一枚の張り紙
文字数 1,703文字
目の前でくすぶる、人の形をした焦げ跡を。そして、何より自分自身を。
少女は、枯葉と汚泥の中から、幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。
寒々とした月の光が、まばらな木立の間に立ち尽くす少女の姿を照らしている。辺りに人の姿はない。ただ冷たく渇いた夜半の風が、木々の間を吹き抜けてゆく。
彼女は、塵と泥にまみれた水色のローブを胸元まで引き上げた。大きく破られた裾がずり上がり、ほっそりとした白い脚が露わになる。
少女は、負の感情が渦巻く碧緑の瞳を、手首に注いだ。傷つき、鮮血が滴る手首では、絡み合う薔薇と百合を象った腕輪が、炭火色の光を放っている。たった今、一人の人間を灰燼に帰した魔力の残滓を見つめ、彼女は深く濁った吐息をつく。
もう一度、彼女は足元の焦げ跡を見下ろした。
つい半時も前まで、この焦げ跡は生きた人間だった。少女を力づくで蹂躙しようとしたこの男は、恐らく戦士だったのだろう。男が所持していた短剣や丸盾、鎧が散乱している。
彼女はぎゅっと目を瞑った。
……ああ、男の腕も、声も、そして匂いも、全てが厭わしい。
世の中にたむろする戦士といえば、王侯貴族に使われる者を除けば、そのほとんどが、いわゆる“冒険者”を名乗っている。だが、一皮剥いてしまえば、冒険者などは醜い性根を装備で覆い隠した、獣のような
そんな師の教えを思い返し、少女は星々が瞬く夜空を仰いだ。
――火精の指よ、舌よ、汝の獲物を捕らえ、喰らい尽くせ――
この男を焼き尽くした詠唱が自分の耳に木霊し、灼熱の鳥籠に囚われた男の末期の様が、脳裏に蘇る。
少女は、両手で顔を覆った。男への怒りと憎悪。それに悲しみと憤激に任せ、男を焼殺してしまった自分への嫌悪が、胸を捻り上げるように苛む。
だが彼女には、感傷に浸っている時間はなかった。
……自分には、使命がある。
その使命を遂行するためなら、どんなことでも……。
何度も首を振りつつ、彼女は地面から拾い上げた厚手の外套をふわりと羽織った。そして後を振り返ることもなく、彼女は街道へと向かった。
少女は行き交う者もない街道に立ち、はるか先まで見渡した。
街道は、広大な麦畑の只中を一直線に伸びている。夜風にゆらゆら揺れる麦の穂は、月光を浴びてその青さを一層増して映る。仄白くさえ見える小麦の海の彼方に、ひっそりと息づく村のシルエットが望める。
その先に堂々と鎮座するのは、威容を誇る半球形の影。
少女は安堵した。
目的の場所は、ここで間違いない。あの村が、最初の場所になる。さらに、その先の岩山を目指すのだ。
大きく息をつき、先を急いだ彼女は、程なく目指す農村にたどり着いた。
時刻はすでに深夜に近い。数十戸ばかりの農村は、ひっそりと静まり返っている。
ひと一人なく、ひっそりとした村の広場を横切り、彼女は小さな灯りの点る酒場の敷居を跨いだ。
閉店時間も近いのだろう。小ぢんまりとした店内は、数脚の丸テーブルにも、カウンター席にも、客の姿は全くない。天井に吊るされたランプの下、ただ髪も髭も灰色になった老齢の主人だけが、独りカウンターに頬杖を着き、うつらうつらとしている。
少女は、酒場の壁の一つに歩み寄った。
飴色になった木の壁一面に、何枚もの紙が張り付けられている。羊皮紙からパピルス紙まで、様々な素材の紙に、色々な言語で雑多なことが書かれていることが読み取れる。
『この人を捜しています』
『尋ね馬』
『求む 身体強健にして 想像力に乏しい若者』
そんな張り紙の数々をぐるりと一瞥して、彼女は爪先立った。傷んだブーツの踵が床から浮き、細い右手が壁に延ばされる。
がさがさに荒れたその手が持つのは、一枚の紙だ。彼女は壁の一遇に紙をしっかりと貼り付けると、足早に酒場を後にした。
新しく加わった一枚の張り紙には、この大陸の共通語で、こう書かれている。
『腕に自信のある人を捜しています。特に体力と生命力に溢れた……』