七.
文字数 7,024文字
ハッと視線を落とす間もなく、硬い土から飛び出した鋭い槍が、エルドレッドの脇腹を深々と刺し貫く。
鎧を突き破った金属質の穂先が、真紅の鮮血と共に背中から突き出した。鋭い痛みが傷口から全身へ放散し、剣を握る手にも震えが走る。
ミュルミアの叫びが、この空間に悲痛に響き渡る。
「エルドレッドさん!!」
「うう……」
歯を食いしばり、詰まった息を絞り出すエルドレッド。
生温かい鉄の味が舌の上に広がり、口の端に血の泡が噴くのが自分で分かる。天然の槍を伝ってぽたぽたと滴る彼の血が、地面を赤黒く染めてゆく。
それでも、剣を振り上げたエルドレッドは、膝を屈さない。崩れそうな体を気力で凛と起こしたまま、両手で握った剣を肩の上に構え続ける。
戦慄くミュルミアを霞む目で見据え、彼は途切れ途切れに訴える。
「ミュルミア、早く、あの呪文を……! 早く……!」
エルドレッドの窮地を前に、シオンが鋼の投網を放り出した。
「エルドレッド!」
小太刀の柄に手を掛けて、シオンが跳び出したその途端、彼の利き足を何かが掴んだ。
「何!?」
地面に引き摺り倒されたシオンの左足首に、巨大なハエジゴクがしっかりと食い付いている。
今の今まで、土の中にずっと潜んでいたのだろう。
この鋼鉄の虎鋏は、地中に堅く根を張っているらしく、シオンの脚力でどれだけ蹴り付けても、ぴくりとも動かない。身動きを封じられたシオンは、倒れ伏したまま顔を起こした。
バイザーの奥の紅い瞳は、唯一無傷の魔術師に向けられている。
「ミュルミア!」
一縷の望みを賭した暗殺者の声が、ミュルミアに飛ぶ。
恐怖と混乱を表情に露わにしつつ、ミュルミアが印を結んだ。だが涙声で再び呪文を詠唱し始めた瞬間、彼女の頭上から微かな落下音が聞こえてきた。
気付いたミュルミアの機先を制して、彼女の両手首にひゅん、と何かが巻き付く。
「ああっ!?」
頭上の闇から降った細い鋼鉄の輪が、魔術師の両手を捉らえている。
親樹の器官の一つだろう。棘のない手錠のような蔓は、ぎりぎりと彼女の細い手首を締め上げる。がくがくと膝が崩れ、ミュルミアが地面にうずくまる。
彼女の倒れ伏す気配を激しい苦痛の中に感じ取り、エルドレッドも遠退く意識の中でぼんやりと悟った。
“ここまでなのか……? ごめん、クライフ。折角助けてくれたのに……”
体を貫かれ、それでも堅く剣を握り締めたエルドレッドも、がくりと片膝を着いた。
と、その時。
エルドレッドの腰に結わえられた布包みが、はらりとほどけた。
白い布の中から、白く煌めく鋼鉄の花が顔を覗かせる。
クライフが咲かせた、命狩る花だ。神々しいまでに巧緻を窮めたその花が、するりと布から滑り、地面にぽとりと落ちた。
刹那、鉄の花は目も眩むばかりの目映い光輝を放ち、この空間の闇を純白に塗り替える。空間を覆い尽くした無数の光の矢は、すぐにある方向へ収斂し始め、一筋の光線になった。
その光線は、三人が来た隧道の奥を真っ直ぐ示している。
幾瞬きもしないうちに、隧道の方から何か音が聞こえてきた。まるで一条の光芒に吸い寄せられるように、風を斬り巻いて何かが飛んでくる。
低い唸りを上げ、高速で回転するその物体は、一直線に戦士と魔術師に迫った。と見るや、それは練磨の技量で槍と蔓を粉砕し、そのまま親樹の幹を直撃した。
耳をつんざく大音響に、うずくまった少女が視線を向けた。
金属の幹に、何かが深々と刺さっている。
大振りで無骨な戦斧、クライフのヴージだ。
「これ……」
思わず洩らすミュルミアの耳元を、甘い麝香の香りが優しくすぐった。 そして高く澄んだ女性の声が、そっと囁く。
「諦めたらダメ」
苦しげに息を詰めるエルドレッドも、その聞き慣れた甘く優しい声に、じっとりと汗の滲む顔を上げた。
「マイムーナ……!?」
彼の視界の端に、黒いコートに身を包んだ女司祭の姿が映る。
間違いない。マイムーナだ。
まだ顔も唇の色も冴えないが、その切れ長のアメジストの瞳には、しっかりとした精気と意志が宿る。
「花になってまで、クライフが頑張ってるんだもの。あたしだって頑張らなくちゃ、クライフに怒鳴られちゃう」
そう告げて軽くウィンクしたマイムーナ。
不敵で妖艶な微笑を湛え、女祭司がエルドレッドとミュルミアを交互に見遣る。
「さあ、もう一度、やってごらんなさい」
両手を口に当て、驚愕に打ち震えるミュルミアに、マイムーナが右手をそっと差し出した。
「あたしが魔力を貸してあげる。あなたは第三階魔術師で、あたしは第七階聖職者なんだから……」
マイムーナが屈託のない、しかし自負と慈愛に溢れた笑顔をミュルミアに向ける。
「二人合わせれば、第十階魔術師“
「は、はい……!」
立ち上がったミュルミアが、マイムーナの右手におずおずと自分の右手を延ばした。
この魔術師の少女の荒れた手が、女司祭の手を取った瞬間、マイムーナが目を閉じた。何か低く詠唱する彼女の全身が、淡い薔薇色の光に包まれる。長い黒い髪がさわさわと逆立つそのさまは、川の流れに揺られる水草を思わせる。
同時に、ミュルミアの腕輪が煌々と輝き始めた。
マイムーナの分け与える魔力が、腕輪に蓄えられているのだろう。今やミュルミアとマイムーナの魔力は混然一体となり、一人の術者にでもなったかのようだ。
エルドレッドは体の芯に、熱い火花が散るのを感じ取った。
「よし……!」
エルドレッドは震える足で地面を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がる。痛みと意識の混濁と闘いながら、彼は自分の剣を地面に投げ出した。戦士の魂が引き寄せた戦斧の柄を右の逆手で掴み、エルドレッドは左の逆手で柄頭を握り締める。
マイムーナと手をつなぐミュルミアも勇気を振り絞り、あの呪文を唱え始めた。
詠唱を続ける魔術師の少女の体は、澄み切った薄紅の霊光に包まれている。目を閉じたマイムーナも、何か別の祭文を詠唱する。
親樹が絶体の危機を察知したのか、三人の足許の地面がぼこぼこと盛り上がった。
無数の小さな土竜塚の中に、金属が覗いて見える。エルドレッドの体を貫いた、あの天然の槍。その鋭利な穂先は、間違いなく三人の心臓を狙っている。
地面に貼り付けられたまま、シオンが忌ま忌ましげに舌打ちした。
腹這いのまま、シオンが小太刀の柄を堅く掴む。彼の口から呪文に似た低い詠唱が洩れ、呼吸のリズムが変わった。同時に、バイザーの奥に秘された暗殺者の瞳孔が針のように細くなり、柄を握る手に力が漲る。
特殊な体術で極限まで研ぎ澄まされたシオンの目には、あらゆる動きが静止して映る。
そして彼には見えた。土の中から槍が撃ち出された、まさにその一瞬が。
その機を逃さず、シオンは小太刀を抜き払った。
ぎんっ、という金属的な音が空間の空気を揺るがした。超絶的な速さで抜き払われた白刃が空気を断ち、三日月にも似た波動を生む。白銀に輝く衝撃波は、地面すれすれに宙を斬り、樹が撃ち出した根を薙いだ。
シオンの剣技は暗殺術だ。
元より人の命を採るための技であって、魔物を斃すためのものではない。しかし槍の狙う先を逸らすには、シオンのが放った衝撃波で充分だった。
目映い衝撃波を受けた無数の槍は、鈍い音を立ててぶつかり合い、目標を失った。ある根は空しく虚空を突き、ある根は互いに破壊し合う。
轟く金属の不協和音を裂き、女たちの呪文と祭文の結句が響いた。
「“モヴァーテ”!!」
「“フォルツァ・アモーレ”!」
ミュルミアの呪言が、エルドレッドを紅蓮の光輝で包み込んだ。彼女独りで唱えた“石火”とは、比較にならないほどに目映い光。
赤い光をまとうエルドレッドの全身を、さらに虹色の極光が包み込む。
エルドレッドの全身に、力がみなぎってくる。
クライフへの恩義、マイムーナへの感謝、シオンへの尊敬、そしてミュルミアへの思慕と鼓舞。
仲間への想いが、エルドレッドの限界を遥かに超えた力へと換えられている。性愛の神に仕えるマイムーナの祭文、“
「うおおぉぉっ!!」
自分でも記憶にないほどの、野太い雄叫びを上げたエルドレッド。
渾身の力で地を蹴った彼は、逆手に掴んだ戦斧で親樹の幹を斬り上げた。信じ難い程の跳躍力で、彼は親樹をめきめきと切り裂いてゆく。
いや、仲間たちの目には、むしろヴージがエルドレッドを引っ張り上げたかのように映った。
虹の軌跡を曳いて、エルドレッドが握り締めるヴージは、鋼の根元から梢までを縦に両断した。容易く、さながら薄絹を切り裂く剃刀のように。
その幹の裂け目から、全身の血も凍る金切り声と、蒼い閃光がほとばしった。
親樹の亀裂から猛烈な風が吹き出し、砂を巻き上げて、轟轟と荒れ狂う。
余りの風圧と閃光に、誰も目を開けてはいられない。
身を屈めたミュルミアが、ぎゅっと目を瞑って耳を塞ぎ、マイムーナが彼女を護るように覆い被さった。俯せるシオンも、バイザーを庇って顔を伏せる。
やがて、光も風もぴたりと止んだ。
それを肌で感じ取り、ミュルミアが恐る恐る目を開けた。
ランタンは、とうに吹き飛ばされてしまっている。が、この空間は、不思議な淡く蒼い光に照らされている。
マイムーナが身を起こした。
ゆっくりと立ち上がったミュルミアも、断末魔の親樹を見上げる。
根元から梢までを縦断する亀裂、それに岩天井に埋もれた梢が、まるで心臓の鼓動のように明滅する、最期の光輝を放っている。
神秘的な光景に、しばし呆然と見入っていたミュルミアだった。
だが樹の根元に視線を落とした途端、ミュルミアの背筋が凍りついた。
戦斧を手にした少年が、仰向けに横たわっている。その傍らに落ちているのは、一輪の鋼鉄の花。
「エルドレッドさん!!」
悲痛な叫びとともに、ミュルミアが横たわる戦士、エルドレッドに駆け寄った。
血染めの腹を晒して倒れた戦士は、目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。砂で汚れた彼の顔だが、息を呑むほど白く、敢然として映る。青白い光のせいもあるが、彼の血の大半が失われたためもあるのだろう。
ミュルミアが、左手に固く戦斧を握り締めた彼の首筋に、そっと触れた。
「どうだ?」
いつの間にか、片足を引き摺ったシオンがミュルミアの横に立っていた。
マイムーナに支えられたシオンは、バイザーを撥ね上げ、砂埃にまみれた素顔を晒している。その表情は堅く、真紅の瞳は、今まで見せたことのない寂しさに満ちる。
「ああ、脈が弱い……」
ミュルミアの指先に触れる戦士の首は、微かに脈打っている。
しかしその拍動は弱く、間隔も長い。
「癒せるか……?」
張り詰めた口調で問うシオンに、ミュルミアが唇を噛み締めてうなだれた。彼女の手は、ローブの裾を穴が開きそうなほど、ぎゅっと握り締めている。
「わたしには、治癒の術は何一つ……」
ミュルミアがが両手で顔を覆った。
マイムーナも、堅く目を閉じて、力なく首を横に振る。
「あたしの“
マイムーナが悲しさに満ちた吐息を洩らした時、シオンの感嘆の声が小さく響いた。
「親樹が……!」
ミュルミアも恐る恐る目を開き、引き裂かれた親樹を見上げた。
そこに見えた幻想的な光景に、ミュルミアも言葉を失う。
親樹の梢近くの光が、蒼さを増していた。そこに無残に開いた裂け目から、何か光るものが雪の如く降ってくる。
それは、水晶を思わせる小さな結晶だ。
小指の先程の大きさもない、仄かな光を内に孕んだ不思議な切り子玉。見た目は、雪とは比較にならないほど硬く重い。だが雪よりも遥かにゆっくりと、樹の上から止め処なく降り注ぐ。
「この結晶は?」
掌に結晶を受けて、マイムーナがつぶやく。
女祭司の手の上で、結晶は場違いな美しさと生命力を湛えている。
「
シオンの問いに返ってきたのは答えではなく、ミュルミアの驚く声だった。
「あっ」
暗殺者と女祭司が向き直るのと同時だった。
わずかに開いたエルドレッドの黒い唇に、結晶の一つが舞い込んだ。
小さな青い結晶を口に含んだその瞬間、死に際の戦士の頬に、赤味が戻ってきた。
息を殺す三人の前で、エルドレッドの唇の間から大きな息が洩れ、まぶたが微かに震えている。
「エルドレッド……?」
シオンの呼ぶ声に、エルドレッドの目がゆっくりと開き始めた。
仰向けたまま、鳶色の瞳を空ろに彷徨わせていたエルドレッドだったが、やがて上から覗き込む仲間たちに気が付いた。
「あれ? シオン。それに、ミュルミア? マイムーナも……」
彼は鈍い動きで身を起こした。
その表情は、まるで寝起きのように爽快で、苦痛の影など微塵もない。
ミュルミアが、起き上がったエルドレッドに無言のまま抱きついた。
「ミュ、ミュルミア?」
ぎゅっと縋り付き、肩を震わせる少女に戸惑いながら、エルドレッドは自分の髪をくしゃくしゃといじる。
そんないつものエルドレッドに、シオンが密かに安堵の息を洩らした。
「よくやったな、エルドレッド」
「えっ?」
まだどこかぼんやりした顔で生返事を返すエルドレッドの前に、暗殺者が片膝を着いた。
「終わったぞ。全部な」
「すごく格好良かった。エルドレッド……!」
彼の脇にしゃがんだマイムーナが、膝の上に両手で頬杖を着いた。湧き上がる興奮を抑え込んだ、静かな笑み。だが頬は赤く染まり、唇が微かに震えているようだ。称賛に溢れたアメジストの目には、わずかに涙が浮かぶ。
「クライフにも見せたかったわ。あなたの最後の一撃を」
その賛意に満ちた一言で、エルドレッドは今までの出来事を全て思い出した。
「クライフ……」
彼はミュルミアが縋り付くに任せたまま、そっと側の地面を探った。その指に、あの鋼鉄の花が確かに触れた。不思議な温かさを帯びた、クライフの魂の形だ。
エルドレッドは淡い光の結晶が降り注ぐ中、天を仰いだ。
“ありがとう。俺、ちょっとはクライフに追い付いたかな……”
その晩遅く、三人は村に帰還した。
足を負傷したシオンは早々に宿の自室に篭り、クライフの花を預かったマイムーナも、そのまま部屋へと戻った。
エルドレッドは独り、ミュルミアを彼女の部屋へと送る。
ドアの前に佇み、ミュルミアは生命素の結晶を詰めた小さな革袋を胸に抱いている。
鎧を脱ぎ捨てたエルドレッドは、まだ血の汚れが残る服で少女の前に立つ。所在なげに視線を床に彷徨わせながら、彼は真っ赤な顔で髪をくしゃくしゃと引っ張るようにいじり回す。
夜半の静寂の中、先に口を開いたのはミュルミアだった。
視線の定まらないエルドレッドの顔を見上げ、彼女が告げる。
「わたし、何とお礼を言っていいのか分かりません。でも、本当にありがとうございました……」
碧緑の瞳を潤ませて、ミュルミアは精一杯の礼を述べた。
エルドレッドは、彼女と真っ直ぐ目を合わせつつも、困惑気味の笑みを浮べる。
「いいよ、そんなの。俺も、めったにない経験を積ませてもらったし」
そう言って、彼は息をついた。
胸中には、大きな達成感と深い悲哀とが複雑に交錯する。もう誰かに何か求めようという気は、何ら湧いても来ない。
清明な気持ちで、彼はミュルミアに笑いかけた。
ミュルミアが、初めて笑顔を見せた。
疲れ切ってはいるが、どこにも繕った所がない、自然で可憐な笑みだ。
エルドレッドは、ミュルミアの生来の笑顔に触れて、心の底に深い安堵が広がるのを感じた。
彼は目を閉じ、すうっと深呼吸する。
――ああ、よかった。やっと、全部終わった――
そんなエルドレッドを眩しげに見上げていた彼女だったが、突然うつむいた。
罪悪感と重圧感、二つの重荷から、ようやく解放されたのだろう。
華奢な両肩は小刻みに震え、頬を伝う涙の雫が床に零れ落ちた。
この瞬間までずっと、ミュルミアは泣きたいのさえ、我慢してきたのに違いない。大きな使命を果たした今、ようやく本来の自分を晒すことができたのだ。
「何かお礼を差上げたいのですが、わたし……」
ミュルミアが初めて流した涙を目にして、エルドレッドは慌てた。
「あ、いや、そんなのいいよ。俺は別に何か欲しくて……」
そこまで口走ったエルドレッドに身を寄せ、ミュルミアが震える華奢な手で、彼の胸許をギュッと握る。
「わたしが、あなたにあげられるのは、一つだけ……」