇を噛み締めた。瀬名が渡してくれたのは、中身がいっぱいに詰まった未開封の新品だった。
夕食を終え、自室のベッドに腰掛けた。守り刀を隣に置けば、その重さでシーツが沈む。膝を抱え、腕の中に顔をうずめて目を閉じる。瞼の裏に映るのは、恐怖で凍りついた瀬名の表情。
家にたどり着いてすぐ、シャワーで傷口を洗い流して手当てをした。ロング丈のスカートで隠してはいるが、至るところにガーゼが貼ってある。さっきのことは、まだ家族には話していない。ありのまま話したって、そう簡単に信じてはもらえないだろう。どう伝えるべきか、もう少し考える時間が欲しかった。
目を閉じていると、時計の秒針の音がよく聞こえてくる。足の痛みは、時間が経つほどに酷くなっている気がした。まるで火箸でも当てられているように、傷口がじんじんとうずく。ガーゼを一つ外し、改めて状態を確認する。
「勘弁してよ……」
血と、かすかな膿のにおいが鼻をついた。犬の咬み傷にも似たそれは、かすり傷とは言い難い。毒や菌が無ければいいが。
私、朝まで生きてる?
いやもう、これまで普通に過ごしてきて、こんな心配をすることになるなんて思いもよらなかった。それに、大丈夫だったとして痕が残ることは間違いない。一箇所二箇所なら、まぁ、いいのだけれど。
足を伸ばし、スカートを膝上まで上げる。ガーゼの白が目にまぶしい。
ベッドの上に体を倒し、天井を眺める。朝までこうしていたところで、視界は何も変わらない。当たり前だ。
「説明、か」
思い浮かぶのは家族の顔。それから、私を捕らえて揺さぶるような、瀬名の熱く鋭い視線。
ゆっくりと息を吐いて、よし、と心を決めた。守り刀を手繰り寄せ、その刃を照明にかざしながら、そっと鞘を引き抜いていった。
あの蔦に襲われたとき、最初からこうすればよかったのだ。これまでの反応を考えると、多分瀬名にはあの子の姿も見えない。さっさと助けを求めていれば、瀬名を怖がらせることもなかった。
それなのに。
「あっ」
考え事をしていたせいか、手を滑らせてしまった。鞘から刃先が躍り出て、顔の上に落ちてくる。
サーッと頭から血の気が引いて、思いっきり首をひねった。この近さだ、避けきれるかどうか分からない。見るからに切れ味の良さそうなあの刀、耳くらいなら簡単に裂くだろう。いくら平常心じゃないにしたって、それくらいのことには気づいてほしい。強く目を閉じ、自分自身にうんざりしながら痛みを待つ。
「いい加減にしろ」
降ってきたのは刀ではなかった。ふぁさ、と少し硬めの布が顔を覆う。稲藁の匂いにも似た、どこか懐かしくほっとする香りがした。ぽす、と小さな音がして、守り刀が再びシーツに沈む。
薄花色の袖が払われ、目の前が明るくなる。私を
「あ……」
こうして近くで見ると、顔の造形がよく分かる。細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や粘膜に差した赤みは不思議な色気を感じさせる。暗い茶色の虹彩には、金色の薄片がちらちらと混ざっていて。血色のいい唇を引き結び、少年は怒った顔で私のことを見下ろしていた。