第14話 戦火
文字数 2,852文字
1944年の初めの一か月か一か月半というほぼ同じ時期に、ベルリンのドイツ人はボーア暗殺の計画を立て、ワシントンのアメリカ人はハイゼンベルク誘拐計画を練っていた。
1943年3月1日、ゲーリングの命令で会議に呼び出されたハイゼンベルクとオットー・ハーンは、その夜、ベルリン爆撃に遭った。
カイザー・ヴィルヘルム協会から帰宅する途中、ハイゼンベルクと生化学者のプーテナントは燃える市街を歩きながら、ハイゼンベルクは子供たちを心配し、プーテナントは破壊された研究所、戦死した若い科学者、再び帰らない大学院生を数えて、ドイツ科学の将来を憂いていた。
悲しみに沈むプーテナントを励ました後、ハイゼンベルクは燐がたまったところに足を踏み入れ、炎を吹き上げる戦時中には貴重な靴を痛めまいとして、じたばたした。ドイツは第一次大戦から何かを学んだが、二度目はもっと多く学ぶはずだとハイゼンベルクは主張した。ハイゼンベルクは水たまりに靴を浸し、その後で注意深く燐を掻き落とした。
科学には国境がなく、物理学が道を開くだろう、とハイゼンベルクはふさぎ込むプーテナントを力づけようとした。
「オットー・ハーンの発見であるウランの核分裂によって、原子エネルギーはきっと平和利用できるようになる。戦争が終わる前に原子爆弾はできない。それに必要な技術的な努力があまりにも大きすぎるからだ。だから、実り多い国際協力の望みを戦後の時代に託せるのだ」
と。
プーテナントと別れてすぐ、ハイゼンベルクは自分の家の隣家の屋根裏部屋で、炎と格闘する老紳士を助けた。階段がなくなっていたが、自分の家の火を消し、子供たちの無事を確かめると、すすで真っ黒になったハイゼンベルクは、壁を伝って何とか屋根によじ登った。炎と戦っていた老人は、有名な物理学者が現れたので見るからに驚き、燃えさかる火に水をかけるのを中断し、頭を下げて礼を言った。
「フォン・エンスリンと申します。助けに来てくださって誠にありがとうございます」
ハイゼンベルクは老紳士を無事に屋根から助け降ろした。
1939年にはエンリコ・フェルミに、1942年春にはハンス・イェンゼンに、1943年春以前にはマックス・プランクに、プーテナントと同じように、原子爆弾を心配するには及ばない、原子力エネルギーには明るい未来があると首尾一貫したメッセージをハイゼンベルクは伝えている。
その夜の空襲でハイゼンベルクの子供たちはすっかり怯えてしまったので、ハイゼンベルクは妻子をライプチヒからウァフェルトの山の家に移し、家族はそこで戦争が終わるのを待った。
当局はウラン・クラブの研究を田舎の安全な場所に移すことを考え始めた。
ハイゼンベルクとワイツゼッカーは最終的にソ連の手に落ちないように、できるだけ西に寄った場所を選んだ。
ハイゼンベルク自身が多少とも安全なヘヒンゲンに移ったのはようやく1944年の夏になってからだった。ハイゼンベルクは地元の織物業者の家の二部屋に落ち着いた。
家主は、通りの向こうの家がアインシュタインの遠縁の人のものだったと教えてくれた。ハイゼンベルクは「ドイツ嫌いにも関わらず、アインシュタインが普通のシュワーベン人だった」ことを知って面白がった。
物理学研究所のオフィスが地元の織物工場の一つに設けられ、スタッフが次第に集まった。
原子炉実験のための新しい敷地が近くのハイガーロッホ村の崖の洞窟に用意された。その崖の上には18世紀バロック風の教会があった。ハイゼンベルクは他の科学者たちが働いている洞窟をこっそり抜け出して、ときどきそこのオルガンでバッハを弾きに行った。
1944年12月3日の金曜日、イギリス空軍はライプチヒを爆撃した。ハイゼンベルクが1927年以来教えてきた理論物理学研究所の上階は吹き飛ばされ焼け落ちた。ハイゼンベルクが個人として書いた科学論文の大部分は焼失した。
ハイゼンベルクはベルリンに、家族はウァフェルトにいたが、彼らが15年共に暮らしたライプチヒの家は破壊された。
エリザベートは1943年4月にウァフェルトに引っ越したが、子供たちを抱えて食物も、薬も、薪も、隣人の助けもなかなか得られず苦労した。
1944年2月15日の夜、爆弾がベルリン・グリューネワルトのマックス・プランクの家に落ちたとき、幸いプランクは留守だった。プランクは86歳になっていた。屋根は一年近く前の空襲で既に損害を受けていたが、プランクはまだ修理の手配をしていなかった。
オットー・ハーンと助手たちが戦争中ずっと核分裂の研究を続けてきたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所は爆弾で破壊された。
プランク同様、ハーンも自分のオフィスが直撃弾を受けて全壊したとき、長い研究生活中に集めた論文やノートを失った。ハーンは何よりエルンスト・ラザフォードからもらった手紙を惜しんで嘆いた。爆撃の夜、ハーンは研究所の引っ越しの準備のため、ドイツ南部にいて留守だった。
ダーレムのすべての研究所のスタッフ全員が、ハーンの蔵書を助けるため力を合わせて努力した。ハイゼンベルクもその夜、書物を倉庫に運ぶ手伝いをした。
アメリカ人のグローヴスは
「ドイツの科学者たちを快適な仕事場から追い出すため、私はベルリンのダーレム地区への爆撃をした」
と述べている。
東部戦線で片腕を失ったハーンの息子は、ハイゼンベルクのように地元の工場所有者の家を妻と借りたハーンに合流した。
1944年初夏、その時ベルリンにいたハイゼンベルクは若い頃の「青年運動」の友人、社会学者で政治学者のアドルフ・ライヒヴァインの訪問を受け、ヒトラー反対運動への加担を求められたが、きっぱり断った。
ハイゼンベルクが美味しいワインや素晴らしいごちそう、自身のピアノ演奏を楽しんだ、メンバーが伝統的に学者または科学者の「水曜会」は、政権転覆の試みに参加していた。
ハイゼンベルクは注意深く会を欠席して、これらの陰謀から距離を置いた。
その企てが失敗したので、映画にもなった有名な、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画と「ヴァルキューレ作戦」発動によるクーデタ計画のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、自身の計画を急ぎ、失敗、逮捕され、1944年7月21日に銃殺刑に処せられた。
プランクの息子エルヴィンも、ドイツの抵抗運動のメンバーで、7月20日ヒトラー暗殺計画が失敗すると、逮捕されていた。