第8話 ライプチヒ教授着任と第5回ソルヴェイ会議

文字数 1,650文字

1927年10月に、ハイゼンベルクはライプチヒの理論物理学教授に任命された。弱冠25歳の正教授である。

同じ年、ハイゼンベルクはブリュッセルで開かれた、ベルギーの化学者・実業家であるエルネスト・ソルヴェイが1911年に初めて開催した物理学に関する権威ある会議、ソルヴェイ会議の第5回に出席している。

この有名な第5回会議は、量子力学が完成し、需要された1つの里程標(マイルストーン)となるものだった。

この会議の主題は「電子と光子」であり、世界中の高名な(キラ星のようなその名前は集合写真以下を参照、ハイゼンベルクと関係が深い人には★を付けた)物理学者が定式化されたばかりの量子力学について議論を交わした。同年にヴェルナー・ハイゼンベルクによって不確定性原理が導かれ、量子力学の解釈を巡る激しい議論が繰り広げられたのもこの時期である。


【写真中の人物】
後列:オーギュスト・ピカール (電気推進式深海観測船「バチスカーフ」発明), エミール・アンリオ(カリウム、ルビジウムの自然放射線), ポール・エーレンフェスト(エーレンフェストの定理など), エドゥアール・ヘルツェン(ベルギーの物理学者), テオフィル・ド・ドンデ (ベルギーの数学者、化学者: 数理生物学の草分け), ★シュレーディンガー(オーストリアのノーベル賞受賞の理論物理学者:「シュレーディンガーの猫」), フェルシャフェル (ベルギーの物理学者), ★パウリ (スイスのノーベル賞受賞物理学者:スピンの理論等), ★ハイゼンベルク (ドイツの理論物理学者, 量子力学に貢献), ファウラー (英国の物理学者・天文学者), レオン・ブリユアン(フランスの物理学者:量子統計力学の開拓者),
中央:デバイ(オランダのノーベル賞受賞物理学者・科学者:電気双極子モーメントの研究、分子モーメントの単位名), クヌーセン(デンマークの物理学者・海洋学者:木田に海洋学の開祖), ローレンス・ブラッグ (イギリスの物理学者:現代結晶学の創始者の一人), ★クラマース (オランダの物理学者:クラマースの縮退定理等), ★ディラック (イギリスのノーベル物理学賞受賞理論物理学者), コンプトン(米国のノーベル賞受賞物理学者:コンプトン効果), ★ド・ブロイ (フランスのノーベル賞受賞理論物理学者:ド・ブロイ波), ★ボルン (ドイツのノーベル物理学賞受賞物理学者), ★ボーア (デンマークの理論物理学者: 量子力学の確立に貢献),
前列:ラングミュア (ノーベル化学賞受賞米国の物理学者、科学者), ★プランク (ノーベル物理学賞受賞のドイツの物理学者:量子論の創始者の一人), マリ・キュリー(ノーベル物理学賞、科学賞受賞のポーランドの物理学者・科学者), ローレンツ(オランダのノーベル物理学賞受賞の物理学者), ★アインシュタイン(ノーベル物理学賞受賞の物理学者:相対性理論等), ランジュバン (フランスの物理学者), ギュイ (スイスの物理学者), ウィルソン (スコットランドのノーベル物理学賞受賞物理学者:ウィルソンの霧箱), リチャードソン(イギリスのノーベル物理学賞受賞物理学者: 熱電子現象の研究)
第5回ソルベー会議出席者(1927年)
(東芝デバイス&ストレージ(株) Facebook記事【第5回ソルベー会議開催の日】より。ハイゼンベルクにノーベル賞の記述がないが、彼は1932年の物理学賞を単独で1933年に受賞している。ハイゼンベルクと同僚たちのノーベル賞受賞については後で触れる。)

6日間の会議の間、ハイゼンベルクをはじめとする行列力学の支持者たちは、ボーアと量子力学のコペンハーゲン解釈を後押しして手を組み(★ボーアも中央列向かって一番右に写っている、★ハイゼンベルクやパウリやシュレーディンガーは新進だから後列、★アインシュタインやキューリー夫人は前列にいる)、アインシュタインら波動力学をより強く支持する物理学者たちによる反対を論駁した。



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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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