『 感電 』 ルシフェルの陰謀

文字数 13,238文字

第一話
 菊池夏樹は対潜哨戒機P3-Cで通常任務に就いていた。尖閣諸島を目視で捉えながらMAD(磁気探知装置)と呼ばれる探査装置を見つめている。
「空佐、ロメオ(北朝鮮の潜水艦)がいますよ」
 突然一等空士が叫んだ。
「あー、まただ」
 夏樹は空士に手を挙げた。見過ごして悪いと云う合図。
 最近常にオカシナ感覚が脳の奥底に張り付いている。悪夢を見て、目覚めて「佳かった! ホントのことじゃないんだ」とホッとする。緊張と安堵。その繰り返し。
 悪夢とは中国人民解放軍に尖閣諸島、西表島までを占拠され沖縄本島も時間の問題というもの。本機も哨戒活動中に被弾。結果、後方支援に廻されることになる。帰宅後のTVニュースでは「台湾も中国からの侵略の危機、北朝鮮軍38度線を越境、ロシア軍、東欧に侵攻」と速報が流れる。
 第三次世界大戦勃発は必至。けれど次の記憶ではすべて元通り。第三次世界大戦などは消え失せた。現に翌朝、夏樹は厚木基地に愛車で向かっている。どうなっている。いくら喚いたところで中国人民解放軍は平事の行動。北朝鮮、ロシアにも変化は見られない。でも記憶の切れ端が今でも残っている。それが時々疼く。
「まるで魔法に遭ったようだ」
 夏樹は「魔法の会」の会長。魔法の専門家だ。仮説を立ててみる。何者かが魔法のひとつ「忘却術」「記憶修正術」をかける。しかし、今回のは魔法をかける相手が世界中の人間になってしまう。仮にこれが出来たとしても事実は事実として残る。理由は忘れたけれど、戦争は起こっている状態になるはずなのだ。
 では、「クロノマジック(時空魔法)」を掛けたのか? 今回の場合は時間軸を三日ほど前にズラす。それで戦争はなかったことに出来る。
 でも三日経てばまた同じことが起こるんじゃないの? いや、そうとは言い切れない。何事にも因と果なるものが存在する。だから今回は因を正常なものに修正する。それで果である戦争が起こらなかった。こう考えるのが自然だ。
 ただこの魔法は歴史上の事件には使えない。後の歴史が変わってしまうから。時を司る神クロノスがそれを許さない。
 ふーむ。これだけ大掛かりな魔法を扱えるのはやはり神か。またしても四国の老僧の言葉が蘇る。「神のみ業を弄ぶのに神を信じなきゃいかん」
 この日、南沙諸島(スプラトリー諸島)に向う複数の中国の「094型原子力潜水艦」を捉えた。その直後に中国本土から弾道ミサイルが発射されたと「イージス艦まや」から連絡が入った。
 「空母キラー」「グァム(アメリカ軍基地がある)キラー」と呼ばれる弾道ミサイルのこと。一時緊張が走った。時間軸が動かされて今度は戦闘の舞台が南シナ海に移ったのかもしれない。そう思ったのは夏樹だけだが。他の搭乗員はみな第三次世界大戦のことは忘却の彼方。「本機も被弾したじゃないか! 」そんなことを言ったって相手にされない。
 結局のところ、この弾道ミサイル発射情報は米軍からの誤情報だった可能性が高い。証拠に最新鋭「イージス艦まや」は弾道ミサイルの航跡を現実には捉えていない。最近の米軍は様子が変だ。各地の作戦に支障を来すような大量のコロナ罹患者を出したり、アフガニスタンからの撤退作戦にしても、どう見てもベトナム戦争の二の舞、七百兆円の戦費と二万二千人の死傷者を出した挙句のただの敗走にしか映らない。米国を後ろ盾とする同盟国には暗雲が立ち込める。
 今ではもはや世界の警察ではないと自他ともに認められる存在となった。その背景にはグラつく政治体制がある。自国主義を唱えたり国際協調に戻ったり。今後どちらに傾いてもおかしくない。誰にも予測できない。そうさせているのはどうも情報操作であるように夏樹には思える。フェイクニュースという奴だ。どっちが本当でどちらが嘘か、誰にも分からなくしている。
「Qアノン」陰謀論はその代表。世界規模の児童買春組織を運営している悪魔崇拝者・小児性愛者・人肉嗜食者の秘密結社が世の中に存在し、目下の処ドナルド・トランプがこの秘密結社と闘っている唯一の英雄であるとする。その英雄は「救世主」とも位置付けられてもいる。だから将来、「救世主」が現れ世界を牛耳るかもしれない。
 これは悪魔の仕業。人が社会を形成し始めてから悪魔は黒魔術(謀略・調略を含む)を駆使して影響を行使して来た。世界史を見れば一目瞭然。悪魔はネロ、カリギュラ、レオポルド二世、ヒトラー、ポルポト、金一族などの想像を絶する暴君、圧制者を産み出して来た。
 そうか、手っ取り早く悪魔に聞いてみりゃいい。夏樹はそう考えた。多摩湖畔でもう少しのところで召喚しそびれた悪魔をもう一度呼び出す。その上で何が在ったのかを聞く。悪魔と天使は同じ一族。居場所が上下で異なるだけ。同じ言語「エノク語」で会話出来る。
 この前と同じ曜日時間を選んだ。悪魔に出勤時間があるとは思えないが、確率を優先してみる。国道を立川方面に多摩湖を渡った最初の交差点。十字路。街灯は案外明るい。たぶん防犯を考えてのことだろう。
 夏樹の影が長く伸びている。夏樹は交差点の真ん中で「悪魔召喚魔法」をエノク語でつぶやく。エノク語とはある規則を持った母音の連なり。何度目かに夏樹の影にもう一つの蔭が重なった。実態はない。だから見えない。蔭が蠢く。
「人間がエノク語を話すとは珍しい。召喚されたからには応えねばならない」
蔭の主はくぐもった声でエゼキエルと名乗った。なんと旧約聖書の人物だ。
「魂と引き換えに欲しいものとは何か? 」
 夏樹の身体は蔭に捕らえられた。身動きできない。だが一瞬で術は解けた。
「そなたには魂を犠牲にしてまでも欲しいモノはないようだ」
 蔭は断言した。夏樹はその隙に蔭から抜けて街灯の元に出た。「蔭縛り」だ。悪魔の蔭に入ってはならない。
「何用で私を呼ぶ? 」
 悪魔相手に嘘は通用しない。ここは正直に。
「最近のこと。時間を戻したのは誰か? 」
 エゼキエルは笑った。
「そなたは覚え居てるのか? 事実を知る者は「緋河神社」に纏わる数人のはず。なるほど記憶の断片だけか……」
 夏樹の記憶がさっきの「蔭縛り」で読み解かれていた。
「なぜ知りたい? 」
「私は魔法を探求する者。真実が知りたい」
「もう知ってるではないか」なるほどやはりそうか。夏樹は少し考えて。
「なぜ今回クロノマジックが使われたのか? 」
 蔭は笑う。
「これで何度目だと思う? 」
 そうか。たびたびあったのか。
「神は必要な時に人間の行為を正す。地球を壊されては元も子もないからな」
 蔭はしっかりとした口調で言った。夏樹は矢継ぎ早に尋ねようとする。が、蔭は制した。質問はあとひとつだけ。
「あなたは悪魔か天使か? 」
「それは観る側、魔法を使う側の思い込みによる。我々はリトリート」
 蔭、エゼキエルは消えた。信号機の点滅が始まった。車がかなりのスピードで交差点を横切って行く。夏樹は高まる興奮を抑えきれない。この瞬間を信じて待っていた。やはり悪魔は居た。
夏樹は愛車BMW/M3に乗り込み、立川駅近くのコンビニの駐車場に入った。いま在ったことを確認したい。キーワードがいくつか出て来た。まずはエゼキエル。彼は旧約聖書(イエス以前のユダヤ教の聖典)に出て来る預言者のひとり。てとも悪魔とは言い難い。次に「緋河神社」。これは厚木基地に行ってから調べてみよう。
 エゼキエルの言葉によれば「緋河神社」にクロノマジックの真相が隠れていそう。それから自分をリトリート(retreat)と呼んだ。これは英語で「もどき」と云う意味。大抵は「〇もどき」と使う。〇に入る文字が神なの人間なのかそれとも他の語句かは不明。ただ睨んでいた通りに天使と悪魔の違いはなかった。
 天使と悪魔は居た。でその先、ディエティ(deity/神)の存在をも示唆された。夏樹の論理は徐々に核心に近づく。けれど、神を信じきれない夏樹は神を召喚する言葉を知らない。

第二話
 梨恵はここのところ釈迦に関する文献をあさっている。先日亡き兄の墓の前で蒼井空がつぶやいた言葉。梨恵は釈迦の詞だと思っている。
  小指ほどの水 ひとかけらのナン 施しは数多山より重し
  病は癒してみせる 支配は受けぬ 殺すな ヒトであれ 明日を見よう
  大地と共に我は在る
 今まで仏教を指南してくれた吉水志穂は佐渡島に帰った。トキの写真をスマホに送信してくれた。梨恵が見たがっていたから。元気に福住職の仕事に励んでいるという。佳い事だ。
 志穂の穴を埋める僧侶を紹介してくれた。仏教系大学の同期生。三人しかいない女性のひとり。瞳が鮮やかな茶色のミャンマー出身の尼僧さん。マーハパジャーパティさん。
 一乗寺の日々の法要数は相変わらず多い。志穂の気遣いが有難い。通称マーハさんの日本語は並みの日本人より上手い。梨恵が聞いたことも無いようなフレーズを使う。例えば「アンタはトウが立っている」なんて。志穂との会話で使っていた。志穂が婚期を逃した女だという意味らしい。ほぉー。
 ミャンマーは仏教の国。でも彼女はロヒンギャの出身。イスラム教徒が多いらしい。両親は小さい時に他界。家族は姉がひとり。詳しくは聞かない。アニメが好きだ。ジブリのファン。そんな訳で、すぐにトトロの森に近い一乗寺の仕事に乗った。大学を出てからは京都の〇宗老舗本山に三年居たらしい。日本の仏事はなんでもござれになっている。
 マーハは当然のことながら仏教に詳しい。釈迦について聞いてみると実に様々なエピソードを提示してくれた。釈迦の伝記とされる「ジャータカ」から経典(釈迦の言葉と云われる)から引っ張り出した逸話などなど。
 もちろん釈迦を貶すものは在り得ない。必ず最後には釈迦によって佳き解決を見るという具合。「ジャータカ」は釈迦を神に仕立て上げた寓話。こうなるともはや斜め読み。人間は誰しも母親から産まれ世間の波に揉まれながら生きる。母のお腹から出て七歩歩いただけで、パッと立派な人間が出来上がるはずもないだろう。これは後に信者向けに創られたお伽噺。  
 中でも釈迦の弟子たちの記述には興味を惹かれた。釈迦には「十大弟子」と呼ばれる出来の佳い弟子たちがいる。彼らのことは釈迦と同様に神がかって記述される。ただ女弟子の記述には驚かされた。やはり女性蔑視の傾向があるのか、当時の社会風潮まで再現されている。
 長者の妾になっていた美女が改心し釈迦の弟子になったとか、片思いのバラモン僧に犯された人妻が仏門に入り、バラモン僧はその後地獄に落ちたとか。果ては女弟子を使い、美人局(つつもたせ)で釈迦の説法にお金持ちの豪族を誘ったとか。なんだか現代に通じる事柄が描かれている。リアルタイムで二千五百年前の社会にタイムスリップ出来る。面白い。
 マーハは、女性蔑視の風潮はミャンマーの地方部では今でも当たり前のようにある云う。親の借金のカタに娘を執られたり、お金持ちの妾になることなどはごく普通のことだと。
 ライフラインが行き届かず今でもランプ生活。片道一時間かかる井戸まで水を汲みに行くのが子供の日課。学校にも行けない。マーハの郷里の話しを聞いていると土埃の舞う不毛の大地に、地べたに張り付くように暮らす住人の姿が浮かんで来る。
 二十一世紀の今でもそんな状態だとしたら、釈迦が生きた紀元前五世紀(今からざっと二千語百年前)は一体どんな社会だったのだろう。梨恵は思いを馳せる。紀元前五世紀の出来事。中国で孔子、老子が活躍する。古代ギリシャが繁栄。日本は弥生時代。卑弥呼よりも四百年も前のお話し。平均寿命は二十~三十歳台。うーん? 豊かな現代人が釈迦を識るのは難しそう。だから
マーハに想像してもらった方が本物に近そうだ。こうしてマーハの「釈迦噺」は数度に亘って続くことになる。
 マーハは釈迦の時代をこう表現する。稲作はあった。けれど稗に近い品種で上手く実をつけない。当時の宗教「バラモン教」には食べ物の規定はないから肉食もあり。狩猟もした。水は貴重。水源を持つ者が支配者。「バラモン」とは司祭のこと。医療はこの司祭が有償で提供する祈祷のみ。それでは治らないので巷間には祈祷師が居た。彼らは祈祷のほか薬草も煎じた。
 山の国だからひとつの山で一部族(千~二千人ほど)となる。部族間では狩り場を巡って争いが絶えない。あ、そうそう、大事なことを忘れていた。「バラモン教」には厳格な階級制度がある。司祭(バラモン)を頂点に王族・商人・奴隷の四つ。部族の中で代々階級分けされて来た。ミャンマーでもまだ国名がビルマで王国時代にはこの階級制度(カースト)が在った。
 いつの時代でも戦争・飢饉・疾病などの厄災が起こって犠牲になるのは一番弱い人たち。そう奴隷です。普段は農商家の小間使い。戦争になれば最前線の兵士。大概は山や森にある穴などに家族で暮らしています。不衛生でもあるし傷を負ったり病気に罹ればまず助からない。
 死んでも部族の墓には入れない。村はずれの大きな穴に打ち捨てられます。年寄は死期迎えると共同の場に行く。そこは山々の奥。水も食糧もなかなか手に入らない。死を待つだけの無意味な日々。日本でも「姨捨山」という風習があったと聞きます。ロヒンギャにももちろんあります。
 マーハの言葉には説得力があった。まるで体験して来たことのよう。ロヒンギャとは祖国を待たない民族。ミャンマーとバングラデシュ国境の丘陵に暮らす。国籍がないため何か在っても援助されない。国にしてみれば税金を払わないで定住する厄介者。常に差別の対象になる。マーハの説諭の力の源はそんな不遇な民族の血によるものか。マーハは続ける。
 ある時、住居穴の入り口に痩せこけたボロを纏った男が立っていました。平均寿命が三十歳代のこと男はかなり年寄りに見えた。脇には若い男性三人と女性が一人。ロバに荷馬車を引かせていた。荷台には大きな麻袋が四つ。年寄りの男がしゃがみ込み、穴の主の奴隷の顔を覗き込んだ。
 「食べなさい」とひと欠片のナンを差し出した。また近寄って来た女に稗と麦と水を分け与えた。それから「病気の者が居れば薬を煎じよう」と言った。女がお腹を差し出し子供が居ることを告げると、同行の女性が女の身体を調べ薬草を手渡した。
 年寄りの男は去り際に「諦めないで生きて。また来る」そう言った。奴隷の男と女は首を傾げた。あれは何なのか。今まで人にモノを貰ったことがない。奴隷に「生きろ」とは不可解。バラモン教では奴隷は何度生まれ変わっても奴隷のまま。みな生きることに疲れている。もう生れ変わりたくないと思っている。
 十日もすると部族の奴隷たちの間で年寄りの男のことが評判になった。ロバに荷馬車、多くの食糧と水、薬草。あれは奴隷ではない。もちろんケチな司祭である筈がない。商人もケチだ。と言うことは王族に違いない。けれど、五人とも身なりは奴隷と変わりはない。ふーむ?
 着物も髪も埃まみれ。王族の祈祷師かもしれぬ。そんな噂もたった。けれどこの部族の支配者たちの顔はみな知っている。違う。ある奴隷は「その五人連れなら隣りの部族への道を歩いていた」と言う。
 摩訶不思議な五人組は新月を迎えるたびに現れて、奴隷たちに僅かながらでも食糧と薬草を置いて行った。そのたびに「生きよ。また来る」と告げた。
 マーハは「これが釈迦の最初の布教です」と述べた。梨恵はちょっと驚いた。釈迦は王族の出身と何処かで読んだ。だから釈迦の布教とはもっと大規模なものかと思っていた。だって大量の食糧を広場に置いて「さぁみんなで食べて」と言えばいいじゃない。そのことを口にするとマーハは笑った。
「釈迦はそんなにお金持ちではありません。それに広場に大量の食糧を置いたら奪い合いが起きて、終いには力の強い者が独り占めすることになる」
 なるほど。現代人の浅はかな考えか。
「じゃ釈迦はどこから食糧を? 」
「それは分かりません。最後まで教えてくれませんでした。でも薬草は私が野山から採って煎じました」
 ?? 梨恵が不審そうな顔をすると慌てて、
「すいません。日本語おかしかったですね」と訂正した。
 と、その時だった。一瞬、梨恵の頭の中に、翡翠の瞳、十字痣の転生の記憶が鮮やかに蘇った。私も確かにあの中に居た。例の女探偵の「白い沙羅の華」も、ウッパだ、……正確にはウッパラヴァンナー、なんとマーハまでも一緒にロバの荷車の脇で働いていた。
 お互い気さくに声を掛け合い食糧飲水を住民に分け与えている。視線の向こう、住居穴の奥には筵が敷かれ、釈迦が行きも絶え絶えの老人の細い腕をとり、優しく撫で続けている。
 そうだ。これが私の日常だった。梨恵は懐かしくもあり、胸を貫くような痛みも感じた。
 そんな梨恵の異変に気付かずマーハの講義は続く。その頃の世界は十六の部族に分かれていました。釈迦は四人の仲間とすべての部族を廻っていました。部族同士、武人たちの小競り合いは在ります。それでも商人たちはお互いに商売をしていました。釈迦たちはその中に身を隠しました。荷馬車に食糧があれば誰が見ても商いです。
 デイゴが三回花を咲かせた頃奴隷たちは釈迦の本名「ガウタマ・シッダールタ」から一部をとって「ゴータ」と呼ぶようになりました。この頃から三人の仲間の男たちは「もう奴隷には生まれ変わらない。ゴータが空の上の国に連れて行ってくれる! 」と言い始めました。
 奴隷たちはとても嬉しかった。もう奴隷は終わる。老婆は大粒の泪を流しました。奴隷たちは踊り始めました。「ゴータ! 、ゴータ! 」と口々に叫びながら。騒ぎを聞きつけた部族の武人が大勢でゴータの元にやって来てゴータは捕らえられました。四人の仲間は気が気ではありません。連れて行かれた建物の前でずっと待っていました。待つことしか出来ない。
 三回欠けた月が出た時、ゴータは傷だらけで建物から出てきました。ゴータは何も言いませんでした。女が薬草で素早く手当てをすると感謝の言葉を述べ「私は人の手では殺せない。だから薬草は必要な病人に使え」と言いました。
 チョット話しがズレますね。ゴータの年齢のことです。四人の仲間も知りません。ゴータはこのうちの三人よりも長く生きました。一人の男だけゴータと同じくらい歳を重ねた。奴隷はひ孫の代までゴータを知っていました。またさら四世代あとまでこの一人の男を知っていました。当時、長寿はそれだけで畏敬の念を持たれました。ゴータの行動は八世代に亘って続いたのです。これはもう偉大な物語です。奴隷の家では代々親から子に「ゴータの物語」が語り継がれて行きました。仏教の興りです。
「ちょっと待ったぁ」
 梨恵はコナコーヒーをカップに注ぎ、マーハにはプーアル茶をのマグを勧めた。マーハはハーブ茶しか口にしない。夕陽が書斎の窓辺に当たって来た。
「なんとなく釈迦の布教の様子が見えて来たわ。だいぶ考えていたものと違ったかな。ほらジャータカの挿絵なんかは金ジャラした衣装を纏って優雅な感じじゃない?だからてっきり白い馬が引く黄金の馬車に乗って、人々に食べ物を渡していたのかと思ってた」
 マーハの茶色の瞳にも夕陽が映り赤茶色に変わった。
「でもさぁ、キリストのイエスは布教を咎められて磔にされたじゃない。釈迦はなぜ無事だったの? 」
 マーハは少し考えてから、
 それには二つの考え方があります。一つは当時の支配者がゴータが神格化されることを恐れたこと。ゴータは十六の部族の奴隷に等しく愛されていましたから。もう一つはゴータを殺せない事実があった。ゴータは、十六部族の支配者なら誰もが知る著名人だった。これはおそらく名を馳せた武人だったということ。英雄は殺せない。
 真実は分かりません。ただひとつだけ言えることは、ゴータが殺されていたら間違いなく神になっていたことです。そしてゴータはそれを望んではいなかったことも確かです。世界の大宗教で、主が神でないのは仏教だけです。仏教は人間の教えです。(この時のマーハの声は一段と響いた)
「人間の教えと神の教えとはどう違うの? 」
 梨恵の頭はトッチラカッテいる。マーハはプーアル茶を美味しそうに飲み干し続けた。
 所詮人間が成し得たこと。だからあなたも考えられるし行動もできる。これが大事なんです。イエスさんには誰もなれませんし、なろう(不敬罪)ともしません。けれどゴータには誰もが成れる。その努力をして欲しいとゴータは考えたのです。さっきも言いましたがゴータの死を見届けたのは四人の中の一人だけです。彼の言葉によるとゴータの遺言は二つ。
「私を称える偶像を造るな!
 皆で私と同じ行動(食糧飲水薬草を人々に届ける)をしてくれ! 」
 本当かどうかは分かりません。死ぬ間際の人間がこんな明確な言葉を出せるものか。でもゴータと行動を共にしてた者になら分かります。この二つはゴータの言葉です。ゴータはそれまでの人々の宗教「バラモン教」での偶像崇拝を目の当たりにしてきました。自然神「インドラ」の木像に頭を下げて一体何が変わるのか? 祈祷する司祭(バラモン)だけが利益を得る仕組み。
 マーハはそう言って両手をそっと握り締めた。梨恵はそれを見逃さなかった。
「いまの日本仏教と同じだわね。バラモン教は」
 マーハはハッと梨恵を見つめた。
「ああ、そういう意味ではありません」
「いいのよ。本当のことだから。小さな「インドラ」の木像が大きな観音菩薩像に変わっただけ」
「今日はこのくらいにしときましょ。子供食堂に行く時間だから」
 梨恵は机脇の愛用のバッグを引き寄せた。マーハも席を立つ。二つのマグを手に取り書斎をあとに。
「あなたはゴータと同じことをしている」
 マーハは何気につぶやいた。
 梨恵は庫裡を出てプリウスに向った。その時檀信徒会館に戻るマーハの姿が見えた。木枯らしにヒジャブが脱げた。亜麻色の長い髪がばらけ境内に差し込む夕陽に金色に輝く。その美しさに一瞬看取れた。剃髪ではないの?
 マーハはいつも藍染めの作務衣姿。オンナとして見たことはなかった。でも鮮やかな茶褐色の瞳に艶やかな髪。均整のとれたプロポ。その容姿は並外れている。なぜ僧に? いつものあのフレーズが頭を擡げる。
 それは永く続く「因果の法」またか。 

第三話
 カブール空港が一望できる丘の上、マーグラ・ハッカニとその五人の従者は何かに身を潜める訳でもなく堂々とやや強い北東の風にその身を委ねていた。
 頭上を米国陸軍最後の輸送機C17が飛び立って行った。あちこちから祝砲が打ちあがる。空港周辺のタリバンの戦闘員たちが雄叫びをあげながら手持ちのカラシニコフ(旧ソ連製の機関銃)を空に向って乱射する。マーグラ・ハッカニは歓びを発散する戦闘員たちをよそに、無言でトヨタ・ランドクルーザーに向って丘を下り始めた。

 彼はその七日前にアフガン第二の都市・カンダハールの三ツ星ホテルで米国の傀儡政権の軍事最高責任者数名と会っていた。どれも軍人とは程遠いたるんだ腹の持ち主だった。食卓に座り込み、手指口をせわしなく動かし続けている。話し合いが目的なのか食事をしに来たのか分かりゃしない。
 ハッカニは部屋の灯りを消すように従者に命じ、足音も立てずに彼らの前に立った。急に暗くなったので危険を感じたのか、軍人たちは身を隠す素振りを見せたが、目の前の人物の姿に動きを封じられていた。持っていたフォークやナイフをその場に落とし、一様に驚愕の眼差しをその人物に向けた。
 闇の中にもまだ鮮明に浮かぶ漆黒な瞳に、人の背丈ほどある一対の真っ黒な羽が力強く羽搏き襲いかかって来る。軍幹部たちは這う這うの体で部屋から逃げて行った。話しはそれで終わった。残留していた三十万のアフガン軍は瓦解した。
 もともと内部は汚職塗れで軍隊の呈を成していない組織と推測されていたが、統率者も逃亡し、もはや烏合の衆と化した。各地の戦闘員たちの報告によれば、国軍基地には米軍の最新鋭の戦闘兵器が豊富な弾薬類と共に、まるで貢物のようによく分かる場所に揃えて置いてあったそうだ。
 五台のランドクルーザーの車列はすでに陥落した首都・カブールに背を向け、一路パキスタンとの国境の村に向う。カブールには欧米に留学し民主・資本主義を学んだ報道官が複数、諸外国のマスコミと相対していた。
 スマホに流れて来る映像には手筈通りに対処する報道官たちの澄ました横顔が流れる。彼らは落ち着いた口調でタリバンの主張を世界のマスコミに伝える。タリバンは新政権を樹立しイスラム法の元で誰もが平等な社会を実現する、と。
「あいつらスカシやがって。ただのお喋り野郎のくせに将軍気取りだぜ」
 従者のひとりアーダムが。
「ハマーダ、あんなこと言わせていいんですかい? 」
 今度はスワイドが口を挟む。
「あれじゃ、明日にゃ若い女どもがアメリカ本土と同じようにミニスカでケツを揺らしながら街を歩き回りますぜ! 」
 ハマーダとはマーグラ・ハッカニの神学の基づく愛称のこと。
「あれでよい! 」
 ハッカニは短く不愛想に答えた。眼差しは車窓に連なる砂丘に向けられたままだ。
 マーグラ・ハッカニ。誰も正確に彼の正体を知らない。アフガンは部族社会。中でも五本の指に入る名家の出身となると誰も詮索などしない。しかも父親は二十年前のアメリカ軍のアフガン侵攻の際に、敵に多大な損害を与え殉教した祖国の英雄だ。その息子となれば一目も二目も置かれる。
 体格は普通のアフガン人。誰もがそうするように口と顎に豊かな髭を蓄え、一見して年齢のほどが分からない。ただ、従者に愛称で呼ばれているのでまだ若いに違いない。三十前の青年と皆が思っている。
 車列は一時間ほど走り秘密ルート(検問所がない)でパキスタンとの国境を越え最初の村に入った。辺りには灯りがない。ヘッドライトが道の突き当りに白壁を捉える。車列は白壁に沿って移動し、車二台分はある大きな鉄柵の前で止まった。運転手が防犯カメラに向かって合図した。鉄柵が内に向って開き始めた。
 ハッカニは二階建ての瀟洒な洋館に入った。中には一人の女性が待ち構えていた。濃い紫色のブルカを身に纏っている。
「ハッカニ大将殿。お待ちしておりました」
 女性は白く細い腕を伸ばした。ハッカニは女性と握手し短い挨拶を交わした。従者たちはハッカニの目配せに応じ、玄関脇の待合スペースに入って行った。
 マチルダはハッカニを建物の中心の大広間に案内した。証明に照らし出された室内の壁には無数のモニターが設置され、大型コンピューターのサーバーの前、中央部には超大型スクリーンで出来たテーブルが置かれていた.
モニターには世界中の主要都市の画像がリアルタイムにアップされ、眼下のスクリーンには世界地図が浮かび上がっている。
 マチルダは改めて、ハッカニの面前に膝を落とし深々と頭を垂れた。
「我が親愛なるイブリース様」
 イスラム教では悪魔の定義は曖昧で悪魔を総称してイブリースと呼ぶ。キリスト神学における天使たちと袂を分かったルシフェル(堕天使)を指す。
 この建物はパキスタンの諜報機関ISIの施設で、マチルダはISIの参謀。表立っては二人はお互いの国を代表する高官で同等の立場の筈である。
 パキスタンは正式名称、パキスタン・イスラム共和国。先の大戦後に頭首国であったイギリスから独立し、国民選挙で選出される大統領中心の共和制国家となる。地勢としては東にインド、西にアフガニスタン、南西にイラン、北東に中国と国境を接している。特に東の隣国インドとは宗教的な対立(イスラム×ヒンズ―教)もあり、北部カシミールの帰属を巡って常に戦闘状態にある。
 国土面積は世界三十三位ながら人口は世界第五位の二億三千万人、常時軍は世界第五位で、何よりも核保有国である。その諜報機関ISIはアメリカCIA、イスラエルのモサドと並んで能力もさることながら冷酷さにおいて決して引けを取らない。
 そもそもアフガニスタンとパキスタンは世界四大文明のひとつインダス文明の発祥地である。紀元二千六百年前から続く祖先の血脈がある。たかだか二千年ほどのヨーロッパ諸国、ましてやほんの三百年しか歴史を持たないアメリカなどは眼中にはない。それほど誇り高き民族なのだ。
 パキスタンは表向きは連邦共和制をしいているが内情はコチコチの部族社会だ。それはそれは多くの長い歴史を持つ部族が先祖伝来の土地を支配し、部族同士の拮抗の間で社会を動かしてきた。彼らはそれを慣習と呼び、最も尊ぶ。多くの部族間では婚姻が繰り返され、西部アフガンの部族と東部パキスタンの部族が、歴史を繙けば実は姻戚関係であるなどの事実はあちこちに当たり前に存在する。そういう土地柄なのだ。彼らは自らの家族、属する部族、手を結ぶ部族連合のみに忠誠を誓う。
 現代政治では、タリバンを育てたのはISIだと言われている。1979年から十年続いたソビエトによるアフガン侵攻に対処するために、ISIがインダスの戦士たちを鍛え上げた。それがタリバン。そして同地域の共産主義化を抑えるため、ISIに協力を依頼し潤沢な資金を与えたのがアメリカだった。ISIの関心の矛先は宿敵・インドである。アメリカに協力することにより軍事力の後ろ盾を得た。
 この事実、よくよく考えてみるとアメリカは皮肉なことに自ら育て上げた戦士たちと二十年間闘って来たことになる。そして本日、米軍は自作自演の戦争を終わらせた。多大な犠牲だけを残して。
「無事、アメリカは退いたな」
 ハッカニは壁のモニターに映し出されるC17輸送機を見つめた。
「はい、イブリース様。すべては思惑通りでこざいます」
 マチルダはまだ跪いたままだ。
「ここ三年間、よく頑張ってくれた」
 ハッカニは起立を促した。
 アメリカは世論に促されるまま、不毛なアフガン戦争を終結させるために、ISIにタリバンとの仲立ちを依頼して来ていた。その中心となったのがマチルダだった。彼女はここ三年間、毎日のようにカブールのアメリカ大使館のCIA諜報員、あるいはアメリカ特使と戦後処理の話し合いを続けてきた。もちろんタリバン側の代表者はハッカニだが、直接アメリカ側に姿を見せることはなかった。直に話し合わないのは交渉術の常套手段。
 最後までもつれたのはタリバンのカブール進攻の日時。アメリカ側は国民と協力者の退去の時間として文書調印後ひと月を要求してきた。しかしハッカニは二週間を主張した。どうせなら敗走するアメリカの姿を世界に露呈させたい。
 話し合いはもう少しで決裂にまで迫ったが、アメリカ合衆国大統領の演説でなし崩しに二週間で決まってしまった。なぜなら大統領が撤退の日時を二週間後に設定してしまったのだ。これはそうせざるを得ない新たな事態(第三次世界大戦)が目前に迫っていたからだ。
「ことは上手く進んでいた。まずは未知のウィルス(新型コロナウィルス)を世界中にばら撒き、問題になりそうな国々の国力・軍事力を削ぐ、その上で世界規模の大戦を仕掛けたんだがな」 
 ハッカニは口惜しそうに顔をしかめた。
「一体何が起きたのでしょうか? 中国軍、ロシア軍、北朝鮮軍は侵攻を開始しなかったのでしょうか?」
 マチルダは不思議そうな顔だ。当初の計画では、アメリカ軍のアフガン撤退と中国軍の日本領侵攻、またロシアによる東欧諸国への軍事侵攻、北朝鮮軍による三十八度線越境も同時に行われる予定だった。そう、第三次世界大戦勃発だ。記憶の断片はあるのだが脳の海馬から見事に欠落してしまっている。
「いや、中国軍は日本の南端のひとつの県を占領寸前、ロシアはベラルーシを併合しウクライナに侵攻を開始した。また北朝鮮も三十八度線を越境した。それらは確かなことだった。だが、その朝、誰かが時の魔法を使ったようだ。時間を巻き戻し、すべてを無かったことにしてしまった。その動機さえも奪ってしまった。人間はもうひとつの平和なシナリオに今を生きている」
 ハッカニは口惜しそうだ。
「そんな魔法を誰が使えるんですか? 確かに違和感はありますが、誰も何も覚えてはいません。私たち諜報機関でさえも何もなかった日常が続いています」
「うむ、我がリトリート(眷属)でもこんなに見事なクロノマジックは使えない。ディエティ(deity)、神の仕業だ。それも今回は古の神の仕業」
 ハッカニは断言した。
 中央テーブルの世界地図を俯瞰し、ユーラシア大陸にへばりつくように位置する島国を指さした。
「ここだ。神はここにいる。日本」

第四話につづきます
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