第13話 ナチスドイツの原爆製造
文字数 2,204文字
ハイゼンベルクとボーアは絶交したわけでなく、戦後何度か会っているが、今やナチスドイツを代表する物理学者ハイゼンベルクとその占領国デンマークのユダヤ人の血を引くニールス・ボーアの間には深い溝ができ、1920年代にあんなに親しく共同研究をし、不確定性原理を元にボーアが相補性概念を発明し、二人で「コペンハーゲン解釈」の担い手となったのに、ハイゼンベルクは師と仰ぎ友としてあんなにもボーアと近しい関係になったのに、それは戦争が終わっても完全には元に戻らなかった。ハイゼンベルクは科学者仲間で最も親しくしていたボーアと疎遠になり、非常に寂しい思いをしていた。
1939年末から1940年の初めにかけ、ハイゼンベルクはベルリンのワイツゼッカーたちと連絡を取りながら、動力用原子炉における核分裂の理論的研究という「ウラン・クラブ」の仕事に着手していた。ウラン・クラブ…それがナチスドイツの核分裂に関する研究チームの名前だった。
ドイツの軍事研究を管轄するトップとなっていたアルベルト・シュペーアは、ハイゼンベルクに原子爆弾がいつ頃できるのか尋ねた。
「理論的には爆弾の製造を妨げるものは何もないが、技術的な必要条件を整えるために数年、どんなに早くとも二年は必要で、それも最大限の援助があればという条件付きで。莫大な費用と年月、技術的な出費が必要となる」
とハイゼンベルクは答えた。
例えば、ウラン、重水、プルトニウム、原子炉を遮蔽する金属などである。アメリカ合衆国では、広大な国土と豊富な資源をオッペンハイマーたちの科学者グループに与えた。また、アメリカはまだ参戦しておらず、ドイツの大都市は連合国の激しい爆撃を受け始めて、資材を調達するのもままならなかった。ドイツとアメリカにはこうした歴然とした差があり、それはハイゼンベルクのような一級の科学者一人で解決できる問題ではなかった。
どのハイゼンベルク史にも出る面白いエピソードを私も挙げておく。
エアハルト・ミルヒ元帥はハイゼンベルクに尋ねた。
「たとえば、ロンドン程度の大都市を壊滅状態にするとしたら、どれくらいの大きさの原爆があればいいのかな?」
ハイゼンベルクは手で大きさを示しながら、「ほぼパイナップルくらいのものでしょう」
と答えた。
(生成AIに英語のテキストを入力して得た画像)
1942年6月23日、ハイゼンベルクの回答にがっかりしたシュペーアが「原子を分裂させることについて」の簡潔な報告書をヒトラーに提出したその日、ライプツィヒ大学のハイゼンベルクの研究所で原子炉の事故が起こった。
原子炉の様子を急いで見に行ったハイゼンベルクは、水の中に沈められた原子炉から、ガスが発生したのを見た。それが水素ガスだったので、水が球体の中に入ったのだとハイゼンベルクは結論した。
その後、ウラン酸化物を取り除くため金属カバーのネジが外され、シールが壊されると、突然シューッという音がした。真空中に空気が入る音だった。1、2秒してから、炎とガスがカバーの周りに吹き出し、燃えるウランの粒子があたりかまわず研究所中に吹き出した。
原子炉にはすぐに水がかけられ、炎はしだいに収まった。ハイゼンベルクは酸素が球体の中に入ったのだと考え、酸素の供給を絶ち、球体を冷やすため、またタンクの中に沈めさせた。その後、ハイゼンベルクはセミナーのため立ち去った。
数秒後に爆発の轟音がした。燃えるウランが24フィート(7.315 メートル)の高さの天井まで舞い上がり、建物を炎で包んだ。数分で地元の消防隊が到着し、まもなく火災を沈めた。
しかし、どれほど大量の水と泡を注いでも、球体内部の火は消せないようだった。原子炉は二日間燃え続け、最後に「ゴボゴボと音を立てる沼」のようになって鎮火した。爆発の力は100個ものボルトをちぎり、原子炉の二つの半球を引き裂いていた。ハイゼンベルクと研究員のデーベルは死ぬか、瀕死の重傷を負うところを間一髪で逃れた。
消防隊長はハイゼンベルクの「原子が暴発」したと言い、ライプツィヒ大学の同僚たちは、ハイゼンベルクが原爆製造に成功したと考えて、その業績を祝ってくれた。ハイゼンベルクの研究室と重水とウランを台無しにしたこの事故には尾ひれがついて、ドイツの物理学者が数人死んだという報告となり、アメリカにまで達した。もちろんオッペンハイマーたちは、ドイツに先を越されないよう頑張らねばという思いを強くしたことだろう。
尾ひれに尾ひれが付いて、1942年10月29日、アメリカ合衆国は、ドイツの天才物理学者ハイゼンベルクを誘拐するか始末する(殺害する)必要があると考えた。チャンスはハイゼンベルクがチューリヒに講演に来たとき訪れたが、いったん中止され、後に直接の下手人を変えてこのプロジェクトは再浮上する。関与した主な組織はアメリカ合衆国のOSS、後のCIAであった。
アメリカは特に、核分裂を発見したオットー・ハーンと、ドイツの原爆製造のリーダーであるヴェルナー・ハイゼンベルクを危険視した。