第11話 結婚・アメリカ講演・開戦
文字数 3,657文字
また、ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったし、ヒムラー自身もハイゼンベルクを受け入れるよう党に強制しようとは思わなかった。ヘスがハイゼンベルクの過去の「政治的振る舞い」ゆえに、ハイゼンベルクは教授はもちろん、いかなるポストにも適していないと教育省ルストに手紙を書いたとき、ヒムラーはルストにこれに対する反対意見の手紙を書いた。しかし、ミュンヘン工科大学に、ナチ科学者が任命され、さらに併合されたウィーンのポストもハイゼンベルクには問題外となった。ヒムラーは慰めとして、別の高いポストへの推薦をハイゼンベルクに約束した。
1935年1月、ゾンマーフェルトはミュンヘン大学での自分の後継者にハイゼンベルクを推薦したが、結局、1939年秋、ちょうど戦争が勃発したとき、ヴィルヘルム・ミューラーという「ドイツ的」物理学者が、偉大なアーノルト・ゾンマーフェルトを継いだ。
そんなふうに、ヒムラーにちょっとは応援してもらいながらも、ナチスはユダヤ人の迫害を強め、政治的に反ナチスの人々に対する迫害を進めており、ハイゼンベルクのストレスは高まった。
そんな1937年1月、ハイゼンベルクは私的な音楽会で妻となるエリザベート・シューマッハーと出会った。エリザベート自身の手記で語ってもらおう。
「1937年1月末、ハイゼンベルクと私は、ミッテルシュタット邸での音楽会で初めて知り合ったのですが、この夕べの出会いがすでに私たちの生涯を変えたのでした。私たちは二人とも、この出会いに《私たちの宿命》を感じました。これから二人がたどろうとする運命について、私たちは想像することさえできませんでした。しかし、私たち二人はすでにこの最初の夕べに、私たちの生き方がこれまでとは異なったものになるということを理解していました。この集いの終わりに、私たちを心から迎えてくださった招待主は、「ハイゼンベルクさん、シューマッハー嬢を家まで送ってあげてくださいませんか」と彼に促したのですが、もはやその言葉を必要としなかったのでした。私たちは10日後に婚約し、4月に結婚することにしました」
1937年4月29日、ハイゼンベルクはベルリンでエリザベート・シューマッハーと結婚した。ハイゼンベルクは35歳であった。
さらにエリザベートは語る。
「ハイゼンベルクは、しばしば尋問のためベルリンに召喚され、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト街の悪名高い(ゲシュタポの)刑務所でも尋問を受けました。彼は、それについて一度も多くを語ろうとしたことはありませんでしたが、彼がこの尋問によって痛めつけられ、疲れ切って家に帰ってきたのを、私は記憶しています。それでも、彼は本当に残酷な仕打ちを受けたわけではありません。この尋問には一人の《専門知識のある者》が助手としてつけられていました。それは一人のSSの男でしたが、物理学を学び、以前ハイゼンベルクの講義を聞いたことのあった人でした。この男が彼に好意的で、尋問をある程度公平な、偏らないものとし、ハイゼンベルクを粗暴な取り扱いから守るように気を配ってくれたのでした。尋問室の壁に、《静かに、そして深く呼吸せよ》と書かれたプレートを見たときに、彼の頭の中には、ここで彼とは異なった尋問を受け拷問され、もはや生きて戻ることのなかった人の顔が浮かんだのでした」
ヴェルナー・ハイゼンベルクとエリザベートの間には1938年1月の双子の誕生を皮切りに、7人の子があった。
水晶の夜に引き続くぞっとするような月日を避けるため、ハイゼンベルクの三番目の子を妊娠中のエリザベートとともに、1939年4月の春の学期休みの間、家族はフライブルク南の黒い森の平穏な村に引きこもった。
ヴェルナーとエリザベートは、この騒ぎは悪化するだけだろうと悟り、将来の困難な時期のため田舎の永久的な避難所を探そうと決心した。ヴェルナーの母を通じて、二人はミュンヘン南のウァフェルトに寝室3つと大きなベランダのある、元印象派の画家の木造の小屋について知った。ベランダからは美しいヴァルヘン湖と雪をかぶってそびえ立つイーザルヴィンケル山が見えた。ヴェルナーの母の交渉によって、1939年6月、二人はこの家を手に入れた。
1939年6月~7月、ハイゼンベルクはアメリカに講演旅行に行くが、アメリカ移住は拒否した。
初めハイゼンベルクの研究と教育活動が脅かされ、それから公的にそのどちらも守られたことにより、親衛隊の事件は結局、ドイツに留まり体制下での運命を受け入れようというハイゼンベルクの決定を事実上強固にした。
親衛隊事件が解決し、ヒムラーからの保護と指示の約束を取り付け、ウアフェルトの山の避難所も新たに手に入れ、革命を引き起こす潜在力のあるハイゼンベルクの科学は上向きであり、ニューヨーク行きの船に乗船したときは、ハイゼンベルクは自分自身に、そして騒然とした国へ戻るという自分の決定に、すっきり自信を持っていた。
ハイゼンベルクはシカゴで会場からあふれんばかりの聴衆を前にして講演を行い、インディアナのパーデュウ大学で多くの教員・学生との延々と続くセミナーと議論を行って疲れ果てた。
その後、例年のアナバー物理学サマースクールの組織者、サムエル・ハウトスミットの家に滞在した。ハウトスミットは両親をオランダに残してアメリカに亡命していたユダヤ人だった。
サマースクールで話は亡命のことになり、ミシガン大学の教員だったハウトスミットは、エンリコ・フェルミとともに、かつて多くの人が尋ねていた質問をハイゼンベルクにした。
「ここに来たらどうです?」
ハイゼンベルクは海外から複数の招待を受けていたが、受け入れなかった。
「いいえ、できません。ドイツが私を必要としているからです」
とハイゼンベルクは答えた。
ハウトスミットによれば、ハイゼンベルクは、自分が強く反対しているヒトラーの行き過ぎは間もなく収まると信じており、体制により受けたダメージを回復するために自分が必要とされると考えていた。
ドイツの反ユダヤ法によりイタリアから追い出されていたフェルミ夫人は、ドイツに残るなんて人はみな気狂いに違いないと言った。ハイゼンベルクはそれに猛反対した。愛国者は明らかに譲歩しようとはしなかった。
ハイゼンベルクは7月最後の週に暑いニューヨークに戻り、コロンビア大学で講演し、郊外のカール叔父とヘレン叔母を訪問した。
ハイゼンベルクをコロンビア大学の教員に加えるため、できる限りのことをしてきた優しい父親のような実験物理学者のコロンビア大学教授ジョージ・ペグラムは、ハイゼンベルクの滞在中に最後にもう一度、ここに留まるよう説得を試みた。しかし、ハイゼンベルクは最後まで受け入れなかった。
ハイゼンベルクは8月初めに、ほとんど空席の豪華定期船〈ヨーロッパ〉号がドイツに向けて汽笛を鳴らして出発したとき、波止場にはすっかり困惑しきったペグラムが残された。その一か月後、ドイツは戦争を始めた。
1938年、ベルリンでオットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンが核分裂(一個の重い原子核が、膨大な量のエネルギーを放出しながら分裂すること)を発見して以来、原子核エネルギーへの関心は、ドイツでも連合国でも急速に高まった。
長年ハーンの同僚だったオーストリアの核物理学者リーゼ・マイトナーは、オーストリアがドイツに併合された後、この大発見の直前にスウェーデンに逃れていた。発見の知らせを受けたマイトナーと、やはり第三帝国から逃れていた甥のオットー・フリッシュの二人が、ニールス・ボーアが提出した重い原子核についての液滴モデルに基づき、分裂がどのようにして起きるのかを直ちに明らかにした。
中性子一個を吸収すると、重い液滴一個は不安定となり、エネルギーといくつかの粒子を放出しながら二つに分裂する。フリッシュがコペンハーゲンでボーアにこの発見を伝え、このニュースは1939年1月ボーアによってアメリカにもたらされた。ボーアとジョン・ホィーラーがプリンストンで核分裂理論を完成させ、4月フレデリック・ジョリオ(キュリー夫人の娘婿)率いるパリの原子核研究チームが、一回の分裂ごとに平均して吸収される以上の数の中性子が放出されることを突き止めた。これは、エネルギー産出の連鎖反応が起こりうることを意味していた。
1939年9月1日、第二次世界大戦勃発。
1939年9月26日、ハイゼンベルク、ドイツのウラン核分裂研究に、指導理論家として参加。
1941年春、ライプチヒのウラン原子炉が、初めて中性子を増殖。
世界は戦争と新型大量破壊兵器の生産へと突き進んでいた。