第12話

文字数 2,015文字

 その後、私は学校に通わなくなった。このままだと出席日数が足りず、留年するのは避けられない。でも、あんなことがあったら、学校に行く気なんて起きないよ。学校の友達や理彩になんて言い訳をしようか。理彩やクラスメイトが心配して送ってくるLINEに既読をつけたまま、返信はしていない。今、頭にあるのは、一ノ瀬先生からの創作活動の指示と、忘れられた森の伝承にまつわる井戸の話だけだ。

 もしその井戸に願いを(たく)せるなら、私の祈りは叶うのだろうか。親は学校に行っていないことについて何も言わない。ケンカしたことに負い目を感じているのか、恥ずかしさを感じているのかはわからない。けれど、それは関係ない。現在の私にはあまり時間が残されていない。時間が経つほど状況は悪化するだろう。

 これには徹底的な準備が不可欠だ。忘れられた森と呼ばれているが、実際は単なる廃墟(はいきょ)に過ぎない。私はリュックサックにたくさんのサバイバル用品を詰め込んで、大きく深呼吸をした。
 
 私は少し落ち着きを取り戻し、数日前の出来事を振り返っていた。

 ふと頭に浮かんだ情景(じょうけい)が、自分の描いている絵と一致した。そして、その内容と全く同じことが書かれた本が近くの図書館にあった。

 ……これは一体、どういう状況なのか。特殊能力に目覚めたのか、それとも天使からのテレパシー? ……そんなはずはない。でも、出来事が関連していたのは間違いなかった。もしそうなら、私の絵に潜んでいた超常現象は「シンクロニシティ」として知られるものだ。学校の図書室にあった本によると、心理学者のカール・ユングが提唱(ていしょう)する「意味のある偶然」や「考えていたことが実際に起こる」という現象を体験したことについて述べていた。例えば、ある人物を思い浮かべたら偶然その人に街で会うとか、特定の情報について考えていたらそれに関連する本やテレビ番組に出会うことがこれに該当(がいとう)するという。この「思考が現実化する」現象は、心理学や脳科学の観点(かんてん)からも解釈されており、自分の思考が感情や行動に影響を与えている。すなわち、今後の私の選択が、この現実世界の結果を変えることになるのだろうか。こんなことをして良いのか神さまに聞いてみないとわからないけれど、この胸に湧く好奇心には、私の存在すべてが支配されるようだった。アダムとイヴを誘惑したような甘美な胸の高鳴りを止めることのできる者は、もはやこの世にはいない。私は、無人島で必要となるすべての道具を詰め終え、忘れられた廃墟へ向かう準備が整った。

 意気揚々(いきようよう)と家を飛び出した私は、耳にイヤホンを付け、スマートフォンの地図アプリを頼りに移動を始めた。終着点である「忘れられた森」までの道のりは遠く感じられたが、未知のものに出会う淡い期待が私を前へと進ませた。ナビの音声さえあれば間違いなく到着できるだろう。まるで子供に戻ったかのようだった。この無邪気な冒険心が、これから待ち受ける多くの試練を乗り越えさせてくれるに違いない。十分ほど歩いたところで、突然水が欲しくなった。……緊張しているのかもしれない。ここは無理せず水を一口飲むことにする。ゴールまでの道のりはあと二時間ほどだ。タクシーを使おうとも考えたが、学生の身分ではそれだけの大金を使うことはできなかった。家が貧しく大変な思いをしている中で、そんな贅沢は許されない。それよりも、「忘れられた森」にあるという古びた井戸が、本当に願いを叶える力を持っているのだろうか。この旅の本題はそこにある。もし本に書かれていたことがただのデマで、そして私に起こった超常現象が単なる偶然だったとすれば、今回の旅は無意味となるだろう。しかし、そんな疑問を神さまに聞いても答えてくれる訳がない。それよりも自分の目で確かめる方がいい。これは一種の()けに近かった。真実というものは、九十九パーセントの嘘の上に成り立っているのだからこそ追求する価値がある……そう考えながら歩いていると、胸の鼓動(こどう)が耳にまで響くようだった。やはり緊張していたのだ。

 ――

 没頭して歩いているうちにとうとう目的地に近づいていた。ここからが本番だ。「立ち入り禁止」の看板を無視し、森の中に入ると、カラスの鳴き声が上空から聞こえてきた。彼らがこの森を住処としているのだろうか。「失礼します……」と小声でつぶやいたが、誰にも聞こえていることはないだろう。日の落ちる前に探索(たんさく)を終える必要がある。慎重にさらに進んでいくと、足下で木の枝がパキパキと折れる音がした。これも整備されていない証拠だ。

 五感が(するど)くなっているのだろうか、《霞……よく来たね》という声が聞こえるように感じた。声の主が誰なのかはわからなかったが、天使であってほしいという願望が心に浮かぶうちはまだ大丈夫のはずだ。この余裕のまま一気に探索を終えてしまおう……そう考えた私は、愛用のトレッキングブーツを履いて(いさ)み足で森の奥深くへと歩を進めていった。
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