第13話 ナチスドイツの原爆製造

文字数 2,204文字

ニールス・ボーアはスウェーデンに脱出した後、イギリス、アメリカと移動し、原爆製造には直接携わらなかったがロス・アラモスまで行き、原爆製造の科学者トップのJ・ロバート・オッペンハイマーにも会っている。アメリカの理論物理学者で、チェーンスモーカーのオッペンハイマーは、ボーアに対して深い尊敬の念を覚えた。

ハイゼンベルクとボーアは絶交したわけでなく、戦後何度か会っているが、今やナチスドイツを代表する物理学者ハイゼンベルクとその占領国デンマークのユダヤ人の血を引くニールス・ボーアの間には深い溝ができ、1920年代にあんなに親しく共同研究をし、不確定性原理を元にボーアが相補性概念を発明し、二人で「コペンハーゲン解釈」の担い手となったのに、ハイゼンベルクは師と仰ぎ友としてあんなにもボーアと近しい関係になったのに、それは戦争が終わっても完全には元に戻らなかった。ハイゼンベルクは科学者仲間で最も親しくしていたボーアと疎遠になり、非常に寂しい思いをしていた。

1939年末から1940年の初めにかけ、ハイゼンベルクはベルリンのワイツゼッカーたちと連絡を取りながら、動力用原子炉における核分裂の理論的研究という「ウラン・クラブ」の仕事に着手していた。ウラン・クラブ…それがナチスドイツの核分裂に関する研究チームの名前だった。

ドイツの軍事研究を管轄するトップとなっていたアルベルト・シュペーアは、ハイゼンベルクに原子爆弾がいつ頃できるのか尋ねた。

「理論的には爆弾の製造を妨げるものは何もないが、技術的な必要条件を整えるために数年、どんなに早くとも二年は必要で、それも最大限の援助があればという条件付きで。莫大な費用と年月、技術的な出費が必要となる」
とハイゼンベルクは答えた。

例えば、ウラン、重水、プルトニウム、原子炉を遮蔽する金属などである。アメリカ合衆国では、広大な国土と豊富な資源をオッペンハイマーたちの科学者グループに与えた。また、アメリカはまだ参戦しておらず、ドイツの大都市は連合国の激しい爆撃を受け始めて、資材を調達するのもままならなかった。ドイツとアメリカにはこうした歴然とした差があり、それはハイゼンベルクのような一級の科学者一人で解決できる問題ではなかった。

どのハイゼンベルク史にも出る面白いエピソードを私も挙げておく。
エアハルト・ミルヒ元帥はハイゼンベルクに尋ねた。
「たとえば、ロンドン程度の大都市を壊滅状態にするとしたら、どれくらいの大きさの原爆があればいいのかな?」
ハイゼンベルクは手で大きさを示しながら、「ほぼパイナップルくらいのものでしょう」
と答えた。

(生成AIに英語のテキストを入力して得た画像)

1942年6月23日、ハイゼンベルクの回答にがっかりしたシュペーアが「原子を分裂させることについて」の簡潔な報告書をヒトラーに提出したその日、ライプツィヒ大学のハイゼンベルクの研究所で原子炉の事故が起こった。

原子炉の様子を急いで見に行ったハイゼンベルクは、水の中に沈められた原子炉から、ガスが発生したのを見た。それが水素ガスだったので、水が球体の中に入ったのだとハイゼンベルクは結論した。

その後、ウラン酸化物を取り除くため金属カバーのネジが外され、シールが壊されると、突然シューッという音がした。真空中に空気が入る音だった。1、2秒してから、炎とガスがカバーの周りに吹き出し、燃えるウランの粒子があたりかまわず研究所中に吹き出した。

原子炉にはすぐに水がかけられ、炎はしだいに収まった。ハイゼンベルクは酸素が球体の中に入ったのだと考え、酸素の供給を絶ち、球体を冷やすため、またタンクの中に沈めさせた。その後、ハイゼンベルクはセミナーのため立ち去った。

数秒後に爆発の轟音がした。燃えるウランが24フィート(7.315 メートル)の高さの天井まで舞い上がり、建物を炎で包んだ。数分で地元の消防隊が到着し、まもなく火災を沈めた。

しかし、どれほど大量の水と泡を注いでも、球体内部の火は消せないようだった。原子炉は二日間燃え続け、最後に「ゴボゴボと音を立てる沼」のようになって鎮火した。爆発の力は100個ものボルトをちぎり、原子炉の二つの半球を引き裂いていた。ハイゼンベルクと研究員のデーベルは死ぬか、瀕死の重傷を負うところを間一髪で逃れた。

消防隊長はハイゼンベルクの「原子が暴発」したと言い、ライプツィヒ大学の同僚たちは、ハイゼンベルクが原爆製造に成功したと考えて、その業績を祝ってくれた。ハイゼンベルクの研究室と重水とウランを台無しにしたこの事故には尾ひれがついて、ドイツの物理学者が数人死んだという報告となり、アメリカにまで達した。もちろんオッペンハイマーたちは、ドイツに先を越されないよう頑張らねばという思いを強くしたことだろう。

尾ひれに尾ひれが付いて、1942年10月29日、アメリカ合衆国は、ドイツの天才物理学者ハイゼンベルクを誘拐するか始末する(殺害する)必要があると考えた。チャンスはハイゼンベルクがチューリヒに講演に来たとき訪れたが、いったん中止され、後に直接の下手人を変えてこのプロジェクトは再浮上する。関与した主な組織はアメリカ合衆国のOSS、後のCIAであった。

アメリカは特に、核分裂を発見したオットー・ハーンと、ドイツの原爆製造のリーダーであるヴェルナー・ハイゼンベルクを危険視した。

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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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