第1話__つかんだ手首
文字数 2,495文字
カツン、カンカンッ。
教科書の詰まったリュックを背負い、錆びた歩道橋の階段を一段飛ばしにに上がっていく。いつものように朝ギリギリで出発した私は、ロールパンをかじりながら先を急いでいた。
「はぁっ、もぐ、うんっ……と」
階段を上りきって、歩きながら水筒のフタを開けた。欄干の向こうに公園が見える。その一角の木には藤が絡んでいて、身を寄せ合った白い花がブドウの房のように垂れ下がっていた。冷えた麦茶を喉の奥に流し込む。ほんのり舌に残る甘さは、熱と一緒に消えてしまった。
高校二年、五月六日。先生は、今日までにオープンキャンパスの行き先を決めろと言う。けれど、私の手元にある申込用紙は白いまま。
抜ける風は軽やかで、どこまでも空っぽだった。そんな隙間に挟まるように、その少年は現れた。
「え……」
歩道橋の真ん中、欄干の上。七歳くらいの男の子が、そこに腰掛けてふらふらと足を遊ばせている。
「ねぇ、ちょっと。危ないよ」
声をかけてはみたものの、その子は私を振り向かない。そっと歩み寄りながら、彼の変わった装いをもう一度よく見直した。
古風な服だ。首元の詰まった、袖の長い和服は童水干というやつだろうか。その裾は白い袴の中にしまわれていて、腰には刀まで差している履 いていたのは、靴ではなく草鞋 。爪先の鼻緒から足の甲、足首へと、紐で編み上げるようにして足袋 の上からくくっている。
その子が、ひょい、と欄干の上で立ち上がった。淡い、薄花の青の袖が、風に煽られた帆のようにはためく。紐 でくくられ、首の辺りまで届く綺麗な黒髪が、色白のうなじをさらさらとくすぐった。
欄干に屋上の縁が。
その足元に、内履きシューズが重なって見えて。
「だ、だめ……」
あの子が次にすることを、多分私は知っていた。
喉がひりつき、鼓動が速くなる。嫌な汗が胸の間から腹へと伝い、私はリュックを捨てた。草鞋 から、わずかにその子の踵が浮く。
私にとって、今この場所は七年前の屋上だった。
「死んじゃだめ!」
ダッ、と駆け出して精一杯に手を伸ばす。あと少し。水干の袖がひるがえって、翠玉色の内着がのぞく。こんな変わった格好で、刀まで差していて、明らかに普通の子どもじゃない。
けれど、そんなことは関係なかった。
「待って……っ」
下を通る車の音、店のシャッターを上げる音。いつもなら聞こえる日常の音が、今の私にとっては遠い。足がもつれ、つんのめって転びそうになる。それでも私は、彼の手首をつかんだ。
つかむことが、できてしまった。
「はっ、はあ、ハァッ……」
つぅ、と頬に流れた汗が、輪郭 をたどって足元に落ちる。せいぜい二、三メートル走っただけなのに、なかなか動悸が収まらない。そして私は、手の中にあった
「そん、な」
つかんだ手首に、人肌の温もりはなかった。
かろうじて生ぬるいような気はするが、それだけだ。普通の人間の体温ではない。
おそるおそる顔を上げると、その少年はその少年は欄干に立ったまま、静かに私を見下ろしていた。湖面に張った氷のように冴えざえとした視線。黄金を削いだ欠片のようなきらめきが、瞳の中に散っている。キュ、と絞られた瞳孔はわずかに縦長で、それは虚 をつかれた蛇を思わせた。
「痛い」
「あ、ご、ごめんなさい」
手首を握る力を緩め、改めてその少年を見上げる。
頬の輪郭はまだ柔らかい。顔の右側には少し癖のある前髪がかかっており、後ろ髪の毛先にもくるりとウェーブがかかっている。目の縁には赤みが差しており、長いまつげがちらちらと影を落としていた。その声は幼いながらに気だるげで、私よりずっとずっと長く生きているように感じる。
「君も、何か僕に願いごと?」
「あ、いや、えっ、と……」
別に、お礼や見返りが欲しくて引き留めたわけじゃない。この子に死んで欲しくないと思って、それでこの子の手首をつかんだ。
その不思議な瞳を見つめ返す。まだ幼いが、見惚れるほどに整った顔だ。そんな中に、ひっそりと身を隠すような孤独がにじんでいる。
この子はこうして、願われ、叶え続けてきたのだろうか。そう思ったとき、私の答えは決まってしまった。
「私に、貴方の願いを教えて」
学校の方角から、始業のチャイムが聞こえてくる。完全に遅刻だ。今から走っても間に合わない。
「それが、君の願いごと?」
「うん」
少年は、私の言葉に瞬きを繰り返す。金の屑 が散った、綺麗な瞳が揺れている。彼は、ほんのりと赤い唇を遠慮がちに開いた。
「それは、叶えられない。せっかく声をかけてくれたのに、すまない……ただ」
少年は、欄干から降りて懐 を探った。水干と内着の間から、細長い、筒のようなものを取り出す。木製、長さは二十センチ前後、厚さは二センチほど。中心から少しずれた位置には切れ目が入っていて、その部分は金属で補強されている。
「これからしばらくは、日が落ちる前に帰れ。日没後には外に出るな。それができない時は、これを必ず持っていろ。何かに出くわしたら……」
少年は私の手を振り解き、その筒を両手で掴む。ぐ、と力を入れて引くと、そこに現れたのはスラリとした刀身。薄く、鏡にもなりそうなほどの刃が、日の光を反射して鋭く光った。
「この短刀は守 り刀 だ。この合わせを少し離して、もう一度納める」
金属の部分が合わさって、凛 、と澄んだ音がした。耳が洗われるような、スッと胸がすくような音。彼は私にその短刀を差し出し、半ば強引に握らせる。
「この守り刀の音を鳴らせば、たいていの害意は立ちどころに払える。それでも危険が去らなかったら、この刀を鞘 から完全に抜き去ってくれ。僕もその場に行く」
「えっ、あのっ、これ大事なものなんじゃ……」
「これ以上、僕に関わったらろくなことにならない。どうか、帰り道には気をつけて」
僕みたいになっちゃうかも、と彼は意味深なことを呟いた。私が足を踏み出す前に、その少年は跡形もなく姿を消す。
ハッと我に返って、落としたリュックを拾いに行った。欄干の向こう側、葉桜に絡みついた白い藤の房が、ざわざわと風に揺れていた。
教科書の詰まったリュックを背負い、錆びた歩道橋の階段を一段飛ばしにに上がっていく。いつものように朝ギリギリで出発した私は、ロールパンをかじりながら先を急いでいた。
「はぁっ、もぐ、うんっ……と」
階段を上りきって、歩きながら水筒のフタを開けた。欄干の向こうに公園が見える。その一角の木には藤が絡んでいて、身を寄せ合った白い花がブドウの房のように垂れ下がっていた。冷えた麦茶を喉の奥に流し込む。ほんのり舌に残る甘さは、熱と一緒に消えてしまった。
高校二年、五月六日。先生は、今日までにオープンキャンパスの行き先を決めろと言う。けれど、私の手元にある申込用紙は白いまま。
抜ける風は軽やかで、どこまでも空っぽだった。そんな隙間に挟まるように、その少年は現れた。
「え……」
歩道橋の真ん中、欄干の上。七歳くらいの男の子が、そこに腰掛けてふらふらと足を遊ばせている。
「ねぇ、ちょっと。危ないよ」
声をかけてはみたものの、その子は私を振り向かない。そっと歩み寄りながら、彼の変わった装いをもう一度よく見直した。
古風な服だ。首元の詰まった、袖の長い和服は童水干というやつだろうか。その裾は白い袴の中にしまわれていて、腰には刀まで差している
その子が、ひょい、と欄干の上で立ち上がった。淡い、薄花の青の袖が、風に煽られた帆のようにはためく。
欄干に屋上の縁が。
その足元に、内履きシューズが重なって見えて。
「だ、だめ……」
あの子が次にすることを、多分私は知っていた。
喉がひりつき、鼓動が速くなる。嫌な汗が胸の間から腹へと伝い、私はリュックを捨てた。
私にとって、今この場所は七年前の屋上だった。
「死んじゃだめ!」
ダッ、と駆け出して精一杯に手を伸ばす。あと少し。水干の袖がひるがえって、翠玉色の内着がのぞく。こんな変わった格好で、刀まで差していて、明らかに普通の子どもじゃない。
けれど、そんなことは関係なかった。
「待って……っ」
下を通る車の音、店のシャッターを上げる音。いつもなら聞こえる日常の音が、今の私にとっては遠い。足がもつれ、つんのめって転びそうになる。それでも私は、彼の手首をつかんだ。
つかむことが、できてしまった。
「はっ、はあ、ハァッ……」
つぅ、と頬に流れた汗が、
その事実
に気づく。あまりの衝撃で、周りの音が完全に消えた。「そん、な」
つかんだ手首に、人肌の温もりはなかった。
かろうじて生ぬるいような気はするが、それだけだ。普通の人間の体温ではない。
おそるおそる顔を上げると、その少年はその少年は欄干に立ったまま、静かに私を見下ろしていた。湖面に張った氷のように冴えざえとした視線。黄金を削いだ欠片のようなきらめきが、瞳の中に散っている。キュ、と絞られた瞳孔はわずかに縦長で、それは
「痛い」
「あ、ご、ごめんなさい」
手首を握る力を緩め、改めてその少年を見上げる。
頬の輪郭はまだ柔らかい。顔の右側には少し癖のある前髪がかかっており、後ろ髪の毛先にもくるりとウェーブがかかっている。目の縁には赤みが差しており、長いまつげがちらちらと影を落としていた。その声は幼いながらに気だるげで、私よりずっとずっと長く生きているように感じる。
「君も、何か僕に願いごと?」
「あ、いや、えっ、と……」
別に、お礼や見返りが欲しくて引き留めたわけじゃない。この子に死んで欲しくないと思って、それでこの子の手首をつかんだ。
その不思議な瞳を見つめ返す。まだ幼いが、見惚れるほどに整った顔だ。そんな中に、ひっそりと身を隠すような孤独がにじんでいる。
この子はこうして、願われ、叶え続けてきたのだろうか。そう思ったとき、私の答えは決まってしまった。
「私に、貴方の願いを教えて」
学校の方角から、始業のチャイムが聞こえてくる。完全に遅刻だ。今から走っても間に合わない。
「それが、君の願いごと?」
「うん」
少年は、私の言葉に瞬きを繰り返す。金の
「それは、叶えられない。せっかく声をかけてくれたのに、すまない……ただ」
少年は、欄干から降りて
「これからしばらくは、日が落ちる前に帰れ。日没後には外に出るな。それができない時は、これを必ず持っていろ。何かに出くわしたら……」
少年は私の手を振り解き、その筒を両手で掴む。ぐ、と力を入れて引くと、そこに現れたのはスラリとした刀身。薄く、鏡にもなりそうなほどの刃が、日の光を反射して鋭く光った。
「この短刀は
金属の部分が合わさって、
「この守り刀の音を鳴らせば、たいていの害意は立ちどころに払える。それでも危険が去らなかったら、この刀を
「えっ、あのっ、これ大事なものなんじゃ……」
「これ以上、僕に関わったらろくなことにならない。どうか、帰り道には気をつけて」
僕みたいになっちゃうかも、と彼は意味深なことを呟いた。私が足を踏み出す前に、その少年は跡形もなく姿を消す。
ハッと我に返って、落としたリュックを拾いに行った。欄干の向こう側、葉桜に絡みついた白い藤の房が、ざわざわと風に揺れていた。