剥がされた張り紙
文字数 5,598文字
ようやくベッドから起き出したエルドレッドは、独り銀羊軒に足を向けた。
昼時の酒場は、食事を摂る客でに賑わっているのだろう。空腹を抱えた村人たちの声が、表にまで伝わってくる。
剣だけを下げたエルドレッドは、前と同じように酒場のドアを押し開けた。
と、余所者の闖入に、酒場は水を打ったような沈黙が広がった。
しかし戸口に立ったエルドレッドは、もう動じない。
本当の死地を踏み越えた彼だ。今さら酒場の客の視線など、そよ風ほどにも感じない。
そんな自分に内心驚きつつも、酒場を見渡したエルドレッドは、空いたカウンターへと歩み寄る。
エルドレッドがカウンターに着くなり、あの老主人が近付いてきた。だが昨日とは打って変わったエルドレッドの様子に、何か思う所でもあったのだろう。主人が無言のまま、彼の前に水のグラスをそっと置いた。
目線で主人に礼を投げ、エルドレッドはグラスを取った。それを見て取り、主人がカウンターの片隅へと引っ込んでゆく。
黙々と酒瓶を磨きにかかる主人をよそに、エルドレッドは両手の間にグラスを弄ぶ。
透明な波が躍るグラスを空ろに眺めるエルドレッド。
彼の脳裏に、浮かんでは消える、最後の会話。
ベッドを降りる前に、ミュルミアは微かな声だったが、確かにこう言った。
「あなたについて行きたい。でも、わたしには、国を……」
そう告げた少女の涙と、哀しくも美しい面差しが、彼の胸を深く抉った。
別れの刻限は確実に迫り、無言の夜闇が二人の間にのしかかる。
その重圧に耐えかねたのか、ミュルミアは沈黙を守ったまま、彼に背を向けた。
刹那、彼の手がミュルミアの手首を掴んだ。
ハッと顔を上げたミュルミアだったが、彼女は振り向かなかった。
彼の手は力を失い、嫋やかな手首をそっと離した。
……どうして手を掴んだのだろう、どうして手を離したのだろう。
答えの出ない問いが、彼の中で蟠る。 そのやり場のない苦しさが吐息となって空しく洩れたとき、エルドレッドの隣に客が座った。
相棒のシオンだ。
疲労もすっかり取れ、足の痛みも癒えたらしい。
この村を訪れた時と同じ、薄汚れた旅装の彼は、うつむいたままのエルドレッドに真紅の視線を向けた。
「どうした? まだ疲れてるのか?」
「うん、ちょっとね」
力なくそう返したエルドレッド。
シオンはエルドレッドの心中を察したのか、沈黙を守るマスターに地酒を頼み、静かに告げる。
「どんな形であれ、別れは辛い。だが全ての別れは、誰にも盗られんお前だけの財産だ。大切にしておけ」
老主人が、カウンターに置いたタンブラーをシオンに向かって滑らせた。
それを片手でぱしっと受け、シオンがつぶやく。
「順当にいけば、彼女はいずれ王妃になるだろう」
これを聞くなり、エルドレッドはぶはっと噎せ返った。げほげほ激しく咳き込む相棒を横目に眺めつつ、シオンは続ける。
「アープ王室付の魔術師長が主宰する“百花苑”は、教養ある貴族の若い息女だけで構成されている。全員が王子の花嫁候補だそうだ。王子が回復すれば、特別な事情でもない限り、選ばれるのは彼女だろう」
ほぼ空っぽの肺でぜいぜいと苦しげに喘ぐエルドレッドに、シオンは一言聞いた。
「気付いていなかったのか?」
エルドレッドは、丸めたままの背中でうなずく。
彼と、すでにこの村を去った少女との事情を察したのか、シオンは呆れた調子で吐息を一つついた。
「まあそうだろうな。気付いていたら、お前は彼女に指一本触れられん」
そこでシオンは、酒で唇を湿した。
「確かアープのアンドレアス家といえば、大臣さえ輩出するような代々の名家だったはずだ。その深窓の令嬢が自ら手を穢すとは、よほどの事態だったのだろうな。百花苑の参入者だということを差し引いても、彼女は救国の乙女だ」
シオンが小さく吐息を挟む。
「奸計を弄した彼女だが、国を救うという決意だけは本物だったな」
エルドレッドはようやく顔を上げた。
真っ赤に充血した目をシオンに向けて、彼は狼狽と不安の入り混じった表情を見せる。
「彼女、大丈夫かな……」
「お前が手を付けたのは、未来の王妃候補だぞ。お前は誰よりも自分の命を心配しろ」
シオンがエルドレッドを横目に流し見る。
「アープの王子アリオストは、眉目秀麗、女と見紛う優男だが、一癖も二癖もある若者だそうだ。陰では“牙の生えたウサギ”、などと渾名される侮れん男だぞ」
軽く脅しておきながら、シオンは真紅の視線をあらぬ方へ向け、タンブラーを傾けた。
「だがもとより、自らの手を汚す覚悟で探索に臨んだ彼女たちだ。その途上での行為など、王室は一切不問に付すだろうな。結果さえ出れば、それでこと足りる。綺麗事など、現実の前では無意味だ。お前と彼女の間に何があろうと、大した問題にはならん」
この暗殺者は淡々と続ける。
「この世の善悪など、所詮は『都合』の結果だ。確かなのは、自分が選び取った道と、それを貫徹する意志だけだ」
ガラスの酒盃を置いたシオンは、軽く目を伏せた。
「彼女は、国を守る信念を貫き通し、お前は、苦しむ彼女を助けた。最後までな。クライフも自分の信念に殉じ、マイムーナも俺たち全員に慈悲を垂れた。皆が自分にとっての最善を尽くした。結果はどうあれ、それだけのことだ」
息も気持ちも落ち着いたエルドレッドは、清明な笑顔を相棒に向けた。
「シオンは、最初から最後まで、俺を助けてくれたね。本当、ありがとう」
感謝に溢れた相棒の言葉と視線を受け、シオンがエルドレッドからついと目を逸らし、タンブラーを仰いだ。
「やめろ。あれは気紛れだと言ったはずだ」
うそぶく相棒の隣で苦笑めいた息を一つ洩らし、エルドレッドはタンブラー片手に目を伏せた。
「そういえば、彼女、国を守る、何度もそう言ってたね。そういう人が国を治めないと、やっぱり駄目なんだろうな……」
エルドレッドのそんな無私のつぶやきに、シオンは口を閉じた。
どんな言葉を掛けるでもなく、彼はぽんと軽くエルドレッドの肩を叩き、そのままぐっと抱き寄せた。
と、二人の背後で、うふふと艶っぽい笑いが聞こえた。
「あなたたち、本当に仲がいいのね。あたしが割り込む余地なんてなさそう」
エルドレッドとシオンが同時に振り向くと、黒いロングコートに身を包んだ黒髪の美女が立っていた。潤んだアメジストの瞳が眩しい女祭司、マイムーナだ。
大きな布のバッグを肩から下げ、片手に黒檀の杖を携え、肩に重い戦斧ヴージを担いだ彼女は、もう旅立ちの支度を整えている。
「あ、マイムーナ。体調はどう?」
「あら、あたしならもう大丈夫よ。ありがとう、エルドレッド」
染みるように妖艶な笑みを浮かべたマイムーナに、シオンが短く聞く。
「もう行くのか? マイムーナ」
「ええ」
うなずいたマイムーナが、バッグに視線を落とす。
「クライフを復活できるひとに会いに行かなくちゃ。シオンが教えてくれたひとに。腕は確かなひとなんでしょ?」
マイムーナの念押しに、シオンが深くうなずく。
「まだ若いが、熟練の魔術師だ。俺が務める図書館の常連で、度々延滞する困ったヤツだが、知識と技量は俺が保証する。偏屈で吝嗇だが……」
「
マイムーナが聞くと、シオンが逆に聞き返した。
「“命狩る花”の種は持ったのか?」
「ええ。幾つか拾って、持ってきたわ。その子に渡せばいいのよね?」
「研究熱心なヤツだからな。神話の怪物の種と聞けば、一も二もなく引き受けるだろう」
これを聞いて、エルドレッドもマイムーナに目を向けた。
「あ、じゃあクライフから預かってる宝石も、マイムーナに渡した方がいい? クライフが復活するんなら……」
「それは、あなたがクライフのお家に届けてもらえるかしら、エルドレッド」
マイムーナがエルドレッドに微笑みかける。
「わたしがクライフを復活させられるのは、いつになるか分からないもの。クライフ、ああ見えて実家のお母さんをすごく気にしていたから。先に届けてあげて」
「分かった。約束するよ」
力を込めてうなずくエルドレッドに、マイムーナも深くうなずき返す。
「お願いね、エルドレッド」
そこでマイムーナが、ふと小さく息を整えた。一抹の寂しさの漂う笑みを湛え、エルドレッドとシオンを交互に見遣る。
「じゃ、あたしは行くわね。いつかきっと、またどこか旅の空で遇いましょう。そうでなかったら、今度こそ“
悪戯っぽくウィンクするマイムーナに、エルドレッドも髪をくしゃくしゃやりながら、頬を上気させて笑顔を見せた。
シオンが、故意にか淡々とマイムーナに告げる。
「道中、気を付けろ。もし彼が言うことを聞かなかったら、『副司書長を呼んでやる』、と脅してやれ」
「分かったわ、シオン」
くすくすと笑って、マイムーナが小さく手を振る。
「それじゃ、二人とも元気でね。エルドレッド、シオン」
そうして、マイムーナは賑々しい酒場を去っていった。
どこかほろ苦く、そして甘酸っぱい想いを抱いたエルドレッド。傾けるグラスの水も、気のせいか味が変わった風に思えてくる。
そんな胸の中を黙って反芻していた彼だったが、ややあって、おもむろに顔を上げた。
「ねえ、シオン。俺、一つだけ分からないことがあるんだけど」
カウンターにグラスをことりと置き、エルドレッドはシオンに向き直った。黙してうなずく相棒に、彼はわずかな躊躇いを入れつつ、問うてみる。
「この件って、全部彼女が考えたのかな。それとも……」
わざと短く曖昧に綴ったエルドレッドの問いだったが、その真意ははっきりしている。
シオンが真紅の目を軽く伏せ、何の感情も見せずに答える。
「それは俺にも分からん。全ての絵図は彼女が描いたものかも知れんし、『
「そうだね」
素直にうなずき、エルドレッドは深い深いため息をついた。
全ての疑念と割り切れない思いを吐き出したつもりで、エルドレッドは再びグラスを手に取った。
そんな彼を横目に見ながら一気にタンブラーを空けたシオンが、彼にしては珍しく、わざと明るい声で相棒に声をかけてきた。
「気が済んだら行くぞ、エルドレッド」
「えっ? どこへ?」
不思議そうな表情で顔を上げたエルドレッドに、シオンは分かり切ったことだとでも言いたげな微笑を見せた。
「決まっているだろう。借りを返しにだ」
「借り?」
鴎鵡返しのエルドレッドに、シオンはうなずく。
「さっきマイムーナも言ったろう? クライフの故郷アグロウへ、宝石を届けにな。俺たちが返せる、最後の借りだからな。アグロウの村なら、場所は知っている」
「あ」
一瞬茫然となったエルドレッドだったが、彼の鳶色の瞳は、すぐに光と力を取り戻した。
「そうだね。約束したもんな。クライフと、マイムーナに」
エルドレッドの明朗な口調を聞き、シオンが止まり木を降りた。
「俺は先に荷物をまとめる。後で来い」
それだけ言うと、シオンは名残惜しげな表情を見せる主人と軽く微笑を交わし、そのまま酒場を去った。
エルドレッドもタンブラーをぐいっと空け、カウンターの向こうで笑みを浮かべる主人を正視した。
「ありがとう。いろいろお世話になっちゃって」
そう礼を言って懐を探るエルドレッドに、小さく笑った主人が初めて口を開いた。
「お代なら要らんよ。わしからの餞別だ」
言っておきながら、主人は悪戯っぽく片目を閉じて付け加える。
「次にここへ来た時は、がっちりもらうからな。それまで、死ぬんじゃないぞ」
「約束するよ」
エルドレッドは、主人の目を真っ直ぐ見ながら、深くうなずいた。
止まり木を降り、そのままカウンターに背中を向けかけた彼だったが、主人の呼ぶ声に今一度振り向いた。
主人が意味ありげな笑みを口元に湛え、酒場の一隅を指差している。
そこにあるのは、様々な紙が貼り付けられた壁。冒険者たちが情報交換に使ってきた、あの伝言板だ。
エルドレッドは主人の意図に気が付いた。
ゆっくりと伝言板に歩み寄り、彼は一枚の張り紙に視線を注いだ。
『腕に自信のある人を探しています。特に体力と生命力に溢れた……』
すでにこの村を発ち、故国へ帰る少女が貼り付けた、一枚の張り紙。
全ての端緒になった紙だ。
目を伏せ、深く息を吸うエルドレッドの胸中に、万感の思いが湧き上がる。
刹那の間を容れて、彼は胸の底で複雑に絡み合った感情と、思い出とを一気に吐き出した。
そして彼は、少女が残した張り紙を壁から破り取り、酒場を出た。
澄み切った蒼穹の下、心地よく爽やかな風がこのノイラの村を吹き渡ってゆく。
エルドレッドは、手にした張り紙に指を掛けた。彼は、一回、また一回と、噛み締めるように何度も張り紙を引き裂くと、掌の紙片を高く掲げた。
涼やかな一陣の風が巻き起こり、彼の手から紙片を舞い上げる。
風と共に村から遠ざかる紙吹雪を見送りつつ、戦士エルドレッドは深く静かにつぶやいた。
「さよなら、みんな……」
――了――