六.
文字数 5,420文字
彼はどこか面白くなさそうな顔で無造作に答える。
「“性愛の
不精髭の伸びた顔に何やら不穏な表情を浮かべ、クライフは続ける。
「あいつが住んでた神殿は、国境の町パドマにある。快楽は善、禁欲や苦痛は悪。分かりやすいだろ。ただ『悪徳』の神だから、信者は少ないらしいがな」
クライフがいかつい肩をすくめた。
「快楽を広めるのも、布教の一つなんだとよ。だからアレは、あいつの自由だ。オレにも止められねえ。」
そこで何故か、クライフが興味を失った顔になった。
エルドレッドは、恐らくわざと作られたクライフの無表情を見ながら、切り出してみる。
「クライフ、ちょっと聞いてもいい?」
「んー?」
目だけで反応した先輩に、エルドレッドはおずおずと尋ねた。
「クライフとマイムーナ、何で一緒に旅してるんだ?」
「ん? ああ、そうだな、別に隠すこっちゃねえか」
クライフは一瞬エルドレッドに向けた目を、枯れた根が走る岩天井に注いだ。
「オレとマイムーナが初めて会ったのは、半年前だ。その時、マイムーナは凶暴な獣が出る辺境へ行くとかで、護衛の戦士を探してた。そこで護衛を買って出たのが、このオレだ。知り合いの伝手でな。それ以来の付き合いだ」
「マイムーナ、辺境まで何をしに行ったんだ?」
「布教活動の一環らしいが、詳しくは知らん。ノイラの村の辺りまで来たのも、布教のためだとよ。アレも布教の一環だ」
横目に視線を送ってくるクライフを見返しながら、エルドレッドはもう一つ聞いてみた。
「マイムーナは治療もできるんだね? クライフも受けたことがあるって、マイムーナは言ってたけど」
するとクライフは顔を下に向けた。わずかに見える彼の耳は、真っ赤に染まっている。彼は地面を見つめたまま、どこか決まり悪そうな、力の入らない声で一言答えた。
「ま、まあな」
「マイムーナの治療って、どんなの?」
エルドレッドは食い下がる。『悪徳』の神の祭司マイムーナの施療がどんなものか、彼は気になった。
普通、聖職者の施療は、それぞれの神に祈りを捧げ、神から曳いた聖なる力で、怪我人を癒す。大体、他人を癒そうという奇特な聖職者は、恵みや慈悲をつかさどる“白い神々”や『美徳』の神々の聖職者がほとんどだ。渾沌や我欲を司る『悪徳』の神が他人を癒す、などという話は、エルドレッドには初耳だった。
クライフは、顔を下げたまま何か考えている様子を見せている。
しばらく黙って返事を待つエルドレッドだが、なかなかクライフは答えない。
エルドレッドがもう一度聞こうと息を吸ったとき、クライフが顔を上げた。
「ちょっと耳貸せよ」
「は?」
突然のクライフの要求を受け、エルドレッド思わず一文字のみで聞き返した。
「いいからよ、とにかく耳貸せ」
クライフが、もう一度エルドレッドを促してきた。そのベテラン戦士の目は、何故かちらちらとミュルミアを窺っている。 無言でうつむく少女を見る彼の表情は、どういうワケだかかなり気まずそうだ。
エルドレッドは奇妙に思いつつも、クライフの口許に耳を寄せた。
「あいつの治療はな」
ぼそぼそと囁かれたクライフの言葉を聞き、エルドレッドの脳天は一気に沸騰、心臓がばくばくと早鐘を打った。
自分の耳を疑って、彼は熱く痛む鼻を押さえてクライフに向き直る。
「ちょ、そんな治療って」
「ホントにそうなんだよ、あいつの治療は」
わずかに赤くなった顔をあらぬ方へ背け、クライフはごにょごにょ口ごもる。
「効くんだよ、これが。理屈は知らねえがな。おかげでオレも惚れちまったらしい。オレらしくもねえ」
彼の告白を聞き、エルドレッドはもじもじとうつむいた。 若く経験もない彼にとって、クライフの話は刺激が強過ぎた。女の子の前で大っぴらにできる話でもなく、彼がミュルミアを気にした理由が身に染みたエルドレッドだった。
確かにマイムーナは『男なら癒せる』、と言っていたし、彼女が“性愛の神”の女司祭なら、そういうこともあるかも知れない。エルドレッドは肺の中の燃えるような空気を深い吐息で排気した。
入れ替わるように、クライフが顔を上げた。彼はエルドレッドをつまらなさそうな面持ちで見つつ、素っ気ない口ぶり言う。
「何なら、おめえも頼んでみな。おめえなら、きっと結構あっさりやってくれるぜ」
「い、いや、いい」
立て続けに数回、首を横に振ったエルドレッド。とりあえず、今は忘れておこう、彼はそう考えた。いつまでも覚えていたら、マイムーナの顔をまともに見られないかも知れない。
熱く上気したままのエルドレッドの顔を見ながら、クライフは大きなため息を洩らした。
「どうでもいいが、腹が減っちまった。朝メシ、喰ってられなかったからな」 「あ」
ふと思い出したエルドレッドは、小さなナップサックを背中から降ろした。
「何やってんだ?」
ぶっきらぼうに聞くクライフに答える代わりに、彼は中から取り出した紙包みを開いて見せた。そこには、半切りメロン程の焦げ茶色をした塊が鎮座している。
「おっ、それは」
思わず生唾を呑み込む戦士の一言に、エルドレッドはうなずいた。
「ライ麦パンだよ。ぶどう酒もある。よかったら食べてよ」
エルドレッドは、小さなナイフを取ってパンを二つに切り分けると、ナップサックから取り出した皮の水袋と併せて、クライフに差し出した。
「こいつあ、ありがてえ。すまねえな、エルドレッド」
クライフは、何の遠慮も見せず、喜色満面にライ麦パンに齧り付いた。 がつがつとパンをむさぼる先輩を好意的に見遣りつつ、エルドレッドはミュルミアに向き返る。
両膝を抱え、どこか虚ろな眼差しを宙にさまよわせていたミュルミア。エルドレッドが歩み寄ると、彼女は天敵に睨まれた小動物のように肩をびくっと震わせて、顔を上げた。その印象的なエメラルドの瞳は、今や暗く濁っている。恐怖と責任感のためだろう、エルドレッドはそう思った。
そんなミュルミアに向かって、彼はおもむろにライ麦パンの半分を差し出した。
「えっ?」
端正な顔一杯に戸惑い表わすミュルミアに、エルドレッドは片手で髪をくしゃくしゃやりながら、誘いをかける。
「食べなよ。朝ごはん、食べてないんだろ?」
「エルドレッドさん、あなたは?」
ミュルミアが短く聞いたとおり、エルドレッドも朝食はとらずにここまで来ている。だが彼は努めて明るい笑顔を作り、首を横に振って見せた。
「俺なら平気だよ。いつものことなんだ」
努めて平静を装い、彼はパンを乗せた手をもう一度動かす。
すると、エルドレッドを凝視する彼女の表情が崩れた。曇った碧緑の瞳に光が戻り、可憐な口許が何か言いたげに緩く開く。
内心、彼女からの感謝の言葉を期待したエルドレッドだったが、彼はハッと気付いた。
彼女の目の光は、戸惑い、哀しみ、それに怒りの摩擦に引き起こされた、
「どうして」
ミュルミアの問いは、責めるような口調で放たれた。
「どうして、こんなに優しくしてくれるんですか?」
胸中に準備していた返礼をすべて失ったエルドレッド。どう答えたらいいのか分からず、彼は口をぱくぱくさせるよりほかに、どうしようもない。
「え、あ、何で、って? いや、そ、そんなこと聞かれても。俺たちは一応仲間なんだから」
エルドレッドは頭に浮かんだ言葉を途切れ途切れに継ぎ合わせる。しかしミュルミアの瞳の冥い光は衰えを見せない。
「なあんでえ、大げさなこったな。ミュルミアよ」
突然、クライフの大声が割って入った。
エルドレッドが向き直ると、クライフがごくごくと皮袋から葡萄酒を喉に流し込み、大きな息を吐いた。
「せっかくだから、食える内に食っとけ。そうでなけりゃ、生きられねえ」
エルドレッドがちらりとミュルミアの様子を伺うと、彼女は目を伏せていた。押し殺した憤激が作る瞳の光輝も、今は失われている。
エルドレッドは独り密かに安堵の息をついた。
クライフが、躊躇いがちにライ麦パンに口を付けたミュルミアを見ながら、つぶやくように言う。
「ま、どっちにしろ、あのバケモノの中にミュルミアの捜し人がいなくて、よかったぜ」
「でも、あいつらは何だったんだろう?」
エルドレッドが誰にともなく聞くと、マイムーナが彼の隣に座を移した。脚の間に杖を抱え、女祭司は深い知性を感じさせる微笑を彼に向ける。
「分からないけど、あたしたちが知ってる“
マイムーナは続ける。
「普通、ひとが死ぬと、すぐにお迎えと行ってしまうもの。よっぽど強い怨念か魔術の拘束でもないと、“屍人”なんかにはならないのよ」
「死んだひとって、どこへ行くんだっけ?」
エルドレッドが聞くと、マイムーナがこともなげに答える。
「あら、忘れたの? 普通は“樹”の上にある、その人が信じる神の領域に連れて行くの。常識でしょ?」
謎めいた笑みとともに答え、女祭司はうふふ、と笑った。
「でも、あたしは“
「『
鴎鵡返しに聞いたエルドレッドに、マイムーナは彼の純朴な顔を覗き込みながら、深くうなずいて見せた。
「“
離れた場所でライ麦パンに喰らい付いていたクライフが、顔を上げた。彼はあからさまに不機嫌な顔で、マイムーナに文句を付ける。
「おめえ! こんなトコに来てまで布教なんかしてんじゃねえ!」
しかし当のマイムーナは涼しい顔。ちょっと口を尖らせて、この女祭司は言い返す。
「あら、いいじゃない。寸暇を惜しんでの布教は、あたしたち聖職者の義務なんだから。あなたは黙っててちょうだい」
マイムーナは、そこで笑顔を見せた。開放感と幸せに満ちた屈託のない笑みを浮かべ、彼女は続ける。
「そう、布教はあたしにとっては、義務以上に喜びなの。第六階梯に昇ったとき、あたしがパドマ神殿の“
女祭司は、仲間たち一人一人の顔に視線を巡らせた。
「冒険者なら、布教のためにいろんな場所に行けるから。“内陣”も“聖騎士団”も、窮屈で自由がないもの。やっぱりあたしは、いろんなひとに逢えて、誰かの役に立てる冒険者が好き。危険で、身分も不安定だけれど、こうやってエルドレッド、シオン、ミュルミア、それに、クライフに逢えたもの」
そこでマイムーナは、クライフに軽くウインクを飛ばした。
「そうそう、前から誘ってるけど、クライフも考えておいてね。“天堂”はいいわよ。あたしが先導してあげるから」
クライフの頬が緩んだ。いかつい肩をおどけたように竦ませて、彼は再びライ麦パンに齧り付いた。
連れが黙るのを認め、マイムーナが改めて向き直る。少し細めた菫色の目でエルドレッドを蠱惑的に見つめ、ゆっくりと問うた。
「よかったら、あなたもどうかしら? エルドレッド」
にじり寄る女祭司からわずかに身を引きながら、エルドレッドは目を白黒させた。
この世では、多くの人々が、思い思いに無数の神々へ信仰を寄せている。しかしエルドレッドは、どの神にも祈りなど捧げたことがなかった。
祈ったところで、何がどうにかなるワケでもない
祈ろうが祈るまいが、日は昇り、また沈む。そしてひとは生まれ、ひとは死んで樹上の世界、つまりあの世へと還る。
彼が知る限り、大抵の戦士は、そんな考え方を持っている。恐らく、クライフも似たり寄ったりだろう。
「どう、って? 入信しろってこと?」
おずおずと聞くエルドレッドに、マイムーナがにっこりとうなずく。ただ好意と慈愛だけが湛えられた、途方もなく魅力的な笑顔だ。
「エルドレッド、“
「あ、うん」
『聖騎士』と聞き、エルドレッドは即座にうなずいた。女司祭を見つめる彼の目にも口元にも、つい力が入っていしまう。
無意識に姿勢を正したエルドレッドの脇から、シオンの無関心そうな声が聞こえてきた。
「こいつの興味は、正確には“
「分かるわ。騎士に憧れて、騎士を目指す戦士は多いもの。騎士は格好いいし、暮らしも安定するものね。ちょっと窮屈らしいけれど」
何度もうなずいて、マイムーナがエルドレッドを改めて見つめる。
「騎士は、王侯貴族に仕えて国や領民を護る戦士ね。聖騎士は、自分の仕える神の信者を護るのが役目。対象は違うけれど、どちらも人々を護り助ける、という点では同じだわ。騎士は第六階以上になって、王侯貴族に認められた戦士が叙任されるそうだけど。聖騎士も……」