第14話 戦火

文字数 2,852文字

1944年1月末、ハイゼンベルクはディープナーとともにコペンハーゲンで三日間を過ごし、当局を説得して、主のいないボーア研究所をデンマーク人の管理に戻すことに成功した。ハイゼンベルクは研究所内を巡回し、複雑な装置を取り外してドイツへ運ぶのがどれほど難しいかを分からせた。その代償として、ハイゼンベルクはコペンハーゲンに呼び戻され、4月にドイツ文化協会(占領国デンマークのナチスの出先機関)で講演するよう求められた。ナチスの指をすり抜けた危険な存在であるボーアを、親衛隊が暗殺する計画があった。

1944年の初めの一か月か一か月半というほぼ同じ時期に、ベルリンのドイツ人はボーア暗殺の計画を立て、ワシントンのアメリカ人はハイゼンベルク誘拐計画を練っていた。

1943年3月1日、ゲーリングの命令で会議に呼び出されたハイゼンベルクとオットー・ハーンは、その夜、ベルリン爆撃に遭った。

カイザー・ヴィルヘルム協会から帰宅する途中、ハイゼンベルクと生化学者のプーテナントは燃える市街を歩きながら、ハイゼンベルクは子供たちを心配し、プーテナントは破壊された研究所、戦死した若い科学者、再び帰らない大学院生を数えて、ドイツ科学の将来を憂いていた。

悲しみに沈むプーテナントを励ました後、ハイゼンベルクは燐がたまったところに足を踏み入れ、炎を吹き上げる戦時中には貴重な靴を痛めまいとして、じたばたした。ドイツは第一次大戦から何かを学んだが、二度目はもっと多く学ぶはずだとハイゼンベルクは主張した。ハイゼンベルクは水たまりに靴を浸し、その後で注意深く燐を掻き落とした。

科学には国境がなく、物理学が道を開くだろう、とハイゼンベルクはふさぎ込むプーテナントを力づけようとした。

「オットー・ハーンの発見であるウランの核分裂によって、原子エネルギーはきっと平和利用できるようになる。戦争が終わる前に原子爆弾はできない。それに必要な技術的な努力があまりにも大きすぎるからだ。だから、実り多い国際協力の望みを戦後の時代に託せるのだ」
と。

プーテナントと別れてすぐ、ハイゼンベルクは自分の家の隣家の屋根裏部屋で、炎と格闘する老紳士を助けた。階段がなくなっていたが、自分の家の火を消し、子供たちの無事を確かめると、すすで真っ黒になったハイゼンベルクは、壁を伝って何とか屋根によじ登った。炎と戦っていた老人は、有名な物理学者が現れたので見るからに驚き、燃えさかる火に水をかけるのを中断し、頭を下げて礼を言った。

「フォン・エンスリンと申します。助けに来てくださって誠にありがとうございます」
ハイゼンベルクは老紳士を無事に屋根から助け降ろした。

1939年にはエンリコ・フェルミに、1942年春にはハンス・イェンゼンに、1943年春以前にはマックス・プランクに、プーテナントと同じように、原子爆弾を心配するには及ばない、原子力エネルギーには明るい未来があると首尾一貫したメッセージをハイゼンベルクは伝えている。

その夜の空襲でハイゼンベルクの子供たちはすっかり怯えてしまったので、ハイゼンベルクは妻子をライプチヒからウァフェルトの山の家に移し、家族はそこで戦争が終わるのを待った。

当局はウラン・クラブの研究を田舎の安全な場所に移すことを考え始めた。
ハイゼンベルクとワイツゼッカーは最終的にソ連の手に落ちないように、できるだけ西に寄った場所を選んだ。
ハイゼンベルク自身が多少とも安全なヘヒンゲンに移ったのはようやく1944年の夏になってからだった。ハイゼンベルクは地元の織物業者の家の二部屋に落ち着いた。

家主は、通りの向こうの家がアインシュタインの遠縁の人のものだったと教えてくれた。ハイゼンベルクは「ドイツ嫌いにも関わらず、アインシュタインが普通のシュワーベン人だった」ことを知って面白がった。

物理学研究所のオフィスが地元の織物工場の一つに設けられ、スタッフが次第に集まった。

原子炉実験のための新しい敷地が近くのハイガーロッホ村の崖の洞窟に用意された。その崖の上には18世紀バロック風の教会があった。ハイゼンベルクは他の科学者たちが働いている洞窟をこっそり抜け出して、ときどきそこのオルガンでバッハを弾きに行った。

1944年12月3日の金曜日、イギリス空軍はライプチヒを爆撃した。ハイゼンベルクが1927年以来教えてきた理論物理学研究所の上階は吹き飛ばされ焼け落ちた。ハイゼンベルクが個人として書いた科学論文の大部分は焼失した。

ハイゼンベルクはベルリンに、家族はウァフェルトにいたが、彼らが15年共に暮らしたライプチヒの家は破壊された。

エリザベートは1943年4月にウァフェルトに引っ越したが、子供たちを抱えて食物も、薬も、薪も、隣人の助けもなかなか得られず苦労した。

1944年2月15日の夜、爆弾がベルリン・グリューネワルトのマックス・プランクの家に落ちたとき、幸いプランクは留守だった。プランクは86歳になっていた。屋根は一年近く前の空襲で既に損害を受けていたが、プランクはまだ修理の手配をしていなかった。

オットー・ハーンと助手たちが戦争中ずっと核分裂の研究を続けてきたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所は爆弾で破壊された。

プランク同様、ハーンも自分のオフィスが直撃弾を受けて全壊したとき、長い研究生活中に集めた論文やノートを失った。ハーンは何よりエルンスト・ラザフォードからもらった手紙を惜しんで嘆いた。爆撃の夜、ハーンは研究所の引っ越しの準備のため、ドイツ南部にいて留守だった。

ダーレムのすべての研究所のスタッフ全員が、ハーンの蔵書を助けるため力を合わせて努力した。ハイゼンベルクもその夜、書物を倉庫に運ぶ手伝いをした。

アメリカ人のグローヴスは
「ドイツの科学者たちを快適な仕事場から追い出すため、私はベルリンのダーレム地区への爆撃をした」
と述べている。

東部戦線で片腕を失ったハーンの息子は、ハイゼンベルクのように地元の工場所有者の家を妻と借りたハーンに合流した。

1944年初夏、その時ベルリンにいたハイゼンベルクは若い頃の「青年運動」の友人、社会学者で政治学者のアドルフ・ライヒヴァインの訪問を受け、ヒトラー反対運動への加担を求められたが、きっぱり断った。

ハイゼンベルクが美味しいワインや素晴らしいごちそう、自身のピアノ演奏を楽しんだ、メンバーが伝統的に学者または科学者の「水曜会」は、政権転覆の試みに参加していた。

ハイゼンベルクは注意深く会を欠席して、これらの陰謀から距離を置いた。

その企てが失敗したので、映画にもなった有名な、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画と「ヴァルキューレ作戦」発動によるクーデタ計画のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、自身の計画を急ぎ、失敗、逮捕され、1944年7月21日に銃殺刑に処せられた。

プランクの息子エルヴィンも、ドイツの抵抗運動のメンバーで、7月20日ヒトラー暗殺計画が失敗すると、逮捕されていた。







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登場人物紹介

ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクWerner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)は、ドイツ理論物理学者行列力学不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。量子力学のほかにピアノが得意でベートーベンのソナタなどを弾く。趣味はスキーと山歩き。師のボーアとは後で激しい論争をし、涙を流すこともあった。1933年、量子力学の確立により1932年にノーベル物理学賞を受賞した。 彼は量子力学の哲学的側面も扱った。また、ナチスが政権を取ってからコペンハーゲンに行ったが、デンマークはナチスに占領され、ハイゼンベルクは原子爆弾について忠告しようとしたが、ボーアと気持ちがすれ違ってしまった。戦後、ナチスに両親を殺されたオランダ人との同僚ともしっくり行かなかった。ハイゼンベルクはナチス党員ではなかったが、ドイツで物理学の仕事を続けるため、ナチスの高官と妥協した。それを責められないと私は思うが、親を殺されたらしっくり行かないだろう。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーアデンマーク語: Niels Henrik David Bohr[1]1885年10月7日 - 1962年11月18日)は、デンマークの理論物理学者[2]量子論の育ての親として、前期量子論の展開を指導、量子力学の確立に大いに貢献した。王立協会外国人会員。ユダヤ人。ハイゼンベルクの師。基本的には優秀でいい人なんだけど、物理学の議論になると、我を忘れることも。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に来たシュレーディンガーは、ボーアの厳しい論争に病気になったし、ハイゼンベルクもボーアと不仲なときがあって、自分の失敗で涙を流したことが。1922年原子構造とその放射に関する研究でノーベル物理学賞を受賞。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)は、オーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。緑で塗ったらカッパみたいになった。カッパウリと呼んでくださいw。

アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。父方の祖父はユダヤ人で、名の知れた出版社の経営者だった[1]

ハイゼンベルクの批判精神にあふれた同僚で、ハイゼンベルクは何か新しいことを思いつくと、いつもパウリに連絡した(離れていたときは、当時は主に手紙で)。

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガードイツ語: Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger [ˈɛɐ̯viːn ˈʃʁøːdɪŋɐ]1887年8月12日 - 1961年1月4日)は、オーストリア出身の理論物理学者

1926年波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱。次いで量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年にはシュレーディンガーの猫を提唱するなど、量子力学の発展を築き上げたことで名高い[3]

1933年イギリスの理論物理学者ポール・ディラックと共に「新形式の原子理論の発見」の業績によりノーベル物理学賞を受賞した[1][3]1937年にはマックス・プランク・メダルが授与された[2]

1983年から1997年まで発行されていた1000オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。シュレディンガーとも表記される。デイビッド・C・キャシディ『不確定性』では「粋なオーストリアの物理学者」と紹介され、愛人が3人いて、子供もたくさんいたらしい。それはともかく、アインシュタイン+シュレーディンガー対ニールス・ボーア+ハイゼンベルクで物理学的に対立しており、感情的な言い争いになったこともあるそうだ。

アルベルト・アインシュタイン[注釈 1]: Albert Einstein[注釈 2][注釈 3][1][2]1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者ユダヤ人スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。

特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動起源を説明する揺動散逸定理光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。

それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

アインシュタインはユダヤ人だったため、ドイツを去り、アメリカに移住した。「神はサイコロを振らない」と言って、ボーアのコペンハーゲン解釈による量子力学を一生認めなかった。


ルイ・ド・ブロイ(Louis Victor de Broglie)こと、第7代ブロイ公爵ルイ=ヴィクトル・ピエール・レーモン(Louis-Victor Pierre Raymond, 7e duc de Broglie 、1892年8月15日 - 1987年3月19日)は、フランス理論物理学者

彼が博士論文で仮説として提唱したド・ブロイ波(物質波)は、当時こそ孤立していたが、後にシュレディンガーによる波動方程式として結実し、量子力学の礎となった。電子の波動性の発見により1929年ノーベル物理学賞を受賞した。

細かい間違いはあったようだが(シュレーディンガーにも間違いはあった)、ド・ブロイにヒントを得て、シュレーディンガーは波動力学を生み出した。ボーアもハッキリしないところもあったし、ハイゼンベルクもミスしてベソをかいた。間違っていいから、みんなどんどん研究して物理学を発展させて欲しい。

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