新たな登場人物も、それぞれの物語が紡がれる

文字数 10,920文字

第十一話
 お線香の香りだ。橘美月は床に入ってはじめて気付いた。郷里の祖父母の家に染みついている。懐かしい。祖父母もクリスチャンだけど床の間には仏式の位牌がありお線香を焚く。祖父母の代までは村人が死ねば近くの村にある寺で葬儀が行われた。仏式で焼いてお骨までにはしたようだ。
 潜伏キリシタンのことを地元の人は「カクレ」と呼ぶ。それは独特な葬儀習慣から来るものだ。長く続いたキリスト教禁教令に対抗するためにキリシタンの村民は独特な葬儀供養式を編み出した。
 日本では寺請制度が敷かれ国民は仏教寺院の檀家であることを義務付けられた。反すれば容赦ない拷問があり無理やり改宗を強いられていた。だから「カクレ」は表面上は何食わぬ顔で仏式の葬儀供養式をあげた。
 けれどその後が凄い。執念とも呼ぶべきか。お骨の前にして「経消し」という独特の儀式をあげた。仏教の経文の法力をキリスト教の聖書の力で粉砕してしまおうというのだ。
 ひと昔前では「釈迦の言葉」「イエスの言葉」はそれだけ強力なものと意識されていたのだろう。「経消し」のあとの遺骨は寺の墓地には埋葬せずに代々村に伝わる供養の場所に埋める。墓石には十字を記せば役人によって打ち壊されてしまうのでの四角い真っ新な石をおく。氏名も洗礼名もない。ただの石。詮索されることがないように。
 この習俗は美月の祖父母の代まで続いていた。時代は替わり宗教の自由が保障されたが、もうその身に沁みついてしまっていたのだ。祖父母の家にはマリア観音の隣りに仏式の位牌がありお線香を焚いていた。
 お祖母ちゃんは毎日、こうしてマリア観音さんにお詣りしていると佳い事があると口癖のように言ってたっけ。けど五十五歳のお祖母ちゃんは乳癌で呆気なく死んでしまった。マリアさんは当てにならない。ボロボロと泪を流す母親を見てそう思った。
 大人に成るにつれマリアさんや教会はまったく無縁となった。キラキラしたモノが山のように溢れていた。別にマリアさんに拝むずとも欲しい物はお金を出せば手に入る。自分を表現するファッション、お気に入りの化粧品、お好みの日用品。
 イケメン細マチョの彼だって容易く手に入った。バリスタの頃は毎日が七色にもときめいて眠るのが惜しい気がした。そんなだから、お祖母ちゃんの形見の品、ロザリオ替わりのあの黒い石もいつしか意識の外にあるようになった。
 そうそう日曜日には家族全員で教会に行った。みんなどうして教会に行くんだろう?「無事毎日が平穏でありますように。主のご加護を」これが標準的な文言かな。一応「マリアさん、イエスさん」にお願いするんだ。けれど自分が不幸になるなんて誰も予想はしないよ。そんなことは在ってはならないと誰だって思うよ。
 解放感からか久しぶりに美月は熟睡した。最近はテレビもつけっぱ。怖くて灯りや音無しでは寝られない。朝陽が窓辺にオレンジの彩りを付ける頃、美月は飛び起きて境内を見た。
 マーハが赤いヒジャブと濃紺の作務衣、素足に下駄姿で掃き掃除をしていた。シャッシャッと箒が小気味よい音を立てる。あっという間に足元が落ちた木の葉で埋め尽くされる。
 それを見て美月はホッとした。ユメじゃなかったんだ。ヨカッタ。それは生れてはじめて何かに縋り付きたいと思った瞬間だった。
 美月はそれからマーハと朝食を共にし寺での作務を手伝った。本堂の木の床を雑巾で拭き清める。マーハに習って美月も素足で床を蹴った。素足が床にこすれる感覚が妙に心地良かった。
 その日の午後〇宗の顧問弁護士が早速来てくれた。本堂で出迎えた。やはりマーハの着替えは大き過ぎる。ジーンズはどこかを摘まんでないと滑り落ちてしまう。それを見たマーハが可笑しそうに微笑む。
 〇市の警察、市役所は隣り合っている。弁護士に言われたように警察には運転免許証を金融業者(個人かも)に盗られたと被害届を提出した。また隣の市役所には生活保護の申請に出向いた。ケースワーカーは女性で親身に応対してくれた。今のアパートは危険があるので退去し一乗寺の庫裡に住む形をとる。〇市の規定四万七千円以下で新しい賃貸物件を探すように言われた。また緊急支援金として二十万円を貸し付けてくれた。無一文同然の美月には本当に有難かった。
 早速その足でスマホを新調し賃貸物件を探し歩いた。衣類もユニクロで調達した。夕方、お礼のケーキを持って一乗寺に戻った。「お化粧地蔵」の前でマーハはしゃがんで居た。お供えのお花を境内に咲き乱れる曼殊沙華に替えたようだ。地蔵さんの顔には今日も真新しいオシロイが塗ってあった。
 美月を見つけるとマーハは笑顔で大きな両腕を拡げた。美月はその中に飛び込んだ。涙はとめどなかった。こんなに泣いたのは小学生の時、茶トラの子猫ロンが交通事故で死んだとき以来かな。
 今夜の晩御飯も一汁三菜と質素ながらも美月のケーキ付き。食べ物がこんなに美味しいなんて知らなかった。美月が食べ物を一箸ずつ愛おしそうに摘まむのを見てマーハが、
「私の祖国ミャンマーではつい最近までこれが一日分の食事でした」
 そっかー。マーハはミャンマーの人なんだぁ。
「私の民族ロヒンギャはその日の飲水を汲んで来るのに半日かかります。それが子供と女の仕事」
 美月はびっくりした。日本に留学するぐらいだからお金持ちなのかと思ってた。
「今のロヒンギャに金持ちはいません。みな住む家にも不自由しています」
 美月は自分の無知を恥じた。世界を見渡せば困っている人は星の数ほど居るんだ。
「美月の今の心を大事にしてください」
 マーハは他人の心が読めるのではないかと美月は思う。「お化粧地蔵」での出会いからしてそうだ。マーハの不思議な力によって私はドス黒い沼の底から這い出てようやく再生しようとしている。
「美月はこれからどうしますか? 」美月はすでにやりたい事を見つけていた。
「私はこれから懸命に働いて、人助けをしようと思います。昨日までの私みたいな女子を大勢援けたい」
 マーハは大きく頷いた。折しも近くの遊園地の打ち上げ花火があがり二人は並んで夜空を見上げた。
 ほどなくして新居が見つかり一乗寺の庫裡を離れる時が来た。
「本当にありがとうございました」美月は深く深く頭を垂れた。
「美月なら出来るよ。頑張って! 」
 マーハは参道を去り行く美月をいつまでも見送ってくれた。その時一瞬南風が勢いを増した。マーハの黒いヒジャブが宙に舞った。現れたのは豊かな亜麻色のロン毛。
 マーハ、薄茶色の瞳、艶やかな髪、グラマラスな体型。はじめて尼僧に違和感を感じた。
 一体何者?
 埼玉地方裁判所川越支部で橘美月の自己破産の申し立てがなされ異議を申し立てる債務者が不在のため決定と相成った。これで消費者金融を始めとする金融機関の債務は無くなった。例の悪辣な個人間融資者が現れるのを美月は裁判所の一室でジッと待った。ふざけるな! と怒鳴りつけてやりたかった。同席の弁護士は決して表に出る連中ではないと定刻を過ぎても席を立たない美月を促した。
 また美月は営業を再開した大手カフェチェーンにバリスタとして臨時雇用された。手渡されたシフト表からざっと月額給与を計算してみる。十三万円を超えていれば生活保護から外れなくてはならない。ギリギリのところ。でも他に個人経営のカフェ店からバリスタの技術スタッフのバイトも頼まれている。臨時支給金二十万円を月五千円ずつ返済したとしてもこれなら大丈夫。美月は思い切って生活保護を外れることにする。
 美月にはやりたい事がある。マーハと一乗寺の住職からの宿題だ。性を強要される女子を援ける。まずは「お化粧地蔵」の歴史を調べてみた。美月の学業成績は普通。暗記力が試される日本史は苦手の分野。
 マーハは始まりは江戸時代と言っていた。江戸時代の〇市付近の歴史を調べてみる。いざ繙いてみると全てが目新しく驚きの連続だった。埼玉県とは映画「翔んで埼玉」で揶揄されるように何もないダサい処だと思い込んでいた。
 ところが江戸期の〇市付近、特に川越は「大江戸」の足元を支える巨大な礎だった。幕府は江戸の台所を満たす為に食糧の確保とその運送手段を模索していた。そこで見出されたのが新河岸川舟運。
 元々甲州・信州・多摩からの物資の集約地だった処に大規模な運河を造成し荒川~隅田川に直結させた。いわゆる「小江戸」の始まり。巨大な胃袋を満たす食糧は「小江戸」から「大江戸」へ運ぶ。
 「小江戸」は賑わった。そこには必ずおきまりの遊郭が存在する。置屋が営まれ遊女が常時百人はいたそうだ。彼女たちは近在の貧しい農家の女子で僅かな金で身売りされて来る。
 十歳満たない時分から奉公と称し料亭・待合・茶屋で下働きをする。そして初潮を迎えるとそこの遊女となる。遊女から抜け出す唯一の方法は旦那に見受けして貰うこと(裕福な商人のお妾になること)。逃げ出す者もいるが大抵は親族に類が及ぶことを怖れる。だから年季が明ける(歳をとる)までジッと堪える。こんなやるせない宿命を背負った遊女たちの縋るよすがとしてみ仏は存在した。
 〇市は川越の隣り街。噂を聞いた遊女たちは地蔵さんに儚い願いを託した。美月は一乗寺の庫裡で突然何かに縋りたい気持ちになったことを思い出していた。遊女たちはきっとあの時の私の気持ちなんだ。
 当時の寺は女人禁制。だから「お化粧地蔵」は寺の外壁沿いに置かれてある。当時を物語る「酒井家文書」には切羽詰まった遊女たちの元に突如として現れたという。その後願掛けに訪れる遊女は跡を絶たなくなった。そして誰云うともなく「お化粧地蔵」となった。
 また別の逸話もある。江戸中期のこと一乗寺の近くに「沢」と呼ばれる部落があった。その村に一宇と萩と云う名の幼馴染がいた。二人は物心つくと互いを意識し始めた。この時代「好き」「愛してる」という概念は人様に表すものではない。二人は互いを見つめ合っては顔を赤らめる仲となった。
 歳は一宇がひとつ上。お武家ではないが豪氏という家系の三男。家は継げないので一乗寺に僧になるための修行に出される。僧は浮世とは決別し厳格な戒律のなか妻帯も「女犯」と断ぜられる悟りの世界の住人。

 萩は貧しい農家の三女。次女まではなんとか近在の村に嫁がせたがここ数年の飢饉で川越の両替商に借金を作った。その支払い期限を前に両親は涙ながらに川越の置屋への奉公話しを打ち明け始めた。一宇と萩、二人に残された猶予は三月ほど。
 萩は一目一宇に遭いたかった。しかし農繁期ということもありなかなか実現出来ない。一度だけ村を通る街道で僧衣に身を包んだ一宇と出くわした。しかし一宇には和尚さんが一緒だった。萩は何とか一宇にお別れを言いたかった。
 一宇は萩が遊郭に出されるとはツユほども知らない。いつものように顔を赤らめるだけだった。離れ際、萩は思い切って声を出した。けれど答えたのは和尚の方だった。「何かな? 」そう言われては黙らざるを得ない。「いえっ」と言い残し去って行く萩の姿を一宇はいつまでも見送っていた。
 そして萩の奉公の日。秋雨の上がった朝、一宇は門前を掃除している。ふと足元の竹筒に眼を止める。そこには小さな白い萩が溢れる小枝がひと挿し。一宇は萩の運命にようやく気付く。(この話しには後述段がある。一宇はその後一乗寺の僧侶となり白と紅色の萩を境内所狭しと植えた。萩への精一杯の思いを込めて。一乗寺は今でも『萩の寺』と言われる。)
 この逸話から最初に一乗寺のお地蔵さんにオシロイを塗ったのは萩さんとも云われる。何とも切ないお話し。
 美月はフェイスブックに「お化粧地蔵」のページを立ち上げた。萩と一宇の話しを載せ、また自分の体験談を記述し、いまこの時にも性を強要されている女性たちにメッセージをくれるよう促した。
 自分と同じ目にあった女子はたくさんいるはず。コロナ禍では間違いなく激増している。アクセスしてくれれば的確に助言できる。お世話になった弁護士さんも協力を申し出てくれた。声を手を上げさえしてくれれば必ず救ってみせる。美月は決意した。
 いつしか祖母の形見の黒い石も美月の心の中では「お化粧地蔵」と同じように重たいものにまた変化していた。
 一週間もするとアクセスは増え始めた。自分と全く同じコロナ禍での個人間融資による性被害者は実に多かった。美月は一人一人と丁寧にメッセージを交換し必要ならば実際に会って被害を確認し取るべき行動を指南した。メッセージを寄せる相手は必至。それは美月にはよく分かる。だからバリスタでの勤務中でもスマホで応対した。幸い店主は美月の社会貢献活動に理解を示してくれた。
 それでも事件は起きた。メッセージの内容は「パパ活」中のトラブルだった。コロナ禍でバイト先を失った十八歳の女子は美貌を売りに「パパ活」した。「パパ活」とは財政が豊かな男性に生活援助を仰ぐもの。その内容には性行為は含まれない。せいぜい食事とか買い物、映画だけ。恐らく大枚叩いたパパが怒ったのだ。
 「美人局」で警察に訴えると騒ぎ出す。美月はこの場合の対処法を知らない。だから弁護士を紹介しようとした。ところがだ。パパがどういう訳か美月を共犯者と勘違いし「特定屋」を使い美月の働き先を見つけた。そして「半グレ」を雇ってカフェのウィンドウめがけて石を投げつけた。もちろん美月はこの事件の当事者ではない。けれどカフェには居られなくなった。「トラブル」に首を突っ込むことの難しさを痛感した出来事。
 以前のような弱い美月ではない。マーハとの約束だ。美月は難なく替わりとなるスーパーでのバイトを見つけた。人生、正しい「やりがい」を見つければ何とかなるものなんじゃないか。そんな風に考えられるユトリさえ生れていた。
 最初にメッセージをくれた女子からお礼のトークを受け取った。非道な悪党どもから解放され新たな仕事場も見つかったそう。素直に嬉しかった。ツイッターにも美月の活動が称賛された。
 どんな些細な事でも「お化粧地蔵」にメッセージを寄せて欲しい。「被害に遭わないで。被害に遭っても諦めないで。必ずやり直せる! 」
 けれど相談件数が増えるたびにもどかしさも募って行った。被害女性にはすぐに立ち直るための資金が必要。当面の生活費に弁護士費用。自分にはマーハという受け皿があった。その場所で立ち直る気力を養えた。事実弁護士費用はマーハ持ち。(マーハは一乗寺から出して貰っていると言っていたが)
 私は受け皿にならないといけないんだ。何と言ってもそれが一番の手助けになる。当面の生活費三十万円と弁護士費用の二十万円。計五十万円を無期限無利息で融資してあげられれば最高。どんな慰めの言葉よりも市役所からの二十万円が有難かった。身に染みている。どこかに大本の資金があれば佳いのに。
 美月はそんな風にも考えるようになっていた。自分では手に余る。ここはマーハと梨恵住職に相談してみるか。
 さてさてそんな折一通のメッセージがあった。相手は、五十絡みの夫婦からのものだった。相談の内容は次のようなもの。
 はじめまして。あなたの活動に敬意を表します。弱者には本当に助けになると思います。これからの活躍をお祈りしております。
 ここで私どもの娘のことを申し上げるのはいささか状況が違うのかとも思いますが、他に相談する処もなく、同じ若い女性のことですので、少しでもお分かりになることがあれば教えて頂きたいと存じます。
 私どものひとり娘、真奈が〇市にある「教団えにし」に勧誘され行方不明になってからもう半年になります。真奈は何か事があると自分に責任があると考えたり、何か頼まれると断れないような優しい性格の子で、今回のことも多分騙されているのだと思います。携帯は取り上げられており、教団に何度も電話しましたが取次ぎを断られ、弁護士さんにお願いするも先方も弁護士で対処される有り様。もうどうしたらよいのか。
 ふーん。親御さんの住所は青森県となっていた。遠方から出て来てもアッサリ断られては何にもならない。それはよく分かる。まぁ、無駄だとは思うが一度教団に出向いてその様子などを報告してあげるか。どんな処に居るのかを伝えるだけでもご両親は安心されるはず。
 美月は、自分では埒が明かないとは思いますが、一度教団に出向き、その様子をお知らせします、と返信した。
 折しも中秋の名月が見上げる窓の上にかかり、少し冷たい風に両腕をさすりながら窓を閉めカーテンをひいた。

第十二話
 処は一乗寺の本堂、梨恵とマーハは日課の掃除をしていた。だだっ広い空間のことすぐに埃が溜まる。さらに黒漆造りは寺院には欠かせない。黒地に白い埃は目立つのだよ。
 梨恵は茶と紺の格子縞のロングのワイドパンツに白のオーバーブラウス。頭にはグレーのヒジャブを被る。これはマーハから学んだ。尼頭巾よりは頭が軽い。マーハはいつものオレンジの作務衣姿。ただ足元は動き易いように白のスニーカーを履く。
「いっそのこと神社のように白木造りに替えちゃおうかしら。友達の神主はそんなに埃は目立たないと云ってたわ」
 梨恵は住職らしからぬ物騒なことを言う。マーハは力強く雑巾を動かしながら、「これも修行なのですよ」と笑った。梨恵をいさめるいつものフレーズだ。耳タコになっている。梨恵の額にはうっすらと汗が滲む。
「はいはい。了解でーす。あ、そうだ、美月ちゃんのフェイスブック見たわよ。例の被害女性を救う活動は順調のようだわ。フォロワー数も一万近くになってた。マーハはSNSなんかやらないか」
 マーハはバケツで雑巾を絞りながら、
「はい、見ません。でも、美月のことは分かります。本当に強い子になりました」
 マーハ満足そうだ。
「ゴータの時代にも女子は弱い立場でした」
 マーハは話し始めた。
 その頃は当然のことながら、現代より一層女性蔑視の社会風潮でした。王族のことは分かりませんので巷間のことです。女は子供を産む道具。男の欲求を果たす玩具のようでした。
 教育も受けられず子供が産める歳になると商品のように売られます。その掟から逃れると娼婦でしか生きていけません。三十代が平均寿命でしたから娼婦と云ってもそう永くは続けていけません。歳をとった娼婦たちは自然と街の外れに集まり来るべく死を待っていました。その数は多かったです。
 街の外れとは他部族との戦争が始まれば真っ先に被害を出す場所。国はワザとそんな場所を用意したのかもしれません。人間の盾としてです。
 一方、もうその頃ゴータの元には毎日多彩な人々が集まって来ました。お腹を空かせて食べ物を貰いに来る者。病気で薬草を求める者。困りごとを相談に来る者。生きるための教えを請う者。時には女も来るようになりました。性奴隷たちです。彼女たちは奴隷の中でも一番立場が弱かった。
 同性ならば理解できます。誰だって好きで男に身体を許しません。穢れが纏わりついて心が蝕まれます。女たちはただ救いの言葉が欲しいのです。ゴータは優し気に両腕を取り「いつまでもこんな苦しみは続かない。安らいだ世界が待っている」と慰めました。その言葉だけで女たちは魂が抜けたようにその場に蹲り放心していました。
 その頃、ゴータの周りには弟子と称する人々がうろつくようになりました。ゴータには弟子などいません。行動を共にした八人の仲間たち。だから弟子とは嘘っぱちです。弟子と云えば人々から一目置かれる。偉ぶりたいそんな人たちです。
 彼らは、性奴隷が近づこうものなら棒で叩いて追い返していました。ある日事件が起きました。一人の女がその男を本当のゴータの弟子だと思ったのでしょう。いくら叩かれても男の足元に這いつくばり履物を嘗め始めました。親愛の情を示しゴータに取り次いで貰いたかったのです。
 男はますます気に障ったのでしょう。棒に力を込めて頭を殴り女は死んでしまいました。遺体を引き取りに来た仲間の性奴隷たちは、ゴータに救いの言葉を貰いたかっただけだと嘆きました。その話しを耳にしたゴータはひとつの処に留まることを止めました。
 定住したから尊い命が失われた。居場所が分からなければ人々は集まりようがない。(私は嬉しかった。またゴータと旅が出来る)
「うーんでも釈迦って奥さん三人も居て子供もいたんじゃなかったっけ? 」
 梨恵らしい言葉。あまりに綺麗ごとばかりだと信用出来ない。人間ならば誰しも負の部分が少なからずある。この話しも「ジャータカ」に載っているんじゃない?
「はい、すいません。私は皇太子として育った城から外に出たゴータのことしか知りません。それまでは悪党だったのかもと思うことはあります。人は犯した罪を償おうとする。噂のひとつにゴータとはいくつかの国同士の戦いで九十九人を殺した悪鬼のような武人と云うのがありましたから」
 マーハは動かしていた雑巾を止め、
「ゴータに近づいた性奴隷の中で、たぶんあの人、アンバパーリーだけはゴータを恨んだと思います」
「アンバパーリー? 誰それ? 」
 話しが面白くなってきた。生きた話しが聞けそうだ。梨恵も手を止めマーハを見つめた。
 バラモン教の司祭屋敷の傍らの砂丘に裸身で倒れていた性奴隷です。ゴータは水と食べ物を与えました。正気に戻った女は見事な金髪に緑色の瞳が麗しい姿形も佳い美女でした。そんな美女が捨てられていた理由―それは彼女の臍下を見れば理解出来ました。十字型の大きな痣があったのです。十字はバラモン教が光の力を弱めると忌み嫌う印です。ゴータは仲間うちに彼女を加えました。それがアンバパーリー。彼女の名前。
 彼女とゴータは因縁で結ばれているように八人の仲間たちは感じました。二人が並んでいると妙にしっくりする。そんなカップルって居るでしょう? だからゴータは彼女を仲間に入れた。彼女はゴータのことを知らなかった。だからゴータを次の主人と思ったのでしょう。奴隷のような振る舞いを始めました。身の回りのことをあれこれと。ゴータは当初遠ざけていましたが、あまりに執拗なので段々となすがままにさせていました。
 次の次の春が来る頃ゴータ一行に困った事態が起こりました。ある国が野盗に襲われ執政官が囚われました。野党たちは街に入りたくば貢物を寄こせと要求しました。街には飢えたヒト病に罹ったヒトが沢山います。と云ってもゴータには何もありません。
 一日悩んだ挙句ゴータはアンバパーリーを貢物として差し出しました。野党に攫われていく彼女の緑色の瞳の輝きを今でも忘れられません。野党はそののち他の国の軍隊によって殺されました。けれどアンバパーリーは見つかりません。
 彼女の魂はゴータを憎み続けると仲間は思いました。ゴータは彼女を見つけた砂丘に樹の柱を立て、彼女の名前と痣の十字を記しました。いつまでも帰りを待っていると自戒を込めて。
「彼女の正確な名前、それはユン・アンバパーリー」
 梨恵の瞳は翡翠色に輝いていた。マーハをその瞳を見て、
「やはり覚醒していたんですね。すいません。確証がなかったもので」
「いえ、いいのよ。いまでも記憶は途切れ途切れ。急に何もかも思い出すこともあれば、ごっそり抜け落ちている記憶もある。でもマーハ、野盗に身を委ねたのは私の意思でもあった。ゴータだけのせいではないわ。あの時、盗賊への貢物は私しかないのは誰にでも分かってたことでしょう。私は性奴隷。(梨恵の心は沈んでいる)仕方がないこと。ゴータとあなたたちと共にした三年間は生涯で一番輝いていた時。赤茶の瞳のマーハ、あなたのこともよく覚えている。一緒に親を亡くした子供たちの世話をしたわよねぇ。子供たちの倖せな笑い声、今でも忘れない」
 マーハは泪を浮かべている。
「それじゃ、白い沙羅の華・ウッパラヴァンナーのことも? 」
「ええ、思い出したわ。私たち仲良し三人組だった。よく一番年長の爺さん、アーナンダに呆れられた。お前たちは喋り通しだ。よく喋ることがあるな、とね」
 マーハの泪はもはや止め処がなかった。それは二千五百年の時を超えた邂逅だった。しばし同じシーンを思い浮かべて話しに華が咲く。
 と、正門の外で声がした。蒼井空の声、
「梨恵さん、居ますか? 」
 梨恵はしばらく続いたマーハとの話しを止めて、空を招き入れた。
 空は淡いピンクのスカートにテッドが中央に居座る白地のパーカー姿。少し背が伸びた気がする。ちょうど育ち盛りに差し掛かる。
「ネコちゃんの世話に来たんでしょう。あれ、モモは? 」
「はい、モモはネコ小屋に居ます」
 空はマーハに気付き頭を下げる。
「そっかー、オモチとアズキはワンコと仲良しだもんね。一緒に居るんだ」
 梨恵は空に笑いかける。空はしばらくネコたちやモモの話しをしていたが、意を決したように言葉を改めた、
「あのう、梨恵さん、わたし、経蔵の鬼に頼まれたんです」
 梨恵は言葉の意味を理解出来ないでいたが、空はヒカワヒメや釈迦のモノローグを口にするような子だ。異世界のモノが見えてもオカシクはないだろう。
「うん、分かった。何を頼まれたの? 」
 梨恵は真剣な口調で訊いた。空は安心したように鬼たちとの会話を話し始めた。
「分かったわ。これから経蔵に行きましょう! 」
 梨恵は手早く身支度を整え、マーハに庫裡から一握りの米粒を取りに行かせた。ほどなく三人は経蔵に向う。
 梨恵が経蔵に入ると左右の壁の絵が蠢く。まるでアニメ映画のようだ。
「これは本物の住職じゃで」「まだ若い、小娘じゃが」「あまり肉はついてないのう」アニメたちは勝手なことを喋り出す。
 梨恵はコロナ禍以前に「大蔵経一千巻」が置かれていた経蔵中央に立ち、
「私は一乗寺第二十七代住職白神梨恵である。何用か? 」
 声は有無を言わせぬ迫力があり、同時に梨恵の瞳は翡翠色に輝く。
「確かにそちらに居る子に頼んだ。アンタが本物ならワシらを成仏させてくれる。アンタはホトケじゃがか? 」
「成仏の見返りにくれる話しとは何か。それ次第による! 」
 アニメの鬼たちはざわつく、
「分かった、アンタの翡翠の瞳は人間じゃながな」
 アニメの中でも一番グロテスクな鬼が代表して、この近くに鎮座するスサノオノミコト愛用の剣「天羽々斬(アメノハバキリ)」に纏わる神話とそれを採り出そうと企む伴天連の鬼たちの話しをした。江戸訛りで分かりずらい箇所もあったが概要はつかめた。梨恵はマーハと目配せをした。
 話し終わると鬼たちの体中に描かれた真っ赤な血の色が薄いピンク色に変化したように見えた。
「汝らを黄泉に送る! アハン・サンカルパ・シャーンティ・ダーナ! 」
 (ゴータが数多の餓死者の前でしていたことを梨恵は思い出していた)
 梨恵はすかさず、右手に握っていた米粒を鬼たちに向って投げつけた。すると米粒は白く輝く見事な白米に変じ鬼たちの口に吸い込まれて行く。
 すると、壁から極彩色に描かれた鬼たちの絵が消えていく。やがて白地の壁に替わった。

第十三話に続きます
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み