第17話 ファームホール

文字数 2,529文字

ハイゼンベルクら10人の物理学者たちは、ファームホールという名前のイギリスの大きな田舎屋敷に抑留された。1945年7月、ハイゼンベルクは43歳であった。


ゴッドマンチェスターのファームホール。Wikipediaのパブリックドメイン画像。

以下Wikipedia(英語)のOperation Epsilon(イプシロン作戦)をGoogleで日本語に翻訳し、引用する。
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イプシロン作戦は、第二次世界大戦末期に連合軍がナチスドイツの核開発計画に携わったとされるドイツの科学者10人を拘束した計画のコードネームであった。 科学者たちは1945年5月1日から6月30日まで、連合国のアルソス任務の一環として、主にドイツ南西部の大掃除作戦の一環として捕らえられた。

彼らは1945年7月3日から1946年1月3日まで、イギリスのケンブリッジ近郊のゴッドマンチェスターにある盗聴器の入った家ファームホールに抑留された。このプログラムの主な目的は、彼らの会話を聞くことによって、ナチスドイツが原子爆弾の製造にどれだけ近づいていたかを判断することだった。

科学者のリスト

イプシロン作戦中に以下のドイツの科学者が捕らえられ拘留された。

エーリッヒ・バッゲ
クルト・ディープナー
ヴァルター・ガーラッハ
オットー・ハーン★
ポール・ハーテック
ヴェルナー・ハイゼンベルク★
ホルスト・コルシング
マックス・フォン・ラウエ
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー
カール・ヴィルツ

ファームホールの記録

7月6日、マイクはヴェルナー・ハイゼンベルクとクルト・ディープナーの間の次の会話を拾った。両名ともドイツの核プロジェクトに従事し、連合国のアルソス使節団の一環としてベルリンのディープナーとウァフェルトのハイゼンベルクが捕らえられた。

ディープナー: ここにマイクが設置されているのだろうか?
ハイゼンベルク: マイクは設置されていますか?(笑)いや、そこまで可愛くないですよ。 彼らはゲシュタポの本当のやり方を知らないと思います。 その点では彼らは少し時代遅れです。
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1945 年 8 月 6 日に広島に原爆が投下されたことを知らされたとき、科学者は全員ショックを表明した。最初は報告書が本物であるか疑う人もいた。 彼らは当初、広島に「原子爆弾」が投下されたという公式発表について知らされたが、ウランや核分裂については何の言及もなかった。 ハーテック氏は、「ウラン」や「核(核分裂)爆弾」という言葉は理解できただろうが、原子状水素と原子状酸素を扱ったことがあり、アメリカの科学者は高濃度の(別々の)原子を安定化させることに成功したのではないかと考えたと述べた。 そのような爆弾は、通常の爆弾の10倍の威力を持っていただろう。

次に科学者たちは、アメリカの爆弾がどのように作られたのか、そしてなぜドイツが爆弾を製造しなかったのかを考えた。 記録によると、物理学者、特にハイゼンベルクが、原爆に必要な濃縮ウランの量を過大評価したか、意識的に過大評価していたかのいずれかであり、ドイツの計画は、原子爆弾がどのように機能するかについて非常に初期の理論的な思考段階にあったことを示しているようだ。

科学者の中には、アドルフ・ヒトラーのために核爆弾を製造できなかったことに満足していると述べた者もいたが、ナチス党に同情的な他の科学者(ディープナーとゲルラッハ)は失敗にがっかりしたという。 ドイツが爆弾を製造しなかったことに感謝していた人の一人であるオットー・ハーンは、「アメリカ人がウラン爆弾を持っているなら、あなた方全員が二流だ」とドイツの計画に携わった人々を叱責した。

ハーンとハルテックを除いて全員が物理学者で、二人は化学者であり、マックス・フォン・ラウエを除く全員がドイツの核プロジェクトに参加していた。 ハーンは「核分裂の発見」により1944年のノーベル化学賞を受賞した。

T・H・リットナー少佐率いるピーター・ガンツを含む8人のグループが、盗聴、録音、コピー、翻訳を担当した。 聞いたすべての単語の約10パーセントに相当する、関連する技術情報または政治情報のみが記録、転写、翻訳された。 録音は、シェラックでコーティングされた金属ディスクに6 ~ 8台のマシンで行われた。 選択的な転写が行われた後、ディスクと録音は破壊された。 記録は報告書としてロンドンとアメリカ総領事館に送られ、その後250ページを超える24件の報告書としてマンハッタン計画のレスリー・グローブス将軍に転送された。

1992年2月に記録は機密解除され、公開された。
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Wikipediaここまで。

エリザベート・ハイゼンベルクの手記によると、このドイツ語から英語への翻訳はドイツ語のニュアンスをあまり上手く伝えていないそうだ。例えばハーンのユーモアなど。

ファームホールは科学者たちの「金の鳥かご」で、半年の間、家族からも、研究からも、世界からも隔絶された。各自に個室が与えられ、屋敷を囲むバラ園の中は自由に歩くことができた。キャシディによれば、居間には新聞、ラジオ、『フィジカル・レビュー』まであり、裏手にはテニスコートも数面あったと言う。階下の共同室にはピアノが一台置かれており、楽譜はなかったがハイゼンベルクはときどき暗譜で演奏した。囚人たちは新しい衣服と靴、心のこもったイングランド風の食事を提供され、10人はそれぞれ体重が増えた。その他の暇つぶしの種は話をすることだった。そして彼らの会話は、盗聴器を通じて一語残らず録音されていた。

個人の部屋や共同の食堂室などには盗聴器が仕掛けられていたが、バラ園にはなかったので、ハイゼンベルクは仲間と他に聞かれたくない話をするときはバラ園に行った。

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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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