三.
文字数 5,292文字
エルドレッドにとっては、答えにくい質問だ。
だがクライフは、これから行動を共にしようという仲間ではある。慎重に言葉を選びながら、エルドレッドは答える。
「さあ、直接は知らないよ。確かに、セロモンテは俺がシオンと会った街だけど。シオン、誰かに追われてたみたいだから、ちょっとだけ匿ったけどね」
「じゃあおめえたちは、今はほとぼりを冷ましてる最中って訳だな」
「そうなるのかな? 確かに、シオンは目立つことを嫌がるけどね」
「ねえ、ちょっと」
マイムーナが焦れったげな声を上げた。二人の話に付いていけないのだろう。彼女は軽い苛立ちを隠せない様子で、エルドレッドとクライフを交互に見る。
「二人とも、何のお話なの? あたしにも分かるように話してよ」
だがクライフは取り合わない。彼は不精髭の伸びた口許でふふんと笑い、意味在りげにエルドレッドの肩を叩いた。
「気にすんな。男にしか分からねえ話だ。な? エルドレッド」
「え? あ、いや、えーと」
いきなりのことで、エルドレッドには反応できなかった。どう答えていいのか分からずに、彼はもごもごと口ごもる。
さすがのマイムーナも、ちょっと気分を害した様子を見せながら、艶やかな唇を尖らせた。
「ああ、そうですか。どうせ女のあたしには、分からないですよーだ」
くるりと二人に背中を向けた彼女は、そのままわざと大きな靴音を立てて階段を昇り始めた。が、その中ほどで突然立ち止まり、立ち尽くす戦士たちを見下ろした。その眉は逆立ち、頬も膨れている。
「あ、えーと、マイムーナ……?」
「今夜はもう一人にしといてよね!」
エルドレッドのためらい一杯の呼びかけなど、怒ったマイムーナには意味がなかった。それだけ一方的に告げると、マイムーナは二階に姿を消した。続けて聞こえてきたのは荒々しく閉じたドアの音。
エルドレッドはうつむいた。もっと聖騎士の話を聞きたかった、残念な吐息をつくエルドレッドの耳に、クライフの捨て台詞が小さく響く。
「ふん、今夜も、の間違いだろ!」
舌打ちと苦笑と、混然となった鼻息でそう吐いたクライフ。
そんな戦士にエルドレッドは聞いてみた。
「クライフとマイムーナ、一緒の部屋じゃないんだ」
「ああ、まあな」
クライフは角張った顎にまばらに伸びた髭をいじりながら、口許を曲げた。
「どうしても相部屋はダメなんだとよ。だからいつも部屋は別々だ。マイムーナと旅するようになって、半年になるけどな」
「どうして?」
「知らん」
クライフは頭の後ろで太い腕を組み、投げ遣りに言い放った。
「『神様の思し召し』、だとよ。何だか知らんが、教義上の問題で、独りの時間と場所が要るんだと。アレは自由だと言っときながら、全く分からねえ話だぜ」
クライフが、そのままエルドレッドに背中を向けた。彼の爪先は、廊下の奥のドアを向いている。歩き出す前に、クライフが隆起した右肩越しの視線を向けてきた。
「よう、おめえも今夜はマイムーナに近付かん方がいいぜ。オレも放っとくからよ。明日になりゃあ、機嫌も直ってるだろうけどな」
エルドレッドは、試しに聞いてみた。
「近付くと、どうかなるのか?」
すると、にやっと笑ったクライフが、一言こう口にした。
「死ぬぞ」
それだけ言うと、彼はまた後ろを向いた。クライフが背中からエルドレッドに言葉を投げる。
「オレはもう寝るぜ。おめえもゆっくり休むんだな」
「ああ、そうするよ。おやすみ、クライフ。また明日」
「じゃあな」
肩越しに小さく手を振って、クライフは突き当たりのドアに消えた。
ただ一人、無人のロビーに取り残されたエルドレッドだったが、すぐに彼も二階に上がった。
二階に上がったエルドレッドは、向き合わせた二枚のドアを見比べた。
それぞれに客室の番号が書かれている。
片方は、シオンがいるはずの部屋だが、もう一方はどうやらマイムーナの部屋らしい。しかし彼はクライフの忠告に従って、素直にマイムーナの部屋から離れた。
エルドレッドは、相棒の部屋のドアをそっと二回ノックする。
「シオン、エルドレッドだよ。入るから」
そう断わりを入れて、彼はドアを開けた。
二脚のベッドが据えられた客室の中に、灯りはない。開け放たれた窓から差し込む月光が、小さな部屋に蒼い光と藍色の翳の対比を作り出している。
その窓辺に、シオンがいた。窓枠の上に横向きに座り、彼は片膝を抱えている。
遥か彼方を見つめるシオンの顔は、ドアの前のエルドレッドからは見えない。ただ微かな、か細い草笛の音だけが聞こえてくる。
「シオン」
エルドレッドは静かに声を掛けた。
だがシオンはすぐには答えない。口に当てた楽器ならざる楽器を使い、彼は哀愁の漂う異国のメロディーを奏で続ける。
幾度となく耳にした相棒の草笛。淀みのない旋律を聴く度に、エルドレッドの胸は不思議な郷愁に絞め付けられてきた。その旋律がどこのものなのか、いつも考える彼だったが、結局この日も想像は付かなかった。
これ以上の言葉を投げるよりも、待つことを選んだエルドレッドがベッドに座った時だった。
草笛の音色が跡切れ、シオンの口から声が洩れた。
「遅かったな」
一言投げよこし、シオンが初めて向き直った。
冷たい月輪の光を受けた彼の顔は一段と白さを増し、霜の降りたアラバスターのトルソーを思わせる。
「例の話を聞いてきたのか」
「うん。まあね」
エルドレッドは借りた財布をローテーブルに置きながら、率直にうなずく。続けて荷物を下ろす彼に視線を注いだまま、シオンが短く問いを投げてくる。
「行くのか?」
「ああ、そのつもりだよ」
顔を上げ、エルドレッドは相棒の目を真っ直ぐ見返した。
緑の葉を片手に、窓枠の上に座るシオンの目は、夜を背景に紅玉の煌めきを放っている。しばしの間、じっとエルドレッドの目を注視するシオンだったが、すぐに視線を逸した。
「そうか」
淡々と返したシオンは、再び窓の外に広がる夜に視野を移した。夜空を飾る無数の星辰を数えつつ、彼はエルドレッドに忠告する。
「無理はするな。お前はまだ稚い。命と金を秤に架けるような真似は、絶対に止めろ」
「ああ、分かってる」
ブーツから右足を引き抜いて、エルドレッドも素直に答える。
「シオンがいつも言ってることだし、その位は俺だって」
左足もブーツから引っこ抜き、彼はベッドの上に大の字になった。
久々に味わうベッドの感触だ。その心地好さは、長旅と、今日の出来事で積み重なったエルドレッドの疲れを、逆に強く感じさせる。
夜闇の中、エルドレッドの目にも何とか映る天井の梁が、うねうねと動き始めた。瞼がだんだん重くなる。呼吸も自然と深く、緩慢になってきた。
そんなエルドレッドの様子を気配で察したのか、窓枠のシオンが彼方を眺めたまま、声を掛けてきた。
「もう寝ろ。明日は早いんだろう」
「ああ、うん。そうするよ」
ハッと一瞬覚醒し、エルドレッドは麻の上着やトラウザスを脱ぎ捨てた。白い肌着姿の彼は、横になる前にシオンに目を遣った。
「シオンは? まだ寝ない?」
そんなエルドレッドの言葉の響きには、相棒への気遣いに溢れている。シオンがふっと笑いを洩らした。銀河を見上げ、彼はつぶやくように答えを綴る。
「俺はもう少し夜を愉しむ。先に眠れ」
「分かった」
エルドレッドは、ごそごそとベッドに潜り込んだ。シーツを引っ張り上げながら、エルドレッドはシオンに一言告げる。
「おやすみ、シオン」
「ああ」
彼が目を閉じるのと同時に、シオンは再び緑の葉を口に当てた。
流れ出る柔らかな子守り歌に包まれて、エルドレッドは程なく眠りの淵に墜ちていった。
翌朝。
夜明けと同時に目を覚ましたエルドレッドは、かちゃかちゃと音を立てながら身支度を始めた。
隣のベッドはもう空になっている。相棒が行き先も告げずに消えることは、特に珍しくもない。シオンがどこへ行ったのか、軽く思い巡らせながら、エルドレッドは傷だらけのブレストプレートを身に着けた。
両手を鋼の籠手で覆い、使い慣れた長剣を腰に帯びる。
ドアを開ける前に、エルドレッドは部屋の中を見回した。持って行くべきものはあるか、もう一度確認した彼は、床に置かれた荷物に手を延ばした。
その鋼の指先が捉らえたのは、小さな布のナップサック。中には一束のロープ、ナイフと紙包み、それに皮の水袋が一つ入っている。
エルドレッドはナップサックを背負うと、使い込まれた盾を腕に結わえて部屋を出た。
宿を独り出たエルドレッドの目を、まばゆい朝陽が鋭く射抜く。早朝の蒼穹に、金色の曙光を遮るものは何もない。
一瞬目を覆った彼だったが、すぐに立ち直り、宿が面する村の広場に踏み出した。
朝一番の広場には、すでに何人もの村人がいる。手に手に鋤や鎌を持った彼らは、やはり農夫と思しい。
これから畑に出向く農夫たちは、武装した戦士姿のエルドレッドを特に何の感情もなく眺めている。
……衆人環視の中に立ち尽くすのは、何となく気後れがする。
エルドレッドは、やり場なく髪をくしゃくしゃやって広場の真ん中に佇む。
落ち着きのない彼の視線が地面に彷徨った時、ぽん、と後ろから肩を叩かれた。振り返ると、エルドレッドの背後に美女が立っている。
黒髪の女祭司、マイムーナだ。
「おはよう、エルドレッド。早いのね」
そう言って、マイムーナはにっこりと微笑んだ。
やはり夕べクライフが言ったとおり、一晩おいた彼女の機嫌は、すっかり元に戻っている。
エルドレッドは、ホッと胸を撫で下ろした。
「あ、うん。おはよう、マイムーナ」
挨拶を返してから、エルドレッドはマイムーナの姿を改めて見直した。
皆と共に危険な場所へ赴こうという彼女だが、鎧は着けていない。黒い革のロングコートと、ガーターで吊られた長い黒革のブーツ。
黒い革手袋の手が握るのは、妖しい彫り物のある黒檀の杖だ。黒一色の装備が、彼女の妖艶さをいやがうえにも引き立てる。しかしやはりというべきか、マイムーナのいでたちは、どう見ても冒険者とは思えない。
そんな彼女へのエルドレッドの感想は、一言に凝結して彼の口からぽろっと零れた。
「大丈夫? その格好で」
心配が一杯に滲み出た彼の言葉を聞いて、マイムーナはうふふ、と笑った。菫色の瞳でエルドレッドを流し見て、彼女が平然と答える。
「あら、心配してくれるの? 嬉しいわ。でも大丈夫よ。あたしはずっとこれで通してきたんだから」
余裕たっぷりに微笑んで、マイムーナはエルドレッドをじっくりと眺め回す。
「そう言うあなたは、きちんとした装備をしてるわね、エルドレッド。立派な戦士だわ」
「あ、いや、えーと、ありがとう」
年上の美女に褒められて、エルドレッドの頬がちょっぴり火照った。彼は、自分の体を覆う装備をぐるぐると見回す。
「俺たちノイ派の戦士は、盾でも籠手でも、使える物は何でも使うから。できるだけ装備は固めておけっていうのが、教えなんだ」
そこでエルドレッドは、絶えず好意的に微笑むマイムーナに視線を戻した。
「そういえば、クライフは?」
二重の問いを折り込んだ一言だ。マイムーナもそれに気が付いたのか、意味ありげに口許で微笑む。
「とりあえず置いてきたわ。クライフ、朝に弱いの。でももうそろそろ来るわ。彼がどんな戦士かは、見た方が早いわね」
マイムーナが宿の方へと視線を向けた。彼女の艶やかな黒髪が、そよ風に揺れている。
女祭司の均整が取れた横顔を眺めつつも、エルドレッドが考えていたのはクライフのことだった。
“第六階”といえば、戦士にせよ魔術師にせよ、全十階梯の内では上から五番目に当たる。いよいよ一人前と見なされ、どこへ出ても通用する階梯だ。
その一人前のクライフが一体どんな姿をしているのか、同じ戦士としてエルドレッドは気になった。
全身を覆うスーツアーマーの重戦士か、それとも逆に一振りの剣と一枚のマントを頼みとする剣士なのか。
エルドレッドはまだ戦士歴が浅い。“第六階”以上の戦士に会ったことはほとんどなく、彼の想像は膨らむばかりだ。
だがそんなエルドレッドの空想は、マイムーナの一言で中断した。
「ほら、来たわ」
はっと顔を上げるエルドレッドの横で、マイムーナが悪戯な呼び声を上げた。
「相変わらずお寝坊ね、クライフ」
「うるせえな」
即座に返ってきたのは、戦士の野太く不機嫌で、ぞんざいな返事だ。そんな乱雑な言葉の主、クライフの方に向き直ったエルドレッドは、我が目を疑った。