一.
文字数 4,723文字
広大な麦畑の彼方に、真円の日輪が沈んでゆく。
巣に戻る鳥たちが白雲をかすめるように翔び、大地を渡る風は碧色の麦穂をゆらゆらと揺らす。長閑で平和な、農村の夕べだ。
今はもう、麦畑には農夫の姿はない。一日のわざをすべて終え、家族が待つ家に帰ったのだろう。
だが広大な麦の海を両断する街道に、長い影が二つ並ぶ。どちらの形も、農夫とは程遠い。
一人は盾と剣、それに半身鎧で武装した少年。年は十六、七というところだろうか。亜麻色の柔らかな髪が、そよ風に揺れている。
もう一人は、反り身の剣を左手に提げ、薄汚れたザックを右肩に掛けた身軽な旅装の青年。剣を握る左の手首には、小さな環の付いた銀色のリストバンドが光る。
「やっと人里に出たね」
傷だらけの半身鎧に身を包んだ少年は、心底から安堵の息をついた。彼は背中の丸盾とナップサックを負い直し、傍らの青年に鳶色の瞳を向ける。
「そうだな」
短く返した青年の衣服、それに肌も髪も泥や塵で汚れているが、本来はその肌も髪も純白だと思しい。さらに通った鼻筋といい、切れ長の双眸といい、人間離れした美貌の持ち主だ。実際、その真紅の瞳は、青年が人間とは異なる者であることを暗示している。
飾り気の全くない、質素な長剣を腰に吊った少年は、足を止めずに青年に話しかける。
「あー、野宿の連続で疲れちゃったよ。これでベッドで休める。あ、でもそれより食事かな? このところまともな物を食べてないしさ」
「お前の料理が不味いだけだ、エルドレッド」
すかさず横槍を喰らったこの少年、エルドレッドは即座に反発して、頬を膨れさせる。
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃないか。何でも器用なシオンと比べられても困るよ。俺とシオンじゃ、経験が違い過ぎるんだ。大体、シオンは今年で何歳なんだよ」
「数え切れるものじゃない」
そううそぶいた青年シオンは、何の感情も伺えない口調で続ける。
「だから俺の経験を多少なりとも、分けてやってるところだろう。それがお前の希望だったからな」
「そうだね」
シオンの冷淡な言葉を聞き、エルドレッドも感謝を込めて軽くうなずく。
「シオンを匿ったのは偶然だったけど、今はすごく助かってるよ。ありがとう」
「礼など言うな。俺が次の都市へ行くまでの間のことに過ぎん。大してお前の血肉には、ならんだろうがな」
真意がどこにあるのか測りがたい、冷ややかな物言いだが、エルドレッドは素直にうなずく。
「分かってる。それも俺の心がけ次第だって、言いたいんだよね? シオン」
そう言って、エルドレッドが清明な笑いを洩らしたときだった。
不意にシオンが立ち止まった。
「どうしたんだ?」
エルドレッドも半歩遅れて立ち止まると、シオンが鋭く警句を放った。
「動くな」
「えっ?」
エルドレッドが口走るのと同時に、街道脇の麦の穂がかさかさと鳴った。
シオンが音もなく、エルドレッドと背中を合わせて屹立する。と、ほとんど同時に、二人の前後に三つの人影が跳び出してきた。エルドレッドの前に一人、シオンの前に二人。腰を低く落して身構えた男が立っている。
いずれも薄汚れた粗末な身なりに口許を布で覆い、鈍く光る
この三人の男は、鍔のない片刃の短剣をちらつかせつつ、エルドレッドとシオンをじっと見据える。覆面のせいで、彼らの顔つきははっきりとは分からない。だが、覆面から出ている疲れ切った目許や、まばらに髪に混じる白いものから察するに、決して若い、とはいえないようだ。
また彼らが握る匕首も、どれもかなり使い込まれている。武器というよりは、日常の道具や農具の一つとして使われていたのだろう。
「何なんだ?」
エルドレッドは特に驚くこともなく、短く聞いた。頭の中でこの後の展開を予想しつつ、彼は目の前の覆面の男をじっと見つめる。
この覆面の男もエルドレッドを見返しながら、黒い布の下で簡潔に口を開いた。
「分かるだろ。金を出しな」
訛りはあるが、きちんとしたこの大陸の共通語だ。予想どおり過ぎる展開に、エルドレッドは小さくため息をつく。
……ああ、やっぱりこうなった。
彼が流浪の生活に身を投じて、何年かは過ぎている。いわゆる追い剥ぎや野盗に出くわすのも、これが初めてではない。
うんざりしつつも、エルドレッドは感情の起伏を抑え、正直に懐具合を語る。
「俺、金なんか持ってないよ。まだ駆け出しの“冒険者”なんだから、大して依頼を片付けてるワケじゃないんだ。他を当たった方がいいよ」
だが、この男は聞く耳を持たず、エルドレッドに食い下がってくる。
「それでも『冒険者』だったら、その辺の村人よりゃあ、よっぽど手持ちがあるだろが」
おもむろに左手を差し出しながら、男が苛立った口調で言う。
「出すものさえ出しゃあ、何もしやしねえよ。オレたちだって、手荒なマネはしたくはねえんだ。なあ、分かるだろ?」
男が武装した旅姿のエルドレッドをじろじろと眺め回す。
「坊主、おめえは若いんだし、怪我なんかしたくねえだろが」
この男の挑発的な言葉を聞いて、シオンが冷淡な苦笑を洩らした。
「お前も舐められたものだな、エルドレッド」
諧謔的な口調で言いながら、シオンが肩をすくめる。
「武装した戦士、それも”
「分かってるよ」
反抗的に返したエルドレッドは、口許をむっと曲げた。
確かに、エルドレッドはまだ若い。それに武装しているとはいえ、彼の顔付きは戦士と主張するには、少々柔和過ぎる。頬を膨れさせた彼は、長身のシオンを反抗的に見上げた。
彼もエルドレッドの不機嫌な眼差しを受けて、おどけたように再び肩をすくめる。
エルドレッドは、もう一度正面に顔を向けた。その鳶色の瞳に強い反発と闘志を載せて、目の前の男をぐっと睨む。
……この三人組の野盗は、すぐに襲い掛かってこなかった。まず話しかけてきたところを見ると、ことを荒立てたくないのか、それともこちらを警戒しているのか、どちらかに違いない。いずれにしても、この野盗たちは、あまり腕には自信がないのだろう。
そこまで考えた彼は、両腕を組んだ。あえて腰の剣には手を延ばさずに、正面の野盗を見据える。
「俺は『坊主』でもなけりゃ、子供でもないよ。俺にもエルドレッドって名前があるし、大体、野盗の言うなりになんか、ならないぞ。俺だって戦士のはしくれなんだ!」
エルドレッドは強い口調で主張した。
『俺だって戦士だ』、そう口にした彼の胸の内に、剣を取る者としての自覚と闘志が、ふつふつとたぎってくるのを実感できる。
「おや、そうかい」
そう短く返した男は、仲間たちと一瞬視線を交わした。お互いに目配せして、何やら意志を確認し合った野盗たちだったが、視線を再度エルドレッドに戻した。
彼の正面に立つ野盗が、眉間に険しくしわを寄せ、如何にも残念そうな口調を装う。
「おとなしく出すもん出しといた方が、お互いのためだと思うんだがなあ」
どうやら、この男が一団の頭目らしい。
「まあ仕方ねえか。こうなりゃ、力づくでもらうだけだ」
頭目のこの言葉を合図に、野盗たちはさらに腰を落とした。
身構えた野盗は、エルドレッドの前に頭目が一人。背後に二人が立っている三人ともすり足しつつ、エルドレッドと青年の周囲をじりじりと回り始めた。
エルドレッドの背後から、シオンの淡々とした問いが飛んできた。
「どうするつもりだ?」
背中合わせのシオンの口調には、この期に及んでも何の起伏も感じられない。エルドレッドは、頭目から視線を離さず、相棒に聞き返す。
「えっ? どうするって?」
「始末の付け方はお前が決めろ、エルドレッド」
シオンの言葉が冷たくと響いた次の瞬間、野党の頭目が地面を蹴って宙に舞った。そして逆手の匕首を振り上げて、エルドレッド目がけて打ち下ろす。
「うわっ」
エルドレッドは咄嗟に上体を捻り、頭目の刃を受け流した。
彼と頭目の体は、密着するほど間合いが詰まり、腰の長剣を抜くのもままならない。どう闘うか、瞬時に判断した彼は、背中の荷物をするりと落とした。
頭目の体勢が崩れている一瞬の隙を縫って、盾にさっと左腕を通す。使い慣れた丸盾を体の正面に支え、エルドレッドは低く身構える。
頭目も、すぐに上体を起こした。わずか二歩ばかりの間合いを保ち、順手に持ち替えた匕首をひゅんひゅんと振り回す。
エルドレッドは盾を駆使して閃く刃を受け止めつつ、頭目の動きを観察した。匕首自体はやや大ぶりで、切れ味は自体悪くはなさそうだ。が、使い手の頭目には、それと分かる明確な太刀筋は見て取れない。きっと戦士としての訓練は受けていないのだろう。
とはいうものの、懐にまで入り込まれた状態で、闇雲に匕首を振り回されては、さすがにたまったものではない。
エルドレッドは、体の正面に構えた盾を、さりげなく横へずらした。
傷に覆われた鉄の胸甲が、ほんの少し、露わになる。その半身鎧の少し下には、質素な服がむき出しになったわき腹が覗いて見える。
野盗の頭目が、無防備に晒されたエルドレッドのわき腹に視線を留めた。エルドレッドに作られたわずかな隙を衝き、頭目が手の中の刃を鋭く突き出した。
渾身の力が込められたその切先は、狙いを違わずエルドレッドのわき腹を抉るかに見えた。
だが、エルドレッドが待っていたのは、まさにその瞬間だった。彼はくいっと腰を捻ると、するりと匕首をやり過ごした。同時に頭目の体勢も前のめりに崩れ、つまづくようにつんのめる。
そこでぐっと脇を締めたエルドレッド。空の右腕で頭目の匕首を、あらん限りの力をもって挟みこむ。
「おお!?」
自由を奪われた頭目は、大きく目を見開いた。エルドレッドが押さえ込む手を引き抜こうと、頭目が力一杯にじたばたと足掻く。機会を見計らっていたエルドレッドは、頭目の足掻きが最高潮に達したのを感じ、引き締めた右腕を突然ぱっと緩めた。
「ああ!?」
一言声を上げて体勢を崩した頭目が、ふらふらと後ろへ数歩よろめいた。
その頭目を追って、エルドレッドは大きく踏み出した。腕に結わえた盾をグッと構え直し、彼は凸レンズ状に湾曲した丸盾の表面を、頭目の顔面に思いっきり叩き込む。
「ぎゃ!!」
頭目の歪んだ口から、くぐもった悲鳴が上がる。割れた銅鑼を殴打するような耳障りな音とともに、頭目は鼻から血を噴いて、ぐらりと仰け反った。
だがエルドレッドの動きは止まらない。ざっ、ともう一歩踏み込み、彼は上を向いた頭目のあごの先に、丸盾で突っ込む。
「ぐあ!!」
がつん、という痛々しい音と低い悲鳴が響き、頭目のつま先が地面から浮いた。まるで宙返りでもするかのように、その体は鮮やかに背中を見せて、ぐるりと裏返る。
強烈な二打を顔面に浴びた頭目が、地面に落ちて倒れ伏した。匕首は手から離れて転がり、その腫れ上がった顔は白目を剥いている。この様子では、頭目はもう当分の間は起き上がって来られないだろう。
エルドレッドは、ふうと息をつき、額に薄く滲んだ汗をぐいっと拭った。
と、そこで彼は思い出した。
……野盗は、あと二人残っている。