登場人物がそれぞれに物語を紡ぐ……

文字数 21,225文字

第四話
 蒼井空は小学六年生一人っ子。母子家庭。父親のことは全く分からない。毎晩仕事で疲れて帰って来る母・蒼井加奈には聞きづらかった。写真も一枚も無い。母親のスマホにも。たぶん父親のことを嫌っているんだと思う。小さい時は、正確には小学三年くらいまでは母は優しかった。母は仕事を終え夕食を作り一緒に食べた。夜は絵本を読んだりアニメを見たりして楽しかった。母がこの世で一番好きだった。その母は孤立無援だった。出身は札幌。ここ埼玉県では友達も居ないらしい。スマホで誰とも連絡をとっていない。
 一、二度激しく口論する声で夜中に起こされた。どうやら相手は札幌の両親らしい。話の内容。母は札幌が好きではない。お父さんお母さんの反対を押し切って父と東京に出て来た。けれど生活は旨く行かなかった。結局別れたらしい。最初から結婚していなかったら離婚とはきっと言わない。そんなことは小学生でも分かる。母はきっとプライドが高い人間なんだ。でなければよほど札幌が嫌い両親が嫌いかそのどらもか。
 考えるのはトオに飽きた。時々札幌の祖父母の家で暮らす夢を見る。学校で札幌は北海道の県庁所在地と教わった。北国で大雪が降る。素敵なホワイトクリスマス。色とりどりのイルミネーションに雪をすっぽり被った大きな樹。窓辺には粉雪が舞い落ちる。想像するだけで楽しい。でもテレビで札幌の映像が流れるたびに母はチャンネルを替えた。一体どんな恨みがあるの?
 三年生ぐらいから生活に変化が現れた。母の帰宅時間が不規則になりお腹が空いてたまらない晩もあった。その頃は吉祥寺の2DKのアパートに住んでいた。ある晩リビングに人の気配があり母の喘ぎ声がした。声は毎週一回半年ぐらい続いた。そしてまた半年空いて今度は一年くらい続いたかな。
 男の人が帰る時は玄関ドアがそっと閉まってカチャッ、と鍵が閉まる音が甲高い。その音が煩わしかった。でも相手がいる時の方が生活が豊かになる。まずはフルーツとかクッキー、パイ。ポケモンの縫いぐるみやアナ雪のバッグなど突然のプレゼント商品も舞い込む。
 母も真新しい外国製のワンピを着て鏡をみている。化粧品もちふれからdiorに替わった。でもそんなハッピーサプライズも長くは続かない。また別れた(捨てられた)らしい。母はぼろぼろと泪を畳に落とした。母は柴咲コウに似ている。歳もまだ三十半ばでこんな美人なのに、どうして男の人にもてないんだろうか? ひょっとして私が居るせい。
 今年の春先。母が失業した。コロナが猛威を振るい始め雇い止めが起きた。母は何件かのパートを掛け持ちしていた。飲食業と旅行会社。自粛生活がはじまり二つの職種の需要が激減。結果勤め先を首になった。
 急遽、吉祥寺から埼玉県〇市の1DKのアパートに越した。たぶん家賃が払えなくなった。母は連日市役所やハローワークに通っていた。この頃空は転入先の美園第二小学校の同級生の茉里奈ちゃから美園町の「子供食堂」に誘われた。

 茉里奈ちゃんのお家も仕事がなくなり困っているらしい。何かの町工場。工場から機械音が一日中しなくなったと言ってた。学校から帰ると食卓に夕食用の菓子パンがひとつ置いてある。お父さんとお母さんは何処かに働きに行ってるらしい。
 茉里奈ちゃんには一年生の妹がいる。妹に自分の菓子パンを食べさせ手を引いて「子供食堂」に向った。通学路の電信柱に食堂のポスターが貼ってある。ポスターには夕食付と書いてあった。
 空は茉里奈ちゃんに連れられて「子供食堂」に行った。母は職探しで留守だった。夕食はまだだ。心配するといけないから美園町の「学童クラブ」に行くと置手紙を残した。
 「子供食堂」は美園町の古い公民館の二階にある。子供にはだいぶ重い引き戸を開けるとシチューの匂いが漂ってきた。空のお腹はグーとなった。
 学校の教室のような部屋の真ん中に大きなテーブルがあって十人くらいの小学生が皿を並べていた。ひとり中学生の男の子もいたっけ。「子供食堂」の小母さんはニコニコ笑って親切だった。初めて来たのに何も聞かれなかった。「さぁお腹いっぱい食べてってね」と言われた。
 シチューを食べ終わると窓側のテーブルでお菓子作りをした。プリンにホイップクリームを自分流にアレンジして食べる。とも美味しかった。また人気のテレビゲームXBOX、WII、PS4が置いてあり「あつまれ動物の森」が出来た。また人気のコミック「鬼滅の刃」も二十巻まで読めた。もう最高! 空は毎日出掛けるようになった。
 母は学童クラブは面白いかと聞いた。空は給食みたいに夕食もでると答えた。「あらそう良かった」母はあまり関心がなさそう。この頃の母は痩せ細って病的な感じがした。
 肌も青白いし眼に力が無い。自殺でもするんじゃないかと心配だった。包丁がキッチン台におきっぱになっていると戸棚に隠したりした。工作用のカッターもランドセルにしまい込んだ。でも電車に飛び込まれたら防ぎようがないや。
 「子供食堂」に十日も通いみんなとスッカリ顔なじみになった頃のこと母は晴れやかな顔をして帰って来た。そういえばアパートの前に車が止まる気配がした。母は車で帰宅したのだ。また相手の男の人が出来たのかも。
 母をそれまでのショボクレタ顔がウソのように爽やかな笑顔を浮かべていた。「モモとイチゴのフルーツタルトを戴いたの一緒に食べましょ! 」母はそう言って包丁を探し始めた。空は包丁の在処も言えずに黙っていた。「まぁいいわ。指で割っちゃえ! 」自殺は当分なくなったよう。ヨカッタ。
 空は「子供食堂」で不思議な女の人に出会った。ヒメさんと名乗った。どうして不思議かというと困ってることなどを分かってしまうから。
 空の最大の悩みごとは母の仕事。お金がないと生活できない。ヒメさんはお母さんの仕事先は決まったよ。もう大丈夫と励ましてくれた。また止まったままの工場の機械を思い浮かべていた茉里奈ちゃんにも帰ったら機械は動いているよと。
 ヒメさんの言ったことは当たっていた。四年生の遥ちゃんは父親の暴力が原因で家で落ち着いて勉強が出来ない。だからいつも漢字のテストが上手く出来ない。ヒメさんは子供食堂の片隅に机と椅子を用意し遥ちゃん用の勉強机とした。
 遥ちゃんはみんながテレビゲームやネット夢中になっている時に漢字の練習をしていた。そしてある日大きな花丸の付いた漢字テストをヒメさんに誇らしげに見せた。
 空はヒメさんに聞いたことがある。どうして悩みごとが分かるんですか? と。ヒメさんは「私は神だからです」と言った。「示へんに申すと書きます」漢字は習っていた。
 神サマって本当にいるの? などと思っていると、眼をつぶって私の姿を頭に思い浮かべてごらん。いいかい、一、二、三。その瞬間は私の身体は宙に浮いた。眼をあけないでそのまま。ヒメさんの声が聞こえる。何の感覚もない。でも気分はすごくいい。小学三年生までの母と居る時のよう。しあわせ。眼を開けて。
 ここは何処。何もない世界。空は宙に浮いている。でも地面がないから上下が分からない。歩いてみる。歩けた。どうして。下には何もないのに。
 じゃ、好きな花を思い浮かべてここに来いと思ってみて。空はヒヤシンスが好きだ。ヒヤシンスよ来い。ヒヤシンスが一輪目の前に現れた。やはり宙に浮いている。じゃ三輪来い思ってみて。今度はヒヤシンスが三輪になっている。
 神の世界とは万事このようなものです。モノは存在しない。必要がないから。食べ物も、着る物も、本も、ゲームも、スマホも。

 空さん。札幌に行って見たかったでしょ。じゃ冬の札幌よ来いと思ってみて。粉雪が降りしきる大きな通りに赤い鉄塔が見えた。中央の公園は雪に覆われている。冷気まで感じられた。吐く息が白くなってる。あなたは人間。このままだと凍り付いてしまう。あっちに行けと思ってみて。空はもとの何もない空間に浮いていた。
 思ったことは何でも呼び出せる。だけどそこに存在は出来ない。神とは哀しい生き者。ヒメさんは本当に哀しそうな顔をした。
 どれくらいの時間だったのだろう。空とヒメさんは子供食堂に戻って来た。まだ子供たちはそれぞれの遊びに夢中。
 今夜のことは人に言わない方がよいでしょう。空ちゃんがオカシナ人間に思われてしまう。ヒメさんはまた哀しそうな顔をした。
 母はどうやら「教団えにし」という会社の副教祖に就職出来たらしい。相当に給料の良い仕事だ。だって暮らしが劇的に変わった。1DKの築三十年のアパートから〇市役所近くの新築二十階建て高級マンションに引っ越しすることに。
 引っ越しも何もしなくてよかった。引っ越し屋さんが何から何までやってくれる。ただあまり運ぶ荷物が無いので「これだけですか? 」と云われた。
 新しいお家は4LDK。今までの家の三倍はある。空にはひと部屋あてがわれた。けれど置くものがない。勉強机もなかった。普段はキッチンテーブルで勉強してた。仕方がないので、部屋の真ん中にランドセルを置いて隅っこにうずくまった。
 夜、男の人が来ることはなかった。広い家なので分からないのかも。でもカギロックの音はどこでも変わらない。今でも耳に残っている。
 前のうちと学区域が一緒だったので転校はせずに済んだ。子供食堂もそばだ。でも引っ越して来た次の晩からは茶色の袴みたいのを着た小母さんが夕食を作ってくれた。小母さんは夕方に家に来て掃除、洗濯そして食事(夕食と明日の朝食分)を作った。
 仕方ないので夕食を食べてから子供食堂に出掛けた。小母さんは何も言わなかった。あまり喋らない人だ。夕食を食べなくても子供食堂には楽しみが一杯詰まっていた。その晩遅くに母は帰宅した。空は寝ているフリをした。どうやら一人のようだった。
 母は空が子供食堂に行くのを好まなくなった。だって夕食はあるじゃないというのが理屈。でもただ食べるだけに行くんじゃないよ。友達と遊べて勉強も出来て最近は可愛いワンコもいるし。
 いつかの晩は人生初のヘアメイクまでして貰えた。本物の美容師さんだった。腰にポーチ(シザーケースというらしい)を下げ大小の髪留め、櫛、ハサミが五六本入っていた。
 美容師さんの髪は長さは肩くらいで濃い栗色、毛先は緑がかったグレー。とても素敵だった。空の髪はそれまで邪魔になると母に切ってもらう。小学六年にもなるとヘアメイクサロンに通うオシャレな女の子も普通にいる。だから髪の毛にはあんまり関心を持たないようにしていた。
 美容師さんは人気の「切りっ放しボブ」にしてあげると手際よく伸び放題の髪を切った。出来上がりはスッカリ「プリキュア」気分。ただ帰宅すると母の逆鱗にふれた。
「今度美容室に連れて行くと言ってたじゃない! 他人の娘に勝手な真似して」
 その日はワンコを飼いたいとは言えなかった。美容師さんが保護犬活動をしていて保護犬を一匹預かっているという。「よかったら飼ってみない? 」と言われていた。「うんお母さんに聞いてみるね」と答えた。
 次の日ワンコのことで暗くなった空の心をヒメさんは励ましてくれた。「あさっての晩お母さんは機嫌がよいからワンコを飼いたいと訊いてごらん」と。
 そしたら、ヒメさんの言う通り飼ってもいいと言うことになった。やっぱりカミさんだ。なんでもお見通し。この時空は不思議なことに気付いた。ヒメさんと美容師のリエさんはすぐそばにいるのに話しをしない。
 リエさんとだけではない。食事を作るキモトさんともパソコンを教えてくれるナカガワさんとも一切話しをしない。ただコンビニのイオリさんとだけ会話している。
 これはイジメなのか? チョットとクラスで目立つとよくハブされる。そういうこと? 大人の世界でもイジメは在る。母はそう言った。ヒメさんはイジメられているのか。だったら救けなければ。
 だからヒメさんに言った。イジメが嫌だったらもう来なくてもいいのにと。ヒメさんは笑いながら「私は神。信じるヒトにしか見えない。イオリ以外は私に気付いていない」と言った。
 結局ワンコは飼えなかった。母が里親の美容師さんと玄関先で口喧嘩した。ワンコの譲渡を巡ってのイザコザ。母は「そんなに面倒なこと言うなら、ペットショップで新品を買うから要らないわ! 」とリエさんを追い返してしまった。
 空が哀しそうな顔をしているとヒメさんが、「大丈夫。今にワンコのモモを飼うことになる。時が来るまで我慢しなくてはいけない」と教えてくれた。
 カミさんは嘘はつかない。なんか気が晴れた。カミさんはお友達に会わせてくれた。まずはヤクサノイカツチ。彼は雷のカミ。目の前でカミナリが弾けた。次はミカハヤヒ。炎のカミさん。口から炎を吹いて見せた。そしてウケモチ。食べ物のカミで大きな赤白のお饅頭を持っていた。可愛い。
 でもカミさんたちは居場所と信仰する人間が居ないと生きていけないらしい。空が行って見たい札幌にはアイヌのカミさんがたくさん居た。でも今は居場所がなくなって眠っている。だから〇〇来いと呼んでも来ることは出来ない。そうヒメさん悲し気に言った。
 カミさんと人間は太古の昔から一緒に居る。常に援けあってきた。でもここ百年ほどは眠ってしまうカミさんが多い。次は自分が眠る番かもしれない。ヒメさんは嘆く。科学とカミは決して相反するものではない。人間は科学でモノを見ることを識りカミはもはや不要と感じ始めた。
 錆び付いた歯車時計のように扱う。けれど科学では知り得ない解決出来ないモノはたくさんある。人間はこれからそのモノを見識することになるだろう。カミの救けが要るのに。まぁ気付いて初めて分かること。人類にはまだ経験が無い。致し方ない。
 空にはチョット難しいことだった。眠くなって来た。こくり。
 ビックリすることか立て続いた。まずは子供食堂のイオリさんがコロナで亡くなった。子供食堂を最初に作った人だ。その晩は十人くらいの大人たちが食堂の椅子に座りみな神妙な顔をしていた。木本さんは泣きっぱなしだった。
 次には母が逮捕された。通いの小母さんに聞いた。たぶん二三日は家には帰って来れないという。その晩に来客があった。空が玄関フォンを覗くと埼玉検察庁の「ケンジ」という名の人が立っていた。
「蒼井空さんだね。お母さんのことで話しがあります」
 オートロックを解除した。ケンジさんは小母さんを目に止めながら、
「お母さんは日本の法律を破った疑いのため事情を聴かれています。しばらくは会えません。そこで空ちゃんの住む場所のことなんだけど、子供食堂のイオリさんのお母さんでヨネヅサチさんが一緒に住みたいと言っている。そこでいいだろうか?」と言った。
 ヨネヅサチさんならよく知ってる。イオリさんのお母さん。食堂でよく話す。てもどうして?
「このお家はね。明日から調べられるし、テレビ局とか取材に来たりして子供にはよくないんだ。サチさんの家は小学校の学区域だし。問題ないよね? それとも教団に行くかい? お母さんは教団が引き取ると言っている」
 空は教団はヤバいと思った。なんだか怪しげなとこだ。他に選択肢はなさそうだ。「はい」とケンジさんに返事をした。
 次の日にランドセルと着替えを子供食堂に持っていくとサチさんは待っていてくれた。空はサチさんに頭を下げた。なんとなくそうするべきだと考えた。
 ヒメさんは近寄って来て「お母さんのことはリエさんがちゃんとしてくれる。お母さんは悪い事をしたんだから罰をうけなければならないよ。それは分かるよね。罪を償えばまた一緒に暮らせる。我慢できるね」そう云った。
 サチさんの家に着くとリエさんと保護犬モモをが待っていた。「大事に育ててね」リエさんはそう言ってモモを空の両腕に託した。その後三人でお茶を飲んだ。 
 その時空は知りたかったことを訊いた。「お母さんはなんの罪? 」サチさんとリエさんは顔を見合わせて、
「イオリさんはコロナで死んじゃったけどその前にネットでイジメられてたんだ。お母さんはその疑いで」
 リエさんが言った。空はなんとなく理解出来た。学校でイオリさんに関するツイッターが話題になっていた。「イオリさんが子供にエッチなことをしている」それは間違いだと空は思った。イオリさんは誰にだって優しい。空はもうひとつ聞いてみた。「リエさんとイオリさんは兄妹なの? 」あれ、バレちゃったね。サチさんとリエさんは笑ってた。
 その晩空はモモと一緒に布団に入った。モモの身体は柔らかくて温かかった。

第五話
 半年前までは人気カフェチェーンの店長候補として華々しく活躍していた。それが新型コロナウィルス騒ぎでカフェチェーンは規模縮小を余儀なくされ橘美月は解雇を通告された。飲食業界はまともにダメージをくらった。予想出来ていたことなので大人しく従った。誰でも職を失う時代が来たと諦めた。
 専門学校でバリスタの資格をとった。のちの就職で四年間働いた。すぐに失業手当の手続きとる。その頃は他業種でバイトして一時しのぎをすればと思っていた。けれど呆気なくアテは外れた。つまり誰でもそう考える。数少ない仕事の争奪戦が勃発。一向に仕事は見つからなかった。ハローワークで今日最後に見た画面が「介護補助」と「東北・北海道で農業実習」だった。
 毎月の家賃に生活費それだけで十五万円はかかる。失業手当は毎月八万円。四年間少しずつ貯めた預金とそれでも足りなくてアコムやレイクなどの消費者金融にまで手を伸ばしている。どこも限度額いっぱい状態。限度額と云っても十万円。でも三社から借りれば毎月三万円の返済。それが返せなくてまた三社から十万円ずつ借りる。…もうどこかも借金できないし来月はブラックの認定を受ける。
 実家は長崎県島原市。父親は観光ホテルマンだ。観光業界もダメージは大きい。父も職を失った。そんな時に帰京は出来ない。母にさえ仕事を首になったとは言っていない。通った専門学校は〇市内にある。同級生も多いが就職先を考えれば境遇は同じ。SNSは苦情や生活相談の窓口になった。
 財布の中身を考えれば外食は出来ない。夕食前の一杯さえも差し控えている。「どうしようか? 」最近の口癖。この日の夕食もレトルトコロッケにご飯。湯上りに保湿クリームを手に取って最後の数滴を掌に。化粧品も残り少ない。けどマスク着用のお蔭で化粧品も口紅やリップグロスの類は必要ない。今は彼氏も居ないし人前で顔を曝け出す必要もない。
 PCでお安い保湿液を検索していた時に「お手軽融資」という広告画面に目が留まる。クリックするとブラックな人でも簡単に借りられる「個人間融資」とある。その中から何となく可愛らしい「niconico」をクリック。「三十万円即日融資。月二万円~返済。委細相談。確認書類免許証のみ」とあった。
 個人間融資だからアコムのような契約書類は無いとのこと。今の生活に三十万円は大きい。いや六十万円あれば消費者金融からの借金を返してしまえるかも。つまり借金元をまとめる訳だ。そんな軽いノリだった。指定のスマホ番号にショートメールで支払い口座と免許証を送る。一時間後には六十万円が手に入った。
 悪夢は次の月末から始まった。利子と合わせて十万円の請求が来た。毎月二万円だった。話しが違う。二万円にして欲しい旨を申し出ると二万円~だったと云う。十万円ずつ七回払いで良いと云う。それが委細相談の内容。
 ムリだと説明すると免許証をネットにアップすると脅された。免許証をネットに流失された女友達がいた。これは恋愛のコジレから。オトコはリベンジのつもりだったのだろう。翌週からどこぞの来たこともない金融業者から請求書が届く。またスマホのショーメールに融資の相談が数多く来る。
 金融業者が直接家まで借金の取り立てに来るケースもある。一切無視をしているとネットに顔写真付きの手配書が拡散される。アパートの壁や電信柱に顔写真の拡大コピーを貼られ「このオンナ借金から逃亡中」と記されていた。今まで親しかった友人たちや同僚からも引いた目で見られる。彼女はすっかり窶れて実家の福岡に帰ってしまった。もちろん警察に被害届は出した。でも実害はないし警察は動かない。見て見ぬフリをする。
 それだけは勘弁してくれと云うとヌード写真を要求された。アンタは田中みな実に似ているからという。免許証のうえヌード写真までネットにアップされては適わない。拒否するとじゃセックスの相手をしろと誘われた。毎月一回でよい。五回セックスをすれば返済額は二十五万円で良いと云う。委細相談がはじまった。
 美月は不承不承応じた。だってそれしか道がない。現金は用意できないし免許証やヌード写真の流失には耐えられそうにない。一回目の待ち合わせ場所に現れたのは中年太りの五十絡みの男性。この男が貸し主なのか? いや全然違った。男は金を払って一時の快楽を得に来たのだ。口臭と涎には虫唾が走った。
 二回目も同じ。つまり売春をさせられている。そのことに抗議すると。相手はダ・カ・ラ? と言っ放った。悔しくて口惜しくて仕方がない。どうしてたった半年でこんなことになってしまったのか? コロナのせい? 自分のおろかさのせい?
 こんな話しはありふれたこと。だぶん私と同じ境遇の女子はゴマンといる。アナザーストーリーがいくつ出来ることか。働きたくても仕事がないご時世。
 …美月は夕方久しぶりに家を出た。三回目の売春の後さすがに自分が嫌になった。いくらボディシャンプーの種類を替えてもオトコの体臭は消えない。外に出て穢れた身体を人前に晒すのが躊躇われた。重い足取りで近くのダイソーまで歩く。当座の飲み物とパンが欲しい。
 大きな寺の角の祠で脚が止まった。ヒジャブの女性がしゃがんで祠の前で何かしている。美月が足早に通り過ぎようとすると女性から声が掛かった。瞳が赤茶色。外人さん?背も美月よりもだいぶ高かった。
「この祠に祀られているの「お化粧地蔵」さん。いつから誰が始めたのかは知らないけど、ほら頬っぺたの処と額の処に白粉が塗られている」

 美月は近寄って見た。確かにファンデーションのようだ。
「歳月や雨で失くなってしまいそうだけど、いつ来て見ても真新しい白粉が塗られているよ。それでこの地蔵は女性の守り主になった。どうしてもオンナであることを仕事にしなければならない女性の守り神」
 そんな神様がいるんだ。地蔵を凝視している美月の腕を赤茶の瞳の女性が誘い、地蔵の前に一緒にしゃがんだ。
「お祈りしましょ。明日からは解放されますように」
 美月も手を合わせた。
 それが一乗寺の尼僧・マーハパジャーパティとの出会いだった。マーハはその日から一乗寺に引っ越してくるように勧めた。自分の隣の部屋が空いている。だからそこに今から来なさいと。命令口調だった。でも瞳は優しかった。
 どうしての疑問にはあなたにいま一番必要なこと。と言われた。そうかもしれない。逃げ出したくとも逃げ場がなかった。着替えとか日用品はなんでもあると。それでもどうしても必要なものはあとで誰かに取りに行ってもらうから。美月は着の身着のまま一乗寺檀信徒会館の四階に上がった。
 マーハは自室の隣の八畳くらいの部屋に美月を通した。こじんまりとした明るい感じの部屋。窓越しに寺の境内とその向こうに狭山丘陵が見渡せた。秋の身を切るような北風が心地よかった。
 手元には何もない。財布に数千円。これで全財産。スマホはアパートに置いてきた。スマホは元凶。忌み嫌うものになっていた。マーハは自室からジーンズと紺のパーカーそれに下着を持ってきた。
 貴方よりは私の方がグラマーだからちょっとサイズが問題かな? マーハは微笑みながら。大きくてダメだったら住職から借りて来ると言った。え? 住職って、寺の? 女なの? 美月は驚いた。
 マーハは一乗寺について説明した。そしてあなたは信者に取り込まれた訳ではないと付け加えた。明日からは「あなたの解放について」この寺の弁護士と話し合いましょう。
 美月はこの展開のスピードについて行けていない。
「あのう、私は橘美月といいまして」
 美月はまずはお礼と素性を明かさなければと思った。マーハは闇金に騙された、という処で言葉を制した。
「もういいよ。つらいだけだから。私もむかし同じ目に遭ったの」
 マーハはチョットだけ辛そうな顔した。
「さぁお風呂に案内してあげる。それから食事と」
 美月は深々と頭を下げた。

第六話
 いまや「教団えにし」を統率しているのはある女性だった。真野裕子は女性信者の一人だった。頭角を現したの教団の調査部長・蒼井加奈が「虚偽告訴等罪」(SNSでの誹謗中傷罪)で逮捕された直後のこと。週刊誌は一斉に教祖・花村龍円と蒼井加奈との関係を暴いた。
 女性信者はドン引き。日々脱会者が増え始めた。その時に真野裕子は叫んだ。
 あなたたちは頼る処が無くてここに集まって来たんじゃないの? どこの宗教団体も一部の男性幹部たちは女性信者相手に同じようなことをしている。だって性欲を持つオトコだから。
 それでも、この教団は日本のため全世界のために「コロナ退散祈祷会」を主催した。
 それは誇れることじゃない?日本仏教やキリスト教、イスラム教は何をしてくれた? やったことと云えば教会内で密集してコロナのクラスターを発生させた。それだけじゃない。
 いい聞いて! この教団からは一人のコロナ患者も出ていない。これはどういうことなの? 正しいことをしているからコロナ患者が出ないんじゃないの?
 ここから出て行けばコロナに罹るわよ。覚悟はあるの。
 この演説は教団の玄関先の大きな駐車場で行われた。拡声器も使わないのに澄んだよく響き渡る聲に信者たちは度肝を抜かれた。
 その頃の花村龍円と云えば別人の様相を呈していた。異変は白神梨恵の訪問からだった。まったく精気を喪失していた。眼力もない。
 それまでの龍円を見知った者から見ればもはや別人。くたびれた中年オヤジ。それに常にオドオドし何かから隠れるような仕草をする。挙動不審。この表現がしっくりいく。
 龍円にしてみれば、あの教祖室での出来事はタダ事ではなかった。今まで呼び出して来た怨霊の仕業と思い込んでいる。複数の怨霊かあるいは親玉級の怨霊が出て来たかは分からないが、宿縁を晴らしにやって来やがった。白神梨恵の体を借りれば龍円は疑わない。そこに付け込んだんだ。チクショー!
 「九字」の二文字を奪われ加持祈祷術を封じられてしまった。それは霊感をも失ったことを意味する。子供の頃より龍円を龍円たらしめた最大不可欠な要素が失われてしまった。それは呆然自失を意味する。
 服装も一日中くたびれたスエット上下のまま。何日も風呂にも入っていない。剃髪だった頭髪もすでに髷結い間近の相撲取りのようだ。髭も伸び放題、ムスリムに改宗したかのよう。
 悪霊に押し入られた教祖室には怖くて居られない。また来るかも知れない。だからといって麻布十番の自宅も不安だ。仕方なく公安の手入れ対策に用意しといた、窓もない六畳ほどの隠れ部屋に閉じこもったまま。
 この場所の存在は他にひとりしか知らない。
「アンタ本当にどうしたのよ? 」
 最古参の幹部・宣伝部長のよしみが欠伸をしながら昼食の膳を差し出した。もうひと月近くこの有様だ。龍円は一切部屋から出て来ないし、よしみ以外の人物を酷く恐れる。だから日常の世話、連絡係もよしみがやるしかないのだ。
「教祖様は最終段階の修行に入っておられる。信者にはそう言ってあるけど…中師の中には最終段階の修行ってなんだ? と真顔で訊く者もいるのよ。咄嗟の嘘だもの、言い訳のしようがないじゃない、もう嫌になっちゃう…」
「どうすんの? 」
 子供のように丼物のご飯粒を頬っぺたにつけた龍円を見て、よしみは鼻で嗤った。もう何度同じ質問をしたことか。でも何も答えない。関心がない様子だった。よしみも龍円の変わり様を不審に思い何度も調べた。しかし分かったことは白神と名乗る女性から電話があったことだけだ。
 それから龍円の様子が替わった。けれど、龍円が梨恵を教祖室に招いた事実を誰も知らない。
 よしみは白神という女性のことを調べ、どうやら一乗寺の住職・白神知正の姉だと分かった。知正なら教団の幹部だ。そのことを訊こうとしたが、知正は教団を辞め、新潟の寺の住職になっていた。
 龍円もかつて一乗寺に勤めていたし、この三人の関係に特別不審な点は感じられなかった。そんな訳で謎は今では迷宮入りとなっていた。
「ところでアンタ、あの子(真野優子)に会ったことあんの? アンタのオンナのひとりなの? 」
 加持祈祷を行える幹部を教団では「中師」と呼んでいる。その中師連中から言われた。
 真野裕子は教団の救世主だと。花村のオンナ癖が招いた不祥事から脱会者があとを絶たない。それを彼女が引き留めている。彼女の霊感は中師などを遥かに凌ぐ「神通力」の域に達している。彼女の周りには慕う者が数多く取り巻いている。
 龍円は今度も答えない。よしみは取って置きを用意しといた。
「これは大事なことなの。答えないなら、力持ちの信者の何人かに頼んでアンタをここから教祖室まで運んで貰うわよ」
 案の定、龍円は咄嗟に反応した。よしみは、龍円が何かを極度に恐れていると感じていた。だからここに閉じこもっている。なにより怖いのはここから出されること。
「たっ、頼むから、しばらくここに置いておいてくれ」
 丼物を畳にひっくり返し合掌して必死に懇願する。ここまで怖がらせるものに興味はあったが、龍円は何があってもそれだけは言わないことを知っていた。口に出せば致命傷になる。そういう類の相手なんだとよしみは解釈していた。
「これからのことは、お前とファンドの高木で対処してくれ。マノ、なんとかのことは知らない」
 龍円は合わせた掌に力を込めた。
「分かったわ。そういうことなら」
 よしみの一言で龍円は畳の上にへたり込んだ。

「真野優子をここに呼んで頂戴! 」
 よしみは道場に内線する。しばらくして四階の総務室に女性が入ってきた。真野優子は薄墨の作務衣を着ている。頭にはヒジャブ。アラサーで中谷美紀に似ている。眼は茶色。それにしても鮮やかだ。赤色に近い。カラーコンタクトか。
「そこに坐って頂戴」
 よしみは高木と古株の中師二人を同席させた。
「知ってるように教祖様はいまは修行に入っておられる。その間の教団運営は私たちに任されています。それであなた聞いておきたいことがあるの」
 真野裕子は対面のソファーのゆったりと腰を降ろした。一瞬、万華鏡を覗いた時の極彩色の煌めきが彼女の周囲を取り巻いたように、よしみには見えた。
 一番年長のファンドの高木が薄っすら笑いを浮かべた。
「で? 真野優子さん、何が望みなんだい? 」
「別に教団を出ても構いませんよ。ただ大勢がわたしと一緒に教団を離れるでしょう」
 真野優子は答えをはぐらかせた。よしみたちもいま教団から信者を繋ぎとめているのは彼女だと認めている。
「そうね。訊き方が悪かったわね。じゃ、どうして教団を護っているの? 」
 よしみが高木を制し訂正した。
「あなたと同じです。コロナの厄災から人々を救いたい。そのためには神仏を召喚しなくてはならない。それだけです」
 嘘だな。高木は思う。所詮人間は欲得塗れ。何か利益になるからここに居る。高木は信じない。
「信じなくても結構。ただ私が教団に居る限りコロナ患者は教団からは出ないでしょう! 」
 よしみをはじめ三人は顔を見合わせた。なるほどな。まぁとりあえず利用はさせてもらう。信者たちが平らかであることは望ましい。そんなところで皆は了解した。よしみが代表して真野裕子をたてる。
「分かった。で、教団は何をすればいいの? 」
 真野優子は一枚の紙を胸元から取り出しソファテーブルの上に置いた。紙には下記の内容が記されている。
1.不殺生戒…生き物を殺さない
2.不偸盗戒…他人のものを盗まない
3.不邪淫戒…不倫や浮気をしない
4.不妄語戒…嘘をつかない
5.不飲酒戒…お酒を飲まない
6.香油塗身戒(こうゆずしんかい)…化粧・装身具を使わない。
7.歌舞観聴戒(かぶかんちょうかい)…歌や踊りなど娯楽を見聞きしない
8.高広大床戒(こうこうだいじょうかい)…快適なベッドを使わない
 同席の中師たちは日本仏教の僧侶。仏戒くらいは知っている。これらは「五戒」「八戒」「十戒」と呼ばれるもの。
「えにしは仏教教団ですね。でしたら今すぐに戒律を敷きなさい。これで教団の統制がとれます。それから今一度、この教団の目的を明らかにすること。すなわち世界からコロナの厄災を取り除く。そのために神仏を召喚する。この二つを宣言なさい」
 理路整然としている。こんな単純なことが今まで分からなかった。僧侶たちも大きな教団には属していたが造ったことはなかった。なるほど。教団はデカくなればなるほど秩序が必要だし何よりも目的が必要だ。
 どうしていま自分はここに居るのか、みな答えを求めている。よしみほか三人は頷くしかなかった。花村龍円が役に立たないことはよしみがよく知っている。
「なるほど。あなたの言う通りにするわ。今からあなたを布教本部長とし、部屋と付け人を用意しましょう。どう? 」
 真野優子は少し考えて、
「ありがとうございます。付け人は二人、あとで私が選びます」
 真野優子は出て行った。四人は改めて顔を見合わせた。
「どう思うの。あの子」
 よしみはどう考えて良いのか分からない。
「まぁいいじゃないか。損するワケじゃないし。無償で教団に尽くすと言ってるんだ。文句はないだろう」
 高木はカネでしか物事を見られない。戒律の紙を覗き込む。よしみも紙を覗く。
霊力において真野裕子に遥かに及ばない中師の二人を退出させた後に、
「オレたちこの中の一つも守ってこなかったな」
 高木はニタニタする。よしみはそんの高木を見て不機嫌そうに。
「こんな戒律なんて山奥の秘境じゃなきゃ守れるワケないでしょ。そんなことより来年の新本堂建築の話し」
 よしみは部下に図面を持ってこさせた。「コロナ退散大祈祷会」には「ASファンド」と「埼玉翔んでったテレビ」が絡んでいる。二人はコロナ禍で安く叩いた株価をコロナ撲滅で上昇させ、その期に乗じて埼玉北部の未開発の土地を収益の見込める大規模墓地に改変させようとしている。その中核は大規模本堂と大観音菩薩像造営。二社は多額の投資を教団にしている。もう後には戻れない。
「これでいいかな? 」
 よしみは高木を覗き込む。よしみは高木から袖の下を貰っている。ロレックス、バーキンなど数知れず。一刻も早く進めろとのファンドの指示もある。目下コロナ禍で建設業者は集めやすいし安く買い叩ける。年内の着工、来春の完成を目指す突貫工事。
 ただファンドとテレビは教団の行方を心配している。ここでどこぞの国の教会のように、集団クラスターを出されてはすべてがパーだ。用心してくれと散々に言って来ている。
「これで行きましょ。コロナ対策は万全だよ」
 高木は戒律の書いた紙をよしみの前でフリフリ。
「何処にも出られなきゃ、コロナにもうつれないだろう。一番心配なのは街中に遊びに行って感染してくるこった。だから今後は面会も禁止だ。コロナ禍だと言えば家族も納得するだろう。それから食糧は安全な業者から仕入れるこったな」
「なんなのよ。今までホッといたくせに。あのオンナに言われたから急にやる気だしちゃってさ」
 よしみは不機嫌を装う。
「オマエ焼いてんのか? 」
 高木はよしみの身体を引き寄せた。よしみの豊かな乳房を鷲掴みにしながら、
「あの戒律が出回ってたらもう出来ないかもよ」
 よしみは快楽の嗚咽をあげはじめる。

第七話
 マーハパジャーパティから「女性の避難所」を設けたいと申し出があった。性を強要されている女性、弱者として迫害されている女性、我が子を守りたい女性。そうしたの女性たちを護りたい。
 マーハは「駆け込み寺」を例えにも挙げた。梨恵もその話しは映画で観た。(駆け込み寺と駆け出し男/2015/松竹配給)離婚前のこと。元旦那と観た。寺にもこんな歴史があるのかと当時は驚かされた。どうやらマーハは日本の歴史にも詳しいよう。梨恵は即座に賛成した。具体的にどのような構想があるのか訊きたいところ。
「実はすでにひとり預かっているのです」
 マーハはまずは無断でしたことを謝罪してから橘美月の話しを始めた。ああ、なるほど。話しは俄然現実味を帯びて来た。
「それでその子のことはどうするの? 」
「はい、まずはしばらく置いて。というのはアパートはたぶん闇金の連中が見張っていると思うので…。それから寺の弁護士を紹介して貰えませんか? 日本の法律には詳しくありませんが、おそろく警察は実用性がないと思うので」
 事情は読めて来た。闇金連中は横の結束が固い。アパート近くの闇金業者が獲物を監視している。梨恵はすぐに弁護士と連絡をとり今日中に寺への来訪を要請した。
「あのう、お金は? その子には現金が」
 マーハは申し訳けなさそうに。
「要らないわよ。その子を安心させてあげて。寺はそういう時のためにあるって」   
 梨恵は自分の財布からデビッドカードをマーハに手渡した。
「これですぐに必要な衣類とか日用品を買ってあげてね。それから必要ならアパートに在るものを男性の僧侶に取りに行って貰うわ」
その時、訪問を知らせるチャイム。たぶん弁護士。マーハに橘美月を呼びに行かせた。
 庫裡の居間に入って来た橘美月は顔面蒼白でひどく怯えているように見えた。マーハのダブダブの私服を着ているせいか小さく見える。まだ若い女の子だ。どうしてこんな普通な子がとてつもない厄災に巻き込まれる。
 メディアで囁かれてはいたけどコロナ被害者を目の当たりにすると感慨はヒトシオだ。橘美月はマーハの救けを借りながら弁護士に今までの経緯を話した。弁護士は女性なので話し易かったと思われる。売春に至った状況もこと細やかに話してくれた。さぞ辛かったことだろう。
 弁護士は即座に免許証の詐取を警察に届けること。以降免許証を使う犯罪からは護られる。また裁判所に発信者情報開示請求を出してもらう手続きをとった。プロバイダーに残っているスマホやパソコンの履歴を閲覧できれば相手を特定し警察に告訴出来る。
 このご時世同じような犯罪が多いため裁判所も迅速に対応してくれるそうだ。また経済的な更生の意味で自己破産を勧めた。自己破産しても自己崩壊よりは遥かにマシ。弁護士はもう心配いらないと太鼓判を押した。橘美月の蒼白な顔に少し赤味が戻ったように感じた。
 梨恵は元気付けようと、
「そうだわ。マーハの『女性の避難所』作りを手助けをしたらどうかしら。マーハは日本のSNSをよく知らないし。今はネットの時代だから、まずはホームページを立ち上げて困ってる女性たちを支援する。資金はお寺が出すわ」
 橘美月は余計に小さくなって「はい」と頷く。
「でも、わたしクリスチャンなんです? 大丈夫でしょうか? 」
 それで梨恵とマーハは笑った。
「そんなことは関係ないわよ。私だって一応寺の住職だけど、髪の毛はあるし、マーハに訊いてみて、仏教のことなんて何も知らないわ。元は美容師だし」
 確かに肩あたりまでで束ねられた梨恵の髪は、今風に毛先がミントグリーンに染められていた。
 それまで控えめに話しを聞いていた女弁護士が美月に、
「出身は島原と言ってたわね。ひょっとして「隠れキリシタン」と関係があったりして? 」
 「隠れキリシタン」とは一昨年に長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産としてユネスコの世界遺産に登録されている。
「はい、よくご存じで。私が育った海辺の村ではほとんどがクリスチャンです。でも明治の初めまではキリスト教禁教令が出ていて、事あるごとに役人に家を調べられ「踏み絵」もありました。だから、村人たちは他人からは分からない形にしてマリア様、イエス様を崇めていました」
 美月はそう言うと丈の長いネックレスを首から外した。麻紐の先には三センチほどの黒い石のようなものが付いていた。美月は石の片側を三人に見せた。横に一本溝が彫られている。
「これは浜辺に転がっているただの石です。でも、これを十個並べると十字架になるんです。村の人はこうして役人に分からないように信仰を護って来ました」
 梨恵にはそのタダの石が眩い黄金色に輝いて見えた。古より多くの人々の篤い想いが込められている。信仰の力が宿っている。
 放たれる圧倒的なパワーに梨恵とマーハは思わず顔を見合わせた。

第八話
 蒼井空は今日も学校が終わってから、ランドセルをいま住まわせて貰っている米津幸のアパートに置いて一乗寺に向った。パピヨンの女の子・モモを自電車の前カゴに載せる。モモも毎日の日課で、空が学校から帰って来るのをジッと待っている。散歩だと思っている。
 空は毎日、一乗寺で仕事をする。小学生に就労とは基準法違反だと物々しいが、少なくとも空はそう考えている。赤の他人の自分の面倒を見てくれる。そのお礼にお手伝いをする。当然のことだと考えているのだ。
 空の母親はSNSで他人を誹謗中傷した罪で拘置所に収監されている。身寄りのない空は児相に引き取られる処を米津幸の計らいで保護の元にある。同じ学校にも通えるし友達とも毎日会える。何よりモモと一緒に居られる。米津幸には感謝しかない。
 米津幸とは空が通っていた子供食堂を立ち上げた米津依織の母親で、一乗寺の住職の白神梨恵の母親でもあった。空には難しい人間関係ではあるが事実は事実だ。そんな事情からか、米津幸は一乗寺で急遽開所することになった「コロナ一時宿泊療養施設」の院長を務めていた。幸は元私立病院の看護師長でもあった。
 「コロナ一時宿泊療養施設」とは病院に入り切れないコロナ罹患者のための受け入れ先のこと。そこには許可なく立ち入れない。小学生の空が手腕を買われているのは、同じ一乗寺境内にある「保護ネコ施設」。このプロジェクトは梨恵さんが住職になるとすぐに始められた。   
 コロナ禍のやむを得ない転居で飼えなくなって捨てられるネコは多い。保護ネコボランティアさんの手に余る個体を受け入れざるを得なくなった。一乗寺では広い境内を活用し一匹でも多くのネコを保護している。その噂を聞きつけて夜半に境内に捨てて行く事例も増え今では四十匹を超える。
 一歳半までの子ネコのために十坪のロッジ風二階建ての木小屋を造り約九割がそこに居る。人間に慣れて貰うためで行く行くは譲渡を目指している。成猫はなかなか貰い手が見つからない。なので大人のネコは広い境内で放し飼いにされた。空の仕事は全部の個体への餌やりと健康管理。
 寺は猫の生活環境には適である。木像の建物が多く狭くて薄暗い場所がアチコチにある。それでもネコの習性を配慮した上で隣り近所に迷惑をかけないよう、去勢術と個体ごとにマイクロチップを埋め込んである。幾重不明になってもスマホで行く先を追える。目下の処、全員無事。
 この日も経蔵脇のロッジに向うとネコたちが集まって来る。餌の時間をよく心得ている。五個の皿に手際よく固形の餌を盛っていく。空は餌場に現れた個体を一匹ずつチェックする。ヨロ、小太郎、咲く姫、こつぶ、千夏…体の具合も観察する。ちょっとでもオカシイと思ったらスマホに収め後で獣医さんに観て貰う。
 十匹ともなると皆揃うまで時間がかかる。いくら待ってもその日は来ない子もいる。最初は心配した。スマホで居場所を確認し山奥でない限りはこちらから尋ねることも在った。でもいざ行くと何しに来たのって顔をする。あとで獣医さんからネコの生態を聞き、慌てずに二、三日スパンで行動を観察することにした。その日来ない子も三日後には顔を出す。
 ロッジの子猫たちはみな愛らしい。中にはペットショップで二~五十万円もするブランドネコたちも居る。譲渡会やSNSで新しい家族を探している。
 一番困ったことはモモと相性が悪いことだった。モモは友達と思い遊びたがる。だがネコ族は違う。危険な敵と見なす。モモの吠え声も癪に障るらしい。ほとんどのネコがこれでもかと背を三角に擡げシャーッと呻く。
 それでもモモが近寄ると容赦ないパンチが飛んでくる。モモはすっかり自信を失った。空がネコの世話をしている間、用意したゲージに入って大人しくしている。
 そんなワンコに厳しいネコ族にあって、モモに近寄って来て挨拶するネコが居た。オモチとアズキ。姉妹ネコ。二歳ぐらいで両方キジ柄。聞けば生れた時からワンコと育ったらしい。納得。この日はモモは二匹を追いかけて経蔵の裏へと姿を消した。
 ネコたちの世話はたっぷり二時間はかかる。ネコたちの面倒を終え手荷物をまとめて引き揚げようとすると、モモが居ないことに気付いた。住職の梨恵さんもスムースコートチワワを飼っている。そこに遊びに行ったのかと庫裡に立ち寄ったが声を掛けても誰も居ない。留守のようだった。コロナ診療所には固く入るなと幸に言われている。賢いモモもそのことを知っている。
 あれ、どこに行ったんだろう? 境内に居る限りは自動車事故の心配はない。空はロッジに戻って経蔵の縁台に腰を降ろし、リュックからチョコバーを取り出し頬張った。お腹が減った。夕食は幸のアパートで一緒に食べることになっている。それまでにまだ二時間ほどある。
 いつも時間が余ると美園町の子供食堂に立ち寄ることにしていた。でもモモが見つからない。「そうか、オモチとアズキと一緒に経蔵裏に行ったんだ」空はフリフリ小刻みに動くモモのちっちゃな尻尾を思い出した。
 経蔵裏に回るとそこは、片側が狭山丘陵の鬱蒼とした雑木林の斜面で経蔵との間に薄暗い空洞を作っていた。初秋の夕方のこと日没は早い。樹々の間に時を得た曼殊沙華が真紅の花びらを拡げていた。夕闇と相まってか、何やら人間の血の色を想わせた。
「アンタは人じゃか? 」
 不意に背後から声を掛けられた。誰も居るはずはない。空はびっくりして振り返ると、そこにはわずかに白く発光する空と同じぐらいの背丈の人型の物体が居た。空はカミさんに観せられた神様を思い浮かべていた。だって同じように見えた。
「はい、貴方はカミさんですか? 」
「はっ? 」
「ヒカワヒメという神様にウケモチっていう神様を紹介されました。その神様に似ていたから」
「なるほど。アンタは神様に触られたんか。それで人とは匂いがちゃうか」
 物体は三つになっていた。なにやら話し合っているようだ。声は野太く男性のようだが訛っていてよく聞き取れない。
 神様を見たことのある空には恐怖心はなかった。だってカミさんに敵う者はないから。
「アンタはワシらを見ても怖がらない。ワシらは恐ろしい鬼じゃて、フッフッフー」
 空は首を傾げた。??
「オニって? 」
「ふーん? ワシらはどう見えるんじゃが? 」
「はい、光る白いオモチのようです。だからウケモチさん」
 空は素直に答える。
「はぁ、アンタ神さんに御印を付けられたんよ、髪の毛に着いているチガヤを取ってみや! 」
「え、私の髪の毛に何か付いてるんですか? 」
 空は髪の毛を払った。すると、ススキの穂のようなものがひらひらと足元に落ちた。
 即座に空はオニの意味を知ることになった。オニとは「鬼滅の刃」に出て来る鬼のことだ。そのグロテスクな面妖な姿形に手足が恐怖で震え出した。顔も強張って声も出ない。
「……!? 」
「チガヤを拾ってまた付けや」
 一人の鬼がつぶやいた。空は慌ててススキの穂を拾った。すると、どうだろう。可愛らしいウケモチに変わった。
「アンタはこれを探してるんじゃろうがや」
 一人の鬼が体からモモを取り出した。モモは急いで空の腕に飛びついた。モモの体は濡れてブルブル震えている。
「モモを食べようとしたんですか? 」
 空は身構えた。カミさんを呼ぼうとしていた。心を落ち着かせ、カミさんにこっちに来いと呼べばよい。鬼は慌てて空を止めた。
「ワシらには何も食べられんがな。裏山のカラスどもに囲まれてつつかれていたん。口に入れて助けてやったんよ。まぁ、ここは一端、話しを聞きや」
 鬼たちはよほどカミさんが嫌いらしい。それだけは勘弁してくれとみな頭を下げている。気付けば数が増えていた。それでもアニメでは鬼は悪行の限りを尽くす怪物。油断は出来ない。空は鬼たちを睨みつけている。
「ワシらも元はアンタと同じ人じゃった。この前の飢饉の折にカラスも犬も猫も鼠もミミズもそこらの雑草も食ったが、それでも腹が減って腹が減って、とうとう死人を喰ろうてしまいよった。死人だけはあちこちに転がっておったからな。子供から年寄りまで何でも、生でも焼いても喰らいよったわ。で、気付いたらこんな姿の鬼になっちまってた。オカシなことに一端鬼に変わるともう何にも喰えなくなった。それからワシらはいくら腹が減っても何も喰えず、死んでもあの世には行けず。誰からも供養されず、忌み嫌われてさ迷っているんじゃが」
 空は人を喰う鬼の姿を思い浮かべ、さっき眼前に観た鬼の形相に恐怖した。モモをギュッと抱きしめる。空の不安をよそに鬼は話しを続けた。
「ワシらがこの寺におるのは、年に一度だけお施餓鬼という行事があってのう。こんなワシら鬼にも施しをしてくれるからじゃが。こん時だけは食い物が喰える。ううん、ありがたや、ありがたや。そんでものう、ワシら鬼の願いは成仏しあの世に旅立つことでのう。それが出来るのはホトケだけじゃで」
 鬼たちからは嗚咽が漏れる。本当にみな哀し気に泣いている。
「それでのう。アンタに頼みごとがあんる。こん寺には最近、ホトケに近いお人がアルジにおなりなったそうな。仲間連中の話によると、そんお人がこん寺に入る時には全身が青い光に包まれておったそうじゃが…もう違いねぇ、ワシらを成仏させてもらうよう頼んでもらいてぇ」
 いつしか鬼たちは空を取り囲むほどに増えていた。
 てっきり喰われると思っていたら頼みごとをされた。空の胸にしっかりとしがみついていたモモもだいぶリラックスし、空の下顎を嘗め始めていた。「仏さまに近い人」とは誰のことだろうか? 梨恵さんのことかな。梨恵さんはヘアーカットは上手だけど鬼を成仏させることなんて出来るだろうか? でもこの寺の住職は梨恵さんだ。空が思案していると、
「アンタにはホトケの御印もついておるじゃが。ほら手首に数珠が付いておる」
 空は慌てて手首を触った。確かにビーズのブレスレットのようなものをはめていた。
「それは菩提樹の実じゃて。菩提樹はホトケの樹や。アンタはホトケの縁者に違いにぃ。だからこうして頼んでおるじゃが」
 空にはまったく覚えがない。さっきのススキの穂にしても毎朝ブラッシングしている時には気が付かなかった。このブレスだって普段からはめていれば分かるだろう。一体どういうことなの?
「その代わりに人間には恐ろしいこと教えたる。誰かがヌシさまを起こそう企んでおる。ヌシさまは悪霊の親玉じゃがな。ヌシさまに知れたらワシらは二度と成仏出来ん悪鬼にされちゃ。ここはアンタに賭けじゃて」

 とその時、経蔵の表門の方から、米津幸の空を呼ぶ声がした。鬼たちはとり急ぎ掻き消えて行った。空はグルっと廻って表門に出た。陽はすでにとっぷり暮れていた。
「お腹空いたでしょ。お家に帰ろうか」
 米津幸はすっかり帰り支度を終えていた。折り畳み式の自転車を荷台に積み込んで、モモを抱っこしたままタントに乗り込む。
「おばさん、鬼って見たことありますか? 」
「えっ、鬼って? あの鬼滅の刃の? まさか! 」
 米津幸は急に思い出したように、
「そうだわ、あの経蔵の壁にたくさん描かれているわよ。いつか住職と経蔵にある経典類を片付けていた時に観たのよ。鬼滅の刃の鬼よりはだいぶ古風だけど、迫力はあったわよ。今度眺めてみたら? 」
 そうか、鬼たちは寺に居ると云ってたっけ。本当にあの建物に居るんだ。だったら鬼たちにまた会える、話の途中だった。それにしても、鬼が言ってた悪霊って一体なんだろうか? 大変な事が起こる感じだった。どうしよう。空は空腹も忘れてぼんやりモモの頭を撫で続ける。
 ふと、改めて髪に手を当て、手首を触ったが、やはりチガヤもブレスもなかった。

第九話に続く

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